償い

第9話 幸せはすぐ傍に

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 鳶坂さんに説得されて、わたしはマンションに戻った。
 彼は連絡を待つようにと言って、どこかへ出かけてしまった。

 お兄ちゃんと過ごした部屋は、何一つ変わることなくそのままだ。
 飾り棚のイルカ達も寄り添っている。
 何もする気が起きなくて、寝室のベッドの上で膝を抱えて座っていた。
 わたしの時間は止まっているのに、時計の針は動き続けている。
 お兄ちゃんはどうしているのかな、お仕事しているんだろうか。

 お兄ちゃんが愛した人は、わたしのせいで離れていった。
 償うどころか、お兄ちゃんを幸せから遠ざけてしまった。
 何もできないことはわかっている。
 罪悪感と、消し去ることのできない彼への想いが、わたしを苦しめていた。




 お昼を過ぎた頃に、携帯が鳴った。
 のろのろと動いて、表示されている名前を確認する。
 鳶坂さんからだ。
 通話ボタンを押して、携帯を耳に当てた。

「はい」
「雛ちゃん。下に車を用意して待っているから、出てきてくれないか?」

 気が進まなかったけど、行くと返事をして通話を切った。
 昨日も着ていたスーツではまずいと思い直して、別の外出着に着替えて外に出る。
 エレベーターで一階まで下りると、鳶坂さんがマンションの前に止めた車の横で待っているのが見えた。

「はい、乗って」

 鳶坂さんが後部座席のドアを開けてくれた。
 おとなしく乗り込んで、窓に目をやった。
 どこに行くのかな。
 車は見覚えのある道を進んでいく。
 確かこの方向にあるのは、鷲見家の本宅だ。

「鳶坂さん、もしかして行き先は……」
「察しはついてるみたいだけど、社長の自宅だ。つぐみさんが雛ちゃんに話があるそうだ」
「つぐみさんが?」

 驚いたけど、呼ばれた理由に思い当たった。
 つぐみさんはお兄ちゃんの婚約が白紙になった理由を知ったんだ。
 怒ってるはずだよね。
 わたしはまたお兄ちゃんを不幸にしたんだ。
 いくら優しいつぐみさんでも、怒らないはずがない。
 何を言われても受け入れよう。
 わたしには叱責を受ける以外に償う術は何もないから。




 門が開いて車が鷲見家の敷地内に入っていく。
 広大な庭園の奥に、洋風のお屋敷が建っている。
 車から降りると、鳶坂さんに家の中へ入るようにと促された。
 玄関からの案内は家政婦さんに代わり、つぐみさんが待っている応接間に連れていかれた。
 緊張して、ごくりと唾を飲み込む。
 中にいたつぐみさんは、にこやかに微笑んで迎えてくれた。

「いらっしゃい、雛ちゃん。急にごめんなさいね。できるだけ早く話したかったから、無理を言ってしまったの」

 背中に手を添えられて、ソファに座るように勧められた。
 用意をして控えていたらしく、続いて入ってきた家政婦さんがテーブルに紅茶とお茶菓子を出してくれた。
 つぐみさん、怒ってないの?
 いつもと変わらぬ出迎えを受けて困惑した。

「とりあえず、一口飲んで落ち着いて。何から話せばいいのか、わたしもずっと考えていたの」

 わたしと向かい合って座ったつぐみさんは、紅茶のカップを持って口をつけた。
 勧められて、わたしも一口飲む。
 カップを受け皿に戻して、わたしは姿勢を正して座りなおし、頭を下げた。

「今度のことは、どんなに謝っても取り返しがつかないことはわかっています。だから、気が済むまでわたしを怒ってください。何を言われても、全て受け入れるつもりです」

 罵倒されることを覚悟していたけど、つぐみさんの口からこぼれたのは戸惑いの声だった。

「ちょっと待って。どうしてわたしが雛ちゃんを怒るの? もしかして、わたしの話が破談になった婚約のことだと思っていたの?」
「違うんですか?」

 顔を上げたら、つぐみさんは苦笑していた。

「そのことなら、わたしは雛ちゃんに感謝しているの。鷹雄と彼女が愛のない結婚をしようとしていることには薄々気がついていたから反対していたぐらいだったのよ。あなたが鷹雄のために怒ってくれたこと、すごく嬉しかったの。雛ちゃんはあの子のことを心から愛してくれているのね」

 隼人さんも同じ気持ちで、二人は婚約が白紙になって安心したそうだ。
 つぐみさんはわたしを責めるつもりで呼んだのではないことを、繰り返し強調した。

「渡くんから話を聞くまで、鷹雄が雛ちゃんにしたことを、わたし達は何も知らなかった。怒られるのはこちらの方よ。わたしにも、鷹雄にも、あなたは怒っていいの。つらかったでしょうね、もう我慢しなくても大丈夫。ご両親への援助は隼人さんが続けてくださるし、こちらも償いにできる限りのことをするつもりよ」

 わたしとお兄ちゃんの間に起きたことを知り、つぐみさんは償いたいと申し出た。
 それは違うよ、つぐみさん。
 きっかけはともかく、その後のことはわたしが望んでしたことだもの。

「どうして、つぐみさんが償うんですか? 悪いのは両親とわたしです。わたしは両親の代わりにお兄ちゃんに償おうとしてきました。だから、責任を感じてもらう必要はありません。それに、結局わたしは償うことができなかった。お兄ちゃんを不幸にしただけだった。お兄ちゃんやつぐみさんの苦しみを増やすことしかできなくて、どうすればいいのかわからない」

 つぐみさんは席を離れて、わたしの隣に腰を下ろした。
 わたしの手を取って自分の手を添えると、気遣うような眼差しを向けてくれた。

「雛ちゃんはわたしのことでまで苦しんでくれたのね。償いなんてとんでもない。雛ちゃんは十分救ってくれた。あなたがいなかったら、鷹雄は今頃どうなっていたのかわからないもの」

 思いも寄らず優しい言葉をかけてもらい、わたしの瞳から涙が落ちた。
 つぐみさんはわたしの目尻にハンカチを当てて涙を拭ってくれた。

「雛ちゃんは鷹之とちどりさんだけが悪いと思っているようだけど、それは違うの。わたしにも悪いところはあったの。長くなるけど聞いてくれる?」

 わたしは頭を縦に振った。
 つぐみさんが話すことは意味のあることなんだ。
 わたしを迷路から出口に導いてくれる最後の希望に思えた。

「離婚した時、わたしはまだ二十八だった。わたしの両親は高齢で経済力もなかったから、鷹雄を引き取ることには反対していた。母子家庭になれば二人とも苦労するだけだ、鷹雄は父親に渡して、お前は再婚して一からやり直せって言われたの。冗談じゃないと思った。鷹雄を取り戻すために、実家には戻らず、この鷲見家で住み込みの家政婦として働き始めた。当時のわたしは鷹雄と暮らすことを目標に働きながらも怒りと嫉妬でぐちゃぐちゃだった。どうしてわたしがこんな目に遭わなければいけないのかと、鷹之とちどりさんを責め続ける日々を送った。そんなわたしの相談に乗ってくれたのが隼人さんだった」

 共に生活をしているうちに、隼人さんとつぐみさんは心を通わせた。
 周囲の反対もあったけど、二人で乗り越えて結ばれた。

「隼人さんが心を満たしてくれたおかげで、自分を振り返る余裕ができた。わたしにも非はあったのだと思えてきた。社会に出る前に結婚して、働くことの厳しさを知らずにいたわたしには、若い身で会社を継いだ鷹之がどれほど苦労していたのかがわからなかった。彼が仕事に追われて休日返上で働いていても、家にいてくれないと不満を募らせて文句ばかり言って、少しも支えてあげなかった。彼がちどりさんに安らぎを見出したのも無理はなかったのかもね。主婦や母としてはきちんとやってきたつもりだったけど、妻としては失格だったのよ」

 つぐみさんは瞼を閉じてため息をついた。
 過去を思い返しているんだろう。
 隼人さんに救われるまで、つぐみさんはお父さんとお母さんを恨んでいた。
 そのことを知っても、わたしはつぐみさんを優しい人だと思う。自分も悪かったって、二人を許してくれた。わたしを受け入れてくれた。それがこの人の強さと優しさを証明している。
 隼人さんと一緒に人生を歩くことができたから、つぐみさんは過去を振り切って、幸せになれたんだ。

「わたしは隼人さんのおかげで、つらい記憶を過去にすることができたけど、その間も鷹雄は苦しんでいた。雛ちゃんは知らないみたいだから言うわ。鷹雄が中学生になって荒れたのはわたしのせいよ。わたしが見捨てたから、あの子は絶望して自棄になっていたの」

 つぐみさんの告白を嘘だと疑った。
 お兄ちゃんは一度もつぐみさんを責めたことはない。
 むしろ、救いに来てくれたのだと言った。
 隼人さんのことも本当に慕っていた。

「そんなはずない。だってお兄ちゃんは自分のお母さんはつぐみさんだけで、荒れていた自分を助けに来てくれたって言ってました。捨てられたなんて聞いたこともありません」

 つぐみさんは苦しそうに顔を歪め、懺悔をするように両手で顔を覆った。

「あの子はわたしにも恨み言は言わなかった。だけど、それは確かなことよ。再婚の話が出た時、隼人さんの親族からは鷹雄の養子縁組を許してもらえなかったの。隼人さんとの間に子供が生まれた時、相続問題に発展するからと強く言われてね。ちどりさんは鷹雄によくしてくれていたし、その頃にはわたしも自分のしていることが鷹雄が新しい家族に馴染めない原因になっていることに気がついたから、会わないことがあの子のためになると思ったの」

 お兄ちゃんの小学校の卒業式に出席したつぐみさんは、帰りに再婚することともう会わないことを告げた。

「鷹雄は「お母さんはそれで幸せなの?」って尋ねてきた。頷いたわたしに、あの子は「良かったね」って言って笑ってくれた。鷹雄がどんな気持ちでそう言ったのか、わたしは少しもわかっていなかった。その後も鷹雄の様子が気になって、鷹之とは連絡を取っていた。だけど、鷹之は再婚したばかりのわたしに迷惑をかけまいと、自分達だけで更生させようとしていたから、鷹雄が荒れていることを知ったのは、かなり後のことだった」

 お兄ちゃんが家を出た後、お父さんはすぐにつぐみさんに連絡をした。
 わたし達の声がお兄ちゃんに届かない以上、救える人はつぐみさんしかいなかったからだ。
 迎えに来たつぐみさんにすがりついて、お兄ちゃんは泣いた。

 お兄ちゃんは離婚でお父さんが妻子を捨てたのだと思った。
 自分は経済的な事情から引き取られただけで、愛情はないのだと余計に憎しみと反発を強めた。
 彼の心を支えていたのは、つぐみさんが迎えに来てくれるという約束だった。
 お母さんに馴染もうとしなかったのは、受け入れてしまえば、つぐみさんを裏切ることになるからだ。
 ところが今度はつぐみさんが再婚することになり、足枷となるために切り捨てられたと絶望した。
 つぐみさんは泣いているお兄ちゃんを見て、彼が親に見捨てられたと思い込み、自暴自棄になっていたことを察した。

「鷹雄は鷹之とわたしが連絡を取りあっていたことを知って、わたし達があの子を捨てたわけじゃないことを、ようやく信じてくれた。実はちょうどその頃には、隼人さんが子供を作れない体質だってことがわかって、養子縁組の話がうまく進んだのよ。鷹雄を落ち着かせるためには新しい環境が必要だったから、親権を移すことに鷹之も同意してくれた」

 お兄ちゃんが家出をした日、わたしは両親がお兄ちゃんを捨てたんだと思っていたけど違ったんだ。
 お兄ちゃんのためになるように、みんなで相談した結果だった。
 当時のわたしは真実を知るには幼すぎて、ショックを受けると思って、わざと知らせなかった。
 四人とも、子供のことを一番に考えてくれてたんだ。

「わたしのところに来て、鷹雄は前向きになってくれた。進学もする気になって、勉強にも励んでいた。だけど、日を重ねるごとに元気がなくなっていった。その理由はすぐにわかったわ。鷹雄が自分の部屋で、雛ちゃんの思い出の品を眺めているところを見つけたの。小さい頃のアルバムに、幼稚園でお兄ちゃんを描いた絵や、字の練習をした紙までとってあった。それを見ているあの子は、愛しさと寂しさの入り混じった切ない表情をしていてね、胸が締め付けられるほどだった」

 つぐみさんにわたしのことを問われて、お兄ちゃんは告白した。
 母親を追い出した人の娘であることを知っていても、好きになったこと。
 孤独と絶望で狂いそうになる度に、わたしの存在が光になって、壊れそうな心を支えてくれていたのだとお兄ちゃんは話した。

「その話を聞いて、わたしは鷹雄に雛ちゃんが好きなら会いに行ってきなさいと勧めた。本音を言うと複雑ではあったけど、わたしは鷹雄の幸せを一番に願っているからねって。そうしたら、翌日に雛ちゃんを連れて帰ってきたのよ。心の準備ができてなかったから、すごくびっくりしたけどね。あの時の二人は傍で見ていても微笑ましくて、鷹雄にはこの子が必要なんだと納得したわ」

 つぐみさんの話を聞いていると、お兄ちゃんはわたしのことが好きで、お父さんとお母さんのことも許していたことになる。
 でも、それならどうしてわたしに二人を憎んでいるなんて言ったの?
 復讐するって脅して、わたしにぶつけたあの感情は一体なんだったというの。

「つぐみさんはお兄ちゃんがわたしにしたことを知っているんですよね? 今の話が本当なら、お兄ちゃんは何のためにわたしを抱いたんですか? 復讐するためじゃなかったのなら、どうして……」

 つぐみさんは言うのをためらうような素振りを見せた。
 彼女自身も困惑しているようだ。
 幾度もため息をついて、逡巡している。

「聞いたら雛ちゃんも呆れるでしょうね。今度こそ鷹雄に愛想を尽かしてしまうかも。でも、それは仕方のないことね、あの子が悪いんだから」

 覚悟を決めたのか、つぐみさんはわたしを見つめた。
 ようやくたどりついたお兄ちゃんの本心に、わたしも真摯な気持ちで聞くべく姿勢を正した。

「雛ちゃんは、鷹雄のことを兄だと思っていたでしょう? それが原因よ。幾らアプローチをしても、お兄ちゃんとしてしか見てもらえないことに鷹雄は焦っていた。そして兄妹のままではいつか離れてしまうから、そうなる前に手を打とうとした。過去の経緯は、雛ちゃんを縛り付ける材料としては最適だった。鷹雄はあなたの性格を利用して、自分に対する罪悪感を抱かせることで、繋ぎとめようとしたのよ」

 予想もしていなかった理由を聞かされて声を失った。
 放心してぴくりとも動かなくなったわたしの肩に、つぐみさんが心配そうに手を置いた。

「雛ちゃん、しっかりして」
「は、はい……。いえ、大丈夫…です……」

 いや、大丈夫じゃないかも。
 わたしがしてきたことを根底から揺るがす話を聞いてしまった。
 お兄ちゃんを苦しめているんだと思って心を痛めていたのに、お兄ちゃんはわたしの気持ちを利用していたんだ。
 ふつふつと怒りが湧いてくる。
 今まで自分が悪いんだと我慢していたものが、一気にあふれ出してきた。

「つぐみさん!」

 感情が爆発したわたしは、顔を引き締めてつぐみさんに向き直った。
 つぐみさんはわたしの豹変にびっくりしたのか、びくっと肩を跳ね上げた。

「お父さん達への援助はお願いできるんですよね? もう、わたしがお兄ちゃんの言うことを聞く必要はないんですよね!?」
「え、ええ、それは約束するわ」
「じゃあ、わたしは今から彼に会いに行ってきます。今まで我慢してきたこと、全部言ってきます!」

 気合を入れて立ち上がったわたしに、つぐみさんは微笑んだ。

「あなたにはわたし達がついている。遠慮せずに、鷹雄に自分の気持ちを伝えてきて。まだつまらない意地を張るようなら殴ってもいいわよ、雛ちゃんにはその権利があるんだから」

 つぐみさんはわたしの気持ちもわかってくれてる。
 わたしが何を伝えたいのかも。
 あなたのためにも、わたしはお兄ちゃんのところに行く。
 彼を幸せにできる方法をやっと見つけた。
 わたしは悩む必要も、諦める必要もなかった。
 お兄ちゃんの幸せはすぐ傍にあったんだ。

 玄関を出ると、鳶坂さんが車のドアを開けて待ってくれていた。

「鳶坂さん、わたしをお兄ちゃんのところに連れて行ってください!」
「もちろん、そのつもり。早く乗って、あいつは仕事で本社にいるよ」

 車は真っ直ぐ、お兄ちゃんのいる社屋を目指した。
 鳶坂さんはその間に、わたしと離れてからの、お兄ちゃんの様子を教えてくれた。

「とり憑かれたみたいに仕事に没頭してるよ。雛ちゃんのことを考えたくないんだろうね。昼飯も食わずに、休憩も入れる様子がないし、ほっといたら過労死するだろうな。あのバカ、そこまで思いつめるぐらいなら、恥も外聞も捨てて本音を言えばいいのに、肝心な時には何も言えなくなるんだ。母親が再婚する時もそうだった。あいつは昔からそういう所で臆病なんだよ」

 鳶坂さんがお兄ちゃんのことを本気で心配していることがわかった。
 いい友達を持ったよね。

「つぐみさんに打ち明けてよかったよ。オレが家庭の事情にまで立ち入って話すわけにはいかなかったからね。雛ちゃんに話が伝わって、ホッとしてる」

 知らない間に色々手をまわしてくれていたんだ。
 ありがとう、鳶坂さん。
 わたしがお兄ちゃんのことを諦めずにここにいられるのは、あなたのおかげなんだね。

 車が会社に到着すると、鳶坂さんがお兄ちゃんがいるという重役室まで案内してくれた。

「オレが協力できるのはここまでだ。この扉を開けたら鷹雄がいる。積年の恨みを晴らす時だ、思いっきりやってきな」

 鳶坂さんの言い様に、思わず笑みがこぼれた。
 緊張は完全に解れた。
 うん、いける。
 わたしの気持ちを全部ぶつけてこよう。
 覚悟してね、お兄ちゃん。
 勇気を奮い起こして、わたしはお兄ちゃんに会うために扉を開けた。




 部屋の中央には大きな事務机が置いてあり、床にはダンボールに入った書類の束が山済みになっていた。
 お兄ちゃんはパソコンに向かい、キーを打ちながら、電話で誰かと話をしている。

「その件はそちらの采配に任せた。一両日中に契約をまとめて、報告は遅くとも明後日には寄越せ」

 威圧的な口調で指示を出し、電話を切ると、脇に置いていた書類を手にした。
 判を押して、反対側に詰まれた書類の上に置く。
 わたしが扉を閉めると、お兄ちゃんは顔を上げずに反応を返した。

「早かったな。言いつけた資料は持って……」

 秘書の人だと思っていたんだろう。
 顔を上げて、わたしだと気づくなり顔を強張らせた。

「雛? お前、どうしてここに……」

 幻でも見たと思ったのか、しきりに瞬きして、目を擦っている。
 やがてわたしが本物だとわかると、椅子から立ち上がって睨みつけてきた。

「何をしにきた!? 二度とオレの前に現れるなと言ったはずだ!」

 怒鳴られても怖くなかった。
 お兄ちゃんが必死に虚勢を張っていると、わかっていたからだ。
 わたしは逃げない。
 怒鳴りたいのはわたしの方だよ。
 この人には、言いたいことがたくさんあるんだから!

「もう、あなたの言うことは聞かない、聞く必要もない! お父さん達への援助は隼人さんがしてくれる! わたしにはもう弱みなんてないんだから、追い出せるものならやってみなさい!」

 お兄ちゃんはあっけにとられた表情でわたしを見つめた。
 そして諦めの息を吐き、力なく椅子に腰掛けて、体ごと横を向いた。

「オレを罵りにきたのかよ。いいぞ、好きなだけ言え。隼人さんが味方についてんなら怖くねぇだろ。覚悟はできてる、気が済むまで殴っても構わない」

 わたしは机の脇を通って、お兄ちゃんの前に立った。
 足を開いて立ち、腰に手を当てて彼を睨みつける。

「じゃあ、遠慮なく言わせてもらう。鷹雄はバカだよ、人の気持ちまで勝手に決め付けて、一人でいじけて何やってるの? 言ってくれなくちゃわからないじゃない! わたしのことが好きなら好きって言えばいい! わたしだってずっと好きだったんだから!」

 一息で言い切って、彼の反応を見た。
 鷹雄の目は丸くなっていた。
 驚きすぎて、何も言えないみたい。

「雛、お前、何を言った? オレのこと名前で呼んだ? それに好きって……」

 彼は戸惑って慌てだした。
 わたしは抱きつきたくなる衝動を抑えた。
 まだ、言い終わってない。

「もう妹じゃないから、お兄ちゃんて呼ばない。わたしは憎まれてるんだと思ってつらかったんだよ。どう責任とってくれるの? あなたしか愛せないように捕まえていたくせに、いきなり放り出すなんてひどいじゃない! 自分だけが苦しんでいたなんて思わないで!」

 勢いに任せて詰め寄っていく。
 鷹雄はたじろいで、椅子ごと後退していく。
 ついに椅子は壁に当たり、彼を捕らえた。

「今までわたしの何を見てたのよ。いくら償いだからって、愛してもいない人に身を任せると思ったの? あなたと血がつながってると思ったから、わたしは妹として距離をとっていただけよ。知らなかったんだもの、しょうがないじゃない! わたしの初めてを無理やり奪って、脅して何度も抱いたくせに、今さら後悔して逃げるなんて許さない! この償いは一生をかけてしてもらうからね!」

 わたしは鷹雄の膝の上に乗って、顔を近づけた。
 瞼を閉じ、彼の体に抱きつく。
 鷹雄はぴくりとも動かない。

「二度と離れたくない。両親のこととか、兄妹とか関係なく、わたしは鷹雄が好き。一緒にいたい、鷹雄の隣にいたいの」

 鷹雄の腕が動いた。
 まわされてきた手が、ためらいがちにわたしの背中に触れる。

「オレはお前を失うことが怖かった。繋ぎとめようとして思いつく限りのことをした。だけど、オレのために泣いている雛を見て、自分に嫌気がさした。兄としてしか見てもらえないなら、離れようと決めた。駒枝と婚約したのもそのためだ。お前しか愛せないオレには、伴侶に愛を求めないあいつは最適な相手に思えた。表面だけは普通の人生を送れば母さん達は安心するからな。お前の言う通り、オレはバカだ。勝手にいじけて自棄になって人生を棒に振ろうとする、意気地なしで弱い、こんな卑怯な男は見捨てられて当然だったんだ」

 わたしは抱きつく腕に力を込めた。

「わたしは見捨てない。ううん、誰も見捨ててなんかいない。鷹雄は愛されているんだよ。お父さんもお母さんも、つぐみさんも隼人さんも、鳶坂さんだって、みんなあなたが好きなんだ。怖がらないで、わたしはどこにも行かない、誰の物にもならない。鷹雄の傍にずっといる」

 顔を上げて見つめあう。
 気がつけば、唇を重ねていた。
 まるで誓いのキスみたいに、神聖なものに思える厳かな口付けだった。

「一生をかけて償う。幸せにするから、オレについてきてくれ」
「うん、どこまでも一緒に行くよ」

 鷹雄はわたしをしっかりと抱きしめた。
 苦しいほどに強く。
 ようやく通じ合えた気持ち。
 すれ違っていたわたし達は、やっとお互いを捕まえることができた。

渡の独り言

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