72/100 喫水線 → 船が浮かんでいる時に水面がくるライン
=惚れこみ度、境界線
釣り人視点。詩人とキス、浮気男との会話。
「くぁ〜み〜〜〜」
「ちょっと、またっすか?!」
俺の名前はそんな名前じゃない。
遠く聞えた声に構わずそう思った三上は、図体のでかい男の体を抱き止める。
彼とて柳瀬の体を抱き止めたくて、抱き止めているわけではない。
自分よりわずかに高く、自分より嵩のある男の体は放っておくと容赦なく体重をかけてきて、いつの間にか自分を床に横たわらせてしまうからだ。以前に経験した、柳瀬が体重をかけたまま寝こけてしまった時の後悔は果てしなく続いた。結局、彼も一緒にいつの間にか寝ていたが。
だからといって自分から進んで、あの翌日の起き抜けの妙な気分を味わいたい訳ではない。三上は笑みを浮かべながらも、全身の力をかけて抵抗し、グラスの中の酒を男にかける。
「…………」
「何だよ?」
坊主でタレ目の人相が良いとは決して言えない男が、座った目を向けてくるのは、決して気分のいいものではないだろう。
それにも関わらず、彼は笑顔を男に向ける。
半眼で酔った目をこちらに向けてくる男。
ああ来る、と思いながらも、相変わらず柳瀬は体重を任せて来ていて、被害者の三上に新たな攻撃への抵抗にかける余力はない。
そしてあっけなく、男の攻撃を受け入れてしまう。
唇に触れる、厚く弾力性のある感触。
腐っても――まあ腐っちゃいないが、さすがに管楽器奏者、唇は荒れていない。
そんな今更な事を確認してしまう三上の口内に、ぬめる、弾力性のあるものが侵入していく。
「よっ、来ましたーーーっ」
「来た、じゃなくて止めましょうよ…………」
大して酒飲んでないくせに素面でも酒飲んでいるような喜多野を、さっきまで男と口論していた斎藤が諌める。
「やーよ。止めたいんだったらあんたが止めなさい、俺はトバッチリ受けんのやだかーね!」
「そりゃ俺も嫌っすよ」
けれどその青年も反論に同意してしまって、彼を柳瀬の攻撃から救ってくれる訳でもない。
そして三上がそんないつも通りの声まで意識を飛ばしてしまうのは、人生経験――というかその種の経験を積む柳瀬の手管は、それなりに上手いのだ。それなりがどの位なのかというと、つまり「それなり」だ。
「……ば〜か」
そんな小学生並の言葉で終わる、容赦ない攻撃から開放された彼は苦笑しながら、自分のそばから笑って去る柳瀬の後ろ姿を見ながら、新しい酒をグラスに注ぎ込む。
さっきまで話していた茂庭は、恋人である香川の元へ行ってしまっていた。
また騒ぎ始めている男たちを肴に、三上は酒を飲む。
「……面白いねぇ」
「……そう?」
いつの間にか、そばにいた大塚を片眉を上げながら見上げる。
壁に寄りかかった三上を小窓越しに見下ろすキレイな顔の男。
「何?……一段落したの?」
「つか乗らなくてさ」
面倒くさがって、廊下との境の窓を乗り越えてこようとするのに、三上は呆れた声で言う。
「……壊したら弁償になるよ」
「あいつのせいにしときゃいいよ」
そう言いながらも桟に片膝をかけたままの大塚に怪訝な顔を三上が見せると、昔1センチ違ったら俳優になれると評されたその顔に苦笑を乗せて向けてくる。
「……あいつに酒かけたの、君?」
「そうだけど」
けれどもそんな顔をしながらも、何か文句ある?とでも言いたげに笑う三上に、笑顔を返してくる。
「可愛いよなぁ」
「……あれが?」
それも惚れた弱みとでも言うのか。
ディープキスかまして来た男相手には、三上が一生思う事のないだろう言葉だ。それを桟へ片膝かけた男が口にするのに、さすがに三上も眉を寄せる。
それに、いやあれもだけど、と答えた大塚は続けて言う。
「君が」
「……自分じゃなくて」
例えそれが自分に対して発せられた言葉だとしても、男に対しては使用しない三上にとっては、その言葉は十分に受け入れにくい。さらに嫌そうな顔を見せる三上に、大塚は実に楽しげに笑う。
「君が」
この男は、人をからかう時は実に楽しげな笑顔を浮かべるのだ。
そして廊下との境の窓の桟から足を下ろす。
「タオル持ってくるから、俺の分のコップ用意しといて」
「りょーかーい」
そのまま廊下の角を曲がって見えなくなる姿を見送る。
そして三上は眉を情けなく下げながら、コップの中の酒を口にする。
本当に何も思わないのか。そんな風に見えなくとも、あの男は悪友と恋人関係にあるのだし、自分が悪友をあの濡れ鼠状態にさせた理由も、恋人の酒の席での行動を考えれば分かるだろう。なのにあの男は何の反応も見せない。
多少宴会芸に近いものであっても、ディープキスまでしているこっちは、怒るなり冷たくなるなりして嫉妬を見せてほしいと思うのが本音だ。キス魔のキスを拒まぬ自分の真意も、あの鋭い男には分かっているだろうに。
いつの間にかまた斎藤と議論を始めている男を見つめ、彼は酒をあおる。
何故こんな事に毎回なっているんだろう。
それを訊いたらキス魔の男が悪いし、自分も抵抗しないのが悪い。そう思ってはいるが、わざわざ拒否するのも面倒だし、下手に拒否してお祭り騒ぎを壊したくもない。
けれど最近では、自分たちの状態にも限界が訪れているのも知っていて。
「……めんどくせ……」
そして三上は口癖を口にする。
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