「愛しい主のしつけ方」 (7)
止り木の二階へと登る狭い階段の手前にヘクトルたち三人を待たせ、厨房の前に腕組みして陣取る親父に声をかける。
部屋を貸してくれと言ったら、禿げ頭の下の太い眉毛が吊り上がった。普段は座り気味の目がぎょろりとひんむかれてマシューの顔をじろじろと見る。どうにも気不味い雰囲気が漂うので、やれやれ、とため息をつく。
「おいおい、いくら何でも若さまをこんなとこにお泊めするわけにはいかねえだろうよ」
「いや、まったく。こんなとこに泊まって欲しくはねえんだけどよ。無理やり城に引きずっていくわけにもいかないしな」
「こんなとことは、なんでえ」
ぎょろり、と睨まれる。
「親父さんがそう言ったんじゃねえかよ。それから、早馬出して城のほうに連絡入れといて欲しいんだけどな」
見物人に混じっていた仲間から報告がいったとは思うが、念のためだ。
「わかった。ついでに外と階段に何人か張りつけとく。それで、マシュー、おめえは若さまと一緒に泊まるのかい」
「ああ、若さまの世話は俺がするからよ。なんだよ、親父さん、その目は。こんなとこに二人っきりだからって、若さまに手ェ出したりはしねえよ」
「おめえがそういう格好してやがると、どう見ても裏街の立ちんぼうだからなあ。そんなのとオスティアのお世継が一緒に泊まるってのはどうかと思ってよ―――とりあえず着替えろや」
オスティア候家に対する忠誠心と尊敬は、親父の胸に今だ熱く燃えているらしい。
「そんなのとは何だよ。着替えなんか持って来てねえって。人目に立つわけじゃないんだから構わないだろ」
だけどなあ、やっぱり公爵家のお方だからよ、お世話するならそれなりの形ってもんがよ、とかなんとか、ぶつぶつ言い続ける親父を置き去りにして二階へと上がる。
止り木の二階、続きで二部屋を使うことにし、ぴったりと寄り添って離れない恋人たちを片方の部屋に押し込む。
「こんな場所で大丈夫だろうか。奴らが戻って来るかも知れない」
ヘクトルの友人が不安気な顔をするのに、気安く笑いかけてやる。
「大丈夫ですよ。奴らなら、もうオスティアを離れたはずです。なんかありましたら、俺と若さまが隣の部屋にいますんで、お声をかけてください」
「すまない。僕はエルンスト=テヴェレ。ヘクトルの学友だ。君は―――」
「マシューと申します。オスティア候にお仕えいたしております。テヴェレ公爵様のご子息であられましたか。城のほうにも連絡はつけてありますから、こちらは安全ですよ。お連れ様はお疲れのご様子、とりあえずはお休みください」
テヴェレは、リキアの小国の一つだ。そこの御曹司ということなら、女を連れて領地に帰れば、まず寝首をかかれることはないであろう、が……
軽く会釈をして扉を閉める。
あからさまな、身分違いだ。荒れた手の女と、公爵家の若様と。
「何やってんですか若さま、部屋に入ってくださいよ。俺、水汲んできますから。ついでに何か食い物貰ってきましょうか」
腕組みをして廊下の壁に寄りかかっている長身に、すれ違いがてらに声をかける。
「いや、いらねえよ」
ぼそぼそと返事が返る。若さまにしては声に勢いがない。気に掛かることでもあるのだろうか。
洗面用の水盤と水差しを持ち、ついでに品の良いワインを一本ちょろまかして二階へと戻る。
建てつけの良くない木戸を開けると、ヘクトルは寝台に座って、何やら考え事をしているようだった。並べられた寝台二つと、小さいテーブルと椅子。それで部屋は一杯だ。
全く、オスティアの若さまがお泊まりになるような部屋じゃあねえよな。いくらこの人が気にしないっつってもよ。
「若さま、ここには風呂なんて気の利いたもんは無いですけど、顔くらいは洗ってくださいよ」
テーブルに水盤を置いて、水を汲む。
「ああ、ありがとうよ」
ヘクトルは、立ち上がりながら、青っぽい上着を頭から脱いでいる。発達した肩から上腕の辺りは厚みがあり、腹の辺りは硬く締まっている。
手を伸ばして上着を受け取ろうとしたら、頭越しに寝台の上に投げられた。
「おまえは小姓の真似事なんてしなくてもいいからよ」
「若さまを放ったらかしにしたとあっちゃあ、こちとらお城に面目が立ちません」
「おまえは普段から、そんなこと気にしちゃいねえだろうがよ」
マシューは微笑む。気にしていない訳ではない。ヘクトルはマシューの主筋であり、それを忘れたことはない。ただ、身分に則した態度をとれば、ヘクトルが顔に出しはしないが嫌がるのを知っているから、常にざっくばらんに接しているまでだった。
「ま、そうですね。若さまも気にしないでくださいよ」
マシューが笑いかけると、ヘクトルは一瞬戸惑ったような顔をした。
そうかよ、と言って大きな手で顔を洗う。タオルを差し出すと素直に受け取り、顔をぬぐい身体を拭いている。
その動きをかたわらで見ていると、紺青の目と目があった。
「いやあ若さま、うらやましいぐらい、いい身体してますよね」
「おう、なに食ってそんだけでかくなったんだと、会う奴会う奴に言われるぜ。ほれ」
タオルを投げて渡される。ヘクトルは寝台に座り込んでブーツを脱ぎ始めるから、手伝おうとひざまずきかかるが、青い目に制されて動きを止める。
そういうところは頑固なものだ、と苦笑する。ヘクトルの中には、動かぬ岩のように思い切り頑固なところと、流れて姿を変える水のように、ひどく素直なところが混在している。それがこの男の可愛げであり、人を惹く力なのだ。
余った水で顔や手を洗うと、ヘクトルの視線が絡みついてきた。それを、肌に触れられているかのように、あからさまな刺激として感じとる。
―――なんでそんな、じろじろ見てるんですか。俺に気でもあるのかと、マジで思うじゃないですか。
そんな嗜好は全く無い相手なので、何か気になることでもあるのだろうかと、心の中でいぶかる。濡れた顔をタオルで押さえると、微かに自分のものではない体臭を感じた。瞬間、夕刻の口付けの記憶が蘇り、ぞくりと肌が泡だつ。
「―――なあ」
低い呼びかけが耳を打つ。ぼんやりと記憶に浸ってきたため、うっかり飛び上がりそうになった自分の身体を押さえ込んで、ヘクトルのほうに振り返る。
「あ、はい、何です」
「あの、よ」
自分を見ている視線は真っ直ぐに強いのだが、声にためらいが含まれている。
「さっきの続き、してもいいか」
一瞬、何を言われているのか分からない。いや、分かっているのだが、自分の耳を疑う。
いや、だって、あんた男を抱くような趣味無いでしょうよ。お相手がいるってんなら今からでも適当な女を呼んで―――
「おまえが好きだ」
あまりにもはっきりと、真剣な顔で言われて、足元がよろめくような気がする。テーブルに後ろ手を付いて身体を支える。
いや、ちょっと待ってくださいよ、何言ってんですか、あんた。どう考えたってそりゃあおかしい。身分違いどころの話じゃあ―――
「おまえを俺のモンにするにはどうしたらいい」
だって、それは―――
心の中でおたおたと動揺する自分のほかに、この状況を面白がって見ている自分と、冷静に対処を始めようとする自分とがせめぎ合いをはじめる。
どうする。俺はこの人が好きだ。だけどよ―――
もともと貞操観念は薄いほうだ。減るもんじゃなし、と割り切って、仕事がらみで男と寝たこともある。
だけど―――
寝台に座って自分を見つめる顔に、ゆっくりと顔を寄せていく。
「あんたが―――」
自分の声が、ひどく遠くに聞こえる。
「その手を伸ばせばいい」
言い終わらぬうちに、強い手に腕を取られて引き寄せられる。唇を塞がれ背中を強く抱かれた。その唇を貪ろうとしゃぶりつけば、熱い舌が入り込んできた。
正気が飛ぶ。
自分が誰なのか、相手が誰なのか、分からなくなってしまいそうだ。
―――欲情してんのか、俺は。
こんなに―――どうして。
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