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転機が訪れたのは息子が13になった秋のこと。若いながらも職人歴は13年を数える腕のいい板前になっていた山本の勤める店に、とある人物がやってきた。
その日、不吉とも言える黒塗りの高級車が店の前に停車した。広いとはいえぬ道幅の通りであるからかなり迷惑なのだが、車から降りてきた黒尽くめの男を見て文句を言える人間はいなかった。男はカラリと音をたてて引き戸を開けると、えらっしゃいという山本の声を遮るように手を上げた。サングラスで目は隠されているが、幾多の死線を生き抜いてきた人間であろうとすぐ分かる大柄な男は、奥から出てきた大将に目を留めた。曰く、暫くのあいだ店を貸し切りにして欲しい、と。
居丈高でもなく高圧的でもなく、丁寧で物静かな男の言葉に大将は面食らったようだ。一瞬、カウンター内の山本を振り返ったが、すぐに男に向き直ってそれは困ると口にした。何しろもうすぐお昼の稼ぎ時だ。その時間に店を閉めては商売上がったりだ、と。しかし男は動じなかった。顔の細胞を一つとして動かすことなく、黒いスーツの上着に手を入れると、ドスでも取り出すのではないかと身構える大将に、ポンと100万円の束を投げて寄越したのだ。貸し切りの代金、ということらしい。
驚いた大将が反応できないでいるあいだに、再び表戸がカラリと音をたてた。カウンターの中から事の推移を見守っていた山本は、ドデカい図体を屈めて恭しくお辞儀をする男と、表の光を背中に受けて影となった新たな人物を見た。目を眇めた山本が見たのは、やはり黒服を纏った背の高い若い男で、人形めいた印象のある、冷淡なほど整った容貌の青年だった。
新たな闖入者に困惑したままの大将と、それを無視してカウンターの席についた男。深々と一礼していた黒服の男は足音も立てずに店の外に出ると、カラリと音をたてて表戸を閉めた。その音に呪縛から解放されたように、大将は招かれざる客を振り返った。男も大将に視線を向ける。その一瞬に二人のあいだでどんな火花が散ったのか山本にはわからないが、大将は小さく舌打ちをすると、客だと山本に告げて、不服そうな表情のまま奥へと戻って行った。
「……えーと、いらっしゃい。何にします?」
気を取り直して威勢良く問いかけた山本を、カウンターに着いた男は無表情に見上げた。鋭く切れ上がった眦の、凍てついた闇を思わせる目が印象的な男だ。こりゃまたえれーべっぴんさんがきたなぁと、のんきに山本は考えた。
山本が出したおしぼりで手を拭きながら、べっぴんさんは言った。
「かんぱち」
「ヘイ、かんぱち一丁!」
「十貫」
「……十貫!」
いきなり有り得ない注文をした男は、山本の反応を気にするでもなく、気だるげな様子で店内を一瞥した。何だか面白いヤツがきたもんだと、山本は内心で面白がっている。講談か落語にでも出てきそうなあの度胸のある大将を、視線一つで負かすとは恐るべき男である。にもかかわらず、雰囲気はどこか虚脱的で、退屈で眠たげな猛獣を思わせた。
「ヘイッ、かんぱちお待ち!」
下駄つきの木の台に乗せて出された寿司を、男は無感動に眺めた。優雅な動作で箸を割り、ずらりと並んだかんぱちを右端から取り上げた。
見事な箸使いで寿司を口に運んだ男がふいに眉をひそめた。ほとんど表情が無い男であるから余計にそれが目立ち、山本は急に不安に駆られる。何だろう、何かまずかっただろうか。しかしネタは今日仕入れたばかりの新鮮なもので、大将の親父さんの代から付き合いのある目利きの仕入れ業者が選んだもの。シャリも大将こだわりの逸品だ。わさびも一つ一つ丹念に選別したもので、さび巻きにもできる一級品。まさかわさびは食べられないなどとあの顔で言い出すのではあるまいか。もしそうなら爆笑を飲み込む事が果たしてできるだろうか。
段々変な方向に心配が逸れて行った山本だが、彼の懸念を他所に、男は何事も無かったかのように二つ目の寿司を口に運んだ。どうやら味に問題があったわけではなさそうである。
黙々とかんぱちを食べていた男は、飯粒一つ残さず平らげると、カウンターの中でべっぴんさんの睫毛の数を数えていた山本を振り仰いだ。
「ひらめのえんがわ」
「ヘイ、ひらめのえんがわ!」
「十貫」
「十貫!」
期待通りの注文ににこにこしながら寿司を握る山本を、男はじっと見詰めていた。山本以外の人間ならば、脂汗を噴き出して30秒で逃げ出す視線であったろう。しかし悪魔的な絶対零度の視線も、そもそも寿司を握る事が大好きな山本のご機嫌を崩す事は出来なかった。流麗な動作でシャリとネタを握り、次々と芸術品のような寿司を並べていく。鼻歌でも歌いだしそうな山本は、軽やかな動作で客の前に木製の台を置いた。
「ひらめのえんがわ、お待ちっ!」
「………………」
頬杖をついて一連の動作を眺めていた客は、無言で寿司を口に運ぶ。そして再び、深刻とも言える表情を浮かべた。しかし今度はもう山本は気にしない。多分それが癖なんだろうくらいに考え、客のためにあがりを淹れた。
「ねぇ」
ひっそりとした、けれど絶対的な支配力を持った声に、山本は顔を上げた。目の前には例の客。男は今、真っ直ぐに山本を見つめている。
「あいよ」
ワンテンポ遅れて返事をした山本に、物憂げに男は問いかけた。
「君、ハンバーグは作れる?」
一瞬、山本は自分が何を言われたのかわからなかった。どこか耳慣れたフレーズ。ハンバーグ、ハンバーグ、ハンバーグ……。
頭の中で反芻していた言葉が、ひき肉と玉葱とパン粉と卵を練り固めて焼いたお子様ランチの定番メニューのイメージに結びつくと、山本は堪えきれずに大きな笑い声を上げていた。
「ハハハッ、そら家ではうちのちびのために作るけど、ここは寿司屋だかんな」
豪快に笑い飛ばした山本の言葉に気分を害したでもなく、ふうんと呟いた男は興味を無くしたように食事を再開したのだった。
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