「愛しい主のしつけ方」 (5)
意図して人の気を惹こうとする艶やかな微笑みを浮かべて、マシューは男の傍へ寄っていく。壁に掛けられたランプの灯の下で、その茶色の目は琥珀のように揺らめく金の光を映しこんでいる。
「お待たせ。ご注文は、何にします」
「ここの卓に行き渡るように、たる酒持ってきてくんな。兄さんがた、俺の奢りだぜ」
わっと、テーブルに着いた連中が盛り上がる。そうとうに出来上がっているらしく、口から泡を飛ばして馬鹿騒ぎの真っ最中だ。
「それから、兄さん。あんたにも一杯」
「ありがとうよ。気前がいいね、旦那さん」
厨房へ酒をとりに戻ろうと思ったところで、男に後ろから腕を取られる。厨房のほうに向かって声を張り、注文を伝えてからテーブルへと振り向く。
「ちっと、聞きたいことがあるんだけどよ」
ひらひらと手招きされて、顔を寄せる。
「なんでしょう」
「あの目立つ大男は、あんたのイロかい」
男は、マシューとヘクトルの耳打ちを、見ていたらしい。
「―――どうでしょうねえ、まあ、そんなモンかなあ―――」
腕組みをして、同席の男女の話を聞いているらしいヘクトルを、視界の端で捕らえながら、曖昧に返事をする。いくつもの大きな盆で、たる酒のグラスが運ばれてきて、テーブルがわっと盛り上がった。
「ちょっと似た奴を知ってるんだがねえ……何モンだい、ありゃあ」
本当に知らないから聞いているのか、それともカマを掛けてきているのかが、薄く笑いを浮かべたその顔からも、口調からも読み取りにくい。
「良いとこの、若さまですよ」
遠からず、の答えを返す。
「へえ―――こんなとこにいらっしゃるのは、おまえさんが目当てってことかな」
何が楽しいのか、ヘクトルを眺めるている男の笑いが深くなる。
「まあ、飲みなよ」
男がグラスを渡してくる。
「じゃあ、乾杯ってことで。兄さんは、何をやってる人だい」
男の紫の目が細められて、口元がニヤリと笑いの形に歪んだ。
「ん―――泥棒、かなあ」
その受け答えと態度からして、かなり、癖のある男である。マシューは男に向かって笑いかけ、グラスを掲げる。
「それなら、泥棒さんに乾杯だ」
男の持つグラスに、グラスを合わせる。卓に手をついて上向き、一気に酒をあおる。口の端から喉もとに一筋あふれて流れ落ちた筋がある。
卓についていた手をぐいと引っ張られ、バランスを崩しかかる。思わず男の肩に手をついて身体を支えると、喉元、流れ落ちる液体を舐め取られた。とっさのことで、驚いた身体がビクリと震える。喉元を辿り、顎の辺りまでを舐め上げられ、温かい舌の感触が、酒に上気した肌を擦ってくる。
「なあ―――あんたは今晩暇かい」
首に手を掛けて引き寄せられ、耳元で囁かれる。酒に濡れているはずなのに、どこか乾いた感じのする声だ。
「それとも、若さまのお相手かい」
「あっちはあっちで用事があるみたいなんでね、そうだなあ、はずんでくれるってんなら、兄さんのほうに付き合うよ」
こっちの正体がばれてないなら、このまま近づいてしまえばいい。ばれているなら、相手の出方を見るしかない。
「おや―――」
男の紫色の目が、自分の肩越しに何かを見ている。振り向くと、見慣れた長身が恐ろしく不機嫌そうなオーラを漂わせながら、こちらに近づいてこようとしていた。
うわ―――なんで、こっちに寄ってくるんですかっ。あんたはあんたで用事があるんでしょ。頼むから離れてて―――
ヘクトルの後ろ、テーブルに同席していた、ニーナと呼ばれていた女が、こちらを見てはっと驚いた顔をする。それを見た傷の男がひらひらと手を振った。女は慌てた様子で席を立ち、その勢いで椅子が倒れた。テーブルを離れ、酔っ払いの人ごみを抜け、転がるように出口へと向かっていく。ヘクトルと友人だという男は一瞬呆然していたが、はっと気を取り直した様子で、女の後を追うべくあたふたと席を立った。
後ろで起きた騒ぎに気をとられたヘクトルが、こちらへ近づいて来ようとしていた足を止め、出口のほうに振り向く。
ざわざわと動く酒場の群集の中、マシューの目は、明らかな意図を持ってニーナという女に近づいていく、黒っぽい形の人間を見つけ出した。大柄な黒髪の女だ。懐に手を忍ばせている。おそらくその手に、何か得物を掴んでいるはずだ。
とっさに扉に向かって駆け出そうとしたところを、後ろから羽交い絞めにされる。
―――ちっ
肘を入れてやろうとしたが、上手いことかわされていた。両肘を捕られ、耳元で囁かれる。
「あんたの若さまを止めてくれねえかなぁ。俺ァ、オスティアに刃向かう気なんざ、これっぽっちも無いんだが」
この野郎、やっぱり知っていやがったのか、とほぞを噛む。
「あの女をかたづけに来ただけなんだよ。仕事でなァ。言っとくが、俺はしがねえ泥棒だから、おまえさんの背負ってる仕事とは関わり合いはねぇよ。黒い牙って知ってるかい」
ニーナが、止り木の扉を出て行く。それを追ってヘクトルの友人と、黒髪の女が。
「ああ―――」
その名は知っている。ベルンで勢力を伸ばしつつある、殺し屋の集団だ。リキアにも拠点を作り始めている。だが、オスティアと直接の利害を分けるような相手ではない。言葉通りに、ベルンの間者ではないというのなら、この男はマシューが関わるべき相手ではない。
だが―――
「俺はそこの、粛清屋だ。あの女は足抜けしてるが、もとは俺と同じならず者だよ。身分の高い若さま方とお付き合いするような女じゃねぇのさ」
閉じかかった扉を押さえたのは、その後に続くヘクトルの手だ。この騒ぎに若さまが関わっている以上、放っておくわけにはいかない。
振り向きざま、脚に仕込んでおいた二本の短刃を引き抜き、後ろ手に一閃させる。男は身軽く飛びのいて避ける。その身体がテーブルに当たって酒がこぼれ、酔っ払いたちがぶつぶつと文句を言う。酔っ払っての諍いなど酒の肴にもならない場所だから、そのぐらいでは目立った騒ぎにはならない。
男が離れたところで、マシューは扉に向かって駆け出す。
ほぼ体当たりに近い勢いのよさで、止り木の外に飛び出ると、剣を構えたヘクトルの姿が目の前にあった。普通の片手剣なのだが、ヘクトルが握っていると随分と小ぶりに見える。広い背の後ろに華奢な女を庇っていた。
その向かい合わせ、少し離れたところに、喉元に刃を突きつけられ、血の気の失せかかっている鰓の張った男の顔がある。
「あらら―――まいったねえ」
すぐ後ろから、マシューの後を追ってきたらしい男の、とうてい困っているとは思えないのんびりとした声が掛かった。
―――参ってんのは、こっちだ。
マシューはヘクトルに背を向け、傷のある男に向かって刃を構えた。
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