可憐な蕾が花開く時


 ステラードの港には、黄昏の海を渡る砂航艇が数隻停泊していた。
 多くは商船だが、一般の船もある。
 そのうちの一つにコルテスの姿があった。
 彼は港についてから、休む間もなく船の点検に取り掛かった。
「動力部は問題ないな、船体も破損した箇所が少なくて助かった。これなら補修は数日で終わるだろう」
 旅に必要なトレジャーハンターの知識や経験はユリエに一日の長があるが、船に関しては彼の領分だ。船大工である父親の手伝いをしていた経験が生きて、長い旅路の中で予想外のトラブルに巻き込まれても、毎回無事に船を街まで戻すことができていた。
 点検を終えて汗を拭う。
 日が落ちかけていて、そろそろ明かりが必要になる頃合だった。
「今から食事の用意をするのも疲れるな。外で適当に食べて、さっさと寝るか。シャリーには明日会いに行こう」
 船内には広くはないがベッドを備えた個室がある。眠るだけなら十分快適なので、街に滞在する間、わざわざ船を降りて部屋を借りる必要性は感じなかった。
 外の空気を吸いに甲板に出ると、街への出入りのために備え付けた階段から誰かが上ってくる。
 覗き込むと、買い物袋を抱えたシャリステラがいた。
 彼女は明るい笑顔で、コルテスを見上げた。
「コルテス兄さま、お帰りなさい」
「ただいま、シャリー」
 ほぼ一年ぶりの再会で、互いに会えた嬉しさが伝わってくる。
「よく帰ってきたことがわかったな」
「ユリエさんに会ったの、兄さまが港にいるって教えてくれました」
 シャリステラが持つ袋を受け取ると、中身は食材だった。野菜と一緒に新鮮な肉も入っている。
「シャリーが作ってくれるのか?」
「そのつもりです。兄さまは疲れてそれどころじゃないでしょう」
「近くの店で食べるつもりだったんだが、助かった。料理の腕は上がったのか? 期待していいんだな」
「ふふ、任せておいて」
 食堂を兼ねたメインの船室に入ったシャリステラは、簡易のキッチンで手際よく野菜や果物でサラダを作り、店で買ってきたパンをテーブルに並べた。
 後はメインの肉料理だが、船内で火は起こせないので、煮炊きは階段を降りてすぐの場所に焚き火を起こして行う。火事に備えて砂を用意してから、シャリステラは下ごしらえと味付けを終えた肉を、鉄串に刺して豪快に焼き始めた。
 肉はシャリステラの大好物でもある。
 故に焼き加減は慎重に、満遍なく火を通していく。
 錬金術で調合しても良かったが、せっかくコルテスに夕食を振る舞うのだから、普通の手料理を食べてもらいたかったのだ。
 コルテスが窓際に置いた長椅子の上に寝転んで寛いでいると、外から鼻歌が聞こえてきた。
 楽しそうな彼女の様子に笑みが零れる。
 シャルロッテがいるとはいえ、あの箱入り娘がお目付け役や護衛もなしで、街で暮らしていけるのかと心配していたが杞憂だったらしい。
 傍で見守っていなくても、シャリステラは独り立ちできている。
 そうわかって安心すると同時に、胸が痛くなった。
 心の赴くまま存分に世界を見てまわった後、彼女の隣に己の居場所はあるのだろうかと不安になる。
 旅に出たいと願っても、それは一生のことではない。
 シャリステラが族長になるまで、お互いやりたいことをやろう。そう決めて、族長や村人からの承諾を得て、彼らは再び外に出た。
 コルテスはシャリステラには自分の意思で未来を選び取って欲しかった。
 同じ道を歩むのだとしても、周囲の思惑に流されるまま選ぶのと、自分の意思で決めたのとでは、結果は違うものになるはずだからだ。
 シャリステラは族長になると、自ら決めた。
 コルテスは彼女を守り支えることを望んだ。
 そのためにも世界を見て回り、見聞を広め、自身の成長の糧とする必要があった。
 物を知らず、視野が狭いままでは、いずれシャリステラの足枷になってしまう。
 シャリステラが送り出してくれたから、迷いを捨て去って世界を巡る旅へと飛び出した。後悔はしていないが、長く彼女の顔を見なくなると、胸の奥で渇きに似た黒い感情が始終ざわめくことに戸惑いを覚えた。
「兄さま、お待たせ。お肉が焼けましたよ」
 程よい焼き色をした骨付き肉を乗せた皿を持って、シャリステラが船内に入ってくる。
 コルテスは思い耽るのをやめて食卓に移り、運ばれてきた肉に注目した。
「旨そうにできたな」
「見た目だけじゃないですよ、美味しいに決まってます」
 得意そうに胸を張り、シャリステラも向かいに座った。
「兄さまと食事をするのは本当に久しぶり。一年ぶりぐらいかな、随分遠くまで行ったんですね」
「あちこち周っていたからな。世界は広い、仮に一生を懸けても全ての遺跡や土地を巡るのは無理だろうな」
 料理を食べながら、旅の話や街で起きたことなどを取り留めなく話した。
「しばらくはステラードにいるんでしょう? その間、わたしもここにいていいかな?」
「いつも言っていることだが、村の船と違って、この船は狭いだろう。寝るなら下宿先の方がいいと思うが……」
「兄さまは、わたしがいると迷惑?」
 シャリステラが寂しそうな顔を見せるので、コルテスは即座に提案を引っ込めた。
「いや、そんなことはない。シャリーがそうしたいなら泊まっていけばいい」
 コルテスが街に帰ってくるたびに、シャリステラは船に泊まりたいと申し出る。街には身内が誰もいないから、たまに会えればくっついていたくなるのかもしれない。
 一人前に仕事をして自立していても、こうして甘えてくれるのは嬉しかった。
 シャリステラは大切な姫様で、可愛い妹分、そして生涯支えると決めた相手。
 普段、近くにいて守れない分、街にいる間はできるだけ傍にいたいのはコルテスも同じだった。
「ユリエの部屋を使え、着替えは持ってきたのか?」
「は、はい…。こちらに泊まるつもりで必要なものは持ってきてます」
 なぜだか、急にシャリステラの様子が変わった。
 気にかかることがあるのか、表情が暗く陰る。
 今の会話の中に何かあっただろうかと、コルテスは口にした言葉を思い返した。
 たいしたことは言っていない。
 寝る場所を伝えて、着替えの有無を訊ねただけだ。
 シャリステラは偶に、コルテスには理解できないことで悩むことがあったから、今回もそれかと見当をつける。
 一年ほど見ない間に、シャリステラはまた少し成長していた。
 落ち着きが増して、子供っぽさが抜けてきた。
 蕾が花を開いていくように、彼女は年々美しくなっていく。
「綺麗になったな」
 何も考えずに思ったままを呟く。
 シャリステラは目を見開くと、白い顔を朱に染めた。
「な、何がですか?」
「シャリーがだよ」
 問われるまま答えて、コルテスはぎょっとした。
 正面にいるシャリステラは、真っ赤な顔でこちらを凝視して口を開け閉めしている。照れているだけでは済まない過剰な反応をされて、コルテスまで動揺してしまう。
「この街に来た頃に比べたら、お前も大人になったって意味だ。他に言い方が思い浮かばなかったんだよ」
 おかしな空気を換えたくて、意味の通らない言い訳をしてしまう。
「そ、そうですか、大人になったって意味ですね……」
 だが、シャリステラも疑問に思う余裕はなく、こちらも強引に納得したようだ。
 彼女は立ち上がると、空になった皿を手に持った。
「た、食べ終わりましたし、そろそろ片付けをしましょうか。わたしがやりますから、兄さまはゆっくり休んでいてくださいね」
「あ、ああ、悪いな……」
 これ以上、会話を続けると、さらにおかしな空気になりかねない。
 コルテスは素直に従って、その場を離れた。
 去り際に盗み見たシャリステラは、耳まで赤く染めていた。




「な、なんだろう、コルテス兄さまってば、いきなり綺麗だなんて……」
 食器を洗って片付ける作業を夢中でやりながら、シャリステラは激しく動く心臓を宥めていた。
「兄さまにそんなこと言ってもらうの初めてかも。だからかな、こんなに胸がドキドキしてる」
 大人になったと、コルテスは言っていた。
 どんな意味だろうと、彼に認めてもらえるのは嬉しい。
 抑えても口元が笑みの形に歪んでいく。
 シャリステラは顔を両手で覆って、熱が冷めるのを待った。
「わたし、最近おかしい……。さっきだって、兄さまがユリエさんの名前を言っただけで嫌な気持ちになるし……」
 熱が引いて冷静になると、シャリステラは自分の中にある不可解な感情と向き合った。
 ユリエのことが嫌いになったわけではない。
 彼女は強くて綺麗で優しい、素敵な女性だ。
 ただコルテスが彼女の話をすると、胸の奥で嫌な気持ちが生まれた。
 ユリエのベッドを借りる度に、旅をしている二人の様子を想像しては、よくわからない暗い感情に苛まれる。
 自分がそうしているように、コルテスにも自由に好きなことをして欲しかった。
 世界を知ることが彼の望みなら、応援したいと思っている。
 だけど、いつかは帰ってくる。
 そう信じているから送り出せた。
 なのに、いつからかそう思えなくなってきた。
「兄さまは本当に帰ってきてくれるのかな」
 一族よりも大切な人を見つけて、どこかに行ってしまうのではないか。
 ユリエのことはきっかけに過ぎなくて、そんな不安が日に日に募る。
 船に泊まるのは、少しでも一緒にいたかったから。
 村を出てステラードに来たばかり頃、街の人は話を聞いてくれず、何もかもうまくいかなくて不安になって落ち込んでいると、コルテスが励ましてくれた。
 前向きな言葉をもらい、頭を撫でてもらうと安心する。
 その手が離れていくなんて、考えたこともなかった。
 当たり前にあったものがどれだけ大切な存在だったのか、シャリステラは今になって思い知った。




 船室に備えられた丸い窓から、淡く光る月が見えていた。
 シャリステラは少しも重くならない瞼を上げて、ゆっくりと起き上がった。
「兄さま、寝てるかな。疲れてるはずだしね」
 口ではそう言いながらも、彼女の足は船室の扉に向かう。
 何をやっているのだろうと思いながら、扉を開けて狭い通路に出た。
 コルテスの部屋は向かいだ。
 一歩も動くことなく、目の前に扉がある。
 夜中にどちらかが、相手の扉を開けることはあったのだろうか。
 そもそも、どうして二人は一緒に旅をしているのだろう。
 心の迷路を彷徨い歩くシャリステラの思考は低下して、普段なら考えもしないことが思い浮かぶ。
 今更疑うなんて馬鹿らしいと頭のどこかで声がするが、でもひょっとしてと不安に怯える声が打ち消していく。
 仮に二人が恋人同士であったとして、シャリステラが口を出すことではない。
(でも、わたしは次期族長で…)
 一族の者の婚姻に口を出す権利があるのだとしても、シャリステラはコルテスの気持ちを優先させるつもりだった。なのに、仮定の話でも祝福できない。
(兄さまには幸せになって欲しいのに、嫌だって思ってる)
 相手がユリエでなくても、嫌な気持ちに変わりはない。
 欝々とした問答の答えはすぐ目の前にあって、シャリステラは手を伸ばした。
 答えを知りたい。
 目を背け続ければ、近いうちに何もかもが壊れてしまう予感がする。
 彼の心を確かめなくてはいけないと思い詰めて、シャリステラは扉を開けた。
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