■□■ 2 □■□
山本は家族というものに縁の薄い男だった。幼くして両親と死に別れ、それからは祖母と二人で暮らしていた。しかし祖母も高齢であり、あまり身体が強くないことからも、山本は早く一人前になろうと、いつしか板前を志すようになっていた。腕を磨いて独立し、世界に一軒、自分の店を持ち、自分の家族を作って、祖母を安心させてやろうと。
義務教育の終了と共に包丁の道に入ることを決めた山本であったが、彼の夢は叶わなかった。孫の自立を見ることなく、祖母は風邪をこじらせてあっけなく世を去ったのだ。そして山本は天涯孤独の身の上となった。いつかはそうなるかもしれないと覚悟してはいたものの、それはまだまだ、10年は先だと思っていたのに。
呆然とする山本を支えたのは、当時彼の恋人であった3歳年上の彼女だった。実はこのときすでに山本の子供を身ごもっていた彼女のおかげで、山本はどうにか立ち直ることができたのである。何しろ春には父親になるのだ、泣いてばかりではいられない。曾孫の誕生を心待ちにしていた祖母のためにも、自分がしっかりしなくては!
自分を奮い立たせた山本は、学校を卒業すると同時に働き始めた。幸い遺産として家だけはあったので、住むところには不自由しない。生まれ育った実家で、今や事実上の妻となった彼女と暮らし始めた。しかしたった一つだけ誤算であったのは、法律上15歳の男は、まだ結婚できないということだった。
初めてそれを知ったとき、山本の受けた衝撃はソ連崩壊よりも激しいものだった。義務教育は15歳で終了し、女は16歳で結婚できるのだから、男は当然それよりさきに結婚できるのだと何故か思い込んでいたのだ。中学卒業と同時に婚姻届を取りに出かけた山本に、心底気の毒そうに市役所の窓口のおばちゃんは教えてくれた。大喜びでやってきた山本が、あまりの衝撃に手にしていたボールペンをへし折っても、駄目なものは駄目なのである。窓口のおばちゃんは3年経ったらまたきなさい、と衝撃に打ちひしがれる山本に優しく声をかけてくれたのだった。
とぼとぼと家に帰った山本を、妻は大きなおなかを抱えて笑い飛ばしてくれた。そんなことも知らなかったの、まぁ別にいんじゃない、あと3年まつだけじゃん、と。底抜けに明るい妻の言葉は山本を慰めてくれた。ただでさえ、二人の結婚には障害があったのだから。
妻は両親と仲が良くなかった。独善的で支配的、と彼女の評する両親は娘の自由な気性を好ましく思っておらず、小さいころから諍いが絶えなかったらしい。出来るだけ早く親のくびきから脱しようとした結果、彼女は実家から遠く離れた学校を選んだ。それが山本の住む街であり、二人は出会い、恋に落ちた。お互いに燃え上がりやすい性質だったためか、単にものすごく気が合っただけか、ともかく二人は日本人にはありえないくらいの情熱的な恋に落ちた。しかも親が反対しているとなればロミオとジュリエット効果でその情熱はいや増す。しかし未成年の婚姻には親の承諾がいるため、山本の年齢がいくつであろうが、もともと入籍は無理だったのだ。
できれば家族とは仲良くしたい山本であったが、妻は両親と絶縁し、ほぼ駆け落ち状態で山本と暮らし始めた。小さいころから一日も早く自分の家族がほしかった山本は、初めて消えた孤独感に、益々妻を恋しがるようになった。
その妻は、四月の終わりに無事に元気な男の子を出産した。といっても全てが順調であったわけではなく、帝王切開での出産だった。
山本の子供はそれは元気な赤ん坊で、母親のおなかの中をぐるぐるとよく動いた。逆子になったりもとの位置に戻ったりと、親と医者をはらはらさせ、その結果身体にへその緒が巻きついてしまったのだ。このままでは産道を通ることが出来ない。そう医者が判断を下し、息子は誕生日が事前予約で決まることになったのである。
幸い、手術は問題なく終了し、母子共に元気な姿を山本に拝ませてくれた。予定日より早くの出産であったにもかかわらず、通常よりも大きく育った息子はふやけて瞼もパンパンに腫れていたが、感動のあまり泣きそうになるほど可愛かった。手術中に目を覚ました挙句、医者の言葉に明確な返答をして周囲を驚愕させた妻は、あたし酒飲みだからなーと笑い、年下の夫が泣き出しそうになるのを楽しげに見守っていた。
息子は武と名付けられた。何しろ帝王切開なだけに入院が必要となったため、二人が山本の家に戻るのには時間がかかった。その間山本は忙しい仕事の合間を縫って、毎日病院へと通った。時間はまちまちだが、毎日カスミソウの花束を持ってお見舞いにやって来る年若い夫の話で看護婦達は持ちきりだった。抱えきれないほどのカスミソウの花束を持ってプロポーズされるのが夢、とその昔妻が言ったことを覚えており、その花を選んだのは必然だった。彼は妻を喜ばせたかった。山本は妻が大好きであり、今やもう一人増えた家族が、とてもとても大好きだったからだ。
早く一人前になりたくて、早く自分の店を持ちたくて、早く家族に楽をさせてやりたくて、山本は毎日16時間働いた。休日なんてものは月に一度。毎日毎日一生懸命働き、沢山稼いで家に戻った。それでもたまの休みには息子をプロ野球の観戦に連れて行き、妻のために料理の腕をふるった。
底抜けに明るい妻は山本があまり家にいなくても、寂しがる素振りを見せようとはせず、いつでも疲れた山本を楽しませてくれた。あるときなど、疲れきって帰宅したまま玄関で寝こけてしまった山本は、朝になって玄関で毛布を被って寝ている自分を発見した。よろよろと洗面所に向かうと、鏡の中の自分は何故か額に味のりをはっつけているではないか。妻の仕業である。夜半に玄関で爆睡する夫を見つけ、毛布と枕を持ってくるついでに、額に味のりを乗せた姿を写真に取り、今あんたが死んだらこれが遺影だから、と楽しげに笑ったのだった。
二人は山本が18歳になると即入籍した。妻はすでに21歳。親の承諾は要らない。山本のほうは彼の後見人である親方に証人になってもらうことで解決した。結婚式はまだだけれど、武が10歳になるまでに盛大な式を挙げようと約束した。そのためにも山本は猛然と働き、更には妻もパートで働き始めた。
実際のところ、親子三人がつつましく生きる程度には山本の稼ぎはあった。何しろ一日16時間労働で、休みも返上で働いているのだから。しかし妻に言わせると、自分の結婚式代くらい自分も出す、ということらしい。二人で出し合えばよりゴージャスな式ができるじゃない、と鼻息も荒く詰め寄られては、夫が反論できる余地はない。結婚式は女のものなのだから。
しかし本当のところは少しでも多く稼いでおいて、武の将来のためや、自分たちの老後のためにと考えていたのだろう。何より活動的な性格であったため、家で家事をこなすだけというのは性に合わなかったのか。ともあれ、年上の恋女房の行動を、山本は楽しげに見守っていた。
それが崩壊したのはわずか2年後のこと。山本は20歳、武は5歳の冬だった。
いつもどおり息子を保育園に預けてパートに出ていた妻は、不慮の事故で帰らぬ人となった。仕事を終えて息子を迎えにいくその途中で、交通事故にあったのだ。
基本的にボールとバットさえ与えておけばいつでもご機嫌の武は、いつもの時間になっても母親が迎えにこないことに気付かなかったようだ。むしろ保育園の先生達のほうが不審に思ったことだろう。そのころにはすでに妻は搬送された病院で死亡が確認されていた。
妻のパート先の友人から連絡を受けた山本は、仕事場を飛び出した。コートも財布も持たずに駆け出した山本を、兄弟子が自転車で追いかけてきてくれたほどだ。とにかくタクシーで病院に乗り付けた山本だが、待っていたのは厳しい現実で、霊安室に置かれた妻の遺体は、事故のせいで正視に耐えうるものではなかった。
それからの記憶は曖昧で、山本は気付くと自宅で息子の武を寝かしつけていた。妻の職場の友人が預かってくれていた武は、まだ何も知らずに眠っている。友人曰く、子供は敏感なもので、何かを感じ取ったのか、眠くなっても押し黙って絶対に布団に入ろうとはしなかった。そんな話を聞いた記憶があるものの、どうやって武を家まで連れてきたのかも定かでなく、自分の精神状態がかなり追い詰められたものであることを山本は自覚した。それでも彼にはやらねばならないことが山ほどある。妻の葬儀を手配して、友人達にそのことを知らせて、心配してくれた親方や兄弟子にも事情を説明して、そうだご両親に連絡しなくては。
衝撃のあまり感情がついてきていないことを自覚しつつ、山本は義務を消化しにかかった。周囲の人間は彼をとても心配してくれたし、親切にしてくれたが、全てが山本に優しかったわけではない。田舎から駆けつけた妻の両親は激怒し、娘を返せと山本を詰ったのだ。
妻の両親の怒りは最もだと山本は思う。駆け落ち同然で大事な娘を奪われ、生まれた孫にも一度として会わせてもらえず、ようやく再会できたと思ったら娘は死んでいたとなれば、激怒しないはずがないだろう。しかも妻はまだ23歳。花も盛りの、人生で一番楽しい時期であったはず。それを若すぎる夫と息子の世話に追われ、結婚しても主婦にもなれず働かされていた、と受け取ったようだ。
妻は山本も息子もとても愛していて、働き者で社交的で、毎日をとても楽しんでいた、と反論できるほど山本の精神状態はよくなかった。思えば今の生活に何か不満はないか、辛くはないかと訊いてみたことはなく、彼女が幸せだったという確証はないのだから。詰られ、責められ、山本は判断力を削がれていった。どれほど理不尽なことを言われても、相手が正しいような気がしてきてしまうのだ。山本がもっとしっかりしていれば、妻は働きに出る必要も無く、事故に会うことも無かった。ならばそれは山本のせいなのではないだろうか。
さすがに武の親権について言われたときは反抗したものの、お前に孫を任せていてはいつまた殺されるかわかったものじゃない、という激昂の言葉は鋭い刃物となって山本の胸を抉った。妻の死が山本のせいであるのなら、それはひいては山本が殺したことになるだろう。思えば山本は家族に縁の薄い人間だった。父もなく母もなく、祖母とも死に別れ、今また妻も事故で失った。彼らが失われたのは、山本がそういう星の元に生まれたせいであって、山本の家族にさえならなければ、もっと長く幸せに生きられたのではないだろうか。
冷静に考えれば何の根拠もない、迷信的な考えに過ぎないのだが、過剰なストレスで正常な判断力を失った山本には、それは自明の理であるように思えてならなかった。もしそれが本当であるとしたら、このまま武を傍に置いていては、彼までも早世させることになるのではないか。息子のことを思うなら、妻の両親が言うように、手放したほうがいいのではないか。
追い詰められた山本の思考回路は危険な方向に傾いたが、決断を下せるほどの勇気も同時に失っていた。たとえそれがエゴであっても、山本は武を手放すことができない。世界でたった一人の家族。どうか傍にいてほしい。
決断を下すことの出来ない山本は、悩んだ末に当の本人に訊いてみることにした。
病院へ行って以来、様子のおかしい父親に呼ばれ、まだ小さな武はちょこんと正座して彼を見上げた。普段はちび、と息子を呼ぶ父親が、ちゃんと名前を呼んだことに何かを感じ取ったのかもしれない。
自宅の居間で向かい合った親子は、しばらく無言の時間を過ごした。散々悩んだ挙句、山本はどう説明したらいいのかわからず、噛んで含めるように幼い息子に母の死と祖父母の提案を告げた。まだ五歳の武はくちびるを尖らせてじっと聞いていたが、父親を見上げる目にある真っ直ぐな輝きは、母親にそっくりの強いものだった。
おじーちゃんの家に行けば、いつもおばーちゃんがいてくれるから保育園にも行かなくてすむし、田舎だから遊ぶ場所は一杯あってとても綺麗なところだし、有名な少年野球のチームもあるぞ、と説明する山本に、息子は決然と言った。
「オレ、とーちゃんといる」
いっしょがいい、と言いきった武は、ぎゅっと山本に抱きついた。まだ小さな身体の高い体温が縋りつくのを、山本は受け止めた。力任せに抱きつく息子を抱き締めながら、縋っているのは自分のほうかもしれないと、熱くなる目頭の後ろで感じていた。
あとになって聞いた話だが、そのとき武は『ここで頷いてしまったら、二度と親父に会えない気がした』のだそうだ。結局、子供というのは大人が思っている以上に敏感で、賢いものなのだろう。息子の決断は山本に力を与え、彼は妻の両親の言い分を拒否することができたのである。
1 3
>Back