首都ハーフェン。
カナーラント王国で最も栄える都市である。
国王の居城があり、竜騎士隊が本拠地を置き、国内外から物資が集まり、それに合わせて人の出入りも多く、貴族のほとんどが華やかな生活を営むために住居を構えている。
ブリギットの実家、ジーエルン家の本宅もここにあった。
彼女はこの街が好きだ。
お金さえあれば、大半のものが手に入る。
美しく高価なドレスに装身具、贅を凝らした珍しい料理、娯楽も多様で歌劇に大道芸、珍しい動物の展示、退屈しのぎに買い求める本は異国のものまであって、読み切れないほど出版されていた。
特にお気に入りは、恋愛小説や漫画だ。
淑やかで気品のあるお姫様がヒロインで、美しく強い王子や騎士と恋仲になるお話。
ヒロインを自分に置き換えて、素敵な男性に傅かれている姿を夢想してみる。
架空の恋人との逢瀬を日記に書いたりもした。
それはとても素敵な空想で、束の間、嫌な現実を忘れさせてくれた。
お気に入りの本を抱えて、窓の外を見る。
ハーフェンは発展し過ぎたせいで、空気が悪い。
あちらこちらの煙突から煙が立ち上り、空を黒く汚していく。
井戸水はそのままでは飲めたものではない。
人々は水の綺麗な田舎の村や街から新鮮な井戸水を買い求めた。
「うっ、ゴホッ!」
ブリギットは咳き込み、胸を押さえて蹲った。抱えていた本が床に落ちる。
「お嬢様!」
傍に控えていたメイドが、慌てて駆け寄ってくる。
背中を擦ってくれたが、この咳はそんな程度で治まるものではなかった。
「誰か来て、お嬢様が発作を起こされました!」
大勢の人の気配が部屋を行き交う。
医者が呼ばれ、気休めの薬を飲ませられる。
「とにかく安静にしてください。しばらくすれば、発作は治まりますから」
しばらくってどのぐらい?
痛む胸を押さえて、空気を求めて喘ぐ。
度重なる咳で喉が枯れ、声も出なくなる。
今すぐ助けて欲しいのに、どんな医者も完治は無理だと匙を投げた。
両親が大金を積んで迎えた高名な医者ですらも、首を横に振って帰って行ってしまった。
「お前の病気を治してくれるお医者様は、必ずどこかにいるはずだ。それまで希望を捨てずに頑張るんだ」
両親はそう言って、諦めずに医者を探し続けている。
幼い頃のブリギットは、まだ希望を持っていた。
いつか、病が治ったら社交界に出るために、淑女に必要な教養は家庭教師を頼んで徹底して習い覚えた。
少しでも健康になれるようにと体も鍛えた。
護身用に格闘術を習い、調子の良い時などは元気に跳ね回ることもできるようになった。
だけど、やはり病の源である肺は治る気配がない。
発作は不定期に彼女を襲い、そのたびに地獄のような苦しみを耐えた。
両親は手広く商売をしている人達だから、情報だけは豊富に手に入れることができる。
それなのに、医者も薬も見つからない。
十六才の誕生日を迎えた頃には、ブリギットはすっかり絶望していた。
肺が悪いのだと知られれば、人が寄りつかなくなる。
だから、これまで親しい友人など作れなかったし、素敵な恋など夢のまた夢だった。
孤独で寂しくて仕方がなかったが、両親は医者を探しながら各地を飛び回って商いをしている、忙しく働いているのも全て自分のためなのだと思えば、傍にいて欲しいとは言えなかった。
「ブリギット、空気の良い場所があるんだ。そこで静養しないか? ここにいるよりは、体に良いと思うんだ」
両親が静養場所に勧めてきたのは、カロッテ村という寂れた田舎の村だった。
心を慰めてくれる娯楽も何もない、そんな田舎には行きたくなかった。
「村の様子を見て来たのだけど、のんびりとしていて良い所だったわ。村の人達も穏やかで優しそうな人ばかり、都会よりも治安は良いみたいだし安心だわ」
「お父様やお母様はどうなさるの? 私一人だけで、その村に行くの?」
せめて両親が一緒に来てくれるのならと思ったが、やはり行くのは彼女だけだった。
両親は辛そうな顔で、娘を抱き寄せた。
「寂しい思いをさせるが、許しておくれ。お医者様が見つかるまで、お前には生き延びて欲しいんだ」
そんな風に言われたら、我侭は言えない。
「……わかりました。行ってきます」
村には立派な屋敷を建てて、使用人も一流の者を手配しておくからと言われたが、何の慰めにもならなかった。
(どうせ田舎者なんかと話が合うわけないわ。どこに行っても結局一人なのね)
孤独なのは、今に始まったことではない。
諦めの気持ちを抱いたまま、ブリギットはハーフェンを旅立った。
カロッテ村に到着したブリギットは、予想外の出会いをした。
挨拶に行くため、村長の自宅を探す彼女の前に、民家の軒先で話し込んでいる若い男女の姿が見えた。
年頃の淑女としては、いきなり男性に声をかけるわけにはいかない。
必然的に女性の方に話しかけることになる。
幾ら田舎とはいえ、その娘は村娘とも都会の街娘とも違う妙な恰好をしていた。
大道芸人か何かなのだろうか? 怪しげな呪い師にも見える。
膝の見えるスカートを履いて男の前に立つなど、貞淑さを美徳とする淑女教育を受けたブリギットには信じられないことだった。
(所詮は田舎娘だわ、はしたない)
口をきくのも嫌だったが、他に選択肢はないので渋々話しかける。
だが、娘は話に夢中でなかなか気づいてくれなかった。
それがまた癇に障る。
ようやくこちらに気づいたので、道を尋ねたいと用件を告げても、要領のわからない説明をするばかり、見かねた娘の連れが自分が案内しようと申し出てくれた。
「お嬢さん、良かったら私がご案内しますよ」
ブリギットは初めて男の顔をまじまじと見つめた。
寂れた田舎にそぐわない気品を持った人だった。
男性だと一目でわかるが、細面で整った顔立ちには男特有の野蛮な雰囲気は微塵もない。清潔感のある髪、背が高く理想的に引き締まった体。身に着けている衣服も上質でセンスが良い、貴族の子息がお忍びで歩いているかのようだ。
ずっと憧れて来た恋物語のヒーローが現実に現れたかのような錯覚がした。
彼の名前はロードフリード・サンタール。
驚いたことに、生まれた時からこの村の住人で、先日首都から戻ってきたばかりなのだという。
ハーフェンでは、竜騎士候補を養成する精錬所で訓練を受けていたそうで、資格を得たので村に帰ってきたそうだ。
「まあ、もったいないことですわ。竜騎士隊といえば、我が国最強と名高い、国民の誉れで名誉ある騎士隊でしょう? このような田舎では資格に相応しいご活躍はできませんわ」
「村の中はのどかなものですが、一歩外に出れば恐ろしい怪物が歩き回っている。騎士隊もこのような辺境にはなかなか討伐には来てくれないんですよ、結局冒険者頼みになる。私は生まれ育った故郷を守りたいのです。竜騎士隊に入ってもやることは同じなら、どうせなら守りたいものを守れた方がいい」
美しい容姿に、高潔な志し。
ブリギットの胸はときめいた。
まだ現実なのだとは思えない。
夢の中をさまよっているような、浮かれた気持ちに包まれる。
村長の家に着くと、ロードフリードも一緒に中に入ってくれた。
話は通してあると聞いてはいたが、見知らぬ人と話すのだ。
彼がいてくれて心強かった。
「待ちかねておりましたぞ、ワシが村長のオイゲン・バルビアですじゃ」
「孫のクラーラです。ようこそ、カロッテ村へ」
村長と孫娘のクラーラは、ブリギットを笑顔で迎えてくれた。
挨拶を無事に終えて、ほっと息を吐く。
「我が村は近年になって住民の流出が酷くてな、新しい住民は大歓迎じゃ。こちらに来た事情はご両親から伺っておる、何かあればワシを頼ると良い」
「ありがとうございます、お世話になりますわ」
ブリギットが頭を下げると、村長はロードフリードに向き直った。
「ロードフリード、お前なら都会のこともよく知っておろう。しばらく彼女の話し相手になってくれんか、村に馴染むまででいい。ワシやクラーラも気にかけてはおくが、彼女はこの村に誰も知り合いがおらぬのでな」
「わかりました、任せてください」
彼は快く承諾してくれた。
ブリギットは期待で高揚した。
もしかしたら、夢見ていた恋を、この村で体験できるのかもしれないと。
村長の家での用事が済んだので自宅に帰ることになったが、ロードフリードは話ついでに送ってくれると言う。
ブリギットはもちろん喜んだ。
彼が話し始める前までは。
「先ほど、私と一緒にいた女の子を覚えておられますか? あなたが最初に話しかけた彼女ですよ」
「女の子? ええ、まあ……」
あの妙な田舎娘かとすぐに思い出したが、質問の意図がわからず曖昧に頷いた。
「彼女はヴィオラートという名で、私の幼馴染なのです。とても素直で明るい良い子なんですよ」
そう言った彼は、まるでその名を口にするだけで嬉しいとでもいうように、先ほどよりも柔らかく笑った。
「年も同じぐらいですし、男の私よりも話が合うと思うんです。この後、彼女の家に行く用事があるので、あなたのことを話しておきますよ。友達ができれば、村での生活も楽しいものになるでしょう」
「まあ、嬉しい。実は知り合いも友人もいなくて、とても心細かったのです。お気遣い、ありがとうございます」
完璧に取り繕った笑顔で礼を述べたが、ブリギットの心は沈んでいた。
(友達なんていらない。あなたが話し相手になってくれるのなら、それだけでいいのに)
どうせ、病気は治らない。
両親が静養を勧めたのは、病状が悪化してきているからだ。
ブリギットには将来の夢も希望もない。
それならば、一生に一度ぐらい素敵な恋をして、思い出にしたいのに。