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子供には口が裂けても言えない事情で遅くなった山本の脳内は、お花畑のピンクカラーに染まっていた。最上級のウニよりもトロトロで、カナダ産のサーモンよりもピンク色。もし彼の頭蓋骨をはがして中身を確かめた者がいたならば、そんな光景を目の当たりにしたことだろう。わかりやすく言えば山本は、ハンバーグを作ってやった謎の男に、美味しくいただかれてしまったのである。
脳みそが蟻さんも跨いで通る高糖度のハチミツで満たされたメロメロの山本は、別れ際になって初めて男の名を知った。雲雀、と短く名乗った男は、黒い携帯電話を投げて寄越した。くれるということらしい。
携帯電話などという電子機器とは無縁だった山本は、家に帰るなり四苦八苦して中身を確かめた。ほとんどまっさらな状態のメモリーには一つだけ電話番号が登録されていた。どうやらそれが雲雀の番号であるらしい。いかにも孤高である彼の個人的な番号を知っていることがなんとも言えず嬉しくて、山本は一人で不気味にへらへらと笑った。
それ以来、ときどき二人は会うようになった。雲雀が寿司を食べに店に来たり、山本が家に招かれたり。面白いことに雲雀の案内する家はしょっちゅう違う場所に変わっていて、山本は首を傾げた。都内にこれほど豪勢な住居をいくつ持っているなど尋常ではないし、たびたび住み家を変えるのもおかしな話だ。もちろん雲雀はその理由を説明したりしない。何となく敵の多そうなヤツだとは思っていたので、改めて問うまでもなかった。
一つ問題なのは、雲雀が店にやってくると、必ず貸し切りになってしまうことだ。その都度高額なお代が支払われるが、大将は全く納得していないようだった。それはそうだろう、どこからどう見ても堅気ではない客が、毎回他の客を追い払っては面白いはずがない。群れは嫌いだと語る雲雀の説明もひとを莫迦にしたもので、納得させようなどという気は更々無いのだろう。毎回黒塗りの高級車が店を占領することに業を煮やした大将が、包丁片手に雲雀とガチンコ一本勝負に走る前に、山本がこっそり雲雀に頼み込んだ。
その筋の人間御用達の店と思われると、何かとやっかいだから、店には来ないようにしてくれないか、と。
「そんかーし、飯くらいいくらでも個人的に作ってやっからさ。怒んなよな?」
ふんわりボリュームのある頭に手を置いて笑う山本を、雲雀はじっと見据える。普通の人間ならば呼吸困難を起こして卒倒してもおかしくない眼光も、山本には通じない。寿司を食べに来ているのではなく自分に会いに来ているのだと思い込むなんて随分思い上がったものじゃないか、と言いだしてもおかしくない雲雀だが、彼は山本の手を払うとわかったと短く言った。それはつまり、山本の思い込みが必ずしも間違いではなく、雲雀もそれでいいと認めたということだ。こうして二人の『オツキアイ』は始まった。
雲雀は謎の男だった。堅気でないことは一目でわかるが、実際のところ何をしているのか検討もつかず、本人も教えてくれようなどという気は無いようだった。おそらくろくな職業ではないだろうが、山本は気にしなかった。人それぞれ事情ってものがあるし、職業選択の自由は憲法でも認められている。それに、雲雀が雲雀でありさえすれば、山本はそれでいいのだから。
職業に貴賎はない、とのたまう山本ははたしてその言葉の意味をちゃんと理解しているのか怪しいものだが、とにかく二人の関係は続いた。
あるときから何故だか毎日やたらに楽しそうな山本の変化に息子は気付いていたようだが、何しろよく似た親子なので気にも留めなかったようだ。暗く沈んでいるならともかく、明るく楽しげであるなら何の問題があろう、というところか。
もちろんこのとき山本は、彼女どころか彼氏ができたことを息子には言っていない。世間体や息子の精神状態を気にしてではなく、ただ単に気恥ずかしかったからだ。ましてや雲雀はいつも多忙で、会えないことも多い相手だった。何かと忙しそうで、ひとたび『仕事』が入ってしまうと、何週間も連絡さえ取れないこともあった。そんな多忙な雲雀とは予定が合わないことも多く、もどかしい思いが募る山本である。しかし彼も大人であり、芯の通った人間であるから、寂しいからといって何もかも雲雀のために投げ打ってしまうことはなかった。
家族と仕事のことは別、と明確な一線を引いて決して譲らない山本を、雲雀はどう思っているのか。どうやら不愉快には思っていないらしく、電話口でその日は武の試合の日だからと済まなさそうに笑う山本に、文句を言うこともなかった。
むしろクールすぎるほどの雲雀に一抹の寂しさを覚えるくらいの山本は、ある夜ようやく二人きりになれたとき、雲雀を腕に抱きながら、ぼんやりとその胸のうちを口にした。
「アンタがうちに来てくれりゃ、毎日一緒にいられんのにな……」
「いいよ」
そしたら生活にも張りが出て、と呟いていた山本は、うっかり聞き逃しかけた返答に、んぐっと変な声を上げて身を起こした。
「今、何てった?」
ベッドの中、生まれたての嬰児の姿で、胸に大人しくだかっている雲雀に勢い込んで問いかける。
「いいよ」
眠そうに鼻にかかった声で気だるげに答えた雲雀は、いつもの無表情だ。確かにそのくちびるがいいよと紡ぐのを見たし聞いたのだが、尚も信じられず山本は引き締まった雲雀の肩を掴むと、
「今何て……」
「しつこい」
言葉と同時に炸裂する鈍い音。顎にクリーンヒットしたトンファーが意識を吹き飛ばしかけるのに何とか耐え、山本は鼻血を垂らしながら目を見開いた。
「ゆ、夢じゃねえ!」
転んでもまともには起き上がらない男、それが山本である。この日山本は100ccの出血と引き換えに、うっかりプロポーズに成功したと言える。
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