「愛しい主のしつけ方」 (3)
なんとか理性を保とうとして、唇を塞がれたまま横目使いに通りの様子を窺ってみる。騒ぎは終わったと見て取った野次馬はてんでの方向へと散って行き、開けっぴろげに情を交わす自分たちを見て見ぬふりで、人が流れていく。
まあ、このあたりの道端で、口付けを交わす程度は、可愛いものなのだ。もう少し夜が更けてくれば、通りから見える建物の横あたりで、隠すことも無く交わって、いいの、いやのと快楽の声を張り上げるような不埒な者も現れる。
目当ての男は、止り木の扉をくぐったらしく、姿は見えない。
奴に張り付かねえと―――
これではさっぱり仕事にならないというのに、何で自分は、自由を奪っている体を、押し返そうともしないのだろう。それどころか、さらに背伸びをして、口付けを深めようとしている。
ぬるぬると擦られる内側の粘膜は、その刺激をあからさまな快感だと感じ取る。
かなり、やばい。
ふわりと意識の浮きあがる感じと、背を駆け下りていくぞくぞくした震え。
夕時の温い空気のなか、熱い体の熱が移ってくるのが、気持ちいい。
賑わう宵時の通りで、無防備に見世物になっているというのに。
何やってんですか、お願いしますよ、もう―――
頼むから、放してくれと思うのに、
あああ、何で思いっきりしがみついてんだよ、俺―――
密偵としての訓練と仕事をこなしてきて、たいていのことには動揺しない自信はある、いや、自信のあったマシューなのだが、今、自分がやらかしていることを思うと、目が回りそうな思いがする。
そりゃ、俺は若さまのこと、好きだけど、好きだけどよ、こういうスキとは………違うと思っていたんだが、なんでこんなに気持ちいい―――って言うか、何でこの人は、こんなに一生懸命仕返ししてきやがるんだ。俺はそんなに悪いことした?したのか?なんでこんなことになってるんだか、さっぱりわかんねえよ―――いや、全然嫌じゃないけど、そこが一番の問題だよな―――
「ふ…ン…」
小さく喘ぐような声が鼻から抜ける。
自分を抱きこむ腕の感触が、痛いと思うほどに強くなる。やけくそ気味に舌を乱暴に吸い上げられ、咀嚼に近い感じにくちゃくちゃと噛まれる。口がデッカイから、口の中も広いや―――などど、妙に現実的なことを考える。
これはちょっと―――口付けというより、喰われてるっていうか、うーん…やば―――うっかり立ちそうだよ、この人相手に。何してやがんだ、俺は。うわー、ちょっと、ホントやめてくださいよ。
「わか―――」
唇を逃がしながら、うっかり何時もの呼びかけをしかかるが、追ってきた唇に噛みつかれて、途中で途切れる。歯列を舌で割られて、大きく口を開かされ、喰い違いに、深く合わされる。ざらざらした感触が舌の裏側にまわってくる。
「ん、ん…」
舌を突きこまれるようして、奥のほうまで探られる。歯と歯がぶつかったが、相手は気にしていない様子で、さらに入り込んでこようとする。口のなかをもみくちゃに荒らされているされている感じがたまらない。
若さま―――あんた、ストップ機能が付いてませんね。どっかにぶち当たるまで止らない雄牛みたいに、勢いでひたすら突っ走ってるだけでしょ、そうなんでしょ。
わかりましたよ、こうなりゃこっちだって、自棄っぱちだ。やられっぱなしじゃ、マシューさんの名が廃るってもんよ。
口内を荒く舐めるように動いている舌に舌を合わせ、絡みつくように吸い上げてやる。思いっきり顎を上げ、少し硬い髪に両手を差込み、体を支える。舌先を舌先をつつくようで嬲ってやると、強引にかき回してくる動きが止った。口の中を犯していた質量が、ためらうように引いていくから、入れ違いに舌を伸ばして、相手の口の中に入り込む。
熱い内側をゆるゆると辿ってみると、きれいに揃った歯列が舌にあたる。唾液が舌と唇を伝わって口の中に流れ込んできて、すでに溜まっていた自分の体液と一緒に、口の端から溢れた。ひどく濡れた口付けを、探りあいながら思い切りむさぼると、くちゅくちゅと濡れた音が体の中を伝って、頭の中に響いた。口腔の上側を舌で擦ると、抱きついた首が擽ったそうに振られ、唇が外れる。すうっと熱が離れるその感触を寂しいと思う。
これでやめとけ―――と思うのに、なぜか唇で唇を追いかけてしまっていた。
あえて口を開きぎみにして、濡れた音を立てて大きな口にしゃぶりつく。相手も同じように返してくるから、ぴちゃぴちゃとしゃぶり合うような感じになる。肌に当たる相手の呼吸が荒れて熱い。自分の息も、はあはあと、思い切り乱れているのを聞く。
瞑っていた目を開けると、紺青の強い目が見つめていた。
首に回していた腕を解く。いつの間にか腰を引き寄せていた大きな手が、離れていく。
気がつくと、人通りの絶えない往来の端で、息のかかる近さに引き寄せあったまま、お互いに途方にくれて見つめ合っていた。
―――ええと。
仕事があったんだっけ。
濡れた口元を掌で拭う。
じゃあ、これで、とマヌケ極まりない挨拶を口にしようと思ったところで、
「すまねえ」
気の抜けた声が頭の上から落ちてきた。
謝ってほしくはない、というか、謝られるのは何故か嫌だった。そう思う自分は、かなり真剣この男に惹かれているのではないか、と思い当たってしまい、衝撃のあまり、すうっと正気が戻ってくる。
「続きは、ここじゃないほうが良いんだけど」
震えないよう、声を張る。
動揺を隠し、気の抜けきった自分を、一瞬で立て直す。
身をひさいで糧を得るものに相応しい、艶な笑みを造り、腕に腕を絡ませる。腕に飾った銀の鎖がしゃらんと鳴った。
「じゃあ、あとで、な。忘れるなよ、俺は今夜はあんたのモンだ」
いまだに気抜けしているらしいヘクトルの顎に、ちゅっと音をたてて口付け、身を返す。
さて、仕事だ、仕事。
余計なことは、頭から締め出さなければ、ドジを踏む。ちょっとしたミスも、命取りになりかねないのが、密偵の仕事である。
すっと背を伸ばし、通りを振り返ることなく、止り木の扉を開く。
中はすでに、多くの客で賑わっていた。軽く頭を振って、唇にしつこく残る余韻を振り払う。給仕たちに混じって、テーブルの間を縫い、厨房の入り口へと近づくと、マリオの親父が目線のみで、壁際のテーブルを教えてくれた。
ベルンから入り込んできた男は、数人のグループに混ざりこみ、うっすらと口元に笑みを湛えて、杯を交わしている。その美しいといっていい顔立ちの左半眼に、額から頬までに渡る二条の傷。密偵にしちゃあ、目立つ容貌をしていやがるな、と思う。
意図せずに人目を惹いてしまうのは、マシューも自身も同じで、そういう者にはそういう者にしかできない役割があるから、珍しいというほどのことはないのだが。
傷を持つ男の立ち居振る舞いにはそつが無くて、確かに同業者らしい気配を感じる。
あの集団の中に、接触する者がいるのだろうか。それともただの目くらましか。
厨房から銀の盆と酒を受け取って、給仕たちの中に立ち混じろうとしたマシューだが、入り口の方に顔を向けていた親父が、その太い眉を思い切り上げるのを見て顔を顰めた。近くのテーブルにいる数人も、ちらちらと、酒場の入り口を見ている。誰が入って来ようとしているのかは、振り返らずともわかった。
ヘクトルは思いっきりその長身を屈めて、小さい扉をくぐっているはずである。
―――若さま、あんた―――
マシューは片手に盆を掲げ、愛想の良い笑みを浮かべて、扉とは反対の店の奥へと歩き出す。その動きにつれ、しゃらしゃらと、微かに銀の飾りが鳴る。マリオの親父が、オスティアの若さまを人目につきにくい卓へと案内すべく、扉のほうへと寄っていく。
―――あんた、俺を失業させる気ですか。
マシューは、心の中で溜息をつきながら、仕事の算段を始めることにする。
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