憎しみの檻
ただ君の幸せを願う 7
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とても楽しくて幸せな夢を見た。
そして、少しばかり寂しくて悲しい気持ちが沸き起こり、一滴の涙となってこぼれ落ちた。
起き上がり、机の上に置いてあった日記帳を手に取る。
寝台に腰掛けて、ページをめくった。
日付は最後の記憶が残っている酒宴があった前日から、約三ヶ月が過ぎていた。
空白のはずであるその時期のスペースには、その日にあった出来事と私への連絡事項が毎日欠かさず記されている。
家の用事も、バルトの助言を受けながら頑張ってこなしてくれていたようだ。
彼は始めから、自らの自由が期限付きだと考えていたのだろう。
こうして目覚めた今、日記を読んでいるだけで眠っていた期間を埋められて、今日から元の生活に戻ることに何ら支障を感じなかった。
体の調子もすこぶる良い。
確実に、以前より強靱になっている。
これなら戦場で大人数に囲まれても、たやすく切り抜けられそうだ。
残念ながら、私が見ていたはずの夢は、目覚めてみるとぼんやりと薄れていて、鮮明には思い出せなかった。
ただ全ての責任や柵から解放された爽快感と、目的に向かって邁進する高揚感が常にあった。
彼の目を通して見る世界に、私の心は童に戻ったかのごとく、わくわくしていたことだけを覚えている。
日記には体の鍛錬方法や武芸の習得に関する記述が大量にあった。
彼の日課であったトレーニングメニューの過酷さを見て一瞬顔が引きつったが、部屋に置いてあった見覚えのない鉄の重りを見ていると、できそうな気がしてくるから不思議だ。
きっと体が覚えているのだ。
記述の横に世界最強を目指そうと書かれていたが、彼の夢でもあったのか。
強くなるのはやぶさかではないので、今からでも追い求めてみるのもいいかもしれない。
他に筋肉が増えて体のサイズが代わり、服を全て新調したことを謝られていたが、私は必要な時以外は衣服を新調していなかったし、良い機会だったので気にしていない。
律儀な所がある彼のことを好ましく感じた。
夢で一度体験しているはずのことだからか、日記の記述を読めば、すんなりと理解できた。
しかし、私の記憶がなかったはずの彼が、なぜレリアさんを気にかけ、アシルを鍛えることに執着していたのか、始めはわからずに疑問に思った。
私はアシルの素行の悪さ――主に女性関係の乱れようが気にいらず、何度も苦言を呈してきたが、幾ら説教をしてもあの男は右から左に聞き流して意に介さず、とうとう彼女を自害しようとするまでに追い詰めてしまった。
あの件をきっかけにして、アシルは誠実な真人間になった。
彼女に寄り添い、献身的に尽くす姿を見て、私に言えることは何もなかった。
私は自分の無力さと不甲斐なさに落ち込み、結局の所、ただの傍観者でしかなかったのだと諦めの気持ちを抱いた。
レリアさんに恋をしていたのかはわからない。
ただ毎日張り詰めたような顔して、エリーヌ様を必死で護り育てていた彼女に、自分自身の幸せや喜びで笑顔を浮かべて欲しいと思っていた。
彼は彼女の助けになりたいと思っていた私の願いを叶えてくれた。
きっと記憶が戻っても、彼女は死を選ばない。
そちらに向かうまでに、多くの手が引き止めるだろうから。
私の手もその一つになる。
兄という立場も悪くない。
元々、アシルのことも、弟のように思っていたのだ。
これからは穏やかな気持ちで見守ることができるはずだ。
そろそろあの二人から目を離して、今度は私自身の幸せについて本格的に考えるべきなんだろう。
考え事をしている間、無意識に重りを手に取り、体を動かしていた。
彼がいた名残か、妙に楽しい気分になった。
日記に彼の名前は書かれていなかった。
文面は一応私の別人格という体裁をとってあったが、恐らくレリアさんの身内の誰かだったのではと、途中から気がついた。
行動や言動から、私と年の近い若い男性だとわかる。
父親ではなく、兄の方だろう。
ドミニク=ベルモンドは恐ろしく強い騎士だった。
戦場で会敵し、立ち向かった者は死に、背を向けた者は命からがら逃げ戻り、鬼神のごとき強さを語り伝えた。
アーテスの騎士の剣は彼に届くことはなく、ドミニクの側らにいた兵に向けられた罠や飛び道具が、味方を庇った彼の体を傷つけて長い時間をかけて弱らせていった。
アシルが彼に一騎討ちを挑んだ時、他の部隊の兵はアシルの勝利を疑わなかったが、我々近衛騎士団の面々は返り討ちに遭うのではと肝を冷やした。
どれだけ弱っていようとも、彼の瞳は戦意を失わず、敵を屠る獰猛な獣のごとき闘争心が宿っていたのだから。
強くて優しい人だった。
彼が死の間際に願ったのは、主君を守りきれずに果てる無念でも、敵国や敵兵への恨みでもなく、最愛の妹が幸せになること。
思い残したことを成し遂げて安らかに逝けたのなら、私の人生の僅かな時間が役に立ったことを嬉しく思いこそすれ、怒りなど覚えるはずもない。
感謝と謝罪の言葉を残した貴方に、私の方こそ感謝を述べよう。
ありがとう。そして、さようなら。
いつかあの世で会えたら、酒でも酌み交わして語り合いたいものだ。
END
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