旧校舎……といったって幽霊屋敷みたいなボロじゃない。校舎はごく普通のコンクリート創りで、建て替えなきゃいけないような代物にはとても見えなかった。それに新しい校舎が建ったあとも、取り壊すという話は聞いたことはなかった。
 当然、こんな場所に来る子もなく、女子校だから 人目を偲んで なんてカップルも、今のあたしを除けば、多分いない。
 校舎の入り口が少し開いていた。
 入り口で待つというのが、建物の外のことなのかどうかは分からなかったけれど、あたしは迷わず中で待つことにした。人に見られないにこしたことはない。
 立ち入り禁止 と書かれた立て札を横目に見ながらあたしは静かに扉を開けて中に入った。
 中は黴臭いニオイがした。扉から漏れる光で、辛うじて奥へ伸びる廊下が見えた。扉を閉めると、あたしはしばらくそのままじっとして、暗さに目がなれるのを待った。
「やっぱり来てくれたんだ」
 廊下の奥から声がした。目を向けると、薄闇の中に人が立っている。
「なんであんなコトしたの? あんたのせいで遅刻しちゃったのよ」
 あたしは言った。
「なぁに言ってんの。続きをしてあげるって言ってノコノコやって来たのは緋奈の方でしょ」
 形の上では確かに言うとおりだった。言葉につまったあたしを尻目に、相手はフフフと笑って、
「大丈夫、もうあんなことはしないわ。ううん。もうできないのよ」
……本当に? どうして?」
「だって、緋奈にはまだ早いって分かったから。緋奈にはもっと別のものが必要なんだって――場所変えよっか。ついてきて」
……別のものって?」
 あたしは後を追いながら言った。
……今朝はどうかしてたんだから」
「朝だけじゃなくって、朝からずっと、でしょ? 私ずっと見てたんだから」
「み、見てたって、何を」
 あたしはグッと言葉につまって、「ねえ、聞いてるの? あたしは……
「ほら、こっちよ。早く」
「も、もう……
 入り口から少し離れただけで真っ暗になった。あたしは前を行く足音だけを頼りに、女の子の後をついて歩いた。
「こっちよ」
 扉が開く音がして、あたしはかるく背中を押されて部屋の中に入った。
(あれ? 後ろからついてきたはずなのに)
 椅子も机も黒板さえない空っぽの教室だった。窓のガラスは、ほとんどが割れていてそこから直接外の光がさしている。床には体育で使う白いマットが隙間なく敷きつめられていて、そこに――
……?」
 あたしはマットの上にしゃがみこむとホコリを手で払った。マットはひどく汚れていた。黄色い、丸い染みがいくつも重なり合っていて、それはまるで……
「一年三組。今は何もないけど元々は普通の教室だったの」
 後ろで、声が言った。
 あたしは振り返った。
 二重まぶたの長いまつげの下で、少しだけつりあがった大きな瞳が、あたしを見つめていた。女であるあたしにも分かる。ハッと息をのむ、ものすごい美女だった。女の子は、シャンプーのコマーシャルに出てくるような長い髪をサラッと払ってフフフと笑った。腰まである長い髪を、大きなピンクのリボンでポニーテールに束ねている。リボンは校則違反だ、とあたしは頭のすみで少し思った。
「ここの生徒じゃないわね」
 あたしは言った。女の子はセーラー服を着ていた。ちなみに学園の夏服は白のブラウスだけで、ほかの服を着ることは校則で禁止されている。他校の生徒にちがいない。
「私、玲子」
 女の子は、その名前をことさらゆっくりと言った。
「レイコって読んでね。レイって呼んじゃダメよ。あたし髪長いし白髪にはまだ早いし、ブーム過ぎてるっていってもキャラがかぶるのはキライなの」
「で、あなたは誰?」
 あたしは言った。
「ユウレイ」
 女の子はそう言うと、ニコッと笑った。

――オーケー。何だっていいわ」
 数秒の後、辛うじてあたしは言った。
「あなたの頭の中がどうなっていようと構わないし、この際、訊かないことにする」
「そう」
「あたしが訊きたいのは、朝の電車でのこと。オシリを触ったりしたのは、もう許してあげるからつべこべ言わないし、理由も聞きたくない。あたしが訊きたいのは一つだけ。一体あたしに何をしたの? 催眠術だか魔法だか知らないけど、あなた、あたしに何かしたんでしょ。とにかく、あたしが言いたいのは一つだけ。あたしを元に戻して」
「戻す? 戻すって一体何を?」
「とぼけないで」
 あたしは言った。ゆっくりと息を吸い込んで、
「その……
 言葉につまった。どうしても言えない。女の子同士っていったって、言えることと、言えないことがある。
「言わなくても分かるんでしょ。あたしをこんなんにした張本人なんだから」
 早口であたしは言った。
 女の子は黙ったままで、すずしい顔であたしを見ている。口元には相変わらずゆうぜんと笑みを浮かべていた。
「黙ってないで、何とか言いなさいよ!」
 壁に当たって響いた声が、後を引いて消えていった。クスッと声がして、あたしは女の子が笑っているのだと気づいた。
「一体何がおかしいのよ」
 首を横に振って、女の子は言った。
「授業中、緋奈ちゃんたら大事なトコばかり、一生懸命押さえてたわね。おトイレに行けたのに、ずっとパンツの中でオシッコちびってたのは――それが、あたしのせいだって、緋奈ちゃんは言うのかしら? そうじゃなくて、朝、お布団濡らしちゃったことなのかな? オネショじゃなくて、ちゃんと目が覚めていたのに、お布団の上でオシッコしちゃったことかな」
「何で、そんなことまで――
 そのとき、女の子の目がギラリと光って、ピーンと頭の中で音がした。フッと頭に霞がかかったようになって、ゆっくりと意識が薄れていく……カシャ、と頭のどこからで何かのスイッチが切り替わる音がした。
「朝の電車で催眠術なんてかけた覚えはないわ。今日一日、オシッコでパンツを汚してたのは、本当のあなた。強がって、怒鳴ってた方のあなたは、かりそめのあなた。あたしの術は、催眠術なんかじゃない。あなたをあやつるつもりなんて、まったくないわ。ただ、内に入って閉じこもってる本当のあなたを……
 薄れゆく視界のなか、女の子が余裕しゃくしゃくで笑っているのがかすかに見えた。
「本当のあなたの心を、救ってあげたいだけ。それを求めているのは、私じゃなくて、あなた……
 何も考えられなくなっていく。



 
 

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