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数日後のことだった。いつも通り出勤してきた山本に、苦りきった表情の大将が、
「山本、出稼ぎ行ってこい」
と告げたのは。
大将の言う『出稼ぎ』とは、都会に行って働いて仕送りしろ、という意味ではもちろんない。宴会の予約が入って忙しい他店に助っ人に行くときなどに使われる言葉だ。平日には珍しいが、大安吉日ともなれば結婚式などの祝い事もあるわけで、山本はてっきり何かの慶弔事があったのかと思った。しかしそれは違った。苦虫をまとめて千匹は噛み潰した顔の大将が何か言う前に、カラリと音を立てて表戸が開いた。振り返れば、そこにはいつぞや見た黒尽くめの男が立っているではないか。
「え? あれ?」
よく事態の飲み込めない山本は、黒服の男に腕を掴まれ、店の前の高級車に乗せられてしまった。わけがわからない山本に、店の奥からあわてて出てきた女将さんが、今日はこっちは大丈夫だからしっかりやんなさいね、と言われたからには、これが『出稼ぎ』なのだろう。
わけがわからないまでも後部座席の座り心地のよさに感動している危機感欠落型寿司職人を、黒服の運転手がルームミラー越しにチラリと見た。先日大将と話したときよりも鷹揚な口調の男は、ある場所でハンバーグを作るよう山本に要求した。
「ハンバーグ?」
きょとんとする山本の脳裏に、かんぱちとひらめのえんがわのべっぴんさんが過ぎる。まさか店では作れないと言ったから、どこか別の場所で作れということなのだろうか。金持ちの考えることはわからない。
思わず一人で忍び笑いをもらす山本に、運転手はやはり表情一つ変えなかった。山本の笑いが収まるのを待ち、茶色の封筒を肩越しに差し出した。何かと思って受け取ると、中には一万円の紙幣が10枚、綺麗に方向を揃えて入れられているではないか。
以外にも安全運転でどこかへ向かう運転手曰く、それで材料を揃えろということらしい。これから向かう先には調理器具以外は一切そろっていない。肉や卵どころか、塩や胡椒さえも全てそれでそろえるように、とのことだ。作る分量は二人分。残りは出張費に受け取るといい、と。
肉や卵はともかく、塩さえないとはどんなとこだ、と驚く山本は、まずスーパーに案内された。そこは山本も知る高級食材のスーパーで、庶民にとっては憧れの店だった。そこで好きなように買い物をしていいとは、料理人ならば興奮せずにはおれないだろう。
ともあれさすがに10万円は多すぎて使いきれなかったが、何とか買い物を終えると、山本は再び車上の人となった。そして連れて行かれたのは、近年都心にできたばかりの分譲マンションで、世界的に有名な高級ホテルが経営する最高級のサービスがついたフラットだった。
大理石の床に足跡がつくのが申し訳なく思ってしまう庶民代表山本は、おっかなびっくり玄関フロアを横切ってエレベーターに乗った。高級料亭には仕事で何度も入ったことがあるが、コンシェルジュに挨拶を受けるような住宅に足を踏み入れたのは初めてだった。どこまでも隙のない運転手はさりげなく周囲に気を配り、不自然さの無いことを確認してから山本を目的地へと案内した。
山本が通されたのは最上階の一室だった。小さなレストラン並みの広さと設備のあるキッチンは、見事に使われた形跡がない。それだけ綺麗に掃除されているのかとも思ったが、戸棚の中のフライパンや鍋にはビニールがかかったままで、本当に一度も使われていないらしいことが見て取れた。
呆れかえる山本の背後で腕時計を見た運転手は、のちほど主が戻る、それまでに準備を終えておけと言い残して去ってしまった。取り残された山本は途方に暮れた。まだ昼にもなっていないこの時刻、呆れるほど金のかかったキッチンにたった一人で立っていると、何をやってんだオレはという気になってくる。秋の陽射しが射している広大なリビングはのどかなもので、まるで現実感がない。しかしこれが実際に起こっていることだという証拠に、手に提げたビニール袋が指に食い込んで痛かった。
しばしの自失から我に返ると、山本は袖をまくってまずはキッチンを清めることからとりかかった。どれほど綺麗に見えても、一度も使っていないキッチンが完璧に衛生的とは思えない。調理器具もビニールをはがし、シールをはがし、綺麗に洗って初めて使うことが出来る。まずは料理の準備の準備からだ。
知らないおうちでせっせと掃除に励むこと一時間、更には料理の下ごしらえに一時間、山本は懸命に働いた。米を買ってきたはいいが、米びつがなくて困ったり、初めて買ったあこがれの高級バージンオリーブオイルの注意書きを熱心に読んでいたら、すっかり時間がかかってしまった。家で武にハンバーグを作ってやるときは、この半分もかからないのに。
これまたスーパーで買ってきた深紅のエプロン姿で山本が仕事に勤しんでいると、どこかで扉の開くかすかな音が聞こえてきた。何しろ呆れるほどに広い家であるから、玄関の扉が開いてもほとんど音が聞こえてこない。スープをかき混ぜる手を止め、空耳だろうかと突っ立っている山本の視線の先に、一人の男が現れた。すらりと背の高い、いささか小さすぎるほど頭部の小さな、描いたように整った顔立ちの美貌の男。かんぱちとひらめのえんがわのあの男だ。
「よぉ!」
気さくに手を上げた山本を、男はほとんど面倒くさそうに一瞥する。いきなり人を連れ込んだにしては無礼な態度だが、山本は気にしなかった。
「あとは焼くだけだけど、どうする?」
時刻は午後の13時過ぎ。昼食には丁度よい時刻だ。
男は物憂げに首を回し、光沢のあるチャコールグレーのネクタイに片手をかけた。
「着替える」
玲瓏たる声は万人を怯えさせる力を有していたが、日本屈指の鈍感男には効かなかった。
「そっか。じゃ、作り始めとくな」
にかっと白い歯を見せて山本が笑いかけるのを見もせずに、男はどこか別の部屋に消えた。
食事はハンバーグと野菜どっちゃりのコンソメスープ、そしてつやつやの白いご飯だった。ハンバーグに目玉焼きを乗せるかと問うと、男は不思議そうに山本を見た。どうやら考えたことも無かったらしい。
「デミグラソースのかかった目玉焼きって美味いんだぜ」
笑いながら山本が目玉焼きを乗せてやると、男は黙って箸を取った。白身とハンバーグを口に入れると、男は眉を顰めた。どうやら美味いものを口にしたときの癖であるようだ。そうとわかれば可愛いものだ。目の前の酷薄なまでに整った容貌の男相手に可愛いなどと思うのは、世界広しと言えど山本くらいなものだが、確かに彼はそう思った。
デザートには杏入りの中華風白玉団子。温かな甘い白湯に白胡麻と一緒に浮かべた白玉を、男は黙ってレンゲですくって食べた。
「お粗末さまでした」
何も言わないが綺麗に全部平らげた男に、笑いながら山本は食後の緑茶を出してやった。それからキッチンに戻り、残りの洗い物を片付ける。
「このスープさ、残りは明日にでもホワイトシチューの素を入れるといいぜ。簡単シチューの出来上がり、な」
素は買ってあるから、それとも今オレが作ろうか、と問いかける山本に、何故か男はじっと視線を注いでいる。湯飲みを傾けながら注がれる射るような眼差しに山本は内心で首を傾げた。感情の読み取れない黒い目は、何を思っているのだろう。わけがわからぬまま洗い物を終えた山本はあることを思い出して声を上げた。
「そーだそーだ、これ、忘れてた!」
エプロンで手を拭いながらやって来た山本は、尻のポケットに突っ込んであった茶色の封筒を取り出した。男は無言でそれを受け取ったが、視線は山本に固定されたままである。見上げる男に困ったように眉根を寄せて笑う独特の表情を浮かべ、山本は言った。
「これ、材料費のお釣りな。出張費は珍しい買い物させてくれたってことで」
めくるめく高級食材の数々をカートに放り込む夢が叶っただけで、山本は大満足である。ましてや前回この男が来たとき、山本には臨時のボーナスが出た。誇り高い大将は、適正な代金と山本のボーナスだけを100万円の束から引き抜くと、あとはあっさり慈善団体に寄付してしまった。特に何をしたわけでもない山本もボーナスを辞退しようとしたのだが、本来はオレが相手しなきゃいけねーのに、不貞腐れてお前に迷惑かけちまったから、と無理矢理受け取らされてしまったのだ。息子に新しいグローブでも買ってやれと言われては意地を張って拒否するわけにもいくまい。そのボーナスもまだまだあるのだし、これ以上の臨時収入は受け取る理由が無かった。
黙って山本を見上げていた男は、無言のまま立ち上がった。手にしていた封筒をテーブルに置く。硬貨がテーブルの表面に当たって硬い音を立てた。
封筒の行く末を見守っていた山本は、テーブルに置かれた湯飲みを取ろうと手を伸ばした。お代わりを淹れるか、もう片付けてもいいか。そう問いかけようと顔を上げた山本の腕を、突然男が掴んだ。
「へ?」
はしっと掴まれた手首を見、次いで間近にある男の顔を見た山本は、しなやかに伸びる男の手を見た。いっそ優雅とさえ呼べる動作で男は山本の胸倉を掴むと、そのままどこかへ引きずっていこうとする。
「お、おい、アンタちょっと……」
待てよ、という間も無く、男は胸倉を掴んだまま山本を別の部屋に引きずり込むと、力任せに突き飛ばした。
たたらを踏んでよろめいた山本は、何かに躓いてつんのめった。顔面から倒れこんだ弾力のあるものがベッドだと気付くのに一瞬の空白が必要で、驚いた山本は慌てて背後を振り返った。
「へ? え?」
面食らう山本の視線の先には例の男。無造作にドアノブを掴み、急速に狭まる外界との接触口を閉じてしまう。ドアを閉じながらもひとときたりとも山本から目を離さなかった男は、無表情の中にゆっくりとした激情をくすぶらせ始めていた。
そして山本は、当日のうちに家に帰ることはなかった。
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