首都の病院

 ジリジリとした痛みが頭と肩に少しずつ圧しかかってくるような感覚で、ニールは意識を取り戻した。消毒薬の臭いがした。そして、ベースキャンプでは考えられないほどに辺りは静かだった。
 最初に見えたのは知らない天井で、ベースキャンプの宿舎よりもだいぶ高いところに素っ気無い照明がぶらさがっていた。もっとも、昼間のうちは電気はつけられてはいなかったが。
 ニールはゆるゆると自分の右手を動かしてみた。包帯を巻かれていた。そのまま自分の身体のあちこちを触れてみる。
 頭にも包帯。左肩にも包帯。左の頬には絆創膏。
 まだぼんやりとしている頭の働きは手よりも鈍いような具合だったが、ニールは少しずつ自分の身に起きたことを理解しつつあった。
 病室を見回したくなり、比較的痛みのない右腕を支えに身体を起こしてみると、あまり広くない部屋に8つほどのベッドが並べられているのがわかった。そのうちの4つは誰も使っておらず、毛布がきちんとたたまれてその上に置かれている。
 「おはようさん」
 隣のベッドで同じように上半身を起こしていた黒人の男が話しかけてきた。以前に一緒の部屋にいたトニーと雰囲気が似ていたが、おそらくこの男は中年の域にさしかかっているだろう。ダークチョコレートのような色の顔の上、片目を覆うように包帯がかかっている。
 「ここは……?」
 ニールが尋ねると、愛想のよい男は言った。
 「バグダッドの軍の病院だ」
 耳の上にまで厚く包帯を巻かれたニールには相手の返事はだいぶくぐもって聞こえたが、会話には支障のないレベルだった。
 「アンタは搬送されている間、寝ていたみたいだな」
 「ああ、まるでおぼえていない」
 そう答えながら、ニールは途切れる寸前の記憶を反芻する。

 轟音と衝撃。激痛と空白。

 「……レイは……?」
 もう一度、周囲を見回したニールの視界に、あの短く刈った藁色の髪はなかった。
 「誰か探しているのかい?」
 「あの爆発に遭ったのはこれで全員か?」
 ニールの問いに、親切なこの場の隣人は小さく首を振る。
 「この部屋では俺とお前だけだ。重傷の連中が二人ほど別の部屋にいる。それから」
 男は十字を切りながら、沈痛な面持ちで言った。
 「三人、死んだ」
 死。絶対的な喪失を喚起させる単語がその場の空気をわずかに凍らせた。
 「重傷の連中はどこにいる?」
 ベッドを降りようとして不用意に負傷した左肩に力をかけたニールは顔をしかめて動きを止めた。
 「落ち着けよ、ルーキー」
 「ニール・ディキンズだ」
 少しばかり年上の男に、子どものように扱われて、ニールはたたみかけるように言った。
 「オーケー、ニール。俺はビル・アンダーソン」
 もう一度、落ち着けと言われてニールはやや強めに息を吐いた。
 「俺の隣にいた男を知らないか? レイ・ブレナン二等兵だ。背は俺より高くて、金髪で、目はブルーだ」
 ビルは顎に手をあてて、いかにも何かを思い出そうとしているようなポーズをしばらくとってから答えた。
 「安心しろ。死んだやつに金髪はいなかった」
 「じゃあ」
 「幸か不幸かわからんが、重傷者の病室にいるのは間違いないだろ」
 ビルにそう言われて、ニールはもう一度、今度は安堵のこもった息をついた。
 やがてやってきたベテランの衛生兵らしいルーシーという赤毛の女性が、ニールの包帯を巻きなおしながら淡々と状況を説明してくれた。
 「自爆テロだったそうよ。犯人は15歳くらいの少年だったって」
 そう聞いて、ニールはレイのダンスに見入っていた子どもたちの様子を思い出してやりきれない思いにかられた。
 「それで、ブレナン二等兵の容態は……?」
 「一命はとりとめているけれど」
 ひっかかりのある物言いをするルーシーの様子にニールの鼓動が早まる。
 「両足、切断したわ」
 遠くなっているニールの耳に、その声だけがやたら鮮明に飛び込んできた。音を認識してから、その意味を理解するまでには微妙な時間が必要だったが。
 返事もできず、ただ鳶色の眼を見開いたニールに憐れむような視線を投げかけつつ、言い訳のように彼女は言った。
 瓦礫に砕かれてしまっていて、他に処置のとりようがなかった、と。運び込まれたティクリットのベースキャンプの医療テントで切断の緊急手術を行い、それからこちらに搬送してきたのだという。
 「今日にでも目を覚ますと思うの。彼と親しいようだったら支えになってあげてちょうだい」
 ルーシーは重傷者の病室の場所を教え、水とビタミンを添加したフルーツジュースをニールのベッドサイドに置いて次の仕事へと赴いて行った。
 ニールは何とか我が身をベッドからおろすと、痛む肩をおさえながらよろよろと病室を出ていった。当然、向う先はレイがいるはずの重症患者の処置室だ。

 “重症患者の”と言っても、その部屋の設備はニールのいた大部屋と大差なかった。ただ、ベッド数はたったの3つで、そこに寝かされている全員に2つ以上の点滴が施されていた。
 レイは、一番窓際のベッドにいた。病院らしい淡いグリーンのカーテン越しの光にも目を覚ます様子のない彼の顔は、頬に少し血をにじませた擦り傷があるほかには、傷らしい傷を負っていなかった。
 苦痛を欠片ほども浮かべずに、固く目を瞑っている友人の姿はむしろ死人を連想させ、ベッドに近づいたニールは思わず自分の手を彼の鼻先へと持っていった。レイの呼吸は意外と深く落ち着いているようでニールは反射的にほっとしたが、またすぐに貧血のような感覚を覚えさせる動悸は戻ってきた。
 ニールは恐る恐るというくらいの速さで、自分の視界をレイの頭から体軸に反対方向へと向けていった。
 つまさきの方向へ――かつて、つまさきの在った方向へ。
 レイの身体の線にそったなだらかな毛布の稜線は、彼の膝上あたりで急なカーブを描いて落ち窪んでいた。そのさりげなくも異様な状態は、先に看護士がニールに告げた内容が紛れも無い事実であることをはっきりと示していた。
 レイの両足は、ここにない。
 レイの両足は。
 自分のフィドルと一緒に、いつもいつもステップを踏んでいたあの二つの足は。
 失われた。奪われた。永久に!
 痛切な悲しみとも激しい憤りとも判別し難い理性をゆさぶる息苦しいほどの感情に、ニールは自分の肩と腕の痛みも忘れて、強く強く両の拳を握り締め、奥歯を噛んだ。
 どれくらい、そうして友のベッドサイドに佇んでいたのか。
 ニールの思考を現実に引き戻したのは、そのベッドに横たわっていた人物の小さな咳払いだった。
 「レイ! 気が付いたのか」
 慌てて、ニールはレイの顔を覗き込んだ。ようやく開いた青い目はよく知った顔を認めて、微笑んだようにまなじりを下げた。
 「や、あ。ニール……」
 ささやくようなレイの声が聞きづらいのがもどかしくて、ニールは乱暴に自分の頭と耳に巻かれていた包帯をむしりとった。
 「ちょっと待ってろ。すぐに医者を呼んでくる」
 そう言って、病室の外にスタッフを探しに行こうとレイの枕元を離れかけたニールを、かすれた声が呼び止めた。
 「ニール。教えてほしい。僕の足は、どうなっている?」
 ニールは動きを止め、再び痛むような動悸が湧き上がるのを感じながらどう答えていいものかと逡巡する。
 「あれはどこだったのかな。ぼんやりおぼえているんだ。誰かが叫んでいた。『こいつの足はもうダメだ』って」
 レイのそんな言葉に思わずニールは振り返ったが、少し離れた位置からは仰向けになったレイが、どんな表情でそれを言ったのかは読み取れなかった。
 ニールは意を決して、再びレイの枕元へと近づいた。ニールが膝を落として、点滴がつながれたレイの手をとると、レイは少しだけ頭を動かしてニールを見た。
 「君の足は失われてしまった」
 “両足切断”などという衛生兵と同じ説明はあまりにも生々しすぎて、ニールはどうしても口にできず、そんな風に伝えた。
 それでも、レイには自分の身に何が起きたのかはっきり理解できた。
 「そう、か」
 しばらくの沈黙のあと、レイの唇から魂が抜けるような溜息とともに呟きが漏れた。
 「もう、踊れないんだ」

 やってきた軍医が、詳しくレイの状況と両足切断の経緯を説明している間も、レイは取り乱す様子もなく淡々と医者と患者のやりとりをしていた。
 ただ、残された太ももに巻かれた包帯を交換するときだけは、じっと目を瞑っていた。
 レイに請われて立ち会っていたニールも、まだどうしてもその過酷な現実を直視する勇気が持てず、軍医が毛布をまくりあげている間は、そこから目を背けていた。
 やがて、軍医たちが去り、ニールはもう一度、レイの手を握ってやった。
 声をかけられなかった。
 レイは枕の上で頭をゆっくりと動かしてそんなニールの顔を見上げた。
 「でも、よかった」
 思わぬレイの言葉に、ニールは驚いたように鳶色の眼を見開いた。
 「本当によかった」
 小さく、静かで、それでいて確かに喜びのある声。
 「君が生きていてくれて」
 しっかりと自分を見つめながらそう笑ってくれたレイのあまりにも優しい顔を、一生忘れることはないだろうとニールは思った。

 翌週。
 レイとニールをはじめとする今回の事件の負傷者は、この国で軍務を果たすのは難しいと診断された他の負傷者や病人たちと一緒に帰国することになった。
 

陸軍病院の面会時間 〜epilogue〜

 「あの時。生き残れただけで僕は幸運だった」
 「確かにそうだ。そうかもしれないけど」
 そこで会話が途切れたまま、二人は長いこと沈黙していた。
 記憶の中のダンスのステップ、ダンスの音楽を耳の奥で反芻しながら。
 しかし、時計の針の回転とともに窓辺から陽光が少しずつ失われていくのにつれて、その心躍る音が遠くなっていくのを、レイもニールも感じていた。
 自分の心のままに靴底を鳴らしてくれていた足は、もうそこにはない。
 自分の奏でるメロディーにあわせて素敵なリズムを刻んでくれた足は、もうそこにない。
 それがこの病室に置かれた冷たいばかりの現実だった。
 「なぜ、こんなことになってしまったんだろう」
 そう呟いたのはニールの方だった。
 今にも泣き出しそうに。左頬に傷跡を残した男っぽい顔を歪めて。
 「たくさんの人が、同じことを考えていると思うよ」
 足を失ったレイのほうが慰めるような言葉を贈る。
 「僕らの出会った、あのティクリットのエンジニアだって。僕たちに歌とダンスを見せてくれた子どもたちも」
 そして、レイは自問自答ともニールに尋ねているともつかぬ調子で言った。
 「一体、どれくらいの人たちが同じように思っているのだろうね」
 「たくさん、だ。あまりにたくさんの人たちだ」
 ニールが答えた。
 二人は思い巡らすままに、しりとりのように交互に悲劇の在処を挙げはじめた。
 「……爆撃で家族を失った人たち」
 「9月11日に、愛する人を失った人たち」
 「ばらまかれた地雷で手足をなくした人たち」
 「無差別テロで殺された人たち」
 「独裁者の誕生を許してしまった人たち」
 「その独裁者に苦しめられた人たち」
 「劣化ウラン弾の後遺症で苦しんでいる人たち」
 「救いがたい核兵器をつくってしまった人たち」
 他愛も無い、それでいて祈りにも似たゲームをしばらく彼らは続けていたが、やがてニールが溜息でやりとりを終わらせてしまった。
 「きりがないな」
 「そうだね、この調子じゃ終わらなそうだ」
 再び病室は沈黙に包まれた。
 どこかの病室でラジオでもつけているのだろうか。二人だけの空間に耳障りなノイズのように彼らの国の大統領の演説が流れてきた。



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