Escena V 〜1625年 スペイン・ガリシア地方
Acte 1:アルバロの家で・夜明け前
私が最後の一行を読み終える頃にはすっかり夜は更けていて、窓の外は深夜の深い闇に満たされていた。
私は元のように紙束をまとめると、そっと壷の中へと戻した。壷の蓋を閉めるときに、コトリと硬質な音が静かな室内に小さく響き、その余韻が消えた頃になってアルバロが話しかけてきた。
「これでわかったでしょう。その絵がどういうものであるのか。それでも貴方はこれを所有するというおつもりなのですか」
アルバロはまるで異端の者を見るように絵を見やり、そのまま糾弾するような視線を私に向けた。
私たちの信仰で禁じられた愛ゆえに描かれた美しい少年の絵。
罪と知ってもなお、彼を手にいれたい――。
あの悲痛なほどの手記を書き、この絵を描いた男の気持ちが私には十分にわかる。
私が神妙にゆっくりと頷き、絵を手元におきたいという旨を伝えると、アルバロはどこか悲しげな微苦笑を浮かべた。
「そうですか」
そう呟くと、彼はおもむろにテーブルに上に置いていた絵のカンバスをとりあげて、私に制止する間も与えずに、その画布を蝋燭の上にかざした。
「……?!」
彼のとったあまりに唐突な行動に私はとっさに声も出せなかった。
画布が細く煙をあげだしたのに気づいて、やっと私は彼の手首をとってカンバスをもぎり返した。
ほんのわずかの間のことであったのに、あれだけ美しかった少年の面影は炎に焼かれてすでに失われ、すらりとした首筋より上には絵の具が燃えて焦げ付いた黒いしみがべったりとついていた。
私は愕然とカンバスを取り落とし、声をあらげてアルバロにつかみかかった。
「何てことをしてくれたんだ!」
襟首をつかみあげた私の動作から絵を焼いた男が反射的に抵抗した拍子に、彼の長い髪をくくっていたリボンがはらりと落ちた。
乱れた黒髪に縁取られた青年の線の細い顔はこちらを苛立たせるほどに平静で、髪と同じ色の眼はそらされることなくこちらを向いていた。
「何故? 君は教会の回し者なのか? それとも祖父を誑かした者が憎かったのか?」
納得できる理由がなければ沸いた怒りはおさまるところがなく、私は激情のままたたみこむようにアルバロに詰問した。
そんな私に襟首をつかまれたまま、アルバロはふと視線を泳がせた。
「嫉妬、でしょうか」
想像もしていなかった返事に、私は思わず彼の服を握っていた掌をゆるめた。
彼は私からわずかに身をひくと、襟元を乱したまま静かに
「ええ、僕は嫉妬したんです。あの絵の少年に」
もう一度、嫉妬という言葉を使った。
私はこの答えに詰め寄る筋立てが見つからず、何も声を出せなかった。
そんな私にあらためて向き直り、アルバロは静かに告げた。
「僕は、祖父の手記を読んだら貴方はあの絵を手放すだろうかと考えていました。汚らわしいと思って手放すならよかった。でも、貴方は彼の罪も知った上で、彼を愛でることを選んだのですから」
ほんの少しだけ、今度は彼の声に激情がこもる。
「絵の中の“彼”は祖父の魂だけでは足りないのでしょうか?」
そこで言葉を切ったアルバロの姿に私は息をのんだ。
黒く長い髪と黒い目。肩越しに見えるあの花と鳥の描かれた白い壷。
何よりも、情欲の熱と悔悛の影、一途な想いを秘めつつも物憂げな眼差し。
「貴方が祖父と同じ過ちをおかそうとするのなら、その罪は“彼”にではなく僕に分けてほしいのに」
そう告げたアルバロの姿は、確かにあのマグダラのマリアの面影を帯びていた。
その彼がゆっくりと私に向って手を伸ばす。
共に堕ち、共に祈り、共に神に向って永遠に赦しを請い続けてほしい、と。
それはアルバロの想いであったのか。
それともあの絵には少年の想いが封じ込められていたというのか。
私にはどちらであるのかわからなかった。
私は誘われるままに、彼へと近づいた。拒むことなどできるはずもなかった。
指先が触れ合った瞬間、私の背筋がぞくりと震えた。
先もわからぬ熱情に。あるいは底知れぬ恐怖、に。
夜明けまでは、まだしばしの猶予があった。
〜Fine〜
本作品は当サイトの1000ヒットの記念として、漠様のリクエストにより執筆したものです。
《あとがき》
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