月が山の向こうに沈もうとしている。じきに空も白むだろう。
予はずっと待っていた。ずっと、ずっと長いこと。
既に会うことは叶わないと知った今でも。
だから予は、その若き道士を待っていたのだ。
ととん、と何処からか中庭に降り立ったその若者は、驚いたように辺りを見回した。
武成王に似ず、細い。
しかしよく鍛え上げられた体は紛れもなく武人の子。
血の滴る酷い怪我を負っていたが、隙のない視線は戦場にある戦士のもの。
やはりこれは、武成王の息子なのだ。
「懐かしいな・・・」
「もう何年前になるのか…予はここで武成王と戦った事がある」
それは昨日のことのようで、霞のかかった遥かな時の彼方でもある。
武成王や聞仲がそこにいてこちらを見ているような気がした。
わかっている。
それは気のせいでしかない。
予は予の所為で彼らを喪った。
喪ったという事実を変えることはできない。
謹厳な聞仲も。豪放な武成王も。そして姜妃も、息子たちも。
「紂王・・・紂王さ?」
その道士は違う。彼はまだ、そこに在る。
予は一歩若者に向けて歩を進めた。
「・・・おまえは父親によく似ているな。黄・・・天化とかいったか・・・」
予は黄天化という人物を知らない。
昔、武成王がその腕に抱いているのを見たことがあったろうか。
それとも、殷郊や殷洪と遊んでいるのを見たことがあったろうか。
思い出せない。
けれど知っている。目の前の若者は武成王の息子。そして、殷の民だ。
知るべきことのそれが全て。
若者は何も言わずに構えをとったが、宝貝は光らない。
予は長剣をひとつ彼に放った。
「これを使え・・・」
ぱしっと高い音が若者の手の内で響く。
これが息子たちとかつて為したことであったなら。
「さぁ・・・予と戦うがよい!若き道士よ!」
そなたは、若い。
少しの間驚いたように手にした剣を見ていた彼は、にやりと予に笑いかけた。
「一本、いいさ?」
予が頷くと、慣れた手付きで新しい煙草を取り出し火を点けた。
若者はこんな顔をして煙草を吸うのか。
目を伏せて、静かに。
取り繕っているようでもない平静は、しかし同時に孤独だ。
ゆっくりと煙を吐きながら、彼は何を考えているだろう。
武成王が教えたのだろうか。
いや、誰に教わるものでもないか。
予の息子たちはどのような顔をして、ひとり立つことがあったろうか。
是非もない。
そうは思えど彼の顔から予は目を離せなかった。
黄天化は一服を終えるとその煙草を指先で弾いて捨てる。
「空が白んできたさ」
すっと鞘を払った若者は、予を見据えた。
「ほんじゃあ、行くさ紂王!」
誰かと対峙するのは、いかほどぶりだろう。
「来い!聞仲仕込みの剣技を見せてくれる!」
「それが何さっ!こっちにゃあ武成王黄飛虎の血が流れてらぁっ!」
若者は、親を誇る。
互いに踏み込み、がきっと重い手応えが腕に残る。
跳んで間を取った予の足場を黄天化は砕いた。
あの時と同じ展開だ。
「・・・・・」
もちろん彼の打撃の真髄は、武成王のような力にはない。
迅い。しなやかで鋭い動きは武成王の型とは対照的だ。
しかし、よく似ている。
予が着地する瞬間を狙った若者に、空中から一閃を浴びせる。
「ぐっ…」
予のような戦い方を、息子たちはするだろうか。
否、という答えを知りながら思う。
「絶対負けねぇさ!」
「やってみよ、武成王の子よ!」
若者は吼え、我らは剣を再び交える。鍔迫り合う彼の視線は、強い。
「このおおおおっ!!」
負けるなどとは思っていない、譲らない、目だ。
予はどのような目でこの若き道士を見ているのだろう。
我らは互いを見ていながら、同時に違うものを見ている。
息子たち、武成王。
予の視線は過去に留まったままだ。
否、目の前のこの若者こそが、予に明らかに過去を見せるのだ。
それでは若者は。
彼は何を見ているのだろう。
真っ直ぐに育ったものだと思う。
力強い目は、ただ予を倒したいと、自らの手で倒したいと、そう言っている。
父のこと、母のことを思えば予を恨んでいて当然だが、そのような感情は感じられない。
彼は予の上に過去の父母を見てはいないのだ。彼は予を見ている。
今の予を、殷を倒すつもりで見据えている。
黄天化の碧の瞳の鮮やかさは色こそ違えど武成王のものを思い起こさせる。
そして思い出せば思い出すほど、武成王のものとは違う。
懐かしい武成王の涼やかな蒼い双眸。あの時予を倒さなかった彼の眼差し。
それは力や技の問題ではない。武成王の目にはそれまでの予が幾つも映っていただろう。
彼はそれらを否定しなかった。ただ別れを告げたのだ。
それどころか別れを惜しんでくれたのだ。
予は武成王に感謝しよう。この若者を、次の世代を遺したことを。
過去ではなく、今を刻もうとする者を。
目を閉じる。
黄天化は、予を倒す。
「予の負けだ、黄天化」
剣は折れ、若者は予の胸を切り裂いた。
勝敗など戦いの前から決していたのだ。
予にはもう、戦ってまで守るものなどないのだから。
「さぁ、予の首を切って衆目の前にさらすがいい。それで殷は終わる」
それはいまの予の願い。
おそらく予は戦いの前からこれを望んでいたのだ。
予にはもう、何も残されていないのだから。
そして、遺すべき何をもないのだから。
残るべきは新しい世代。
答えは、遅かった。
「感謝するさ、紂王・・・俺っちの最後の相手になってくれてよ・・・」
それは、驚くほどの穏やかな響きだった。
剣を引く気配がする。
「あーたの首を切るのは俺っちじゃねーのさ・・・
あとはスースに・・・太公望師叔に全部任せるよ・・・」
先刻までの猛る若者に、このような静かな言葉が出せるのか。
ついさっきまで、勝利のみを見、力のみを誇っていた者に。
これはほんとうに同じ若者だろうか。
彼は、予を倒すために来たはずなのだ。殷を倒すため。周を興すために。
予の首をとらねばそれは未だ果たされぬ。
己の手でそれを果たすため、黄天化はこの地に来たのではなかったのか。
「わがまま言っちまったからなぁ・・・これからはスースの言う通り、静かに余生を送るさ・・・」
我儘であるかも知れぬ。力を試し誉れを求めることは、しかし予にも覚えがある。
彼ほどに腕が立つならばなおさらだろう。
予を倒すという望み。先刻まで、あれほど激しく抱いていた望み。
黄天化は、それを手放すというのか。
「いいのか・・・」
「いいさ・・・俺っちにももう戦う理由がねぇから・・・」
先刻までは確かに持っていた望み、ひどく若者らしい望みを手放して、彼は静かに応える。
ひとり己のことのみでなく、周の軍すべてを考えるのであればそれは正しい。
とはいえそう易々と納得できない者こそが若者であると思うが。
・・・・・。
いや。
予は武成王に感謝する。
太公望にも。周という国にも。
黄天化という若者を遺してくれたことを。
彼ひとりのみならず彼のような若者たちを、遺してくれたことを。
予はひとつの国を滅ぼし、息子たちをも失った。しかし、この天地には若者たちが残る。
周はやはり若い国だ。
この若者がそうであるように。
夜が明ける。
我らが戦っていたのは極く短い間に過ぎないが。
刮目して見るがよい。現在の彼を。
そう。変わることができるからこそ、若者なのだ。
大変に大変に間が開いて、というのはもう毎度のことになってしまって
謝罪も適切でないほどの体たらくでございますが。
この戦い、紂王さまからも意義があったと信じています。
皆様それぞれ思うところがおありでしょうから、
お読みいただいて納得のいかないところもあるやに存じますが、
亭主の思うところとして見ていただければ幸いです。
あと、ひとつ。