91/100 サイレン →
船人をおぼれさせる人魚、時報・警報。
その他にも、魅惑的な美人、縛る、男たらし、
陥れる者、くっつけるなど、多くの意味を持つ。
いつからか、自分の感情の限界を見つけてしまったように思う。
それは大人としての自己管理に役立つことであり、別にその他の面で諦めを見つけることはなかったから、それは己にとって利となるものだと思っていた。
でも感情を抑えきれずにいた、あの時のことを思い出すのは、先程の出来事のせいだろうか。
溜息をつきながら、シーツを握り締める。
あの時は、ベッドなんて行く余裕もなく、というかそんな状況ではなかった。
鈍感な男を椅子から蹴り倒して、その上に跨ったのだ。突然の行動に柳瀬は身を強ばらせて、そのくせ自分をじっと見上げていた。
だから怒りが込み上げてきて、背も腕も床に押し付けた。そして、限界だからと言って告白して、触りたいと言って、触らせろと脅迫したのだ――途中溢れ出した涙をぬぐって。
自分でもみっともなかったと思う。
結局その日、男は迷いに迷って頬へのキスを与えただけで、ただ気持ちを向ける事だけを許した。だから諦められるまでと、大塚は諦め悪く気持ちを伝えていた。けれど柳瀬は、いつの間にかその気になっていて、抱きしめられてしまっていた。
抱かれた時は、確かに嬉しかったように思う。――いや、思うではなく、確かに嬉しかったのだ、その時は。いつの間にか気付いてしまっていた、男の愛情の行き先を考える余裕もなく。
あの頃の自分は愚かだったけれど、柳瀬の愛情がどこへ向いているかなど、始めから気付いていた。
けれどそう知っていても柳瀬が欲しい、そう思う程にはあの男を好きだった。そして、しつこさの末に、男の恋人になるという幸運を手に入れたのだ。
それほどに、あいつに執着していたのなら、とは自分でも思う。
しかし、柳瀬――恋人となった男しか見えてなかった自分が、三上を見つめて、恋愛の対象としてしまうなんて、自分にとっても大きな誤算だったのだ。その頃には、己のキャパシティを知って、暴走してしまう己の感情を抑え始めていた頃だったから、余計にそう思った。
恋と自覚する前から、三上はいつも飄々としていて、それが羨ましく思えた。三上も、自分の恋人に友情以外の気持ちを持っているのだと気付いてしまった時には、さらに羨ましく思った。むしろ抱いたのは嫉妬かもしれない。自分はこんなに感情に振り回されているのに、と。
恋人のフィルターを通して、三上に恋をしたのかもしれない。けれど、好意を抱いたのは己の心だ。三上を好きになり、彼を手に入れたいと願ったのは自分の心だ。触れたいとそばにいたいと、大事にされたいと願ったのだ。
だから。
あの熱帯夜の計画を作り上げて、彼をそこに嵌め込んだのだ。
柳瀬を押し倒した時と同じで、自分の感情に振り回されていた。ただ自分の余裕の無さを露呈したくがないために、限界の一歩手前で、自分から自覚的な行動に出たという点が違うだけだった。
熱帯夜の自分と、今の自分が違うようには思えない。なら自分という人間の本質は、何も変わっていないのかもしれない。ただ、誤魔化すのが上手くなっただけだ。
結局、柳瀬と付き合い続けていた間に、望んでいたものは手に入らなかった。ただ欲しいものが増えただけで。ただ二人の間の制限時間が、自分の邪魔で延びただけで。自分は抑止力にはなれたけれど、柳瀬にとって三上と同等の存在にはなれないのを知っただけだ。
そして、冷たい廊下の二人。
自分以外の誰かだったらどうする気なんだ、と二人に怒りを覚えながら踵を返した。
そして気付いたのだ、もう限界は近いのだと、ゲームは終わりに近づいていると。
だから、自分から柳瀬に事実を告げた。
――好きなんだろ。
あの男は呆然としていた。
――言いなよ、いい加減。
気付いてないとでも思っていたのだろうか。少なくとも、二人は柳瀬よりは遥かに聡い。
――こっちだっていい加減気付いてない振りも辛いしさ。
壁に押しつけられた肩と背。
別に暴力で黙らせようとしている訳ではないのは分かっていた。そこまで馬鹿じゃない。
ただ、駄々を捏ねる子供のようだと思った。
――言えるくらいだったら……!
――俺とは付き合ってない?
流石にあれは酷かったと思う。事実、柳瀬も罪悪感まみれで、悲しくて、傷ついてしかたがないという目をしていた。
――ごめん。
そう口にしたのはどちらだったか、覚えてはいない。
ただお互い縋りつくように抱き合っていた。
「酷い話だよな」
煙草を噛みながら、恋人に事実を告げて告白を促した大塚は呟く。
でも進む道は、自分で決めたかったのだ。もう隠し事はせず、欲しいものは欲しいと告げたかったのだ。
それでも涙は頬を伝う。
大塚は自分の感傷を笑って、静かに手で拭った。
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