91/100 サイレン →
船人をおぼれさせる人魚、時報・警報。
その他にも、魅惑的な美人、縛る、男たらし、
陥れる者、くっつけるなど、多くの意味を持つ。
いつだってサイレンは鳴り続けていた。
恋人との関係にも、三上への思いにも。ふとした瞬間に訪れてきた制限時間に、自分は砂時計を回して、時計の針を回して、ごまかして悪あがきを続けていた。
どちらを選ぶ勇気も、どちらも捨てる勇気もなかったのだと思う。どちらも大切で、代わりの効かないもので、この腕に抱きしめ続けていたい大事なもので。
――何故こんなにも大事になってしまったのだろう。
大塚は同じバンドのメンバーで、その頃もかけがえのない存在で、だからこそ、その関係性がこんな風に変わるなんて思いもしなかった。もちろん変わってからも、大切に思う気持ちに変わりはなかった。けれど、昔から思い続けている三上と同等に思うほどになるとは、思いはしなかった。
男にとって、人間関係は失われれば嘆き悲しんだものだが、基本的に変化しても続いていくものだった。
けれど関係性の名が変わっていく、それだけでこれほどの苦しみを感じるなんて、信じられなかった。
男の瞼に、恋人の、大塚の笑顔が浮かぶ。
真実の既知を教えた笑顔――そこに綻びを見出す事は出来なかった。笑顔の翳りも、言葉の嘘も探したけれど、何も見つけられなかった。
そして、既に恋人を失った、こんな時に思い出すのは、あの時の告白。あの時の涙。
――お前が好きなんだよ!!
そう涙を浮かべながら、柳瀬の腹に乗り上げて言った恋人の姿。大塚は、大概恋愛感情を伝えることに正直で、それにほだされた――そう言っても過言ではない程で、その涙に、その笑顔に思わずその体を抱きしめた。
なのに。
――気付いてないとでも思ってた?
何も、迷いを見出す事は出来なかった、あの笑顔。悲しみも迷いも、何も見せずに、あの男は最後通告を言い渡した。
――言いなよ、いい加減。
別れを告げる言葉。
それは同時に恋人の最後の願いで、その思いを無視しないためにも、親友に思いを告げるべきなのか。
出来ることなら、恋人の願いをずっと叶えていたいと思っていた。それは逃げかもしれなかったし、罪悪感をなくすためでもあったけれど、それは確かにあった恋人への愛情からのものでもあったのに。
恋人の最後の願いを、未だ確かにある恋人の愛情のためにも、叶えさせるのが本当なのかもしれない。
この腕に抱いて思いを言葉にする。それ自体は簡単な、二つの行為である。
それは男も三上に対して、友情というオブラートに包みながらも行ってきた。今までの行為にかかっていたオブラートを、外せばいいだけだ。恐ろしいほど単純な、簡単な行為である。
けれど、柳瀬は迷った。
確かに柳瀬は長い間、彼を思い続けていたかもしれない。けれどその時間は、同時に三上との友人関係を築き上げてきた時間でもあった。それは柳瀬の足枷となるには充分であり、長い間変わらなかった二人の関係性の枷となるには充分だった。
また、自分の思いが三上に対して大きな裏切りであることも、柳瀬は自覚していた。
触れたいという願い、そばにいたいという願い、彼の心のどこか大事な所にありたいという願い。男の多くの願いは、あの温かい苦笑と共に許されていた。
けれどそれは、友人関係の中で許されていたものである。もし、その願いがどこから来ているものなのかを三上が知ったら、おそらく彼の反応も変わってしまうだろう。
困るかもしれない。拒否するかもしれない。
自分一人が負担を負うのならいいのだ。告白によって傷つくのが、自分だけであれば、柳瀬は告白を迷いはしない。
けれど自分の言葉が、彼の笑顔を曇らせるという結果を生み出すのなら、柳瀬は黙り込むしかないのだ。
相手を傷つけたくない。
その本心からの願いから、柳瀬は語り尽くす一方で黙り続けていた。
己の中のサイレンが鳴り続けているのも、無視し続けていた。
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