「愛しい主のしつけ方」 (4)
マシューは、ごったがえす酒場のテーブルとテーブルの間を、すいすいと歩いて行く。
動きは滑らかで、その動線には無駄が無い。客から注文を聞き、酒を配り、声をかけてくる酌婦たちに、気軽く微笑んで挨拶する。その一方で、壁の横に座るベルンの男と、店の一番奥に座るヘクトルに注意を向けている。
そうやって、意識を部分部分で使い分けることができるのは、密偵として訓練されてきた馴れもあるのだが、マシュー自身の資質に拠るところも大きかった。
子供のころから、ほんの一瞬目に止めただけものを、一枚の絵のようにそっくりそのまま記憶に留めることができるのだ。整理された引き出しから、ファイルを取り出すように、頭の中でその記憶を扱うこともできる。
細作の仕事をしているうちに、袖擦り合ってはすれ違っていく、何千という人の顔を覚えるのも造作がない。誰にどんな嘘をつき、何を隠したのか、仕事の上で、誰とどういう人間として関わったのかを忘れないから、綻びが出にくい。細作として訓練されるべくオスティア公爵のもとへと召し上げられたのは、ほんの子供のころに関わりあいとなったオスティアの遠目、今は密偵頭を務める男に、その才能を買われてのことだ。
酒場に居る客の顔を見渡し、頭のなかにざっとその位置を入れて置く。止り木には、仕事で時折出入りするから、こっちの顔を覚えている客もいる。
「よお、兄さん、久しぶりだなあ。俺が奢るから、まあ、飲みなよ」
商人らしい身なりの一団から声が掛かった。赤ら顔の男がグラスを差し出すのを、笑って受け取る。客の振る舞い酒は、飲み干すのが決まりだ。
「ありがとうよ、旦那さん。こないだは、商売でエトルリアの方へ行くって言ってたけれど、その様子じゃ随分景気が良いらしいね。いい旦那がついてるなあ、ルチア姐さんは」
「おう、俺の顔を覚えててくれたのかい。こりゃ嬉しいねえ」
客の横に座った、大柄な酌婦にグラスを捧げ、一気に空ける。強い酒が喉を焼いて落ち、胃のあたりがカッと熱くなる。その飲みっぷりに、わっと、座が沸いた。にこっ、と笑ってグラスをテーブルに置く。
客をあしらいながらも、視界の隅で捉えているヘクトルのテーブルに、男が一人近づいていくのに気づく。こちらからは後ろ姿しか見えない。短めの茶色の髪、灰色っぽい地味な服装をしているが、その仕立ても服地も見るからに良いもので、町人の拵えではない。
「兄さん、俺からもだ。杯を受けてくんな」
テーブルの他の客からも声が掛かる。このごろの景気はどうの、どこの店の仕入れは良いの、と客と言葉を交わしながら、渡されるグラスを順に干していく。そんなに質の良い酒ではないから、酔わなくとも頭の芯がくらりとくる。
「ごちそうさんでした。旦那がたの商売が成功しますように」
差し出されたグラスの最後の一つを、客のグラスと合わせてから空ける。
酌をしてくれないかという申し出を、姐さん方の仕事を取るわけにはいかないから、と断って給仕に戻る。
ヘクトルのテーブルに男が座っていた。その顔を確認がてら、注文を取るふりをして寄っていく。マシューが近づくのに気づいたヘクトルが、少し眉を顰めた。
「いらっしゃい。ご注文は何になさいます」
ヘクトルの向かい、俯いていた男の顔が上がり、少し鰓の張って四角い、律儀そうな顔が目に入った。造りは落ち着いているが、まだかなり若い。ヘクトルと同じぐらいだろうか。
「酒」
ヘクトルから、低く短い答え。
「何の酒がよろしいですかねえ。ピンからキリまでございますよ。お勧めは、当たり年のエトルリアの白。入荷したばっかりの、サカの薬酒もありますよ」
「たる酒。おまえが今そこで飲んでたやつ」
「ありゃあ、旦那様方に相応しいシロモンじゃありませんがねえ」
「いいから、持って来い」
マシューはヘクトルの耳元に唇を寄せる。
「ここは、ちょっとやばいんですよ。他所に行っちゃあもらえませんか」
紺青の目が軽く睨んでくるが、退かずに見つめ返す。
「おまえの仕事は、後ろの男か」
ヘクトルから後ろの方向、壁際のテーブルで、雑談に興じているらしい傷のある男の姿を捉える。声は出さずに頷くと、腕を取られて引き寄せられ、耳元に大きな口元が寄ってきた。
「俺は俺で外せねえ用事があるんだよ。もしかすると、おまえの仕事とも絡むかもしれねえんだが―――」
思わず身を引きかけるのを構わずに、耳に低く声を吹き込まれる。顰められていても重く響く、通りの良い声である。ぞくりと肌が泡立つような気がするのは、あおったばかりの酒のせいにしておくことにする。
「どういう意味ですか、そりゃあ。こっちに関わってこられるのは困ります」
こんな場所で、裏の仕事にかかろうというのに、なんだって主君の弟君が絡んでくるなどという信じられない事が起きるのだ。
「ちょっと頼まれ事があってな。おまえが困っても、俺は俺の思うとおりにする。悪ィな」
言われなくたって、わかってますよ、そんなこたァ。
一歩退いて、上目遣いに若さまの顔を見やる。
ヘクトルの前に座る男は、目の前で代わる代わるに繰り広げられているひそひそ話を、怪訝な顔で伺っていた。その男に聞こえるように言ってやる。
「いやだなァ、そんなこと言って。でもそうだなあ、あんたになら、思い通りにされてもいいかな」
生真面目そうな鰓張り顔が、ヘクトルとマシューを代わる代わるに見て、目を見張っている。その顔を見て、ヘクトルがあからさまな溜息をついたので、少しばかりは溜飲を下げる。
「酒」
むすっとした声が言うのと同時に、
「ごめんなさい、遅れて」
マシューの後ろから女の声が掛かった。気配はごく微かだったが、近づくのに気づいていたので驚きはしなかった。
「彼女がニーナだよ。ニーナ、こちらが僕の友人だ。さあ、座って」
ヘクトルと同席していた男が、立ち上がって女のために椅子を引いた。下町の連中はこんなお上品なことはしないから、貴族か、騎士階級の子弟なのは間違い無い。女のほうは薄い金の髪を後ろにまとめ、全体に丸みのある優しげな造作をしている。一見どこにでもいる町娘のようだが、マシューには、気配を消すのに慣れている人間なのだと判っている―――あまりまともな生業の者ではあるまい。
マシューは黙ってその場を離れる。友人の相談事とは、いかにも若さまらしい。良い家の坊ちゃんと、町娘の駆け落ち話、あたりが最もありそうなところなのだが、こっちの仕事に関わってくるかもしれないと言うからは、そう暢気なことでも無さそうだ。
酒を配りながら壁際、ベルンの男に近づくと、その切れの長い目と目があった。
ふっと、紫の目が笑い、軽く手招きをされる。
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