LOVER 〜 Can't Stop Love
[前編]
俺が純子と知り合ってから、三年が過ぎようとしていた。
あの合コンから三年。それぞれが相手を見つけ、当初は楽しくやっていたようだが――――――結局は俺達と、大泉とめぐちゃんだけがカップルとして残っていた。
とはいえ、大泉達は札幌とイタリアという、もの凄い遠距離恋愛で………よく続けていられるものだと、他人事ながら感心していた。
俺はといえば、純子も三十路が近付いていて………この歳からいって、三年も付き合っていれば、否が応にも周りの期待が高まるというもので………。
その期待とは勿論、『結婚』。
俺だって、そのつもりで付き合っていた。純子は華やかな外見とは違って、優しくて可愛い女だった。思いやりがあって、よく気が付くし、苦手な料理もわざわざ料理教室に通ったりなんかして、一生懸命だった。
だから、婚約指輪を渡したときの彼女の笑顔は、それこそ宝石のようで。
その笑顔を見たときには、『これで良かったのだ』と思った。
―――――――――それなのに…………。
「あれ? 音尾君。ここんとこずっと外食なんだね。」
「あ、安田主任………」
「いつも美味しそうな愛妻弁当なのにね。」
昼休み、会社から程近い定食屋。音尾の隣の席がたまたま空いていて、俺はそこに腰を下ろした。
俺の言葉に、音尾は少し差比せしそうに微笑んだ気がした。音尾はいつも明るくて、悪くいえばお調子者といったところだろうか。三年前の合コンでも、既婚者のくせに『ときめきたい』なんて言っちゃって、ちゃっかり相手を見つけていた。
そんな彼が最近元気がないということが、実はずっと気にかかっていたのだった。
「何かあった?」
ハンバーグ定食を黙々と口に運ぶ音尾に、聞いてみた。
「……そう見えますか?」
ぼそぼそと歯切れの悪い口調で、音尾が答える。
「…ん―――…、最近あんまり元気ないように見えたからさあ……」
「……………」
音尾は俺の言葉には答えず、味噌汁をずずっと啜った。
「…そんじゃ、先戻ってますね。」
さっさと食事を終えると、音尾は店を出ていった。
明らかに何かある。そう感じた俺は仕事の後、明日が休日ということもあって音尾を飲みに誘った。
断られるかと思いきや、音尾はあっさりと誘いに乗ってきた。晩飯も兼ねて何を喰ってもそこそこ美味い、料金も手頃な居酒屋に入った。
小上がり腰を落ち着け、適当に注文を済ませ音尾を見ると、表情はやはり固い。
様子を見ようと、取り敢えずビールを勧めた。
………正直、何で音尾のことがこんなに気になるのか、自分でも分からなかった。ただ、音尾はいつも明るくて――――配属されてきた彼を初めて見たとき、『ひなたの匂いがする子だ』と、漠然と思った。
それは全くその通りで、音尾は礼儀正しくて陰日向なく真面目に働く子だった。そして、そんな彼を女性が放っておく訳もなく――――――音尾は、五年前に二年の交際を経て、可愛い奥さんを貰った。
上司として、当然森崎部長と共に披露宴には出席した。初々しい新郎新婦は、僕の目にはとても眩しく映っていた。
「…安田主任………純子さんとは上手くいってるんですよね? 式ももうすぐでしたよね……」
酒が入ったせいか、音尾は少しずつ口数が増えていった。そう、既に発起人会の顔合わせの日も決まり、新居のマンションも契約済みだった。
「ん…まあね。……ただ、…結婚前からこう言うのも何だけどさ……。ときめきなんかは…もう無いなあ……」
やはり酒が入ったせいか、思わず本音を零してしまった俺に、音尾がパット顔を上げた。
「だっ……ダメですよ? こんな大事なときに変なこと考えちゃ! 俺みたいに……」
「……? 俺みたいに、何……?」
悪気とか他意はなく、自然と口を衝いて出た。
「………俺みたいに、失敗しちゃ……ダメですよ………………」
俺の問いに、少しの間の後、小さく呟いた。
「……失敗って、音尾君……?」
何の事やら訳が分からずにそう言った俺に、音尾はぽつけぽつりと自分のことを話し始めた。
「プリクラをね、撮ったんですよぉ、たっつんと。たった一回ね。半分こしたんだけど、俺、そんなのすっかり忘れてて……。会社の机の引き出しにでも入ってるんだろうなんて、気楽に考えてて。それがねぇ、うちのが俺の部屋に掃除に入って、見つけちゃったんですよ。それで問い詰められてね………」
『たっつん』とは、合コンで知り合い、少しの間付き合っていた彼女のことだ。ちっちゃくて可愛らしい女性だったと記憶している。音尾に奥さんがいると知りながら、それでもいいと言って付き合っていたという。
「……俺、全部正直に話しちゃったんですよ……たっつんとはとっくに終わっていたことも。…でもねぇ、信じて貰えないんスよ。仕事で帰るのが遅くなったり、付き合いで飲みに行って帰ったりすると『また女じゃないの?』って、うるさく言われるようになって……俺も疲れてたりすると、ついつい大声出しちゃったりして、結局喧嘩ばっか続いて。……でね、子供連れて出ていっちゃったんですよ、二週間前に。」
「え……?!」
驚いて思わず聞き返してしまった。音尾は子供が出来てからというもの、本当に真面目にバリバリ働いて――――――子供が生まれてからは、凄い親バカぶりを発揮していたから。
「…実家帰っちゃったんですよ。」
自嘲気味に笑って、音尾はグラスの中身をぐいっと飲み干した。
かけてやる言葉が見つからなかった。
音尾はそんな俺に気付いたのか、『自分のことばっか話しちゃって済みません』と言って、微笑んだ。
「おーとーお、ほら、もう少しだから頑張って歩け!」
あんな話を聞いてしまったせいか、俺は全く酔わず………逆に音尾は飲みまくってすっかり潰れてしまっていたので、仕方なく俺のマンションへ連れて帰ってきたのだった。
「…んあ………どこれすか? ここ……」
どさりとベッドに下ろすと、音尾はとろんとした目で俺を見上げ、回らない舌で聞いてきた。
「俺の部屋。おとなしく寝てろ。」
水でも持ってきてやろうと、その場を離れようとして――――――シャツの袖をくんっと引っ張られ、音尾を振り返った。
「…いてくらさい……ここに………」
「音尾…?」
「行かないで……」
泣きそうな声で呟く音尾が痛々しくて………可愛いと思ってしまった。だからつい、子供をあやすような口調で言ってしまった。
「…何処へも行かないよ。…安心して、おやすみ………」
俺の言葉に安心したのか、音尾はすうっと寝入ってしまった。シャツを握る手をそっと解き、ネクタイを外して、シャツとズボンを脱がしてやった。
布団を掛けて、乱れた髪をさらりと撫でた。目尻には、うっすらと涙が滲んでる。
「……ガキみたいだな。幾つだよ、お前………」
俺より年下とはいえ、音尾の娘は二歳になった筈だ。目の前で眠る音尾の寝顔は、とても父親とは思えないくらい、あどけなかった。
ベッドは音尾に占領されたので、来客用の布団を引っ張り出し、隣に敷いた。この分だと音尾は、多分明日思いっきり二日酔いの筈だ。
ベッドにゲロを吐くのだけは勘弁…なんて考えながら、俺は布団に潜り込んだ。
目が覚めたのは、かなり日が高くなってからだった。時計を見ると、もう十一時を過ぎていた。
蛙句碑背をしつつ起き上がって、音尾の様子を見た。すやすやと寝息を立てて、気持ち良さそうに眠っている。
起こさないようにそっと部屋を出て、戸を閉めようとした時――――――携帯が鳴って、驚いた。俺のではなく音尾のだ。
ハンガーにかけてあるスーツのポケットから、着信音が鳴り響いている。出ようか、どうしようかと、音尾とスーツのポケットを交互に見て、おろおろしてしまった。
「……ん……………」
目を覚ました音尾が、寝惚け眼で起き上がろうとする。……が。
「…………ってえ……………」
頭を抱えてベッドにうずくまってしまった。やはり昨日の深酒が、相当こたえているようだ。
そうこうしているうちに、電話も切れてしまった。
「ごめん、取ってあげれば良かったね。」
「…いいんです……俺こそすいません……迷惑かけちゃって………」
「気にしなくていいよ。具合良くなるまでゆっくりしていくといい。どうせ明日も休みだし。」
携帯を手渡し、布団を掛け直してやった。音尾の顔色は真っ青とまではいかないものの、白くて。
「ちょっと買い物に行ってくるから、寝ててくれ。」
「……はい………」
冷蔵庫の中身も乏しかったし、ついでに二日酔いに効く薬でも買ってきてやろうと思い、外へ出た。
「美味しい! 主任、上手なんですね〜、料理!」
もう日も暮れて、大分元気になった音尾が、俺の作った飯を食って嬉しそうに言った。
「料理のうちに入らないだろ、雑炊なんて。」
音尾の体のことを考えて玉子と残り物の野菜や鮭なんかを入れた雑炊に、浅漬けや湯豆腐を用意した。
「そんなことないですよ。俺、何も出来ないんですよねから。最近は外食ばっかで。」
「外食って毎日かい?」
「はい…コンビニ弁当とか吉牛とか、そんなんばっかりです。だからこんな飯、久し振りで。すっげえ、美味いですv」
……まあ、独身生活が短い上、家のことは奥さんに任せきりともなれば、そんなもんだろう。それにしても俺なんかが作った飯をホントに美味そうにばくばく食ってる姿は、見ていて何だか嬉しくなってしまう。
「俺は独身生活が長いからねえ。第一外食ばかりじゃ不経済だし、栄養偏るだろう。」
「頭では分かってるんですどねー…面倒臭くて、つい。」
音尾はてへっと苦笑いして、雑炊をかきこんだ。
「こんな飯でいいなら、いつでもおいで?」
「…………………はい…」
俺の言葉にぱっと顔を上げた音尾は、はにかんだように笑って答えた。
そんなことがあって以来、週末となれば音尾は家を訪れ、二人で飯を作ったり酒を飲んで色々な話をした。
会社にいるときとはまた違った、色んな表情を見せる音尾が新鮮で、俺も週末が楽しみになっていた。
音尾の奥さんは相変わらず実家から戻って来ず、話し合おうと訪ねて行っても、顔さえ見せてくれないらしい。
「別れるなら別れるで、構わないんですけどね……。これじゃ話し合いにもならない。」
酒を飲み始めると、話題はもっぱら家庭のこと。話を聞いていくうち、俺は音尾を気の毒に思うようになった。
『浮気は男の甲斐性だ』なんて開き直ってる奴は、正直ぶっ飛ばしてやりたくなる。でも、多少の浮気心なんてのは、きっと男なら誰だって持ってる筈で。元々しちゃいけないこととはいえ……ときめきたいって気持ちは、よく分かるから。
「別れるって…そんな、だって子供は?」
「……子供は可愛いですよ。でも、別れることになったら、親権争うつもりはありません。……事実は消せないし……」
溜息混じりにそう言って、音尾はグラスをぐいっとあおった。
「でも、もう三年も前のことじゃないか。とっくに終わってしまったものを、奥さんはどうしても許せないのかな。」
「…信じようと努力はしてくれたと思うんですよ。…でもねえ、わだかまりが少しでも残ってると、何かの足袋に疑っちゃうもんでしょ。――――――もうねえ、ダメかなーって…。すいません、主任……いつも愚痴ばっか聞いて貰って……」
「気にしなくていいよ。話して楽になるなら、いくらでも聞くから。」
微笑んだ俺に、音尾の頬が赤くなった気がした。
「音尾? どうかしたか?」
「…っ…いえ、なんかもう酔いが回ったみたいで。」
「寝ていいぞ? もう布団敷いてあるし。」
「んじゃ、そうさせて…」
言いかけたところで音尾の携帯が鳴った。表示画面を見た音尾の顔が、さっと変わった。
「…ちょっと、すいません…」
音尾は、ばつが悪そうに立ち上がり寝室へ行った。――――――奥さんからだろうと、直感した。話を聞くつもりはなかったが、音尾の声は徐々に激しさを増し、丸聞こえになっていた。
「だから、安田主任の所だって言ってるだろ?! …嘘じゃないって! だいたい、会ってもくれないくせに俺のことにいちいち干渉すんのはやめてくれ!! ……ああ? 違うって言ってるだろ? そんなに信用出来ないなら探偵でも頼んで、素行調査でも何でもすればいいだろう?!」
………つまり、奥さんは。会おうともしないくせに、音尾に彼女がいるんじゃないかって勘繰って、責めてる訳だ。
俺が口出しすることではないが、段々腹が立ってきた。奥さんが妊娠してからの音尾の頑張りようは、俺が一番良く知っていたから。
『父親になるんだから、もう“ときめきたい”なんて言って、フラフラしてらんない』って、仕事バリバリ頑張っていた姿を、俺はずっと傍で見てきたから。
そうやって三年過ごしてきたのに………。
寝室が静かになった。眠ったのかなと思いつつ、そっとドアを開けてみた。音尾はこっちに背を向けて、布団の上にぼんやりと座り込んでいた。
「………音尾。」
俯いたままの音尾の肩を、ぽんと叩いた。
「飲み直そうか。な? ほら。」
立ち上がるように促し、またリビングのソファーに座らせた。落ち着くようにと、ホットミルクに蜂蜜を溶かしてブランデーを数滴垂らしたものを、そっと音尾に手渡した。
「…これ………」
酒じゃない、とでも言いたげに音尾が呟いた。
「ちゃあんと入ってますよ、酒は。それ全部飲んだら、水割り作ってやるよ。」
「………………」
不満そうな顔で、それでもずずっと啜り始めた。俺は自分用の水割りを作って、音尾の隣りに腰を下ろした。
「………すみません…………」
「ん?」
「…嫌な思い、させちゃって…。沢山愚痴聞いて貰った上に、あんな大声出しちゃって…。みっともないですよね……俺………」
カップを両手で包み込んで、小さく呟いた。大分落ち着いたようだ。
「見に覚えのないことで責められたり勘繰られたりしたら、誰だって腹は立つよ。気にするなる」
「………俺ねえ……バリバリ働いて、あいつと子供、幸せにしてやるんだーって……そう思って、頑張ってたつもりなんですよ…でも……ぜーんぶ、パァになっちゃった……」
それはあまりに虚ろな呟きで、胸が締め付けられて…思わず、音尾の肩を抱き寄せた。
「……そうだね…君は頑張ってた。俺は知ってるよ……。きっと奥さんも分かってくれるから。………ね……」
やがて俺の肩にもたれ、うとうとし始めた音尾を布団に寝かせて、その寝顔を見つめた。
………『分かってくれる』だって…? ―――――――――嘘つき。…本当は、心の中で“そんな女と何か、別れてしまえ”と思っていた。可愛い部下だった音尾は、いつの間にか俺の中で、それ以上の存在になりはじめていた。
常識的に考えて、そんな感情をあっさり認める訳にはいかなかったけど――――――――――。
「顕ちゃん…、顕ちゃんてば!」
「あっ…ごめん、何?」
久し振りの純子とのデート。式の準備やら打ち合わせで、ちょくちょく会ってはいたけど、二人っきりでゆっくり会うのは久し振りだった。
……ここのところずっと、週末は音尾との約束を優先していた。俺はそれを『仕事だ』と、嘘をついていた。
「もおー。聞いてなかったの? なんか最近、上の空って感じ。疲れてるの?」
「ん…まあ、仕事が忙しかったからね。ごめんね、久し振りにゆっくり会えたのに。」
「ううん、いいの。でもあんまり無理しないでね?」
「うん。」
………純子は可愛いと思う。勿論、好きだ。俺の選択に間違いはないのだと思う。純子となら、きっと幸せな家庭を築ける筈だ。
「でね、新居のことなんだけど。不動産屋さんがね………」
話を続ける純子に相槌をうちながら、頭の中は音尾と過ごした日のことばかりを考えていた。
人懐こい笑顔や、あどけない寝顔や………嬉しそうに、凄く美味そうに俺の作った飯を食う顔なんか。
「………純子。」
「何?」
「……好きだよ。」
純子は、一瞬驚いたような顔をした後―――――にっこりと微笑んだ。
「………私もよ。」
俺のしていることは、何なんだろう。
純子は生涯の伴侶となる女性で。音尾は、可愛い部下で。比べる対象では無い筈なのに比べてしまっている。
音尾とは何もない。男同士なのだから当然だ。でも、俺は嘘をついてまで、音尾との時間を作っている。そしてそれを後ろめたく思っている。
―――――――立派な浮気じゃないだろうか。自分の気持ちは今、確実に音尾に向かっている。それを認めたくなくて、純子が喜ぶような言葉を言っては、その笑顔を見て『間違っていない』と、自分に納得させている。
こんな気持ちのままで、純子と結婚してしまっていい筈がない。
自分はどうするべきなのか………俺はずうっと、そんな事を考えていた。
「安田主任、何かありましたか? うかない顔して。」
コンビニ弁当で昼食を済ませた後、自分の席でぼーっと考え事をしていた俺に、森崎部長が声をかけてきた。
音尾は大泉と佐藤に誘われて、外へ食いに言った。主任も一緒に、と声をかけてくれたが、朝からコンビニ弁当を持参していた為、断った。
「…いえ…別に何も………」
「そうですか? ならいいんですが……この頃、ぼーっとしていることが多いでしょう。気になったもんですからね。……ああ、違うんですよ。責めてるんじゃないんです。」
最近仕事に身が入っていなかったことを見破られてた……と思いながら顔を上げた俺の胸中を察したのか、部長は笑って言葉を付け足した。
「主任を見てるとね、まるで昔の私を見ているようでねえ……気になったんですよ。」
「…………?」
何を言い出すつもりだろうと、きょとんとした俺に、部長は続けて話し始めた。
「以前、話したことがあったでしょう。私がマリッジブルーになったって話。」
…………そういえば。三年前の合コンのときに聞いたっけ。
『何故部長は今まで独身だったんですか』って聞いた俺に、話してくれた。
過去に八年近く交際していた彼女がいたが、後はゴールインするだけという感じになり、周りの期待も高まって、色々な付き合いなんかもあって、プレッシャーになっていったて。それで結局彼女と別れてしまったって……。
「結婚…もうすぐでしょう、色々悩んでるように見えたもんですから。」
全くもって、部長の言うとおりだった。穏やかで人が良い上、独身。こんな人がよく窓際に追いやられることもなく、部長にまで昇進したものだと、昔は思っていた。……が、今では納得出来る。洞察力が並大抵ではないのだ。
しかしその洞察力も、こと自分の恋愛に関して言えば、全く働いていないと言っていいかもしれない。どんなに仕事が出来る人間だって、さすがに恋愛は一筋縄ではいかないってことだろう。
「……分からないんですよね…自分の気持ちが……。本当にこれでいいのかなって…」
ぽつりと呟いた俺に、部長は苦笑した。
「それじゃ、ほんとに私と一緒だ。でも、純子さんとはまだ三年でしょう?」
「そうですけど、もう三十になるんですよ、あいつも。」
「ああ……それじゃ、周りの期待も高まりますねえ……」
「そうなんですよね…………」
二人して茶をずずーっと啜って、溜息を一つ。
「でもねえ、安田主任。結婚は自分自身の為にするものですよ。周りの無責任な期待なんて関係ない。まずは自分に正直になることですよ。きっとそれが一番大事なことです。そうじゃないと、純子さんにだって失礼だ。」
「……………はい…………」
「…なんて、結婚もしていない私がこんなこと言っても、説得力に欠けますね。気に障ったら聞き流して下さい。」
「気に障るなんて、そんなことは…………」
部長は微笑むと、ポンポンと俺の肩を叩いて、自分の席へと戻っていった。
部長の言うことは分かる。ただ、自分に正直になったら、とんでもないことになるような気がしてならない。他に好きな女性が出来たというのであれば、まだよくある話だが………今俺が意識し始めてる相手は、同性の、自分の部下だ。
しかも別居しているとはいえ、奥さんも子供もいる。どう考えたって普通じゃない。……………いや、それとも。俺は純子から逃げ出す理由が欲しいだけなんだろうか………。
自分で自分が分からなかった。
結婚式まで、もうとっくに二ヶ月を切っていた。発起人会の顔合わせも行われ、周りがどんどん慌ただしくなっていた。
――――――俺の気持ちだけが、取り残されていくようだった………。
金曜日。定時を一時間程過ぎて仕事を終え、机の上を片付けて大きく伸びをした。斜め向かいの席にいるにいる音尾は、まだせっせと書類の整理に追われている。
「音尾? 手伝おうか?」
「あ、大丈夫ですよ。もう少しで終わりますから。」
にこっと笑って、また書類に目を落とす。その表情にぼーっと見入ってしまっていた自分にハッと気付いて、思わず周りを気にしてしまった。が、残っている社員はまばらで、誰も俺のことなんか見てはいなかった。
「……自意識過剰になってんなー………」
溜息混じりに呟いてしまう。俺が音尾に邪な感情を抱きかけていることなんて、普通に考えれば有りえないことなんだから。
「…終わりました……っと。今日はどうします? 主任。」
「ああ、また途中でスーパー寄ってくか。何が食べたい?」
そう言った俺の顔を、音尾はじーっと見つめてきた。
「…いいんですか?」
「? 何が?」
「式の準備とか…発起人とうち合わせとか…。そろそろ、忙しいんじゃないですか? 主任の好意に甘えて、ずっと図々しくお邪魔しちゃってましたけど……折角の週末、純子さんとだって………」
……ああ、とうとうこいつにまで言われた………。
内心、がっくりうなだれる。
「大丈夫じゃなかったら誘わないよ。来ないのか?」
「………じゃあ行きます。」
拍子抜けする程あっさりと返事をして、音尾はいつものように俺の後をついてきた。
地下鉄の駅から出て、最寄りのスーパーに寄った。
「今日は何にする? 寒いから鍋にしようか。」
「あー、いいですねえv 土鍋あるんですか?」
「あるよ、四五人用の立派なやつ。後は酒だなー…。日本酒を冷やできゅーっといきたいね〜。」
「通ですね〜、主任。」
あれこれ具材を考えながら、食材をカゴに放り込んでいく。いい歳の男二人が、まるで新婚夫婦みたいに。
そんなことすら楽しいと思えてしまうのは……音尾とだから、なんだろうか……。
家に着いて、音尾が風呂に入っている間に鍋をスタンバイして。いつものように俺のパジャマを貸してやって。
……音尾は少しずつ、俺と同じ匂いになっていく。
「美味ーいv 鍋なんてすっげえ久し振りv」
いつものように嬉しそうに食べる。
いつまでもこのままでいられればいいなあ、なんて思ってしまう。………でも現実は音尾には妻子がいて、俺は結婚を控えていて………。
残された時間は少ない。俺の音尾に対する感情は何なのか、もうはっきりさせてしまいたかった。
でも、その方法が見つからない。
「主任? 食べないんですかー? 牡蠣、縮んじゃいますよ〜。」
「あ、ああ。」
無邪気に笑って、よそってくれた。俺がどんなこと考えてるかなんて、想像もつかないんだろうな……。
食べ終えて、片付けもそこそこ、酒を持ってソフーに移動した。
「明日残りの鍋で雑炊だなー…。」
「いいっスねv」
にこにこと笑う音尾の顔は、酒が入り、うっすらと上気している。目つきもとろんとしていて、何て言うか………。
と、音尾はふいに寂しそうな顔をした。
「……あと、何回でしょうね……。こうして過ごせるの……」
「音尾…………?!」
「俺、ほんと感謝してます。愚痴いっぱい聞いてもらって、こんな風に一緒にいてくれて。………寂しい思い、しなくて済みました。優しくして貰って、ほんと嬉しかった…」
「…音尾、お前………」
「結婚しちゃっても、飲みに行きましょうね。今までのお礼に、俺奢りますから。」
「……音尾……! どうして………。どうして泣くんだ……?」
音尾は精一杯微笑んで喋りながらも、ぱたぱたと涙を零していた。
「……っ……泣いて……ません………」
「音尾…」
両肩を掴み、引き寄せた。赤く潤んだ目が、俺を恐る恐る見上げた。
逃げでも、何でもない。ただ愛しいと思った。このまま、自分のものにしてしまいたいと―――――――。
「……主……任……………」
熱に浮かされたように、俺を呼ぶ声。証明を落とした薄暗い寝室の、ベッドの上。
もどかしい思いでパジャマを剥ぎ取り、掌で肌を辿った。
「……ん、っ………」
びくんと体を震わせた音尾は、唇を噛みしめながら、それでもひとつも抵抗せずにされるがままになっていた。
引き締まった綺麗な体に夢中で舌を這わせながら、乱れていく呼吸を愛しく感じていた。
もっともっと感じさせて、色んな顔を見たい―――――。
下肢にするりと手を滑らせ、パンツの上からやんわりと、音尾自身を握った。
「!やっ……!!」
そこを撫で続けながら、胸の突起をそっと吸い上げた。上目遣いに見ると、目をぎゅっと閉じたまま顔を真っ赤にして、小さくイヤイヤをしている。
可愛くて堪らなくて、腰に腕をまわして浮かせ、パンツを引き下ろした。俺も来ていたものを全て脱ぎ、音尾の上にのしかかった。
「音尾……怖い?」
目を閉じたままの音尾の顔を、そっと掌で包んだ。目を開けて俺を切なげに見上げた音尾は、言葉では答えず、俺の背中にきゅっと両腕を廻した。
その唇に口付けて、掌で左胸を探った。音尾の心臓の音が早くなっているのか、はっきりと分かる。
――――――お互い異性となら、もう何度もこんなことは経験してきたのに………今、初めての時みたいにドキドキしてる。
こんな気持ちは、本当に久し振りだった。
何もかもが愛しかった。縋り付いてくる腕も、乱れていく呼吸も、うわ言の様に俺を呼ぶ声も。
愛している――――――――と、心の底から感じていた。
それからというもの、俺は時間を見つけては曜日を問わずに音尾と過ごした。
音尾はもう、奥さんのことは一切口にしなかった。……純子のことも、何も聞かなかった。
俺は罪悪感を抱きつつも、音尾の体を求め続けた。素直に誘いに応じる音尾に、俺は、音尾が自分の気持ちを受け入れてくれているのだと、勝手に思い込み――――――音尾がどんな気持ちでいるか、考えもつかないでいた………。
その日も定時で仕事を終え、いつものように音尾と食事をし、たわいもない話をしながら酒を飲んで、ベッドに入った。
大きな波が過ぎ去った後、音尾は俺の腕の中でとろとろとまどろんでいる。
「…ごめん、キツかった?」
いつもより疲れた様子の音尾の髪を撫で、聞いた。
「いいえ………」微かに微笑んで見せた唇に、そっと口付ける。音尾は切なそうに俺の顔を見つめ、胸元に顔を埋めた。
「……音尾? どうかしたのか……?」
何か、いつもと違う。そう感じて。
「…………………」
音尾は何も答えなかった。
「……音尾、俺さ………結婚、やめようと思ってる。お前と、ずうっと一緒にいたい………。お前は…迷惑かな………」
返事はなかった、いつの間にか音尾は、穏やかな寝息を立て始めていた。
苦笑して、俺も音尾を抱き締めたまま、眠りについた。
夜が明けて目を覚ますと、音尾の姿は無かった。いつもなら休日は夜まで一緒に過ごすか、帰るにしても一言声を掛けていく筈なのに、いつの間にか帰ってしまったらしい。
こんなことは初めてだった。時計を見ると、地下鉄が動き始めた時間ではあったが、まだ外は薄暗い。急用が出来たにしてもどうも不自然だと思い、携帯に電話をかけた。
………が、繋がらない。後でまたかけなおそうと、仕方なく寝直すことにした。
ところが昼になっても夜になっても、電話が繋がることはなく……家の電話にかけてみても、留守電になったままだった。
結局その次の日も連絡がつかないまま、月曜を迎えた。いつもより早く出社してみると、音尾はもう来ていた。
「おはようございます。」
俺を見て元気に笑って挨拶してきた。正直、拍子抜けだ。
「…おはよう。」
何も言わずに帰ったことや、電話が繋がらなかった理由を、すぐにでも問い質したかったが……周りに人がいるので、昼休みにでも話そうと思い、やめた。
「おはようございますー!」
遅刻ぎりぎりで、息を切らせた佐藤が飛び込んできた。
「あっ、シゲぇ、遅いよ〜! 今日は先方の都合で早めに行くことになってたじゃん!」
音尾が口を尖らせていった。
「え?! そうだっけ? やべえ!」
「やっぱり忘れてんじゃん。じゃ、行ってきまーす。」
「はいはい、気を付けて下さいね〜。」
森崎部長かせ苦笑いしながら言った。外回りの仕事で、音尾は佐藤と一緒に慌ただしく出ていった。
………いつもと同じく元気そうな音尾を見て、とりあえず一安心した俺は、仕事に取り掛かった。
昼休み。一旦戻ってくる筈の音尾と佐藤の姿は無かった。
「あれ? 佐藤君達は?」
「ああ、出先で飯食って、そのまま午後のルートを廻るそうですよ。さっき連絡ありました。」
向かいの席で、んーっと伸びをしながら大泉が答えた。………ということは、夕方まで戻らない訳で。
しかも今日は発起人と打ち合わせがあって、定時で上がって急いで純子の家に向かわなければならない。話をする時間は殆ど無い。
音尾と先のことを話し合って……純子にはっきりと自分の気持ちを伝えなければならないのに。
夕方戻った音尾は、用事があるとかで急いで帰ってしまった。結局、朝と帰りの挨拶を交わしただけ。何とも気の抜けた状態で、俺は純子の家に向かった。
この日は披露宴のしおりの為の質問事項に、純子と二人で答えた。出会ったきっかけや初めてのデートの場所、初めて相手に贈ったプレゼント……。
「初めてのプレゼントって……俺、何かあげたっけ。」
三年も前のこととなると、さすがにすぐは思い出せない。
「ダイヤよ? ダイヤの指輪。忘れちゃったの? あたし、大事に取ってあるわよ〜。」
…言われて思いだした。それほど高価なものではなかったけど、売場をうろうろして、どれが似合うが散々悩んで……一生懸命選んだっけ。
「じゃあ、あたしがあげたものも忘れちゃったでしょ?」
純子は悪戯っぽい笑顔を浮かべた。
「いーや。ちゃんと覚えてるよ。手作りのクッキーだった。俺、凄く嬉しかったもん。」
目をぱちくりさせた後、純子は顔を赤らめた。
「やだ、顕ちゃん…。だってそれは。」
「ああ、お母さんが焼いたものだったっけ。でも、くれたのは純子だろ?」
「意地悪な言い方するわねー!」
ぷうっと膨れた純子に、その場は笑いに包まれた。こうして会っている最中は、純子を愛しいと感じる。
けど、何をしていても頭を過ぎるのは、音尾のことばかりだ。
しおりの為に用意した純子と俺の写真は、出会って間もない頃のもの。この頃は純子に夢中で、毎日が楽しかった。
たった三年足らずで、俺の気持ちはこんなにも変わってしまった。
………今の俺には、きっと純子を抱くことは出来ないだろうと思う………。
―――――――披露宴の出欠葉書は、八割方は戻ってきたという。
翌日も、その次の日も。音尾はつかまらなかった。昼休みは大泉とつるんでいて、仕事が終われば『用事があるから』と、そさくさと帰ってしまう。夜に電話してみても、携帯も家の電話も繋がらない。
これはやっぱり……避けられてるってことなんだろうか。
業を煮やして、更にその翌日、大泉達と昼飯に行こうとする音尾を『話がある』と、無理矢理引き止めて屋上に連れ出した。
「何ですか? 話って。わざわざこんなとこに呼び出して。」
「……この前から、変だと思って。」
「……何がですか?」
音尾は俺の顔を見ず、俯いたままだ。
「知らないうちに帰っちまうし、電話は全く繋がらないし。昨日も一昨日も、俺を避けてるみたいだったから。」
「………避けてなんかいませんよ。用事があったんです。話はそれだけですか?」
「……純子との結婚、やめようと思ってる。」
音尾の表情が、強張った気がした。
「お前と一緒にいたい。」
「冗談はやめて下さい。」
俺の顔を見ようとしなかった音尾が、睨み付けるように俺を見た。
その表情に、思わず言葉を失った。
「俺には、妻も子供もいます。…昨日も一昨日も、妻の実家に行ってたんですよ。あいつも子供の為にやり直す気になってくれたみたいで、ようやく話し合いが出来るようになったんです。戻ってきてくれるんです、近いうちに。」
――――――――――音尾の言葉が、信じられなかった。
呆然としたままの俺に、音尾は尚も言葉を続けた。
「……主任には色々感謝してます。でももう、やめましょう? 俺は寂しかった。……主任は結婚にプレッシャー感じてた。………お互い、現実から逃げたかっただけですよ。」
……俺が以前悩んでいたことをそのまま言われて、ぎくりとした。
「音尾、俺は…」
「いい歳の男二人が一緒にいて、どんな未来があるっていうんです? ……純子さんとなら幸せになりますよ。…今はプレッシャー感じてても、そんな気負いはいずれ無くなります。俺だって、父親として……もっとしっかりしないと。」
否定しようとした俺の言葉を遮り、音尾はきっぱりと言い切った。
「………間違いだったと…思ってる? 後悔…してるのか?」
好きでなければ、同性なんて抱けない。ましてや、抱かれる方は………。だから、俺が音尾を想うように、音尾も俺を想ってくれているのだと思っていた。
「……今更、そんな話………。もう、いいでしょう………」
困ったように笑ったその顔は、俺が『好きだ』という度に見せた表情と同じで。今にして思えば、その言葉に対して返事が返ってきたことは、一度も無かった。
いつもこうして微笑むだけで。
「…そうだ、これ。」
音尾はスーツのポケットを探り、何かを差し出した。
「ずっと渡しそびれてて…。ギリギリになっちゃって、申し訳ないんですけど。」
それは、“出席します”に丸が付けられた披露宴の出欠葉書。
……………俺は声が出せないまま、黙って葉書を受け取った。
「………幸せになって下さい、主任……。……じゃあ…戻ります………」
音尾が去った屋上で一人、ぼんやりと空を見上げた。こんな形で終わるなんて、考えもしなかった。付き合ってきた女性との別れは何度か経験しているが、ここまでもの凄い喪失感は、初めて味わうものだった。
そんなことがあっても、音尾は全くいつもと同じに仕事をこなしていた。会社での俺との接し方も、周りから見たら、何ら変わりはなかったろう。
でも…音尾は、以前のような優しい目で俺を見ることはなく……本当にもう終わったのだと実感した。
音尾の言っていたことは正論だろう。子供の為に奥さんとやり直す。……俺は予定通り純子と結婚して、幸せな家庭を築く。常識的に考えても、自然で当たり前のことだ。
―――――――忘れるしかないのだろう。俺達の居場所は、もう別々のところにあるんだから……。
それからの週末は、幸いと言うべきか、式の準備や打ち合わせで忙しくなり……俺はぽっかり空いた心の穴を埋めようと、仕事も必死に頑張った。