あなたというひと バイト中の休憩時間。 その貴重な時間を、俺は原嶋さんとの電話に費やしていた。 『昨日嬉しかったわ。誰もいなくて、不安だったし』 それで始まった電話。 いやでも俺あんなコトしちゃったし。 なんて言える訳はなく、土下座する勢いで青くなりながら、俺は苦笑を浮かべる。 しかし次の言葉に、俺は完全に顔色を変えた。 『まあ、余計な事もやりやがったから、礼は言わないけどさ』 正直心臓が止まったような気がした。 その直後に激しく、心臓が早鐘を打った。嫌な汗が背中を伝う。口の中もからからだ。耳鳴りさえしてくる。 「……あ……ん、た……っ」 『起きてたわよ』 携帯を落としそうになりながらも、やっとそれだけ言葉を搾り出した俺を笑って、原嶋さんは続ける。 『……あんたは人の世話できんだから、あたしの料理あてにしないでしっかりとやんなさいよ。……紀一郎だって、心配してんのよ』 紀一郎。それは従兄の名前だ。そして原嶋さんの親友の名前だ。 俺に今のアパートを紹介してくれた人で、つまり俺と原嶋さんを出会わせてくれた人だ。 感謝しているはずの、彼の名前に、今だけは眉が寄った。 「……だから、あんたって人はずるいってんですよ」 一気に冷静さを取り戻したけど、それは一瞬だ。勢いの分だけ、気分は一気にローに落ちていく。 悔しくて、情けなくて、泣きそうだ。 こんな所で身内の名前を持ち出すくらいなら、最初っから気付かない振りをしときゃいいんだ。 『……新』 黙り込む俺の名前を呼ぶ、原嶋さん。 その声が、余りにも困った感じだったから、一瞬迷ったけども結局言ってしまう。 「普段は皆と一緒に馬鹿やってんのに、こういう時だけ大人ぶって」 『……しょうがないじゃないの、大人なんだから』 そんなの分かってる。 『分かってんのか、聞いときたかったのよ』 分かってても、抑えられんかったのだ。 「結局大人なんだよな、原嶋さんって。……俺がカッコつけようとしても無理だし」 『――ガキ』 「そうっスよガキですよ」 『……馬鹿』 「すんません」 俺が謝るのに、声を立てて笑う原嶋さん。……何が面白いんだか。 『……くやしかったら、あたしの年に追いついてみろっての』 「……そりゃ無理っス」 不可能な事を言う原嶋さんに、俺は溜息と共に呟く。 彼に追いつく事はない。何年たっても、俺は年下だ。 電話の向こうで、原嶋さんは少し黙り込む。 『……ジジイになりゃ、そんな変わんないわよ』 そしてそう言った声は、案外優しく。 ……ていうか、その話の前提分かってて言ってんですかあんたは。 何だか悔しいので、俺は憎まれ口を叩く。 「……一回り違えば、先にぽっくりイッちまいますよ原嶋さん」 『んんなっ、失礼なっ』 あ、怒った。 『あんたみたいにねぇ、食生活も生活習慣も乱れてる奴が、生活習慣病かかって死んじまうのよ!とっととあたしの作った飯食って、生活習慣直しなさいな!』 原嶋さんは、怒りながらもこんな事を言ってくれる。 そんな原嶋さんが、俺は好きで、可愛くて。 好きだ。……本当好きだなあ。 「原嶋さん」 言っちまおうかな。 『あによっ!』 甲高い声が耳にクるけど。 「――好きです」 そうして思いを口にすると、予想妄想想像してた絶望は来ず、案外伝える事ができたという満足が、俺の中には湧き上がる。 まあたぶん振られるんだろな、という妄想済みの展開への緊張は、依然として俺を包んでいたのだけれど。 『あーたって、奴は……』 そんな俺に、呆れた声で呟く原嶋さん。 でもそれすらも俺にとっては愛しい。 「……俺の好きなモン、作ってよ」 『――何がいいのよ』 甘えた声で、お願いする。 「チャーハン。初めて作ってくれたの、チャーハンじゃん?」 『ん』 短く返される声。それは微妙に嬉しそうな響きを孕んでいて。 この人は結局、人の世話をするのが好きで、人に甘えられんのが好きなのだ。 『……スープとか、つけてもいいわね』 「はい。……あと」 そこで言葉を切る俺。 『……何よ』 単に切らずには言えんかっただけなのだが。 微妙に怒ったような声音の彼に、なるべく感情を込めずに、やらしくならん言い方で。 「デザートは、原嶋さんで」 返ってくるのは、沈黙だった。 「……原嶋、さん?」 『あんたって奴は……』 猛烈なタメの後に、溜息をつく原嶋さん。 「――すんませ」 『頼むから、情緒とか、ムード作りとか学んできなさい』 俺の謝罪を遮って、呆れた声で彼は言う。 「……何でっスか」 『うっさいケダモノ』 俺としては精一杯頑張って考えたのに、そんな風に言われると悲しい。 だからつい、悪いのは分かりながらも反論する。 「ケダモノで何が悪いんスか」 『悪いわボケっ』 「すんません」 悪いのは分かってるから、あっさり謝る。 『謝りゃいいのよ、謝りゃ』 満足そうな原嶋さんの声。 こんな事に偉そげにしているこの人は何なんだろうな、と思ってたら、何でか悲しい気持ちが膨らんで来て、俺は彼に問う。 「……やっぱ、駄目っスか」 『は?』 一転して驚いた声の彼に、落ち込んでしまう声で問う。 「やっぱ、俺じゃ駄目ですか」 男だから。 そう言って、それ以上何も言えずにいると、彼は溜息をつく。 『……あんたね』 怒ったような、呆れたような声の原嶋さん。 『人の話をちゃんと聞くって事を覚えなさい』 「……すんません」 嫌われたくないので、俺は素直に謝る。 『最後までよ?』 「はい」 嫌われたくないので。 『じゃ、これ最後。……黙って聞きなさい』 言いつけも守ります。 『誰も駄目なんて言ってないわよ。……ゴムとベビーローション買って来て』 「へ?」 『早く帰って来なさいよ待ってるから』 がちゃ。えらい早口の直後に、耳に響いた音。 「――ちょっ、待っ!」 そう叫んでも、もう電話は切られている。 「……嘘……」 俺は携帯を畳みながら、呆然と呟く。 上向いて目に映るのは、店の汚い天井。 え……っと……。 信じられない現状を、脳だけは必死に回想する。 そして何も言わず、にへら、と俺は笑った。 ← → |