72/100 喫水線
→船が浮かんでいる時に水面がくるライン
=惚れこみ度、境界線
そして彼は戻ってきた男の恋人に持ってきてないと怒られ、それでも楽しく2人でしこたま飲んだ。
そうしたら人間の生理として、便所にも行きたくなるのが当然だ。
小用を済ませ、宴会へ戻る途中の廊下、彼は障害物にぶち当たる。
壁に背を預けて寝る悪友の姿。無視してもよかったのだが、つい足を止めてしまった。
「……お〜い」
廊下に投げ出された、無駄に長い足を踏んで揺らす彼。
唸るだけで起きない男に、溜息をつく。
おそらくここまで来て眠くなって寝てしまったのだろう、背の高い男のそばに、腰を下ろす。
「ここで寝たら邪魔だぞ〜」
肩に手をかけて揺らす。それに何だか彼は楽しくなってしまって、リズミカルに男の体を揺らす。
その悪戯は流石に効いたのか、男はうめいて薄目を開ける。
「…………」
何か弱い声で呟くのに、何だよ、と訊いて彼は、男の口元に耳を寄せる。
それに青い顔で男は言う。
「……気持ち悪ぃ……」
「――それを早く言え馬鹿!」
自分の行動を、そして男の状態をも棚に上げた発言をしながらも、彼は力ない男を持ち上げる様に肩を貸す。
「……歩けるか?」
「……な、んとか……」
問いにそう答える男を、引きずる様にして便所に連れていく。
そして男を個室に押し込め、そして彼は溜息をついた。
眉を寄せたままの彼。
その細く長い指で顔を撫でるが、自分でもその顔を変えられないようだ。溜息をつき、短く刈り上げた頭を掻く。
そして、静かになった個室をノックし、声をかける。
「大丈夫か?」
「……大分……」
力ない、しかし先程よりしっかりした声に、やっと彼はきつく眉を寄せていた表情を和らげる。
困った様な笑みを浮かべながら呼びかける。
「吐けるだけ吐いとけよー」
「……もう無理」
そしてその言葉に笑いながら、一応確認をする。
「じゃあ、ちゃんと口元拭っとけよ」
「……分かってるよ……」
その言葉に、呆れた響きで男はそう返す。
ペーパーホルダーを回す音、そして紙を擦る音が、彼の耳に届く。
そしてレバーを捻る音がし、流水音が響く。
彼は背を預けていたドアから離れる。
ノブが回って、大柄な体が中から出て来る。それに思わず、彼は身を引いてしまう。
彼より5センチほど背の高い男は、生活習慣によるものも多いが、年も年だし筋肉だけが付いているとは言い難い。それでも、贅肉のない細い体に何とも言えない圧力を男はかけ、彼はそれを怖れるように身を引いてしまう。
――まあ、このガタイと、濃い顔のせいだろうけどな。
10年以上の付き合いになるのだから、全く言い訳にはならない事を分かっていながらも、彼は洗面台で口をすすぐ広い背にそう思う。
重い動きで振り返る男。
「……何か拭くもん、持ってねぇ?」
シャツの裾で拭けばいいだろう、と言いかけて、さすがに吐いた後にそれはないか、と思って彼は口をつぐむ。
「……紙でも使って拭けよ」
苦い顔をしながらも、ポケットからハンカチを出し、男に投げる。
サンキュ、と言って、男は受け取ったそれで、濡れた口を拭く。
「洗って返すから」
「ん」
そう言って伸びをする男。
「んじゃ戻るか〜」
「大丈夫か?」
「だいじょぶだいじょぶ」
彼が少し呆れた目を見せるのに、そう答える男。
気分の悪さの抜けたように見える顔に、彼は気が抜ける。
「……別にいいけどな」
背を向けて、先に便所を出る。
後からついて来る男の気配を感じながら、板張りの廊下を歩く。
「あのさ」
「ん?」
ひたひたと裸足で歩く男の足音が聞える。
「足冷たい」
「そりゃな」
もう秋も深まり、冬も近い。
冷える廊下を冷たがる男に何もできる訳でもないから何もせず、彼はソックスごしに廊下を歩く。
「……なあ」
「何」
「寒いー」
「……そりゃそうだろ」
酒で体が温くなって、暑くて脱いだのか、男の上着はTシャツ1枚だ。
さっさと戻ろうと足を速める彼に、男は彼の名を呼ぶ。
うるさいよ、と振り向きざまに言おうとした彼の体が、温かいものに包まれる。
「……寒い」
それが同じ言葉を繰り返した男の体だと気付いて、彼は男の腕に抱かれたまま、眉を寄せる。
「お前はガキか」
「同い年だろ」
そう答える悪友に、そういう意味じゃねえよ、と呆れながら言う。
それに笑って、男は再び名を呼ぶ。
「…………」
呼びながら、壁に彼の背を押し付ける。
その声は、先程とは意味を違えていた。
女を口説く時のそれと、同じ音で言葉を口にする男に、彼は男の日本人離れした顔を見返す。目尻の下がった目は、当然ながら真剣な色を宿していて、その色を見つめてしまう。
その間に男の顔は彼のそれに寄り、
「……ゲロ臭ぇよ」
そして彼は呆れた声で呟く。
それに男の頭はそのまま進路を変え、彼の頭のそばを通り、肩に到達する。
「笑ってんなよ」
「いや……悪い」
彼の不機嫌な声色にも、肩に頭を預けたまま、男は肩を震わせる。
眉を寄せる彼。
「気付けって」
「忘れてたんだよ」
男がどんな顔をしているのかは、容易に想像できて、彼は男の坊主頭を手の甲で叩く。
「……ボケ」
「ごめんごめん」
彼が呟くのに、男は体を離す。
そして彼は背を向ける。
やっぱり廊下は寒い。冷たい廊下を、彼は早足で歩く。
そして、
「――」
名を呼ぶ声に振り返る彼。
男は予想外にしっかりした目をしていた。
「悪い」
謝る男に、彼は呆れた顔を見せる。
「何だよ今更」
それに男は、時々する泣き笑いのような笑顔を見せる。
「……だな」
思ったよりも強い声の男に、細い目を細めて彼は笑った。
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