バルトロメウス十才の秋のこと。
冬の到来を目前にしたカロッテ村では子供の間で風邪が流行していた。
熱を出して寝込む子供が多く、プラターネ家でもヴィオラートが熱を出した。
移るといけないからと、元気なバルトロメウスは子供部屋に入ることを禁じられ、昨晩は父母の部屋で眠った。
朝になってもヴィオラートの風邪が治った気配はなく、気になるので扉の隙間から寝ている妹の様子を窺う。
ヴィオラートの側には母がいて、頭を冷やす布を取り換えて看病をしていた。
赤い顔をして苦しそうに息を吐きながら、小さな妹は呟く。
「おかあさん、にんじん食べたいよぉ……」
「はいはい、後ですりおろしてあげますからね。少しお粥を食べて、お薬を先に飲みましょうね」
「おくしゅり、にがいのいやー」
「飲まないと、お熱が下がらないのよ。我慢しましょうね」
嫌々ながら、ヴィオラートは薬を飲んだようだ。
水を飲ませた母が立ち上がり、こちらに歩いてくる。
「バルテル、部屋に入ってはだめよ。さ、下に行きましょう」
扉を閉めた母に促されて、一階に下りていく。
食堂のテーブルには袋に入った薬が置いてあった。
「これ、ヴィオの薬?」
袋を指して尋ねると、母は頷いた。
「昨夜、ロード君のお父さんが持ってきてくださったのよ。あの子も熱を出して寝込んでいるらしいわ」
「ロードフリードも?」
「そう。村で元気な子供は、もしかしたらあなただけかもね。それにしても助かったわ、熱さましの薬なんて街に行っても高くて手に入らない所だったもの。分けてくださって本当に良かった」
袋を見つめて安堵の息を吐く母は、少しやつれて見えた。
家の経済状態が悪いことは、バルトロメウスも薄々気づいていた。
父が耕している畑で主に作っているものは、カロッテ村名産のにんじんだ。
首都では船での交易が盛んに行われ、運河を通して物流が巡り、わざわざ長く危険な山道を通って辺境の村へと作物を買い付けにくる商人が減った。
作物が売れなくなると、当然現金収入が減り、貨幣でしか取引できない品の入手に不自由することになる。
村内でも裕福な家庭が融通を利かせて助けてくれることもあるが、甘えるばかりでは対等の関係は維持できない。
堪りかねて、遠くの街へ移住していく人も出て来た。
人が減ると、ますます村から活気が遠のき、さらに経済が回らなくなって人が減る。
悪循環が起き始めていた。
ロードフリードの家も余裕がある方だったので、こうしてどうしようもない時には助けてくれる。
ありがたいと感謝しながらも、両親が心苦しく思っていることも理解していた。
バルトロメウスも、ロードフリードを親友だと思うから、借りはなるべく作りたくなかった。
助けてもらってばかりだと、胸を張って隣を歩けなくなる。
だが、まだ子供のバルトロメウスには現状を改善できる方法がわからなかった。
「外に遊びに行ってくる」
家にいてもつまらないので、バルトロメウスは出かけることにした。
母に声をかけて、玄関のドアを開ける。
「気をつけてね。風邪を引くから川には入らないようにね」
「うん、わかった」
外に出ると、いつにも増して人の姿を見なかった。
子供の声も聞こえない。
バルトロメウスは中央広場を駆けて行った。
村長の家の前には大きな木が生えていた。
嘘か本当か、千年以上もの昔からここにあるらしい。
バルトロメウスは幹にしがみついてよじ登り始めた。
上の方にある太い枝までたどり着くと、跨って遠くを見やる。
にんじん畑が目立つ村の景色が一望できて、涼しい風が頬を撫でた。
達成感と心地よさを感じながらも、一人でいることに寂しさも覚えた。
「別に、たまには一人もいいさ」
誰にともなく強がりを口にする。
薬を飲んだのだから、きっとすぐに二人の風邪も治る。
一人でいるのは今だけ。
そんな風に考えていないと、不安になってしまう。
「ねえ」
下の方から、風に乗って声が届いた。
顔をそちらに向けると、長い赤髪の女の子が木の根元にいて、バルトロメウスを見上げていた。
田舎の村の子には珍しく、色の白い綺麗な子だ。
好奇心を宿した大きな瞳は澄んで輝いている。
(村長の家の子だ……)
バルトロメウスは彼女を知っていたが、挨拶をする程度で話したことはあまりない。
そもそも村の女の子とは、何を話していいのかわからないこともあり、最初から距離を置いている。
バルトロメウスが返事に困って黙っていると、彼女が再び声を上げた。
「木の上って、気持ち良いの?」
バルトロメウスはますます困った。
黙っているわけにもいかないので、仕方なく口を開く。
「登ってみれば?」
返事はそっけないものになったが、下にいる彼女は気にしなかった。
「だめよ、私スカート履いてるもの。それに危ないから木に登っちゃだめってお爺様が……」
スカートの裾を気にしている彼女を見て、ヴィオラートは気にしていなかったなとバルトロメウスは回想した。
兄の後を追うヴィオラートは、木登りもやりたがった。
恥じらいもなく足を広げて木にしがみつくヴィオラートを見て、誰よりも慌てていたのはロードフリードだった。
そのまま登ればスカートの中が見えると騒いでいたが、普段から裸も見慣れているバルトロメウスにしてみれば、妹の南瓜に似た下着が見えた所でどうってことはない。
ロードフリードがあまりにも気にするものだから、それなら自分のお古の服を着せようと提案して、家に帰ると母に反対された。
『ヴィオはただでさえ男の子の遊びばかりしているのに、あなたの服なんて着せたら、本当に男の子になってしまうわ! せめて服だけは、女の子らしくしていてちょうだい!』
泣きださんばかりの剣幕で懇願されたので、三人はそのまま外へ戻った。
バルトロメウスは母の言葉に混乱して、ロードフリードに疑問をぶつけた。
『なあ、ロードフリードも女に生まれたのに、男の服着てたから男になったのか?』
母親に似たらしい親友は、線の細い綺麗な顔立ちをしていた。
だから、ひょっとしてと思ったのだ。
『そんなわけないだろ、俺は生まれた時から男だよ!』
バルトロメウスの問いかけに、ロードフリードは憤慨して怒鳴りつけた。
物心ついた時から男物の服を着ていても女の子に間違えられることが多かった彼にとって、その質問はしてはいけない類のものだったのだ。
『ローにぃ怒らないでよ。それより木登りしよーよ。あたし、今度こそ上まで登りたい』
ヴィオラートが笑顔で二人の間に入ってきたので、ロードフリードの機嫌も直り、バルトロメウスも混乱していた頭を整理した。
結局、バルトロメウスが下から支え、ロードフリードが上から引っ張り上げて、ヴィオラートを木に登らせることに成功した。
ほんのちょっとだけ前の出来事だ。
木に登れないという彼女と話すために、バルトロメウスは枝を離れて、幹へと移動した。
しっかりと掴まりながら、するすると危なげなく下りていく。
地に足をつけると、緊張しながら彼女へと顔を向けた。
「ちゃんと話すの初めてかしら? 私、クラーラっていうの。あなたはバルトロメウスさんね」
おっとりとした話し方は、育ちの良さが滲みでていて気遅れしてしまう。そこへさらに同年代の女の子という未知の要素が加わると対応できずに腰が引けた。
「う、うん」
言葉少なに頷くだけで精一杯だった。
「今日は一人?」
「うん、妹もロードフリードも、熱出して寝てるから……」
「私もいつも遊んでいる子達が風邪を引いて遊べないから一人なの」
同じねと、微笑むクラーラに、暑くもないのに頬が熱を帯びた。
嫌な感じではないが、逃げ出したくなるほど恥ずかしい。
「いつもはね、男の子とは遊べないの。よくわからないけど、お爺様が女の子だけと遊びなさいって言うのよ。今日はお爺様がいないから思い切って声をかけてみたの」
「へ、へえ……」
相槌を打つだけでやっとだ。
村長が孫娘を溺愛して、幼い頃から悪い虫は寄せ付けぬと、男の存在を排除しているのは有名な話だ。
ご近所の井戸端会議でもたびたび話題になっていて、度を越した孫馬鹿さえなければ良い人なんだけどねぇと皆で囁いていた。
「一緒に遊んでくれる?」
「あ、ああ、うん」
こくこく頷くと、クラーラは笑顔になった。
「何をしましょうか? いつもは家の中でお人形遊びとか、お喋りしてるのだけど、あなた達は外で遊んでいるのよね? 外の遊びってどんなのか知りたいわ」
「んと、じゃあ、葡萄採りに行くから一緒に行く?」
「葡萄? 村の外に行くの? 大丈夫?」
「あそこに見える小さい山の上。まだ村の中だから、怪物も出ないし大丈夫。ただ慣れてないと迷うから、俺とはぐれないように気をつけないとダメだ」
「それなら行きたいわ。連れて行って」
行ったことのない場所ということが、彼女の好奇心を大いに刺激したらしい。
クラーラはにこにこ笑いながら、手を差し出した。
「手を繋いで行きましょう。そうしたら、はぐれないわ」
バルトロメウスは恐る恐る差し出された手を握った。
妹の手とは異なる感触に、心臓が大きな音を立てた気がした。
壊れ物に触れるように、彼女と手を繋ぐ。
普段なら走って通る道を、クラーラのペ-スに合わせて歩いていく。
途中で出会った村人達は珍しい組み合わせの二人に驚いていたが、クラーラが今日はお互いに遊び相手がいないからと言うと納得して見送った。
その際に、クラーラはお爺様には内緒にしてと付け加えるのも忘れなかった。
孫娘が男の子と手を繋いで歩いていたと知って激怒する村長の様子が目に浮かんだのだろう、誰もが苦笑して、黙っていると約束してくれた。
山が見えてくると、道には緩やかな傾斜が付き、周辺には木々が多くなってきた。
クラーラは周囲を見回しては、道端の花や植物に興味を示した。
時々、立ち止まっては観察している。
「これ図鑑で見たことある花なの、うわー、こんな所に咲いてたんだ」
村長は、本当に彼女を箱入りにして育てているらしい。
一人で外出できるのは、基本的に民家がある辺りだけ。
村外れや山になど入ったことはないのだと言いながら、道中も彼女は一人で喋っていた。
バルトロメウスが緊張して無口になっていることにも気づいていないようで、最初から男の子はあまり喋らないものだと思い込んでいるようだった。
それはそれで助かるのだが、バルトロメウスとしては主導権を奪われてしまっている状態が落ち着かない。
いつもは自分が率先して遊びを提案して、ヴィオラートとロードフリードがついてきたのに、クラーラが相手だと同じようには振る舞えなかった。
「枝とか飛び出てたりするから、引っかけないように気をつけて」
「ええ」
山道に不慣れなクラーラに注意を促しながら、少しだけ前に出て危険なものや生き物がいないか確認して歩く。
小さなものとはいえ、山を登っているのだ。
次第にクラーラの息が上がってきた。
バルトロメウスは立ち止まり、彼女を招いて脇道に入った。
幾らも歩かないうちに、水が湧き出る小さな泉が見えて来た。
「ほら、ここに湧水があるんだ。山に来た人はみんな飲んでる」
先に手ですくって飲んで見せた。
クラーラもそっと両手を出して水を汲み、口をつけた。
「冷たい、それに村の井戸水より美味しいかもしれないわ」
喉を潤して、クラーラは元気を取り戻した。
溌溂とした笑顔をバルトロメウスに向けてくる。
二人は手を繋ぎ直すと、再び山道を登り始めた。