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『店に置く、新しい商品を探しに行ってくる』
そう言って、結婚したての新妻と開店したばかりの雑貨屋を残して、男は旅立ち、帰っては来なかった。
カロッテ村唯一の酒場『月光亭』は、夜のかき入れ時を終えて、常連の酔客が残るだけになっていた。
クリエムヒルトはカウンターや陳列棚に布をかけて、店じまいを始めた。
もう何年も繰り返している、その作業は慣れたものだ。
帰り支度を終えると、彼女は出口ではなく、隣接している酒場の方へと向かった。
カウンター席に座り、マスターに声をかける。
「オッフェンさん、まだ注文しても大丈夫?」
「構わんよ。夕飯を食べて帰るのか」
「ええ、たまにはね。帰っても誰もいないんだもの、料理しても作り甲斐がないわ」
クリエムヒルトは笑顔だったが、事情を知る者は痛々しいと受け取るかもしれない。
オッフェンは賢明にも表情には出さなかった。
同情は、彼女の心をさらに傷つけるからだ。
「先に一杯やっとけ、奢りだ」
ワインを注ぎ、彼女の前に置く。
「わあ、ありがとう」
お礼を言って、クリエムヒルトはグラスを手に取った。
調理をするために背を向けた彼をぼんやりと眺めながら、赤い液体を口に含む。
「ねえ、オッフェンさん」
「どうした?」
「ヴィオちゃんね。私が結婚していたこと、知らなかったみたい」
先日、買い物をしにヴィオラーデンに顔を出した時のことを思い返して、クリエムヒルトは呟いた。
「そりゃあな、相手は流れの男だ。家族に反対されて結婚式も挙げなかっただろう。大人は噂話で知っているだろうが、ヴィオぐらいの子なら知らなくても仕方がない」
オッフェンは、調理をしながら会話に応じる。
数年前、彼女は他所から来た素性のしれない男といきなり結婚して、雑貨屋を開き、一か月で夫が消えた。
村の大人達は唖然とした。
大事な村の娘が、とんでもない詐欺師に引っかかったと噂が流れ、クリエムヒルトの両親は肩身の狭い思いをした。
反対されての結婚だったため、実家を頼ることもできず、商売のことなど何もわからないというのに店を引き継ぐことになったクリエムヒルトは途方に暮れた。
幸い雑貨屋はオッフェンの酒場に間借りする形で開店したので、助言を受けながら、なんとか切り盛りしてきたのだ。
「ヴィオちゃんを見ていると、あの頃のことを思い出すの。仕入れに、接客に、会計でしょ。何もわからなくて失敗ばっかりで」
弱音を吐かずに夫の帰りを待ち、店を続けながら留守を守る姿を見て、口さがない噂をしていた村人達も視線を和らげ、気遣うようになった。
そうして誰も、消えた夫のことは遠慮して口にしなくなった。
おかげで、ここはクリエムヒルトが始めた雑貨屋だと、若者や移住者達は思っている。
「結局、みんな優しいよね。だから私、この村が好き」
「お前さんの雑貨屋は、この村で唯一の店だった。それまで行商人が来るのを待つか、わざわざ遠くの街まで買い出しに出なければならなかったことを思えば、大いに助かったとみんな感謝しているさ」
「だったら、いいな。ヴィオちゃんがお店を始めて、村外れだった場所が拓けて新しく雑貨屋さんもできたでしょ。だから、そろそろ私のお店は用無しになったかなぁって思うようになっちゃった」
「そんなことはないだろう。ヴィオの店は食料品はほとんど置いていないし、向こうの雑貨屋は食材をあまり扱っていないようだからな。昔からの住人は、相変わらずここに買いに来ている。無くなったら困るだろう」
焼いた肉の香ばしい匂いがして、小さな浅いカゴに入れられたパンと、料理の乗った皿が置かれる。
ナイフとフォークを受け取って、クリエムヒルトは遅い夕食を食べ始めた。
「毎日ね、朝になるとお店辞めようかなぁって思うの。両親が時々言うのよ、そろそろ諦めてもいいんじゃないの? まだ若いんだからって」
切り取った肉をゆっくりと噛み、喉の奥へと落とし込む。
「でもね、お店に立つと考えるの、もしかしたら今日は帰ってくるかもしれない。もし、私がお店辞めちゃったら、あの人の帰る場所がなくなって困るだろうなって……」
布を被せて薄暗くなった店の方を向くと、彼女は寂しそうに笑った。
「年々、顔を忘れて行くの。元々、村の人じゃなかったもの。知り合ってから一緒にいた時間は短かったし、今帰ってきたってもう誰だかわからないかも。好きになって結婚したはずなのに、その気持ちも忘れそうになってる」
「簡単に忘れられるのなら、さっさと店を辞めているだろう。続けたいと思えるうちは、やればいいさ」
「うん、そうする。ごめんなさい、いつも愚痴に付き合わせちゃって」
「長い付き合いだ、今更変な遠慮はしなくていい」
オッフェンにとって、彼女は隣人であり、娘のようなものだ。ほんの僅かな幸せを得ただけで幸福の絶頂から落とされ、慣れない商売に悪戦苦闘をしていたのをずっと見守ってきた。
今では一人前の店主だが、穏やかに見える笑顔にはいつも小さな影が付きまとっている。このまま行方不明の夫を待ち続けるよりは、新しい幸せを掴んで欲しいとも思う。
「気になる人はいないのか? 村長の家の近くにできた量販店の……なんという名だったか、青年が最近よく顔を見せているな」
彼の問いに、クリエムヒルトは眉を寄せた。
「クラップさん? うーん、なんだか好意を寄せられているらしいんだけど、村に来たばかりでよく知らないから、何とも言えないわ」
「移住者とはいえ、村に居着くかどうかはまだわからんからな。簡単には信用できないか」
「そうね。これ以上、両親を心配させたくないしね。お店をやっているうちは、まだ旦那が帰ってくるのを待っているってことにしておいて」
そう言いながら、クリエムヒルトの脳裏に浮かんだのは、近所に住む青年のことだった。
ヴィオラートの兄、バルトロメウス。
彼は村生まれの村育ち。
年も同じでありながら、これまでさほど接点がなかったのは、バルトロメウスが男の子であり、幼馴染の少年と二人でやんちゃな遊びばかりしていたからだろう。
彼らについて遊んでいた女の子は妹のヴィオラートだけで、村の他の女の子達は気にはなっても一緒には遊べなかった。三人が木登りや探検ごっこに興じ、時には泥だらけになって駆け回り、彼らの母親が毎度叱りつけて騒いでいたのを覚えている。
かつての腕白少年達は、大人になって冒険者になってしまい、今では本物の探検に出かけて、採ってきた物を雑貨屋に売りに来たりもする。
雑貨屋をやっているおかげで話す機会ができただなんて、クリエムヒルトはその皮肉さに笑い出したくなった。
(結婚なんかしなくて雑貨屋をやっていたら、もっと違っていたのかな)
バルトロメウスは、クリエムヒルトが結婚していたことを知っている。
相棒の少年がいなくなり、一人で村の近辺を歩き回るようになった彼は、雑貨屋ができると拾ってきた植物や鉱石を換金していくようになった。
夫がいなくなって奮闘していた頃、誰もが腫物を触るような態度で接して来たのに、いつも通りに振る舞う彼がやってくると心が楽になった。
気になって見つめ始めると、彼の視線の先には同じ女の子がいる。
焦がれるような、愛おしそうな、熱のこもった瞳で見ているのは、この村一番の高嶺の花だった。
愛したはずの夫の顔が時間の経過と共に薄れていくにつれて、クリエムヒルトの心には新たな熱が生まれ始めている。
表に出すつもりはないものの、その感情を育てるのは楽しくて、ちょっとだけ幸福も感じてしまう。
(思うだけならいいよね)
あわよくばという、気持ちはある。
高嶺の花よりも、すぐ近くにある花を選んでくれたりはしないだろうかと。
既婚者であることを知られているので、恋愛対象には到底見てもらえないことはわかっている。
先日も趣味で作っている畑を耕すのを手伝ってくれたが、隣人の親切以上の感情は窺えなかった。
ヴィオラート相手に、うっかり気持ちを溢してしまうのは、自分の中で彼への好意が大きくなっている証拠なのだろう。
「はぁ、このまま時が止まればいいのに。そういえば、ヴィオちゃんのお店にそんな商品が売られてたわね」
回り始めた酔いも手伝って、現実から逃避したい気持ちが生まれた。
「時の石板だったか。使用した相手の時間を止められるらしい。だが、正確に言うなら時間を止めるのではなくて、意識を奪って動きを封じるアイテムなんじゃないか?」
「それじゃだめね。私は今日という平穏な一日を、毎日繰り返したい気分なの。将来のこととか考えなくてもよくなればいいわ」
「無理な話だ。神様がいたとしても叶えちゃくれない」
「わかってるわ、そういう気分ってだけの話よ」
気が付けば、料理は食べきり、奢りのワインも飲み干していた。
「お酒、ごちそうさま。お代はここに置いておくわね」
「ああ、気をつけて帰るんだぞ」
仕方なく立ち上がり、彼女は酒場を後にした。
外に出て、顔を上げると、満天の星空が広がっていた。
澄んだ空気の中で息を吸うと、清々しい気持ちになる。
「また明日も頑張ろうかな」
発展して、変わろうとしている村。
それでも彼女にとって優しく包み込んでくれる場所であることに違いはない。
動きたいけど、動きたくない。
だから、思うのだ。
時間が止まればいいと。
家の裏手に作った花畑の中で、クリエムヒルトは草むしりをしていた。
雑貨屋は定休日。
実家に帰る気にもなれず、夫のいない家で過ごすのも憂鬱になるので、天気の日はできるだけ外に出ていた。
ふと、道の方を見れば、こちらへ向かって歩いてくる人影が見える。
クリエムヒルトは顔を上げて、そちらに寄っていった。
「こんにちは、バルトロメウスさん」
声をかけると、青年は屈託のない笑みを向けて来た。
「ああ、こんにちは。今日は店の方は休みなのか?」
憧れの高嶺の花相手だと緊張して挙動不審になる彼だが、クリエムヒルトに対しては普通だ。気さくに会話を交わす様子は親しげだが、オッフェンらと話しているのと同じ感覚なのだろう。わかってはいても面白くない。
だが、彼女は取り繕うのは上手だった。綺麗な笑みを浮かべて、会話を続ける。
「ええ、そうなの。この前は畑を耕すの手伝ってくれてありがとう、助かったわ」
「いつもヴィオが世話になってるからな、お互い様だ。男手が必要ならいつでも声をかけてくれ」
ヴィオラートは兄をだらしのない怠け者のように言っているが、彼はそれほど自堕落でもない。嫌々ながらも畑の管理は怠っていないし、村人が困っていれば躊躇いなく手伝いに走る。
ちょっとばかりお調子者だが、案外しっかりしている。
大人達はバルトロメウスをそう評して、一人前と認めて信頼を寄せていた。
クリエムヒルトもその評価には同意する。
特にヴィオラートのおかげで言葉を交わす機会が増えた今は。
「今から村の外に出かけるの? 今日は換金できないわよ」
バルトロメウスは少量の荷物と剣を持っていた。
彼が出かけると言えば、冒険者としての用事だろう。
「六日ほど外に出てくる。帰ってきたら、また頼むな」
目的地は近くの森だろうか、往復で六日となればそう遠くではない。
「ヴィオちゃんは? 一緒じゃないの?」
「ヴィオは店にいるよ。ロードフリードのヤツに手伝い頼んだから、今のうちに出て来たんだ。あー、店番させられて肩凝った。どうにもじっとしている仕事は苦手なんだよなぁ。外に出て、剣振り回している方が楽しいぜ」
好奇心旺盛な顔を見せられて、先頭をきって村の中を駆け回っていた少年の姿を思い出す。
「せっかく外に出るんだから、怪物退治の依頼ついでに、ヴィオが使えそうな素材も探してきてやろうかって思ってさ。あ、これあいつには言わないでくれよ」
変な所で照れ屋な彼は、本当に妹のためになることは内緒でやりたがる。
微笑ましく思って頷きながら、クリエムヒルトは、なぜか夫が出かけて行った日のことを思い出した。
『店に置く、新しい商品を探しに行ってくる』
村から出ようとする彼に、あの日の夫の姿が重なった。
バルトロメウスは夫ではない。
出かける目的も違う。
夫はどこへとも知らない遠くへ行ってしまったけれど、彼は見知った土地を歩くだけだ。
必ず帰ってくるはずなのに、不安がどんどん胸に広がってくる。
「それじゃあ、行ってくる」
背を見せて歩き出した彼を、思わず呼び止めていた。
「待って!」
自分でも驚くほどの大声だった。
びっくりして足を止めたバルトロメウスに駆け寄り、服の袖を掴む。
「待ってるから……、待ってる人がいるんだから、絶対に帰ってこなくちゃだめよ!」
驚きで見開かれたバルトロメウスの瞳が元に戻り、瞬きした。
「お、おう、わかってるって。どこに行ったって帰ってくるさ。俺の家はこの村にしかないし、ヴィオもいるからな」
クリエムヒルトはほっとして、掴んでいた袖を離した。
衝動が治まると、恥ずかしさで頬が熱くなった。
「ご、ごめんなさい! 急に変なこと言っちゃって……」
「心配してくれたんだろ? 遠くまで行くわけじゃねぇし、道に迷う心配もない。これでも強くなったんだぜ、この付近に出る怪物程度ならもう敵じゃない」
ヴィオラートに付き合って採取に出かけ、否応なく強敵の怪物と戦っているうちに、バルトロメウスの剣の腕前は格段に上達していた。
正式な騎士の訓練を受けた親友との手合わせで、我流で鍛えた技の粗を消して、自信を深めている。
「外に行くんなら護衛の依頼を出してくれ。ばっちり守ってやるからな」
「ええ、その時はお願いするわ」
ちゃっかり営業活動も付け加えられて、クリエムヒルトは笑ってしまった。
今度こそ去っていく彼を、手を振って見送り、ほうっと息をつく。
「帰ってきたら、真っ先に雑貨屋に来てくれるかな。素材を売るためでも、ちょっと嬉しいかも」
来てくれたのなら「お帰りなさい」と言ってみようか。
出かけたことを知っているのだから、不自然ではないだろう。
彼は「ただいま」と返してくれるだろうか。
想像してみたら楽しくなってきて、心が不思議と浮き立つようだ。
「今ここで、時間が止まればいいのになぁ」
過去を捨てることも、未来を掴むこともできない。
そんな中途半端な現状を忘れ、何も知らない娘のフリをして、胸に秘めた淡い恋を楽しんでいたい。
どんな結末も望んではいない。
相変わらず彼女の日常は夫が残した店と共にあり、多分これからも変わることはないのだろうから。
END
あとがき
クリエムヒルトさんが気になって仕方がなくて、お話が浮かんできたので書いてみました。結局、お店は大事と言っているので、旦那を待つのをやめる気はないみたい。
では、バルテルへの浮かれた発言は現実逃避なのだろうかと、想像を廻らせました。
消えた旦那さんについては、ゲーム中でも詳しくは語られていないので捏造です。
田舎の村で結婚していることが知られていないってことは、相手がよそ者で、結婚式を挙げていない、という辺りがありそうだなと。ロードフリードみたいに当時村にいなかった人や、ヴィオは年下なので付き合いがなかったと思われますので、子供達も知らないのは頷けます。同い年のバルテルやクラーラは知ってそう。大人は陰でひそひそ噂話して、次第に気遣って口にしなくなったんだろうなぁって所まで浮かんできました。
クリエムヒルトさんがヒロインになると、ドロドロの昼ドラ展開になりそうだと、想像が飛んでいきます。
クラップさんはストーカーになりそうな危うさを持っているし、クラーラさんもバルテルに離れていかれると自覚したりして妨害に走ったり、両想いになったら行方不明だった旦那が帰ってきたりとかで、牧歌的な田舎の村の空気が一変しそうで怖い。
昼ドラのヒーロー役などバルテルには荷が重そうなので、やっぱりクラーラさんとうまくいった方が平和だよなぁという結論に至ります。
でも、ちょっとクリエムヒルトさんとくっついた場合を想像するのも楽しいんですよ。もちろんドロドロ展開はなしで(笑)
クラップさんとくっつく未来は想像できません。
お店に来て、自棄酒するために酒を買っていく姿を見ていると、大丈夫かコイツと思ってしまうので。
店内でのクラップさんとの最後のイベント会話で(クリエムヒルトに)好きな人がいても諦めないぞーとか言ってるんですが、好きな人がバルテルなのか、旦那なのか、どっちなのか気になる。
一番いいのは、何らかの理由で遠くに行く羽目になった旦那が、大変な冒険をしたあげく冒険者並みに強くなって、妻の下に帰ってくるって展開ですかね。
クリエムヒルトさんは、畑仕事が似合う逞しい男が好きみたいだからなぁ。