「愛しい主のしつけ方」 (13)
耳元に吹き込まれた低い声に、心臓がどきりと跳ね上がる。
困ったものだ、と思う。
この人は自分の力を知らない。そんな言葉一つを投げただけで、人の心を簡単に手に入れることの出来る力を持つのだから、不用意に囁かないで欲しい。言葉一つに捕まって、身動きが取れなくなる。愛しくて、せつなくて、どうしようもなくなる。
オスティアの候弟である男が、天賦の力を持ちながら、自分と、自分の力に対して、無頓着に過ぎる。
困った人だ。
「ん―――」
マシューはゆっくりと息を吐く。身体の芯に残る、熱の残滓を吐き出してしまおうと思うからだ。情交の名残の熱は、抱き合う身体伝いに行き来していて、なかなか冷めていきそうに無い。ぼんやりと気だるくて、どうにも頭が働かない感じだ。
―――さて、どうしたものか。
半ば身体の上に乗り上げられた重みで、寝台に縫い止められているのは、決して不快ではない。身も心も投げ出して浸っていたいような、泣き疲れた時に感じるような安心感がある。肩のあたりに乗せられている頭に手をやり、髪を梳いてみる。すこし硬いが素直な紺青の髪は、指に沿って流れた。
ヘクトルが身じろぎをすると、息が首のあたりにかかってきてくすぐったい。思わず身をすくめる。
「若さま―――ちょっと、放してください」
「このまんまでいたら、だめなのか」
顔を覗き込まれる。ヘクトルが、ちょっと駄々でもこねているかのように眉を顰めているから、つい笑ってしまう。
「何だよ。笑うなよ」
笑いの形を作った唇を、乱暴なくらいの荒さで吸われる。熱い口内をとろとろとかき混ぜられ、内側に入り込まれる快感を強く感じる。つながったままで、じわりと痺れている場所が、口腔への刺激に反応して、ひくりと動いた。
本当は、このままでいられたら良い。この人を繋ぎとめて、その熱に溺れて、抱き合うことを、楽しんでいられたら良いのだけれど。
差し込まれる舌に舌で応えると、くちゅ、ぴちゃ、と濡れた肉が吸い付き、離れる音が耳の奥に響いた。
「若さま―――お願いですから」
言葉を紡ぐために離した唇を、ヘクトルの唇が追ってくる。続けて唇を貪られながら、ヘクトルの身体を軽く押し返してやる。
「いやなのか」
戸惑ったような声が聞いてくる。
「気持ちいい、です。けど―――」
ここでこれ以上のことを続けるのは、不用意に過ぎる。もし何かあった場合、素っ裸で飛び出して行くわけにもいかない。
ヘクトルがゆっくりと身体を起こした。間近にあった熱が離れていくのはひどく惜しい気がした。狭い器官を一杯に塞いでいたものが抜き出されていき、とろとろと脚伝いに流れ出して行く液体の感触にぞくぞくと身体が震える。
ヘクトルが狭い寝台の上、ぴたりと触れ合って横たわり、さらに身体を引き寄せようとしてくる。
「若さま―――」
「一緒に眠る―――ってわけにはいかないのか」
抱きしめてくる腕には逆らわず、うつむいて、肩口のあたりに額を擦り付けてみる。
「俺は、眠くはありませんからね。ちょいとひと仕事終わらせたら、若さまの傍に戻りますよ」
緩められた腕からどうにか身体を抜き出し、寝台から降りる。
身体を拭いて身じまいをするのを、青い目が追いかけてきているのを感じる。
「そんな、じろじろ見るもんじゃありません」
服を身につけながら、軽くたしなめるような口を利く。
「ああ、悪ィ」
そうは言うものの、上掛けから、乱れた髪と目だけを出して、こっちの動きを追ってくる。
「何やってんですか、若さま」
どさり、と寝台に座り、乱れた髪を梳いて上げると、強い光を宿す目は、笑いを浮かべてこっちの顔を見上げている。
「いや、おまえが動いてるの、きれいだなあ、と思って」
マシューは、苦笑し、ため息をついた。とんだ、人たらしだ、と思う。無意識なのが、質が悪い。この男が差し伸べる手を、拒める人間がいるとは思えない。
髪を梳く手を離し、ぺちっ、と額を叩いてやる。
「うわ」
「俺はちょっと仕事に戻ってきます。若さまはここを動かないでくださいよ」
ヘクトルは額を押さえている。
「何だよ。子供扱いすんなよ。ったく、兄上といい、オズインといい、おまえといい―――」
ヘクトルの言葉を聴いて、少し胸が疼いた。
ウーゼル様も、オズイン様も、若さまを愛していらっしゃる。俺は、お二人の信頼を裏切ったことになるのか。若さまと、情を通じるなどど―――
「マシュー」
こちらの胸の痛みを読んだかのように、ヘクトルが訝しげに名を呼んでくる。
「おまえが嫌だってんなら、俺は……」
「好きです」
マシューは笑って掛布の上から、ヘクトルの身体を抱きしめた。
「若さまのこと、好きだ。大好き。だから、抱いてくれていいんです」
俺はあんたのものです。
ただ、すべてでは無い。
若さまが、若さまを愛する人、すべてのものであるように、
俺はオスティアのものであり、ウーゼル様のものでもある。
ただ、あんたが俺を欲しいと思うときは……あんたが俺に手を伸ばす、その時は、俺はあんただけのものになろう。あんたを、俺だけのものにしよう。
唇が触れるだけの口付けを落とし、そのまま身を翻して部屋を出る。
オスティアの密偵としての、いやというほど冷静な自分が戻ってくる。夜が明けぬ間に、密偵頭に連絡を取って、幾つかの手はずを整えて置かなければならない。
階段近くに張り付いていた同輩は、いつもと同じように、短く目線だけを合わせてきた。
ヘクトルと関係を持ったことは、すでに密偵頭のほうに報告が行ったことだろう。もとより、封建の世にあって、王族にプライバシーなど無いに等しい。個人の自由などより、国家の存続のほうに重きが置かれるからだ。
それでもまだ、ヘクトルはずいぶんと自由なのだ。国主であるウーゼルに至っては、国家の意思を体言する者として、一挙手、一投足を無為には行なわない。
ウーゼルと密偵頭に対しては、自ら報告に上がる必要がある。オスティアの候弟と関係を持ったということは、報告しなければいけない事実であって、羞恥やら、恐縮やらとは、全く別のところにある。
突き放して自分のしたことを振り返って見れば、愚か、の一言に尽きる。公において、オスティアの目として判断を下すなら、ヘクトルと関係を持つなどということは、不敬であり、馬鹿げてもいるのだ。
―――いいけどよ、別に。たまたま、あの人はオスティアの候弟、ウーゼル様の弟君だってだけで。俺は若さまが好きなんだから、いいじゃないか、寝たところで、減るもんじゃなし。
一方、生来のマシュー自信として、自由を愛する若者として考えるなら、そんなふうにずうずうしく腹を括ってしまっている。
自分は女では無いから、面倒なことにはならない。恐らくは公然の秘密として、問題にはされずに流されるだろう。
問い詰められても、若気の至りの遊びに付き合ったのだと、言いぬけることも出来る。そんな建前を言ったところで、密偵頭には何もかもお見通しだろうが。
マシューは軽くため息をつき、顔を上げる。
若さまの御友人とその恋人を城に保護し、その後で、頭に報告をしに行こう。
階下に下りると、太い眉をへの字に落としたマリオの親父が、腕組みをして立っているのが見えた。心の揺らぎは一切顔に浮かべることなく、マシューは、難しい顔した親父に向かい、にこりと笑って見せた。
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