憎しみの檻

ただ君の幸せを願う 3

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 目の前が明るくなり、重く感じる瞼を持ち上げた。
 視界に飛び込んできたのは、豪奢な室内だった。
 調度品に使われている木材は高級品で、寝台は天蓋つきの大きなものだ。
 部屋の様子からして、貴族の屋敷らしい。
 しかし、少なくとも我が家ではないな。

 どうして私はこんな所にいるのだろう?
 考え込んだ途端、後頭部が痛んだ。
 打撲の痛みのようだが、こんなところ負傷していたか?

 起き上がって体の状態を確認してみたが、不思議なことに戦場で負ったはずの傷は消えていた。
 体には別の傷跡が幾つもあったが、どれも完治している古い傷だ。
 これはどういうことだ?
 寝台から降りて、もっと情報を集めよう。

 唯一の痛みの元である頭痛を堪えて起き上がる。
 寝室と続きになっていた隣の部屋に入っていくと、扉が開いて初老の男が入ってきた。

「ああ、坊ちゃま! 目を覚まされたのですね、良かった!」

 彼は涙を浮かべて私に駆け寄り、良かった、良かったと繰り返した。
 全く知らない男なのだが、この親しげな話し方を見る限り、人違いではないようだ。
 どうなっているのか、冷静に考えよう。

「悪いが、洗面用の水を持ってきてくれないか? 起きたばかりで頭がうまく働かないんだ」
「頭がですと! ぼ、坊ちゃま、痛むのでございますか!? すぐに主治医を呼んでまいります! それまで持ちこたえてくだされ!」

 男は慌てて飛んで出て行った。
 水のことは聞いてないだろうな。
 物理的なものではなく、精神的な頭痛も覚えてめまいがしてきた。
 壁に手をつき、何気なく顔を上げてびっくりした。
 ちょうど顔の位置にくるように壁に据えつけられた丸い鏡に映っていたのは、私ではなく、黒髪黒目の見知らぬ男だったからだ。




 室内を探索してみて日記帳を見つけた。
 私が体を借りているらしい宿主は几帳面な男で、欠かさず日記をつけていた。
 名はユベール=ビュラン。
 年は現在二十九才、独身。
 日記帳の一頁目は必ずその時々のプロフィールだったので、彼の現情報を把握するのは容易かった。

 最新の日付を確認すると、あの決戦の日から九年近くも経っている。
 彼はアーテスの近衛騎士団に結成時から所属している騎士であることがわかり、もしかすると戦後のことが何か書かれていないかと日記を溯ってみた。

 ちょうど九年前。
 彼が戦場から国に帰還した辺りのことを読む。
 予想はしていたが、エリーヌ様は人質としてアーテスに連れてこられたようだ。
 エリーヌ様を娶ったのはフェルナン王子だ。
 日記からは王子がエリーヌ様を大切にしていたことが窺える。
 主君が幼い妻を可愛がる姿を微笑ましく見守る彼の心情が綴られていたのだ。
 その中に王女の侍女についての記述もあった。

【ネレシアからエリーヌ王女の侍女が一人だけついてきた。レリアという彼女はとても美人だ。異国の女性がこれほど美しいとは思わなかった。話をしてみたいが、敵国の男というだけで警戒されて、打ち解けるどころではなく残念だ】

 レリア!
 この国にあの子がいる。
 胸が騒ぎ、急いで日記の中からレリアに関する記述を探し始めた。

 彼はレリアに心惹かれるものを感じて気にしており、関わった出来事や、噂なども記されていた。
 日記に書かれていたレリアの印象は私の記憶とは違っており、滅多に笑うことのない、職務に忠実な女性だった。
 何がレリアを変えたのか、わかるだけに胸が痛んだ。

 レリアはアーテスに来てすぐに、アシル=ロートレックと恋仲になったようだ。
 その噂を耳にした彼は、最後に疑問を書き記している。

【だが、二人の仲は睦まじいとは言いがたい。不埒な輩から彼女を守るために殿下のご指示で恋人同士だと偽っているという噂もある。それなら、私に任せてくだされば良かったのに。アシルは恋人役には向いていない】

 気になって、先へと進む。
 所々に出てくるレリアの名と、アシルの名を注意深く探していく。
 アシルは女グセが悪く、多くの女と浮名を流しており、ユベールはアシルの実力や王子への忠誠心は高く評価していたが、ふしだらな女性関係については軽蔑していて、ことあるごとにレリアに同情して憤っていた。

【彼女はなぜ別れないのだろう。それだけアシルが好きなのだろうか、私には理解出来ない】

 私にも理解できん。
 だが、レリアは優しく情の深い子だ。
 ロクでもない男だと知っても、最初に抱いた愛情を捨てきれず、離れられなかったのかもしれない。
 神よ、なぜ私をこの時に呼び戻してくださらなかったのだ。
 私が傍にいれば、妹につく悪い虫をなぎ払ってやったものを。

 アシルに憤りつつ、現状を把握できるまで、飛ばし飛ばし日記を読み進む。
 やがて、始めに手に取った最後の日記帳にようやくたどり着く。
 読み始めて絶句した。
 レリアが自殺を図り、命は助かったが記憶喪失となったとある。
 なぜだ、なぜあの子がそんなことに!

 レリアは十二才から先の記憶を失い、精神が子供に戻ってしまった。
 誰にでも笑いかけ、無邪気な言動をするレリアに対し、彼は複雑な胸中を書いていた。

【私にも彼女は笑顔を向けてくれるようになった。だが、こうなってしまった経緯を想像すると胸が痛む。噂ではアシルの浮気が原因とされているが、私もそう思う。彼女は表には出さず、一人で悩んでいたに違いない】

 アシル=ロートレックめ、ぶち殺すっ!
 戦場では敬意を持って剣を交えた相手だったが、今やそんなことは記憶の彼方に葬り去った。
 ヤツは敵だ。
 我が妹を苦しめる男だと知っていたら、あの時に仕留めておくのだった。
 ああ、レリア、可哀想に。
 この兄が仇をとってやるからな。

 さらに日記を読み進むと、アシルは改心したらしく、全ての女と手を切り、レリアに献身的に尽くしているようだ。
 この記述を読まなければ、すぐさま剣を持って殺しに向かっていた所だ。
 忌々しいことに、レリアはアシルに懐いており、信頼を寄せて甘えている。
 騙されてはだめだ。
 浮気男はほとぼりが冷めた頃にまたやるぞ。
 レリアが泣かされる姿が脳裏に浮かび歯軋りした。
 許してなるものか。
 神が私に与えてくれた奇跡の意味は、レリアを救うことだ。
 あの子が幸せになれると確信するまでは、私はきっと現世に留まれるはずだ。




 何はともあれ、行動を起こすには現状は心許ない。
 まず私にはユベールの記憶がない。
 親しい者と話せば一発で中身が別人だと気づかれてしまう、彼を演じるのは不可能だ。
 ユベールに成りすますことは諦めて、頭部に受けた衝撃を理由にして部分的な記憶喪失の線でごまかすことに決めた。

 それにこの体にも問題がある。
 ユベールは生前の私とほぼ同じ体格をしていた。
 目線の高さも、手足の長さにも違和感はない。
 筋肉は偏ることなくしっかりとついているし、無駄な贅肉などはなく、体の鍛錬は怠っていないようだ。
 近衛騎士団に所属する騎士は、例外なくアーテス最強を自負する精鋭で間違いない。
 しかし、アシルとの戦闘中に私が抱いた感想は彼にも当てはまっていた。
 すなわち、鍛え方が足りないのだ!

 なんともったいない!
 素材は良いのに、持って生まれた恵まれた体を生かしきれていないではないか!
 これは早急に鍛錬が必要だ。
 外に出るためにこの地の知識も必要だし、主要な人物の情報収集もしなくては。
 レリアに再会するためにも、時を無駄にするわけにはいかない。
 主治医を呼びに行った男が戻ってくるまで、とりあえず寝込んで緩みきった筋肉を鍛え直すことから始めることにした。




 一通りの筋力強化のトレーニングをこなしていると、男が医師を連れて部屋に入ってきた。
 片手倒立をしている私の姿を見て、彼らはひきつった顔をしていたが、そんなに見慣れない光景なのだろうか?
 騎士を志す者ならば、このぐらい普通なのでは?

「随分とお元気であらせられますなぁ……」
「はい、頭は痛いですが、体を動かすのに支障はありません。それよりも、記憶がおかしくて。自分自身のことや、ここがどこなのか、人に関する記憶も消えていて、大変困っているのです」

 医師が捻りだした言葉に答えて、先に申告をしておく。

「とりあえず、診察をしてみましょう」

 医師は私の頭部の具合を見て、体の動きを一通り調べていった。
 体の動きを司る神経が傷ついていないのは私も確認済みだ。
 問題は、私という他人の魂が入り込んでいることだが、体内にはユベールの魂も存在しているのが感覚でわかる。彼は睡眠状態にあり、起き出す気配はまだなかった。

「お怪我の方は数日経てば癒えるはずですが、記憶喪失とは……」

 診察を終えた医師は、困り果てた顔をこちらに向けた。
 頭部の損傷からくる傷病の治療法などないからな。
 彼が困るのも当然だ。

 ユベールは同僚が開いた酒宴に参加して、帰宅途中に民家の二階から落ちてきた植木鉢が頭に直撃して意識不明になったそうだ。
 体は頑丈だが、注意力が足らんな。
 そのおかげでか、こうして私の意識があるのだから感謝しなくてはならないのだろうが、他人事ながら心配だ。

「そんな、なんてことだ……。坊ちゃま、お労しい……」

 私を坊ちゃまと呼んだ男――バルトが悲壮な顔つきで俯いた。
 彼はこの家の執事だそうだ。
 ユベールが親元を離れる際に補佐役としてつけられた、幼少期から彼を知る使用人の一人だった。
 気の毒に思う気持ちと、彼の大切な主人の体を乗っ取っている罪悪感から、励まそうと声をかけた。

「覚えていないことはこれから知れば良い。新たな記憶は入れられそうだから、そう悲観しないでくれ」
「ああ、坊ちゃま! なんと前向きで頼もしいお言葉か! そうですな、支えるべき私が気落ちしていてはいけません! 生活に必要な知識を得るために、すぐに資料や教師を手配いたします!」

 優秀な人だな。
 こちらが欲しいものをすぐに揃えてくれそうな勢いだ。
 あ、ついでにあれも頼んでおこう。

「できれば鉄の重りが欲しいな、なければ岩か大型の武具とか、とにかく体を鍛える時に重しになりそうなものなら何でも良い」

 寝室らしきこの部屋には重りの類いが何もないのだ。
 鍛錬の場は別に部屋があるのかもしれないが、就寝前後にも必要だろう。
 些細な隙間時間も有効に使いたい。

 私の要求を聞いて、執事と医師は固まった。
 そんなにおかしなことを言ったかな?
 首を傾げて、笑ってごまかしておいた。




 私の意識がユベールの中で目覚めてから四日が過ぎた。
 彼が起きた形跡はなく、体は私が主導権を握ったままの状態だ。
 ユベールに体を返す日が来た時のために日記は毎日書いている。
 知識を得るために日記を読ませてもらっているが、彼は真面目で実直な性格をしており、なかなか好感の持てる人物だ。思考に共感できることも多いことから、私の魂が彼に入り込んだのも偶然ではないのかもしれない。
 騎士団の方には、医師の診断書を添えて療養休暇というものを申請しておいたので、二週間ほどは勤めに出なくて良いことになった。
 今のうちに日常生活に支障がないぐらいのこちらの常識と、周辺の情報を知っておかなくてはならない。
 片手で手製の重りを上げ下げしつつ、資料に目を通していると、バルトが来客を知らせに来た。

「坊ちゃま、フェルナン様がお見舞いに来られましたぞ」

 おお、会いたい人物の一人が向こうから来てくれるとは。
 ユベールは彼の部下なのだから、気にかけるのも当然か。
 初対面のはずなのに、あれこれ噂を聞いていたせいか、フェルナン王子にお会いできるとなると気分が高揚してきた。
 どんな風にご成長されたのだろう。
 皆が期待した通りの好人物だと良いな。

 応接室にお通ししたとのことなので、服を軽く整えてから部屋を出る。
 バルトの先導で応接室の前まで来ると、メイドがお茶を出して退室してきた所だった。

「失礼します」

 声をかけて室内に入る。
 中にいたのは二人。
 来客用の長椅子に腰掛けている黒髪の貴公子がフェルナン王子だろう、するとその後ろに立っているのは……。

 護衛らしく王子の後ろに控えている男を観察した。
 体は王子より一回り大きく、灰色がかった黒髪に琥珀の瞳を持つ、精悍な顔つきの男だ。
 ひょっとして、この男がアシル=ロートレックなのだろうか。
 対峙したときは鎧姿の上、全身の動作に注目していたからか、顔がはっきり思い出せん。目つきが似ているような気がするが、九年も経っていれば人相も変わっているか?
 男の正体に思考を巡らせかけた時、フェルナン王子が立ち上がった。

「この度は大変な目に遭ったね、記憶喪失だと聞いたんだけど、やはり私のこともわからないかな?」
「申し訳ございません。先ほど執事より、フェルナン王子殿下がお見舞いにきてくださったのだと伝えられました。残念ながら、お会いしても記憶が戻る気配がありません。ご無礼をお許しください」
「気にしなくていい。君が無事で、こうして話ができる、不幸中の幸いだ。近衛騎士の務めのことなら、できることからやってくれればいい。当面は病状が悪化しないか気をつけつつ、体調管理に励んでくれ」

 王子は労りの言葉をかけてくださった。
 部下思いの優しい人だ。
 想像していた通りの人柄らしいことを確認して安心した。
 この方の傍にいれば、エリーヌ様のお心も穏やかでいられただろう。

「ありがとうございます。体を動かすことに問題はないので、鍛錬を始めているのです。殿下がお許しくださるのなら、騎士団の訓練にも参加したいのですが、いかがでしょうか?」

 体が動くとなれば、模擬戦がしたくてたまらなくなってきた所だったのだ。
 木剣でいいから振るいたい。
 この体でどこまで戦えるのか、今の私の力がどの程度か確かめてみたいのだ。

「訓練に? 医師の許可があるなら構わないが、大丈夫なのか?」

 フェルナン王子は戸惑ったお顔をなされたが、私の願いを聞き入れてくださった。
 もちろん大丈夫ですとも!
 医師の許可など、どうにでもして、もぎ取ってみせましょう!
 私は弾んだ気持ちを隠せなかった。

「念のため、もう一度診察してもらいます! 許可が出れば、行っていいんですね!」
「あ、ああ、良いとも。しかし、今の君は体を鍛えることが好きなようだね」
「はい! 騎士たる者、自己鍛錬を疎かにしてはいけません! 鍛えれば鍛えただけ強くなれるのです! こんなに素晴らしいことは他にない! 丈夫な体を与えてくださった父母に感謝しない日はございません!」
「う、うん、そうだね……」

 うっかり熱弁を振るってしまった。
 フェルナン王子が引いている。
 私も少し冷静になり、意識を王子の背後に向けた。

「ところでそちらの御仁のことも、少しも思い出せないのです。よろしければ、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」

 男に問いかけると、彼は妙な顔つきをしつつも頷いてみせた。

「アシル=ロートレックだ、敬語は使わなくていい。そもそもそっちが年上で先輩なんだし、変に畏まられたら調子が狂って困る」

 ユベールの日記によると、アシルの態度を見かねた時は苦言を呈することもあったようだ。
 アシルからすると、ユベールは口うるさい先輩といった位置にいたのかもしれない。
 なるほど、それでは敬語を使った他人行儀な振る舞いには違和感を持つだろう。

「わかった、君にはもう少し砕けた言葉遣いでちょうど良さそうだな」

 王子とアシルは、私の言動にまだ慣れない様子だった。
 まあ、理由を知っていても、見知った人間が急に人が変わったようになれば困惑もするか。

「元のユベールより、何というか元気で明るくなったよね。いや、元の彼も暗かったわけではないんだけど、今の君はとても輝いているというか……」

 王子が私の印象をそう述べた。
 うむ、それについては私にも思い当たる所がある。

「死の淵を彷徨って、生の素晴らしさを再認識致しました。そのせいでしょうか、心が解放されたような爽快感があります」

 使命を全うして死んだ私は、全ての重責から解放されたのだ。
 今なら、私は私的な願いを果たすために動ける。
 その願いとは妹を幸せにすることだ。




 王子達が帰った後、すぐに主治医を呼び出した。
 目覚めてから自主的な鍛錬を問題なく続けていることもあって、医師はすぐに許可を出してくれた。
 私の勢いに気圧されていたのかもしれないが、結果良ければ全て良し。
 バルトに訓練用の衣服を用意してもらい、二日後には近衛騎士団の訓練場に赴く支度を調えた。

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