祖国の陸軍基地

 砂と埃にまみれた傷だらけの石油の国に来る前。
 新兵であるニールもレイも、祖国の陸軍基地のひとつでイラク行きの切符を渡される日を戦争という実感も薄いままに待っていた頃。
 ニールは所属する基地の近くにある「シャムロック」という小さなアイリッシュパブで、ギネスビールをひっかけること以上にフィドルを演奏をするのが楽しみだった。
 愛用のフィドル――祖父から受け継いだバイオリンに似た楽器――を軍隊に持ち込むわけにもいかず、ニールは配属と同時に「シャムロック」にそれを預けた。そして、でかけるたびに周囲のリクエストにも答えつつ、存分に自分たちの遺伝子に組み込まれた音楽とリズムを楽しんでいたのだ。
 レイとニールが出会ったのも、「シャムロック」にニールお得意のケルティックな旋律が狭い店内いっぱいに響いていた夜だった。
 ニールがリズムに合わせて足を鳴らしながら、軽快なジグを奏でていると突然、彼の隣に文字通り踊りこんできた姿があった。
 「うわぉ?!」
 フィドルを歌わせる弓を止めることなく、ニールはそちらを見た。乱入してきた自分よりかなり背の高い男は、背筋を伸ばし腰に手を当ててトラッドなアイリッシュ・ダンスのステップを踏みながら、息も切らさずにニールに笑いかけた。
 上半身は微動もさせずに、軍お仕着せのブーツの踵とつまさきを複雑に鳴らして驚くようなリズムを刻む男。
 ニールはヒュゥと感嘆の意を込めて口笛を吹く。
 こいつは大したもんだ。
 興がのったフィドル弾きは、即興でさらにヒートアップした旋律を繰り出してやる。駆け上がるように弓を鳴らしてから、ぴたりと音を止めて挑戦的なウィンクを相手に贈ってやると、ニヤリと笑った踊り手は今しがたのフィドルのリズムを足で刻んでみせた。
 そして今度は楽手に挑戦するように、より複雑なリズムを踏んでから身体を止めてニールのほうを見る。
 「あはは、すげぇな!」
 ニールは嬉しくなって笑いながら弓を弦に走らせた。もちろん、相手がよこしたリズムに合わせて思いつくままに曲を弾き鳴らして。
 楽手と踊り手。掛け合いは客の喝采にも煽られてどんどん激しくなっていく。
 結局、二人のセッションはニールのフィドルの弦の一本が弾けとんだところで一段落となった。
 「やれやれ、久々に燃えたぜ!兄弟」
 ニールが手を差し出すと、踊っていた男は荒い息を吐きながらもグッとその手を握った。
 「こっちも存分に踊れて面白かった」
 今夜は奢りだとマスターから渡されたギネスで二人は乾杯しながら自己紹介をする。
 「俺はニール・ディキンズ。14小隊だ」
 「僕はレイ・ブレナン。同じく14小隊に配属された」
 思わぬ偶然に、もう一度ニールが口笛を鳴らした。
 「宜しく頼むよ、先輩」
 先輩より背の高い金髪の後輩が笑った。
 奢られたギネスを楽しみながら、ニールとレイは基地の話でも間近に迫っていると言われているイラク行きの話でもなく、ひたすらに愛してやまない音楽とダンスの話をした。
 「ダンスはどこで習った?」
 「お袋がダンサー崩れのアイルランド女だったんだ。いつのまにか踊るのは僕の仕事になっていたけど」
 子どものときから、これでもずいぶんとパンの代金を稼いだというレイに、ニールはからかうように言った。
 「何でブロードウェイに行かなかったんだ?」
 「僕はリアリストだから」
 僕一人ならともかく、母さんも食わせてやらなきゃならないし。
 そうレイは付け足した。少しおどけたように。
 「彼女はウオツカに投資しすぎてね。今はアル中患者の更正施設の世話になってるもんで」
 「そうか」
 世知辛い身の上話にしんみりしてしまったニールの気配に、レイは慌てて取り繕うように言った。
 「ニール、フィドルが直ったらまた弾いてよ。僕はもっと踊りたい」
 「いいよ、今からでも踊れるか?」
 「え?」
 「弦の一本切れたくらいでレパートリーの尽きる俺じゃない」
 切れてだらりとしてしまった弦をぐるぐるとフィドルのヘッドに巻きつけてからニールはいつでも弾きだせるという姿勢をとった。
 「俺も伊達に20年近くこれで小遣いを稼いできたわけじゃないんだ」

 よほど縁があったのかニールとレイは宿舎も同室になり、レイを迎えた兵士たちはすぐにレイのダンスマニアぶりを目の当たりにするようになった。
 彼は毎朝、起きて軍服を着て軍靴を履けばまず足慣らしとばかりに軽くステップを踏んでつまさきと踵を小気味よく打ち鳴らす。
 「まったくよ、お前さんだけ赤い靴をはいているんじゃねえのかい?」
 迷惑というよりも、呆れたといった調子でヒスパニック系のアントニオがレイに言うと、レイは軽々と片足をバレリーナのようにあげて相手に見せた。
 「生憎君と同じさ。本当はもう少し軽い靴だといいんだけど」
 そんなレイの答えに肩をすくめながらアントニオは今度はニールを見た。ヤツに何とか言ってくれ、と言わんばかりに。
 しょっちゅう連れ立ってパブにでかけているレイとニールは、同室の仲間たちにも特別に仲がよいように思われるようになっていた。
 「悪いがバカにつける薬はねぇのよ」
 素っ気無いニールの答えに、アントニオの後ろで着替えていたブラックの一人、トニーが爆笑した。
 「しかし、レイのダンスはどういう流派だ? タップにしてはちょいと動きが硬い感じだよな」
 同じブラックのマイケルが冗談めかした腰を落としたポーズでタップともブレイクダンスともつかぬ動きをしてみせると、レイがさらに真似をして周囲を笑わせる。
 「古きよきブロードウェイのタップとはイメージが違うかもね。アイルランドのトラッドなダンスだよ」
 「貧乏人がルーツだからな。靴さえあれば踊れる」
 レイの説明に、同じくアイリッシュ系のニールが自虐的にもとれる一言を付け加えれば、もう一度、兵士たちの中で笑いが起きる。
 「経済的でけっこうなことだ。海外公演のコストもかからないしねぇ」
 この部屋で一番年上ながら、一番年齢不詳に見えるアジア系のリーが訓練にも困らないスポーツ仕様の眼鏡をかけなおしながら皮肉げに言った。
 「海外公演?」
 「イラク公演がもうすぐだろ。皆さん諸手をあげて歓迎してくれるさ」
 やれやれ、と言わんばかりに肩をすくめてリーが部屋を出て行くと、しらけたような雰囲気が辺りを支配した。
 「あいつが海外公演のマネージャーってのは願い下げだな」
 場を繕うようなニールのセリフにも周囲の反応は薄かった。


ティクリットの市街

 「そういえば、この国でお前のワンマンショーをやるって話はどうなった?」
 「言いだしっぺのリーのやつが、ぜんぜんマネジメントをしてくれないんだよ」
 いつだったか基地を発つ前に不発だった冗談を蒸し返してきたニールに、レイは苦笑しながら手にした自動小銃を持ち直した。
 相棒の手の中からわずかに聞こえてきた重い金属の音。
 いたるところに爆撃の跡を残す街中をパトロールと称して、こんな風に銃を携えて徘徊している自分らを含めた外国人たちは、ここで生活している人々にとっては一体何なのだろう。
 そんな思考に少し気をとられているうちに、ニールの迷彩服に包まれた太ももの辺りに何かがぶつかった。イラク人のまだ幼さの残る少年だった。
 「何か買ってくれってことみたいだ」
 彼が一生懸命差し出している小さな手の先に、ガムかチョコレートとおぼしき包みを見つけたレイは困ったように眉尻を下げた。
 一瞬立ち止まったアメリカ人の青年をカモにしようというのか、たちまちのうちにどこからともなく子どもたちがやってきて、次々に手を差し出す。
 「まいったな」
 「かまうなよ、行こうぜ」
 淡々と言って子どもを押しのけるようにして歩き出した相棒に付き従うように、レイもその場を数歩離れたが。
 「悪い。ちょっとこれ、持っていてくれ」
 「おい、レイ?!」
 自分の腕の中に無理やりに二丁めの自動小銃を押し込まれたニールは、慌ててレイを振り返った。
 視界にレイの姿が入ってくるより先に、子どもの歓声が聞こえた。
 そして、あまりに聞きなれたレイのつま先と踵を鳴らすダンスのステップが。
 軍靴と舗装も壊れた道路では、打楽器のごとくにリズムを刻むはずのダンスも軽快な音を響かせることはできなかったが、それでも空中で蜂の羽ばたきにも似た足さばきを見せるレイの踊りに、子どもたちは黒い目をいっぱいに開いて見入っていた。
 武器の重みから解放された腕で少し大仰なポーズをとりながら、レイは子どもたちの輪の中へと入り込んでいく。
 そんなレイを間近にしながら、ニールはおちつかなげに辺りを見回した。
 パトロール中に銃を手放すなんて、重大な軍規違反だ。
 どうか同胞がここを通りすがることなど間違ってもありませんように。
 そんなニールの祈りを邪魔するように、子どもたちに囲まれてひとしきり踊り終えたレイがニールを呼んだ。
 「いいかい、ダンスは楽しい。歌って踊るともっと楽しい」
 ニールがレイと子どもたちの一団に近づくと、レイはニコニコと子どもたちが理解しているとは思えない英語でしゃべっていた。
 「レイ、いいかげんに……」
 「ニール、あの曲だ」
 レイがニールに深くかぶったヘルメットの影から目配せをよこした。これだけでニールにはどの曲かわかる。パブでいつも最後に弾いていた曲。
 「無理だ、フィドルがない」
 ニールが言うと、レイは唇に指先をあて、投げキッスにも似たサインを送ってくる。
 「歌ってくれよ。踊るから。君とは一度ストリートパフォーマンスをやってみたかったしね」
 ニールの返事を待たずに、レイは背筋を伸ばして腕を腰にあてるスタンダードなポジションをとってしまう。こうなったら彼は自分が歌わなくても踊るだろう、とニールは銃にふさがれて思うように打てない手拍子の代わりに、ハミングで拍子をとりはじめた。
 レイが踊り出すと、ニールのハミングとスキャットはいつのまにかフィドルが奏でるメロディーラインを辿りはじめる。すると観客である子どもたちが手拍子を始めてくれた。
 囃されなくても踊り、囃されればもっと踊るダンサーは、子どもたちに乗せられるように複雑なステップを繰り出し、車も通らない通りを大きく使って派手なパフォーマンスを見せた。
 本来ならまったく本業ではない口三味線を余儀なくされたニールのほうも、そんなレイの楽しげな様子につられて、快活で楽しい旋律を口ずさむ。
 二人が息もぴったりに踊りと歌を終わらせると、わぁっと子どもたちが沸いた。
 いつのまにか最初の倍近くも集まってきていた子どもたちに囲まれて、息を切らせたレイと咳払いを繰り返すニールが互いの微苦笑を眺めているうちに、子どもたちの中から、少し背の高い年長の少年がさっきとは少し違うリズムを手拍子で打ちながら、何やら歌いだした。レイとニールには詩を理解できない歌。おそらくこの国の民謡か何かなのだろう。
 彼のまわりにいた子どもたちから、歌の輪は広がり、歌いだした子たちは続けて歌にあわせて手と足を動かし出す。
 たちまちのうちに、その場の子どもたち皆が歌いながら、踊り出した。空爆の雨を受けた彼らにとっては地獄と大差なかったはずの、瓦礫の散乱する街角で。本当に楽しげに朗らかな表情で。
 「僕の話が通じたみたいだ」
 「歌って踊ると楽しいって話か」
 レイとニールは今度は自分のほうがオーディエンスになって、しばらくその子どもたちの踊りと歌を柔らかな表情で眺めていた。
 いつのまにか近くで見ていた髭を生やしたイスラームの青年が数歩レイとニールに近づいて訛りのない英語で伝えてきた。
 「彼らが踊っているのはクルディアン・ダンスだ」
 「君たちの国の踊りか?」
 レイが興味津々と言った様子で、話しかけてきた相手に尋ねる。
 「そうだ。さっきの君の踊りはアメリカのダンスなのか?」
 青年は武器を手放して子どもたちに踊りを見せる兵隊が不思議でならないようだった。レイは相手が自分たちのことを不審に思っていることを感じて、なるべく丁寧な言葉を選んでゆっくりとした調子で話しを続けた。
 「僕のダンスはアメリカのトラッドなダンスではないな。僕の祖先から教えてもらったアイルランドの踊りだ。僕はこのダンスを誇りに思っているし、この国の子どもたちが自分の民族の踊りを知っていることは素晴らしいことだと思う」
 そこでレイは視線をまた踊る子どもたちへと向けた。今度はニールがイラクの青年に話しかける。
 「ところで君は英語が話せるのか」
 「大学まで出た。エンジニアだった」
 ニールの問いに流暢な英語で答えた青年は、瞬間的に研ぎ澄ました刃物を思わせる光をその黒い目に宿した。
 「あんたたちがアレコレとぶちかましてくれるまではな」
 「……そうか」
 ニールは気まずくそう答えるので精一杯だった。
 二人のやりとりを聞いて、子どもたちの様子に目を細めていたレイの表情はたちまちのうちに曇ったものになった。
 そして二人はその場を離れた。
 子どもたちと青年の姿が見えなくなっても、乾いた風にのってしばらく子どもたちの歌は聞こえていた。
 「俺たちだって、人を殺したり街を破壊したいわけじゃないよな」
 予定外の道草での遅れを取り戻すべく、早足で歩いていたニールが、ふと手の中にある人殺しの道具に視線を落としながらぼやいた。
 「そうさ。あの子たちと一緒に、歌って踊れたらどんなに楽しいだろう」
 こよなくダンスを愛しているレイがニールの半歩後ろで頷く。少し前に手ぶらで軽やかに踊っていた男には、戻された銃がいつもよりもずっと重く感じられた。
 かなり急いだにもかかわらず、二人がパトロール隊の詰め所に戻ったのは、定刻より20分ほど遅れてのことだった。
 「……海外公演は成功だったようだが?」
 遅刻の理由を尋ねられるかと思いきや、自分たちが口を開く前に今日の担当らしい将校が大きな机の向こうから不機嫌そうな様子でそんなことを言うのに、ニールは冷や汗を余儀なくされた。フォスターと書かれた名札をつけた徽章を散りばめたアーミーシャツが似合う痩せ気味の上官はじろりと二人をにらむ。
 「他の者から報告を受けた。なかなか派手な興行だったようだな」
 自分の疑問を見透かされたように目の前の男に説明されニールはさらに緊張したが、一番懸念していた“レイが銃をニールに預けていた件”については言及されなかった。
 「子どもたちがずいぶんと盛り上がっていたとか」
 「おかげさまで、サー」
 自分の傍らで開き直ったように言うレイをニールは驚いたように一瞬見やり、そして慌てて視線を正面の将校に戻した。
 「もう一度、君らにはストリートコンサートをやってもらおうかね」
 「え?」
 上官の思わぬ一言に、レイはすっとんきょうに聞き返した。
 「ロイター通信の記者でも呼んでおくとしよう。『米軍兵士とイラクの子どもたちの交流』なんて世界を感動させるいい記事になりそうじゃないか」
 それともCNNに中継でもさせるかね?と堅物らしい風貌の上官は、ひどくつまらなそうに言う。その様子にレイはこっそりと溜息をつき、ニールは負けじと肩をすくめて上官に慇懃無礼に尋ねてやった。
 「それは嫌味ですか?」
 「さあね、かなり本気かもしれんよ」
 もっとも今後は、コンサートは上官命令のあったときだけだと二人に釘を刺し、退席を許可した将校は、それきり自分の持ち出した話題にも興味を失ったように二人に背中を向けた。
 レイとニールはその背中に敬礼をすると詰め所を出るべく強烈な中近東の光が差し込んでいる出入り口の方へ向おうとした。
 「海外公演のマネージャーがオフィサー殿に格上げだ」
 「プレスまで呼んでくれるとさ」
 小うるさい将校たちに囲まれた部屋から抜けて、詰め所のエントランスで二人が一緒に笑い転げようとしたその時に。

 轟音が。
 耳をつんざき、身体を殴り倒し、思考のすべてを真っ白に染め上げる轟音と衝撃が。
 これまで経験したこともない痛みを青年たちにたたきつけ。
 泣き叫ぶ間もないうちに、世界の全てを彼らから奪い去った。


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