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溺れる魚
三人は恋に溺れる。
熱帯魚(の主人)、
釣られたfish(男)=詩人、
サイレンによって溺れさせられた船員=釣り人。
恋人の部屋は、スタジオにも宴会場に行くにも避けて通れない場所にあった。
だから柳瀬は気まずい気分を押さえ、少し早足でそこを通りぬけようと決めていた。
「……ちょっと、寄ってっていいか?」
だがその決意を妨げたのは、一緒に宴会場へと向っていた三上だった。
彼は立ち止まり、柳瀬の恋人――いや、もう振られたのだから変えるべきだ――元恋人の部屋のドアを親指で指し示していた。
その問いかけに、柳瀬は表情と身を強ばらせた。
三上は先程まで抱き合っていた自分が、ドアを挟んだ向こうにいる人物と付き合っていたという事実は知らないだろう。ましてや昨日別れたばかりで、自分がまだ気持ちの整理がついていない事など。
あからさまに動揺する柳瀬に、三上は笑う。
「……ごめん、大丈夫だから」
そして柳瀬には意味の取れない言葉を残して、そのままドアを叩いてしまう。
「おーい、来たぞー」
ノックをしながらかけた声に、返事が返る。
「入るよ」
不明瞭で柳瀬が聞き取れなかった言葉に、三上はそう言ってノブに手を延ばす。
しかし、その形のよい指がそれに触れる前に、内側からドアが開いた。
一人がやっと通れる程度にドアを開いた、不機嫌そうに眉を寄せた大塚は、彼をじっと見上げて短く問う。
「やった?」
「うん」
「上手く行ったんだ?」
「おかげさまで」
その問いに、三上は笑いを堪えたような顔で笑う。
目の前で交わされる応答に、柳瀬は戸惑う。
――「やった」って、何なんだ?
――もしかして二人は。
「おい」
「夢みたいだからって本当に寝るなって」
二人に呼ばれ、柳瀬は我に返る。
「ちょっと、入って」
そんな柳瀬に笑って、部屋の主はドアノブから手を離して、二人を招き入れる。
もう感じる必要のない罪悪感だと分かりながらも、素直に入るには先程の行為が後ろめたすぎて、柳瀬は第一歩を躊躇う。けれど従わないのも、普通の言葉に対する反応として不自然に思えて、やはり部屋の中に踏み入った。
けれど、どうしようもなく居心地の悪さを感じるのだろう、落ち着かない柳瀬の後ろで、元親友である三上はあっさりとした顔でドアを閉める。
そして元恋人は、睨むような、挑むような、まるで求めてきた時と同じ目をして柳瀬を見上げ、彼のシャツの襟を掴んだ。
「――柳瀬」
その行為に怯んだために柳瀬が逃れられずに、触れられてしまった声は甘く、前と変わらずに柳瀬の頭を痺れさせた。
けれど二人きりならともかく、後ろには三上がいた。
柳瀬は動揺するが、三上はその行為を気にする様子はない。
そして不満げな声で、口付けてきた元恋人は言う。
「来てなよ」
「――え」
「……さすがに気向かないんだよな」
そう言って柳瀬の側を通って、大塚の側に立つ。
そして柳瀬は、目の前で行われた行為に絶句する。
そんな柳瀬を見て、眉を寄せる三上。
「……やっぱ、やりすぎだろ」
「いいって言ったくせに」
構わないって言っただけだよ、と言う三上を背にして、崩れ落ちるように座りこんだ柳瀬に、二人の男とキスをした男、大塚は歩み寄る。
「……でも、ちょっと、ごめん」
膝を曲げて謝るのに笑って、三上も歩み寄る。
「……そういう事だから」
――そういう事ってどういう事だよ。
落ちこんで、床に座りこんで垂れたままの柳瀬に溜息をつく。
「……勘違いすんなよ」
そして膝を折った三上は、その頭を上げさせ、優しく口付ける。
「騙したけど、嘘はついてねえし、嫌な事もやってねえよ」
「ま、俺とのキスも嫌じゃなかったよね」
「……まあ、そういう事だけどな」
――だからそういう事って、どういう事だよ!
苦笑する三上に薄々意味が分かりながらも、心の中で問い、柳瀬は泣きそうに顔を歪める。
立ち上がった彼らはそんな柳瀬を見下ろす。
「だらしなくして、どっちも見てなかったからだよ」
「どっちも切る気ねえから」
そんな愛しい元親友と続恋人の、悪魔のような言葉に、柳瀬は再び頭を垂れる。
「くっそおぉぉぉぉ……」
懊悩する男に、二人は天使の微笑みと仏の笑みを浮かべる。
「嫌ならいいけど」
「嫌ならな」
嫌なら――嫌なら。柳瀬の心にこだまする、二人の言葉。
「――あ゛ぁっ」
早々に限界を向かえて、柳瀬は吠えて勢いよく立ち上がる。
睨むように二人をそれぞれ見つめ、溜息をつく。
そして柳瀬は二人同時に、両腕に抱きしめる。
溜息をつくような声で告げる。
「……二人とも、愛してるよ」
「駄目人間」
「だらしねえ男」
そう言いながら、二人の腕は柳瀬の背に回る。
そして三人とも、心の底からの笑顔で笑った。
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