「神、光あれと言給ひければ」 (3)
食堂の壁は明るいクリーム色に塗られ、型抜きして描いたらしい不揃いな兎が、帯状に一列、ぐるりと跳ねている。木製の大きな長テーブルが、幾つか置かれている。目の粗い生成りのテーブルクロスの上に、厚手の白い陶器。質素だが、清潔で温かい場所だ。
レイヴァンとルセアが入っていくと、子供たちはすでに、行儀よくテーブルに着いていた。二人も並んでテーブルに着く。白髪の司祭がレイヴァンに軽く会釈し、エリミーヌへの食前の祈りを唱える。高く響く子供の声が、それに唱和した。いただきます、の声と共に、食堂は賑やかな声に満ちる。
黒パンを切り分けたものに、細く切って揚げた芋、いくらかの肉と野菜の入ったスープ。デザートに牛乳を使ったプディング。簡単なメニューだが、このあたりの町屋の夕食としては、この程度がごく普通だ。小さい子供が不器用に匙を握り、隣に座った少し年嵩の子供が、一生懸命に面倒を見ている。
平和で、穏やかな、小さな世界。外界の冷たい風も、きな臭い煙も、エリミーヌの懐に抱かれたこの場所には、入ってきていない。
ここに座って、一生懸命に話しかけてくる子供の話を聞くのは、レイヴァンにとっても、楽しいことだった。同時に、妙に落ち着かない気持もある。戦場に在って、人を殺すことを生業とする自分が、この小さな聖域の中に、相応しくない何か―――禍々しい何かを運びこんでしまうのではないか、という無意識の恐れのようなものが、常に心の中にある。
食事を終えて居間に戻ると、レイヴァンの周りに子供たちが群がってきた。一人を高く持ち上げてみると、じたじたと手足を動かして、きゃっきゃと弾けるように笑った。
「ぼくも」
「レイヴァンさま、遊ぼうよ」
服の裾にまつわりついて、よじ登ってくる元気のいい悪ガキもいる。
「うわ、ちょっと待て、おまえら―――」
持ち上げていた子供をそっと下ろし、顔を上げようとしたところで、前から、勢いをつけて飛びつかれる。
「待てと言う―――」
バランスを崩して、そのまま尻餅をつきかける。周りにいる子供を潰さないように、気をつけて後ろ手をついた。膝の上に何人かが乗ってきて、後ろから首っ玉にしがみつかれ、気がつくと床の上に転がっていた。
「―――参った」
両手を挙げると、群がった子供たちが一斉に笑い声をあげる。
「おい、ルセア」
食堂の片付けを終えて、居間に入ってきたルセアに、何とかしてくれ、と目で頼む。
「レイヴァンさまがお困りですよ、放してあげなさい。みんな、騒ぐのをやめて、お座りなさい。旅のお話を聞かせていただきましょう」
決して声を荒げず、穏やかにたしなめるのだが、子供たちは悪ふざけを止め、大人しく椅子や床に座りこんだ。ルセアの澄んだ声には、不思議な力があった。砂地に降り注ぐ雨のように、聞くものの心に、一瞬にして深く染みこむ。天性のものなのか、エリミーヌの修道士としての修行がそうさせるものなのか。猛獣使いが鞭を振り回しても、こう易々と子供に言うことをきかせることは、出来ないだろう。
レイヴァンは、半ば締められていた首を押さえながら起き上がった。ルセアは小さな子供を膝に抱き上げて座り、レイヴァンの顔を見て微笑んでいる。
話と言われても―――レイヴァンは首を傾げる。話をするのは得意では無かった。レイヴァンの旅は傭兵の旅である。剣の腕を買う雇い主を見つけては、戦場で暮らす。噂をたよりに、エレブの各国、きな臭い危険な場所を選んで渡り歩く。子供に話してやれるような、楽しく美しい旅ではない。
「竜のお話がいい」
「ルセアさまと一緒に、王さまのお城に行った話をして」
子供たちが口々に、話をねだる。
「では、ベルンの竜騎士の話をしよう」
レイヴァンが語り、記憶を探るために話を止めると、ルセアがその後を継いだ。二人で旅をした数年、共有する記憶を分け合って語る。
木々の葉は落ちはじめ、夜は冷えこむようになってきていた。暖炉の薪を何度かくべる。膝に乗った子供があくびをするのを見たルセアが、子供たちに部屋に戻るように言った。
「ええ、お話が途中だよ」
「また、明日な」
いつの間にか、胡坐を組んだ膝の間に入り込んでいた子供の頭を撫で、ひょいと立たせる。
「ほら、おまえら、ルセアさまの言うことを聞けよ。エリオ、部屋はこっちだぞ」
ミゲルが、名残惜しげな子供たちを寝室へと急かす。眠たげな子の手を引いてやって、面倒を見ている。ルセアは小さい子供たちを連れ、着替えやベットの支度を世話しに、寝室へ行った。
子供達が皆いなくなり、がらんとした居間で、レイヴァンはほっと息をつく。戸口から、ミゲルが利かん気そうな顔をひょいと見せた。きょろきょろと首を廻らし、他に誰も居ないのを確認してから、レイヴァンの傍にやってくる。
「なんだ。話があるなら座れ」
きょろきょろと落ち着かない少年の様子をいぶかりながら、レイヴァンが言う。少年が腰を下ろしたのは、レイヴァンの膝の間だった。
―――おい。
レイヴァンは驚く。
「あのさあ―――」
少年は、レイヴァンの膝に乗ったまま、顔を見上げてくる。何ごとも無かったかのように、いつもの大人ぶった調子で口を利く。
「俺、傭兵になりたいんだけど、どう思う」
「ろくな稼業ではない。やめておけ」
「でもさ、剣が使えて、格好いいじゃないか。稼ぎもいいんだろ。俺もレイヴァンみたいに強くなって、ここにいる奴らを守ってやろうと思うんだ。最近、このあたりも色々と物騒だからな。それに―――」
それに―――何だ。
「大人になったら、ルセアさまと結婚したい」
――――――――そうか。
笑ったらいいのか、驚いたらいいのか、レイヴァンは胡坐を組んだまま、後ろ手をついて天上を見上げた。少年が、世事に通じているようであっても、すっぽりと常識が抜け落ちているところがあるのは、修道院という特殊な場所で育ったからなのだろう。
人の気配を感じて顔を上げると、戸口に佇むルセアの姿を見つける。珍しく、口元に悪戯っぽい微笑みを浮かべていた。唇に人差し指を当て、レイヴァンに合図をしてくる。
「それは、無理だな」
「何でだよ。レイヴァンにそんなこと分からないだろ」
「ルセアは俺と結婚している」
全く声音を変えず、レイヴァンは言った。ルセアが慌てた様子で、自分の口を塞ぐのが見えた。
「ええっ、そうなのかっ。おまえが帰ってくるとルセアさまが嬉しそうなのは、そういう―――あっ、何だよ」
膝の上に居る少年の目を、両手で塞ぐ。後ろからルセアの腕が伸び、首に絡んできた。振り向くと、矢車草の青を湛える目が、きらきらと楽しそうに笑っている。レイヴァンも口元に笑みを浮かべる。柔らかい唇が、唇に触れてきた。緩く唇を触れ合わせたまま、軽く吸ったり、相手の唇を舐めたりしてみる。唇に感じる吐息は、僅かに熱い。
「何しやがるんだよ、レイヴァン」
目隠しをされた少年から抗議の声が上がり、ルセアがすっと立ち上がった。音を立てずに、扉の向こうへと戻っていく。
「もう夜も遅い。おやすみの時間ですよ、ミゲル」
レイヴァンが少年の顔から両手を外すのと同時に、ルセアが姿を見せずに声をかける。
驚いた少年が、ぜんまい仕掛けの人形のように、ぴょん、と立ち上がり、戸口へ向かって走り出す。
レイヴァンはそれを見て、声を出して笑った。
「笑うな」
少年はそばかすのある頬を赤くして叫び、ルセアとすれ違いに姿を消した。
レイヴァンの傍に寄ってきたルセアは、くっ、くっ、と喉声で笑っている。
「男の真剣な思いを笑っては気の毒だ」
「だって、レイヴァンさま―――なんて人の悪い悪戯を―――」
引き寄せて口付けをし、その笑いを止める。間近に見る青い目は潤んで、ランプの揺れる火を映している。ルセアは濡れた唇に僅かに微笑みを残したまま、レイヴァンの肩に顔を埋めた。互いの身体を確かめるように抱き合って、少しの間、動きを止める。
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