都会の薔薇は美しく咲き誇る


 朝の時間帯に、ブリギットは酒場【月光亭】を訪れた。
 お酒を飲むためではない。
 お目当ての人物は、カウンターで仕事を請け負っていた。
「キッセル平原北に盗賊が現れた。村の近くだからな、緊急の依頼だ。一人でやれるか?」
「任せてください、何人いても遅れは取りませんよ。夕方には戻ります」
 オッフェンと討伐依頼について打ち合わせていたロードフリードを見つけて、ブリギットはいそいそと駆け寄った。
「ロードフリード様」
 声をかけると、彼はこちらを向いてブリギットを認めると、笑顔になった。
「やあ、ブリギット。すっかり元気になったようだね」
「ご心配をおかけしました。見ての通り、健康そのものですわ」
 少しだけ、猫を被って淑やかに振る舞う。
「あの、今日のお夕食でもご一緒に如何かと思って。当家の料理人が腕によりをかけておもてなしを致しますわ」
 ロードフリードは即答しなかった。
 不安になって顔を見ると、彼はちらりと周囲を見やって、視線をこちらに合わせた。
「お誘いありがとう。せっかくのご招待なんだけど、夕食はここで食べるのは駄目だろうか?」
「え? こ、ここで、ですか?」
 確かに月光亭は食事も出している。
 しかし夕食時は酔っ払いだらけで忙しない。
 二人っきりでディナーを優雅に頂くという、ブリギットの思惑とは真逆の光景だ。
 しかし、断れば、夕食の誘いもなかったことになってしまう。
 今日はヴィオラートが遠出をしていて村にいないのだ。
 二人だけでの食事に持ち込むチャンスは、今日しかない。
「わ、わかりました。では、夕方にこちらでお会いいたしましょう。盗賊の討伐へ行かれるのでしょう、お気をつけて」
「うん、ありがとう。じゃあ、また後で」
 これから戦いに赴くというのに、余裕のある背中を見せて彼は酒場を出ていった。
 ブリギットは彼の無事な帰還を疑ってはいない。
 夕方までに自身を磨き上げるのが、最優先の課題だった。




 社交界に顔を出すのではなく、待ち合わせ場所は大衆酒場だ。
 ブリギットは仰々しいドレスを着るのは諦めて、髪を洗い、肌を磨いたり、メイクをすることに時間を費やした。
 ちょっぴり緊張しながら、待ち合わせ場所の酒場に向かって歩き始める。
 好んでいた小説に、こんな場面があったと思い出して、テンションが上がっていった。
 月光亭に着くと、ロードフリードは帰ってきていたらしく、テーブル席に座って待っていてくれた。
「申し訳ございません、お待たせ致しました」
「村に戻ってきたのはついさっきなんだ。それほど待ってはいないから気にしないで」
 ブリギットが向かいに座ると、彼はグラスにワインを注いでくれた。
 隣のテーブルには、常連の酔客がいて、漂ってくる酒臭さにブリギットの笑みが引きつった。
「今だから、言うんだけどさ」
 ロードフリードが話しかけて来た。
 ブリギットは緊張して、びくりと肩を張った。
「俺はね、上流階級の人が集まる社交の場が苦手なんだ。君と同じテーブルで食事をするのが嫌なわけじゃないんだけど、君の家の食堂は堅苦しいテーブルマナーが必須だろ? 騎士の礼儀作法も好きじゃない。まるで自分ではない誰かを演じているみたいに感じるんだ」
 思いがけない話を聞かされて、ブリギットは動揺した。
「そ、そんな……、ロードフリード様はご立派な騎士様です。以前、私の招待に応じてくださった時も、あんなに堂々としていらしたではないですか。あれが全て演技だとおっしゃるの?」
 物語に出てくる騎士と変わらない彼の立ち居振る舞いに、ブリギットは己の理想を見たのだ。
 その姿が彼の全てだったとは思わないが、本心では嫌がっていたと聞かされては、穏やかではいられない。
 だが、ロードフリードは躊躇いなく肯定した。
「そうだよ。完璧にできるからって馴染んでいるわけじゃない。俺はこの酒場みたいな空間の方が落ち着くな、根っからの田舎者だから」
 親しみのこもった瞳で、彼は酒場を見回した。
 ブリギットは、彼との間に越えられない壁があることに気がついてしまった。
 ロードフリードは、最初からわかっていたのだ。
 ブリギットが彼の偽りの姿を憧れの目で見つめていることも、今日食事に誘った理由も。
 食事をここでしようと言ったのは、二人の間にある絶対に相容れない価値観をわからせるためだ。
 彼の思惑を理解すると、震え始めた手を握りしめて俯いてしまう。
「わ、私はハーフェンの社交界に憧れていました。いつか病が治ったら、あの華々しい舞台に立って、素敵な殿方と恋をするのだと。そんな想像をすることが幼い私の心の支えでした」
 ブリギットの告白を、ロードフリードは静かに聞いていた。
 普段ならうっとりするはずの、優しい眼差しを向けられても、素直には喜べない。
「この村で、あなたと出会った時、憧れていた素敵な恋ができるのだと浮かれました。どうせ長くはない命、生きていても苦しみしかないのなら、せめて死への旅路の慰めになるような、優しくて綺麗な思い出が欲しかった」
「ごめんね、俺は君の理想の騎士にはなれない」
(……なる気もなかったくせに)
 心の中で、詰りかけてやめる。
 勝手に期待して、勝手に幻滅した。
 身勝手に思いを募らせたのは自分で、彼を責める理由にはならない。
 だけど、急に途切れた気持ちは行き場を失って荒れ狂い、怒りに似た鬱憤が溜まっていく。
「わかっています。いいえ、今わかりました。あなたは私が思い描いていたような人ではなかったと」
 ブリギットはワイン瓶を掴むと、グラスに並々と注いだ。
 どこぞの量販店の青年ではないが、呑まずにはやっていられない。
 ぐいっと飲み干して、先ほどまで憧れの対象だった青年に、鋭い目を向ける。
「都会が嫌いで、田舎が大好きな人なんて、どんなにカッコよくたって、お姫様を幸せにはできないわ。せいぜい鈍感な田舎娘を守って感謝されるだけで精一杯ね」
 攻撃的にブリギットは噛みついた。かつてヴィオラートにしたように、嫌味を混ぜて言い放つ。
 まさか、彼にこんな物言いをする日が来るとは思わなかった。
「辛辣だな。だが、これでようやく俺にも本音で話してくれる気になったんだ」
 まったく応えていないようで、ロードフリードは笑っていた。
 以前はあったはずの垣根が、今はすっかりなくなっている。
 彼の好意は確かに感じるのに、胸をときめかせることもない。
 だって、これは友や仲間に向けるものと同じだから。
「あなたは観賞用としては合格です。これからもロードフリード様とお呼びしてあげますわ。もう取り繕った所で仕方がありませんもの、あなた最初からヴィオラートのことしか考えていなかったでしょう。わかっていても諦められなかったけど、今の話で夢から醒めてしまったわ」
 ブリギットはワインを呷り、グラスを力強くテーブルに置いた。
 酒の勢いも手伝っていたのかもしれない。
 両手をついて椅子から立ち上がり、ロードフリードへと右手の人差し指を向けた。
「病の完治した私は、これ以上ないほどの優良物件よ。美人で、お金持ちで、商才があって、強くて、知的で、上品で、優しくて、面倒見の良い、こんな素晴らしい私を逃がしたことを一生後悔するがいいわっ」
 自棄になって高笑いすると、周囲から拍手喝采が起きた。
「なんかわからんが、威勢がいいな、ねーちゃん!」
「良い男はどこにでもいるからなー、あんたほどの別嬪さんなら次の男なんぞすぐに見つかるぞー!」
 周囲の酔っ払いたちから声援を受けて、ブリギットは気が大きくなった。
 気分が良くなって笑い、拳を突き上げる。
「今日の酒代は私が奢ります! 遠慮しないで呑みなさいな!」
 大歓声が酒場に湧き起こった。
 タダ酒が飲めるとあって、飲めや歌えの大宴会に発展する。
「マスター! ビア四杯持ってきて! ワインも瓶で追加ね!」
 ブリギットは大量の酒を注文すると、届いた料理を肴に自棄酒を始めた。
 ロードフリードは、彼女から突き出される酒を受け取り、付き合いで飲み続ける。
 オッフェンは呆れ顔で、次々舞い込む注文の品を用意するために忙しく働き、雑貨屋の業務を終えたクリエムヒルトもお運びの手伝いに参加した。




 時が過ぎ、宴会はまだ続いていたが、騒ぎを引き起こしたブリギットは、すでに酔い潰れてテーブルに突っ伏して眠り始めていた。
「ブリギット、帰るよ」
 ロードフリードが肩を揺すると、彼女は薄目を開けて煩そうに頭を振った。
「放っておいて、失恋した相手に送ってもらおうなんて思っていないわ。親切で言ってくださっているのなら、屋敷に行って誰か呼んできてくださらない?」
「ブリギット、俺は君のことが好きだよ。村の仲間だし、友達だと思っている。それにこんなに泥酔した女の子を放って帰れるわけないじゃないか」
 ブリギットは、黙って両手を伸ばした。
 ロードフリードが屈んで背中を見せたので、後ろから抱きついて背負ってもらう。
「女の子に抱きつかれても、動揺もしないなんて忌々しい」
「君はヴィオじゃないからね」
「あなたはいつもそう。ヴィオ、ヴィオって、あの子のことばっかりで、誰でも気づくわよ。さっさとくっつけばいいんだわ」
「善処するよ」
 温かい背中に体を預けて、ブリギットはくすくすと笑った。
「子供の頃に返ったみたい、お父様の背中を思い出すわ」
 酔いが回り、ふわふわする感覚の中で、ブリギットは呟いた。
「お父様とお母様に会いたいなぁ……」
 久しぶりに会えたら、思いっきり甘えてみたい。
 これまで諦めてきたことにも全て挑戦して、それから自分だけを見てくれる素敵な恋人を見つけるのだ。
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