黙秘の理由は煽りの優しさ
古谷は店を出た途端、はじかれたように走り出した。
感情に動かされるままに足が動く。
だが今一也がどこにいるのか、それすら分かっていない。それに気付いて、古谷は立ち止まる。
そしてポケットの中の携帯電話を思い出し、焦った手つきで取り出す。
しかし、指が止まった。
着信拒否されているのだ。許可されていない電話は、その事を古谷に知らせていた。その行動は彼の冷たい目つきと共に、この前の自分の行為を思うと当然だと古谷も思う。
だけれど今彼に会いたいと思うのは確かなもので、会って謝りたいと思うのも確かな事だ。携帯をポケットに突っ込み、新たな衝動に突き動かされて古谷は駅へと走り出す。
しかし数秒も経たない内に、携帯電話の着信音が鳴り響く。
――こんな時に。
舌打ちしながらも、古谷は上着のポケットから携帯電話を取り出す。そして、その画面を見た古谷の顔に、驚きの表情が浮かべられた。
携帯の画面に表示された名前は、“小崎一也”。
我に返った古谷はすぐに電話を繋いで、恐る恐る彼の名を呼ぶ。
「……一也?」
疑問形で呼ばれた名に、携帯は沈黙しか発しない。震えそうな声に1回大きく息を吸って、そして古谷は問う。
「今どこにいるんだ」
『……コンビニの前』
それに小さな沈黙を挟んだ後、言葉少なに答える一也。
「今から行くから、そこで待ってろ」
そして古谷の命令にも少しの沈黙を挟んで、一也の声が答えた。
『……嫌』
「――何でだよ」
理由は分かりすぎるほどに分かっていたけれど、古谷はそう問い返す。
何も答えない彼に眉が寄る。だけれど軽く息を吸って、
「会いたいんだ」
そして歩き出す。
走ったら気付かれる。気付かれたら逃げられるだろうと思った古谷は、今にも走り出したい気持ちを抑え、電話を繋いだままコンビニへの道を歩いて辿る。
「……頼む、そこで待っててくれよ」
それは電話の向こうの主も辿った道だろう。
切れないまま、こちらの問いにも返されないままで繋がっている電話を耳に当てながら、古谷は角を曲がる。
そして青い看板の建物の前に、不安そうな目で自分を見つめる、求めていた姿を見つけた。
無地のカバーが掛けられたソファに背を預けた一也は、うなだれたままで古谷が台所で何かを探っている音を聞いていた。
ここは古谷の家。
一緒に帰る事を求めて来た古谷に、抵抗せずに一也はここまで来ていた。
彼らしくない、無気力な姿を見せる一也を台所から見つめ、小さく溜息をついて古谷は一也を呼ぶ。
「一也」
顔を上げる一也に問う。
「みかん好きか?」
「……うん」
そう一也が答えると、投げられる丸い物体。
受けとめてから、一也はそれを見つめ、それが何なのかという事を確かめる。
「……みかんだ」
「ああ」
そう言って少し顔を緩ませる一也を見つめ、古谷は微笑む。
「実家からダンボール箱いっぱいに送られてくんだよ」
自分も手いっぱい橙色の小さな果実を持って、台所から古谷は一也の元へと戻って来る。
「俺一人じゃ食べきれないから、遠慮なく食え」
フローリングの床に転がしたみかんをじっと見つめる一也。
「……うん」
自分の手に持ったみかんを剥きながら呟く。
「……好き」
「だったらいくらでも食っていいから」
その言葉に頷く一也。
「うん」
そのまま沈黙が落ちるのに、小さく息をついて古谷は一也の側に腰を下ろす。
静かに二人はみかんの皮を剥く。
「……やっぱさ」
「ん?」
古谷は顔を上げる。だが一也は俯いたまま、みかんを一房口に入れながら呟く。
「始めが悪かったのかな」
何の感情も顔に浮かべる事なく、一也は言う。
「初めて会った時も、ケンカだったし。古谷が意識した始めもやってからだったし」
「……一也」
咎めるように古谷が一也の名前を呼ぶのにも構わず続ける。
「古谷になら、抱かれてもいいと思うのに」
静かなその口調。躊躇いをそこに見出す事は出来ない。
痛さを感じる程の静けさに、古谷は口を開く。
「てか嘘だろ?」
「うん」
問いに答える一也。上げられた顔に浮かんでいるのは、僅かな憂いを含んだ笑顔。
そのはっきりした二重の目で、一也は古谷を見上げる。
「だって、俺は古谷を抱きたいんだからさ」
そう言って、俯いて床に散らばったみかんを手に取る。
一也も分かってはいた。
この自分の欲求がなければ、古谷が自分を拒否する理由を一つなくす事が出来る。一也としてもそうやって一つ一つ理由をなくして、口説いて、好きになって欲しい。でもどうしてもこの欲求はなくし切れずにいる。
古谷はそんな一也から目をそらせずに、彼を見つめていた。
そして気付く。みかんを剥いている一也の手が、震えているのを。
「ねぇ、俺じゃ駄目?」
一也の声が震えていた。
弱さを見せる彼の姿に古谷は動揺する。
一也の体は全てのパーツが古谷より華奢だ。身体的に差があっても一也は古谷にとって、ゲイである自分を支えてくれる強い存在だった。そんな彼に敬意を感じ、感謝をしていた。
しかし今一也は安定を欠いている。
そんな彼の前で、あの夜から弱さを隠そうとする強い彼の姿を抱きしめたいという欲望を確かに感じている自分を、古谷は完全に自覚する。
今までにどんなに不安で辛くても、古谷に思いを伝え誘う時には、一度も不安定にならなかった声を揺らして、一也は思いを口にする。
「好きなんだよ、……もう、他の誰かじゃどうしようもない位。……ずっと、もうずっと。……振られて、……慰められて、それで好きになるなんて、バカだと自分でも思うけど」
思いを自覚した古谷の心に、一也の言葉が染み入っていく。
そして一也は大きく息を吸いしっかりした声で、だが顔は伏せたままで言う。
「好きなの。古谷が好きな奴いようと、ずっと俺見てくれなくっても。だから俺が好きな限りアタックしつづけるし、H誘うし、好きだって言うし、隙あらば抱こうとするか」
古谷の、一也の頭を包み込むように触れた手に、一也の告白が途切れて顔が上げられる。
「……一也」
込み上げた気持ちのままに古谷は、驚いた顔の一也を抱き寄せる。
「ちょ、古谷」
「黙ってろ」
そう言いながら、古谷は彼の目元に口付ける。甘いはずのその行動に、一也は身を強ばらせ抵抗するように腕を突っぱねる。
「――や」
一也の体を強い腕で繋ぎ止めながらも、その姿にこの前の自分の行動を古谷は思い出させられ、後悔に胸を刺される。
「やらないから」
しかし怯える声を上げようとする一也に、強い口調で言う。
「……大丈夫だから」
そして続けて優しい声音で囁いた言葉に、一也も眉を寄せながら黙り込み、僅かに腕の力を抜く。
一也の体に自分の体重がかからないように、自分の体勢を少し変えながら古谷は一也の体を抱く。
頬に口付け、耳元に口付ける唇に、そしてそのまま自分の名前を囁いた声に、一也は自分の鼓動が痛い程になるのを感じ、手を握り締める。
古谷は床で強く握り締められた一也の手を、自分のそれで包み込むように触れる。それに古谷に顔を向けた一也の唇に、古谷は口付ける。
そのまま深くなる口付けに戸惑いながらも、誘惑に弱く弱気になっている男は、古谷の手に導かれるまま、古谷の広い背に腕を回す。目をゆっくりと閉じる。
どれだけ怖くても、彼を傷つけるかもしれなくとも、どれだけこの後に古谷に告げられる言葉が辛いものであるかもしれなくとも、差し出された餌はとても魅力的な物で、そのまま一也はその誘惑に身をゆだねてしまう。
体に回った腕や近くにある彼の体、彼の息や絡まる舌に、たまらなく体温は上昇していく。
そして唇が離れ、軽く上気した顔で古谷は名前を呼ぶ。
「……一也」
怖れられながらも、言葉は続けられる。
「好きだ」
「……嘘だ」
躊躇いながらも、はっきりと告げられた一也の言葉に、古谷は溜息をつく。
「嘘言ってどうすんだよ。……そりゃ今までの態度はそう言われてもしょうがねぇけどさ」
ごめんと呟く、普段は見ない古谷を、一也は眉を寄せて見る。
「でも好きなんだよ。……やって好きになるなんて自分でもどうかと俺も思うけどな」
しかし反省の言葉を口にしながらも、先程の一也の告白をなぞって言う古谷に、一也も腹が立ってきて苛立った口調になる。
「そんな都合のいい事言うなら河原さんに告白された後に盛ってたの何、口説かれて嬉しかったんじゃないの、やっぱ昔からの友人で気安いしあの人ならネコやってくれるかもね俺はどーせ」
「はいストップ」
そんな一也を古谷は笑って抱きしめる。
「ふ、る、や〜〜〜〜っ」
毛を逆立てて古谷の体を突っぱねる一也の体を繋ぎ止めて言う。
「あいつに告白されて嬉しいとか思う前に、驚いて困ったとか思った。それは同じだけどな、お前に言われた時と」
「――――」
突っぱねて古谷を睨みつけながらも、古谷の言葉を聞く一也に、古谷は答える。
「でも、俺の中で一也の立場は全然違う。そう思ってるのに何で分からないんだろうって愚痴ったよさっき」
情けない、今では自分勝手だと思う、その心境を告白する古谷。
「そうしたら、お前言葉足んねぇんだよって河原に言われて、幸乃さんにも一也の気持ち考えろって説教された」
苦笑しながらそばで喋る古谷の言葉に気が抜けて、一也の腕から力が抜ける。
お互い抱きしめ抱きしめられる、そんな自分たちの状態を自覚し一也の目が潤む。
「あのな。……俺が振られてからそんなに長い間落ち込まなかったのも、お前のおかげだと思うし。……まあそれどころじゃなかったのもあるけどさ」
笑って、古谷は腕の中の一也に言う。
「あの時優しくしてくれたのは、嬉しかった」
正直に一也に自分の心を伝える。
「お前といると単純に居心地いいし。……今じゃ、お前の言葉とか行動だけじゃ、気すまなくなってんだよ」
「……抱かれんのはやだよ」
口を尖らせて言う一也に苦笑して、彼の額に優しく口付ける。
「……ま、それは気長に取り組むって事でいいから」
そこで切れた言葉に、顔を上げる一也。彼の目は、次の言葉への期待にきらめく。
「…………」
きらめきに惑う古谷。
次の言葉を待つ一也に、迷いながらも告げる。
「……抱けよ」
「――いいの?」
彼の目つきと問いに、古谷は溜息をつくしかなくなる。
「お前無理だしな。……譲歩できるんだったら、した方がいいんだろ?」
「……古谷」
続けられた感謝の言葉は、二人の唇の間に消える。
伏せられる古谷の目。
目を軽く伏せた一也は、自分の唇を軽く、躊躇うように触れさせる。
「……一也」
古谷は一也を抱き寄せた腕を動かし、首筋をごく軽い力で押して一也を呼ぶ。
それに気付いてわき上がった熱情に流されて、一也はそのまま貪るように口付ける。
古谷の背が、ソファに押しつけられる。
お互い切れ切れになる息に、苦しくなる呼吸に構わずに、二人は今共有する感覚を貪りあう。
一也の指が、古谷の胸元に延びる。
シャツのボタンが一つ一つ外されていく。
首元に寄せられる唇。吸われ舐められ、それに古谷は身を強ばらせて一也の腕を掴む。
しかしそれが古谷の癖のような物だと分かっている一也は、躊躇わずに開いたシャツの胸元に手を差し入れる。
胸元から体の線を辿り、胸の突起に指先が触れる。軽く立ち上がったそこを摘んで軽く捻る。そしてもう一方の乳首を舌の先で舐め上げながら、指の腹で胸板の上で捏ねる。
唇で輪郭を何度もなぞり、唇で挟んで強めに吸う。
「……っふ、……っ」
息と共に声を漏らしかける古谷の胸の突起に、軽く歯を立てながら舌で舐る。そして上目使いで見上げて笑う一也に、古谷は眉を寄せる。
彼の行為が、会えない間、いけないと思いながらも思い返してしまっていた自分の行動に重なるのに気付く。
「――気持ちいい?」
表情を見て口にされた質問に、眉を寄せて一也を睨みつける古谷。しかし濡れた目に一也は、その大きい目を細めて笑う。
それに眉間の皺を深める古谷の上を、のび上がって移動して、頬に口付ける。
「……本当、可愛い」
耳に舌と唇で、胸元に手のひらと指で愛撫を加えて、古谷が抗議しようとするのを封じる。
怒りも快感に流され、古谷は息と体を熱くさせていく。
そして手が少しずつ腰骨の方に移動し、ジーンズの合わせ目に置かれた時、
「――待て」
眉を寄せながらも古谷が口にした言葉に、制止させられる行為。それに不満げな顔を一也は見せる。
俺が意地悪したからって今更そんなトコまで再現しないでよ――そうあからさまに描いてある顔に、古谷は熱いままの息で溜息をつく。
「違うって。……風呂入ってくるから、待ってろ」
一也はそれに一瞬驚いた顔を見せて、そして苦笑する。古谷の上から退きながら、言う。
「……俺、汗なんて気にしないけど?」
「……分かってんだろ」
そんな一也の言葉にそう言って、古谷の方から一也に口付ける。それに一也が袖を引き、そのキスも長くなる。
「――一也」
肩を軽く押すのに、離される唇と手。
「分かってるよ。……嬉しくて、つい、さ」
ありがと、ともう1回軽く口付けて、ソファに背を預ける。
一也は大きな溜息をついて天井を仰ぎ見て、そして両手で目元を隠す。立ち上がった古谷が言う。
「先ベッド行っとけよ」
「うん」
返された一言に、意味分かってんのかと疑いながらも古谷はドアに向かう。
そしてドアノブに手をかけ、捻った時。
「……おあずけは、短めにお願いね」
一也は溜息と共に呟く。
辛そうな声音に、古谷は笑いを堪え、ドアを通り抜けながら答える。
「了解」
ドアを後ろ手で閉め、手を握り締めて風呂場へ向かった。
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