憎しみの檻

ただ君の幸せを願う 5

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 まだ日が高かったので、アシルの予定を教えてもらった。
 痛む腹を押さえつつ体を起こした彼から聞き出した所、今日は待機日で、急な任務がなければ一日鍛錬をして過ごすつもりだったそうだ。

「ちょうど良かった。では訓練場に戻って始めようか、まずは走り込みからだ」
「お、おう、よろしくお願いします……?」
「声が小さいっ!」

 戸惑いが混じる小さな声を耳にして、反射的に大声を出していた。
 アシルはびくっと肩を跳ね上げ、飛び上がるように直立して大きな声を張り上げた。

「よろしくお願いしますっ!」

 私は満足して頷いた。
 最初が肝心。
 気合いを入れて、さあ出発だ。




 アシルがついて来ていることを確認しつつ、訓練場に走って戻ると他の騎士達が話しかけてきた。

「話は終わったのか? 記憶がなくてもユベールは変わらないなぁ、アシルに説教してたのか?」
「今度は何をやらかしたんだよ」
「何もやってねえよ!」

 アシルは年上の騎士達に囲まれて、からかうように声をかけられている。
 彼らの中でのアシルの立ち位置が見えてきた。
 近衛騎士団が結成された当時の資料を読んだが、フェルナン王子とアシルは騎士団員の中では最年少の十二才だった。
 当時から所属している騎士達は、彼らを我が子や弟のように思って、護り育てていたのかもしれない。
 ユベールの日記にも、素行についての文句は書いてあったが、嫌悪や憎悪といった負の感情は窺えなかった。
 むしろ、弟のように思っているからこそ、口喧しく説教をしていたと思われる。
 アシルは十八の年には近衛騎士団一の剣技の持ち主と評価されていたそうだが、それでも彼らにとってアシルは敬うべき実力者というよりは、手のかかる子供だったのだろう。

 微笑ましい光景だが、時間は有限だ。
 私は彼らの輪に近づいて、アシルを連れ出そうと声をかけた。

「しばらくはアシルと一緒に鍛錬をすることにしたんだ。私も彼もまだまだ鍛え方が足りないようだからね」

 ここにいる全員がそうだとはさすがに言えなかった。
 我々の訓練風景を見て興味を持ってくれたらいいな。
 そんな気持ちでアシルを促して、彼らとは離れた場所に向かった。

「まずは私が手本となってやってみせよう、足を開いて立ってくれ」
「こうか?」

 アシルが素直に指示に従う。

「今から肩車をして担ぎ上げるので、落ちないように気をつけろ」
「は?」

 間抜けな返事が聞こえたが、構うことなくアシルの背後に回り、素早く彼の足の間に頭を突っ込むと、肩に乗せて体を起こし、両足を掴んで固定した。

「うおっ、何してんだ!」

 アシルは驚いたのか体勢を崩して、しばらく上半身を揺らしていたが、何とかバランスを取って静止した。
 慌てふためいている彼に呆れつつ声をかけた。

「事前に言っただろう、聞いてなかったのか?」
「こんなことやると思うわけねえだろ!」
「このまま走るぞ、振り落とされように腹に力を入れろ」
「人の話を聞けよ!」

 聞く必要を感じないので走り出す。
 やはりこの体ではきついな。
 以前の私なら、人一人など重しにもならなかったのに。
 しかし、手応えはある。
 つらい鍛錬の先に、目指すべき強さが私を待っている。

「今日は初日だからな、軽く場内を十周しよう。その後は時間が許す限り、木剣で手合わせだ」
「この状態で十周が軽い? 冗談だろ?」
「いいや、この程度ならできるはずだ! 自分を信じろ、君ならできる! 最終的には鎧を装備した騎士を二人ほど担いで全力疾走ができるようになるんだ!」
「ちょっと待て! あんたそれやってたのか!」
「もちろんだ! 戦場では負傷兵を担いで走ることなど日常茶飯事! 我が家の伝統的な訓練法だ! 私は十六の頃には鎧を着てレリアを抱えた父を肩車して走っていたぞ!」

 親子で遊んだ楽しい思い出だ。
 母の笑みが若干引きつっていたような気がしなくもないが、レリアは喜んでいた。

「レリアの親父も兄貴もイカレてやがる! ネレシアの騎士ってそんなのばっかりなのか!」
「懐かしいなぁ。見習いの指導を始めた頃にクロードにもイカレてるって言われたよ。でも、すぐに適応したから君も大丈夫!」
「クロードって誰だ! 何が大丈夫なんだ!」

 頭の上で騒いでいるアシルに父やクロードと励んだ鍛錬の思い出話をしてやりながら、着々と周回をこなしていく。
 言い出したからには、まずは私がやり遂げなければ。

 アシルを担いで十周を走りきり、逃がす隙を与えずに交代した。
 遠くから見ている騎士達の目が、次第に怯えたものに変わっていくように思えたが、気のせいだろう。

「走るペースが遅くなってきたぞ! 気を抜くんじゃない!」
「これで全力だ! 後、何周残ってんだぁ!」
「さあ、ラスト一周! 頑張れー!」

 アシルは思っていたより元気で、時々大声を出しつつ周回を終えた。
 声が出せるならまだまだ余裕だろう。
 さあ、次は木剣で二回目の模擬戦だ。




 日がとっぷり暮れた頃、私はアシルを馬車に乗せてフェルナン王子の屋敷に向かっていた。
 訓練に夢中になり過ぎて、気がつけばアシルは屍のように倒れていた。
 虫の息の彼から、レリアが待っているので、王子の屋敷に連れて行ってくれと頼まれてしまったのだ。

「レリアはオレがいないと眠れないんだよ……」

 その理由をアシルは語った。
 記憶を失った後、情緒不安定になったレリアは、アシルが傍にいると安心して眠るらしい。
 自らベッドに招いて添い寝を要求するそうだ。
 アシルが任務などで、やむを得ず帰れない時は、エリーヌ様が添い寝をしている。

「レリアに不埒なことはしていないだろうな?」
「子供に戻ってんだから、やるわけないだろ。……いててっ、馬鹿力で頭を掴むな!」

 体が大人であっても、レリアの心は子供に戻っている。
 しかし、大人だったあの子にはしたんだったな。
 無意識にアシルの頭を片手で掴んで力を込めていた。

「すまない、なぜだか無性に腹が立った」

 馬車の中でこのようなやりとりをしながら、屋敷に到着する。
 門前にいた警備の騎士が一人、屋敷に知らせに向かうのを見送って馬車を降りる。
 アシルはまだ動けないようで、仕方なく肩に担ぎ上げて降ろしてやった。




 アシルを担いだまま屋敷のエントランスに入ると、出迎えが大勢いた。
 執事と数名の侍女、警備担当の近衛騎士、そしてフェルナン王子の後ろには、金髪の女性が二人。
 レリアとエリーヌ様だ!

 成長なされたエリーヌ様は、ますます王妃様に似て美しくなられていた。
 陛下や王子様方がご健在であられたら、さらに夫の選定基準が厳しくなっていたことだろう。
 そして、私の天使は愛らしさを残しつつ、大人の美貌を備えた女神に成長していた。
 感激のあまり、声も出せずに見とれてしまう。
 涙が滲むのをかろうじて堪えた。

「アシル! どうしたの? 大丈夫?」

 レリアはこちらに駆け寄ると、私の肩の上で呻いているアシルに心配そうに声をかけた。

「心配すんな、疲れ過ぎて動けねえだけだ……」

 声を絞り出してレリアを宥めるアシル。
 この男は本当に心の底からレリアを想っているのだな。
 彼に対する怒りが、二人の様子を見ているうちに小さくなっていく。

「すまなかったね、実はネレシア式の騎士の修練方法を知ったので、アシルと二人で試していたんだよ」

 レリアに声をかけると、彼女はようやく私に視線を向けた。
 ハッとしたように目を見開いたレリアは、恥ずかしそうに頭を下げた。

「ごめんなさい! ご挨拶もせずに!」
「それだけアシルが心配だったんだろう、気にしてないよ」

 私はアシルを近くにあった来客用の長椅子に座らせた。
 レリアは彼の隣に座ると、ぴたりと寄り添い、他の侍女から渡された水を飲ませてタオルで顔を拭くなど、甲斐甲斐しく世話を焼き始めた。
 羨ましいが、今の私は彼女の兄のドミニクではなく、近衛騎士のユベールだ。距離があるのは仕方がない。

「ネレシア式の修練方法とは何だい? 我々がしている修練とはまた違うのか?」

 フェルナン王子が疑問を投げかけてきた。

「はい、とても素晴らしい修練方法です。これが広まれば、近衛騎士団の力はさらに磨かれることでしょう」

 私は今日行ったことを話した。
 初日なので、大したことはしていない。
 本格的な修練は明日以降から始まるのだ。

「まあ、懐かしい。その修練なら、よくお父様とお兄様達がしていらしたわ」
「はい、私も覚えています。屋敷の庭に造られた訓練場で、父と兄が従者達と一緒にやっていました」

 エリーヌ様とレリアは覚えていてくれたらしい。
 二人の表情は懐かしさで緩んでいて、微笑ましい記憶として残っているようだ。
 一方でフェルナン王子はまだ要領を得ないのか、表情に困惑が混じっている。このお方にもぜひ伝授したいのだが、やってくれるかな。主君に無理強いはできないので、自発的にやる気を出していただかねば。

「そ、そうか、人を一人肩に担ぐぐらいなら私もできるかな。だが、あの訓練場の周回を全力で十周とは……」
「最初はそれでいいですが、徐々に負荷をかけていきます。担ぐ相手には鎧を少しずつ装備させて重りを増やしていき、最終目標は自身も鎧を着用し、フル装備の騎士を二人担いで全力疾走の長距離移動です!」
「君は何を目指しているんだ、他の修練方法を聞くのが怖い……」
「もちろん世界最強です! 私はアシルを無敵の騎士に育てあげたい!」
「ええっ」

 フェルナン王子は驚愕していたが、ユベールとアシルで実証できれば、いずれ効果を認めてくださるだろう。
 地道にやるしかない。
 私は決意を新たにした。

 ふと、レリアの笑い声が聞こえた。

「ふふふっ、今日のユベール様はお兄様みたいです。わたしのお兄様はいつも言っていました、世界最強の騎士を目指すんだって。クロードにも無敵の騎士にしてやるって言って、鍛錬の間、ずっと励ましていたの。……私にとってはつい最近のことなのに、本当は十年以上も昔のことなのね。お父様も、お兄様も、クロードも、皆いなくなっちゃった」

 レリアの笑みが悲しみに変わっていく。
 せっかく幸せな日常を思い出していたのに。

 しかし、クロードがいなくなったとはどういうことだ?
 彼は王都に戻ったはずだ。
 まさか、私の拳が本当にトドメになっていたのでは……。
 冷や汗を掻きながら、私は王子に向き直った。

「フェルナン様、ネレシアとの戦いの後、従騎士達をどうされましたか? 処刑はしていませんよね?」
「ああ、投降した兵は全員助命した。見届け人のバシュラール殿にはかつて王城だった城で今も語り部をしてもらっているし、騎士団縁の者で戦後に武装蜂起をした者はいなかったはずだ」
「え? それじゃ、クロードは生きているの?」

 レリアが驚きの声を上げた。
 瞳には悲しみが消え、希望の光が宿っている。

「ネレシア王は決戦の前に正式な騎士以外の兵をほとんど王都に戻していたそうだ。全滅の報の前に戦死の報告がなかったのなら、生きている可能性はある。当時は負傷した兵が多くいて混乱も大きかった。重傷を負って治療院に運び込まれていたなら、家族にも生死はしばらくわからなかったかもしれない」

 フェルナン王子がレリアの問いに答える。
 あの時のクロードの怪我は相当酷く、気力で意識を保っていたようなものだった。
 その気力を私が消したために、月単位で寝込んでいた可能性は否めない。
 彼が動けるようになった時には、レリアはアーテスに出立した後だっただろう。

「レリアは、そのクロードという彼に会いたいかい? 君が望むなら、彼を探しだしてこちらに来てもらっても良い」

 フェルナン王子がレリアに問いかけた。
 記憶を失ったレリアにとって、見知った者が一人でも多く傍にいる方が良い。
 そう考えての問いかけだ。
 王子の提案を聞いて、レリアは首を横に振った。

「いいえ、九年も経っているんです。クロードにも今の生活があるはずです。新しい仕事に就いて、家族がいるかもしれないし、迷惑はかけられません。生きていてくれるだけでいいんです。生きてさえいれば、いつか会えるかもしれないから」

 死んだと思っていた身内が生きている。
 僅かでも希望を得て、レリアの心は穏やかになる。
 そうだ、レリアに必要なのは悲しみではなく希望なのだ。
 私は未来に向かって歩むお前に、幸福に繋がる道を示さぬうちは、黄泉への道を辿れはしない。

「フェルナン様、私はそろそろ失礼します。アシル、明日は十分に休養を取って備えておけ、今後の鍛錬の計画は明日伝えに来る。今後は気をつけて、倒れるほどの負荷はかけないようにするから、逃げずに頑張ってくれ」
「……わかった、お手柔らかにな」

 後ろ髪を引かれる思いで踵を返す。
 すると、レリアが声をかけてきた。

「あの、ユベール様」

 足を止めて、振り返った。
 レリアはもじもじ恥じらいながら、私にこう言った。

「お兄様って呼んでもいいですか?」

 私は破顔した。

「ぜひ、呼んでくれ。私も君を妹のように可愛がってもいいかな?」
「はい、とっても嬉しいです、ユベールお兄様」

 そうと意識はせずとも、ユベールの中にいる私にレリアは気づいてくれた。
 久しぶりにお兄様と呼びかけられて、幸せな気持ちになる。
 その瞬間、私の中にあるユベールの魂から共鳴が返ってきたような気がした。

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