女将さんは伽用のナイトドレスと下着を見繕ってくれた。
色は黒。
下着は最低限の面積の布をたっぷりのレースで飾ったセクシーなもので、ナイトドレスの方は透けていて、身につけても下着から体の線まで丸見えで、何も着ていないのと同じに思えた。
急に成長した自分の体をすぐに受け入れることはできなかったけど、一年ほど経てば慣れてきた。
胸を覆う布地は先端を僅かに隠すだけで、谷間と膨らみがものすごく強調されている。
膨らみかけたばかりだったのに、こんなに大きくなるなんて、人の体って不思議だな。
お尻の方も布地が少なくて、全然隠れていない。
ちょっと恥ずかしくなってきて、やっぱりやめようかなと後悔し始めた。
いつもの下着と寝間着に着替えようか迷っているうちに、ノックの音がした。
止める間もなく、部屋の扉が開かれていく。
「レリア、帰ったぞ」
声がした方を振り返り、入ってきたアシルと目が合う。
大きく開かれた彼の目が、わたしの体に注がれている。
ぶわっと顔に熱が宿った。
「な、何て格好してやがんだ!」
アシルはドアを閉めて、ベッドの掛布を掴むと、それでわたしの体を包み込んだ。
彼はそのまま、わたしを抱きしめて動かなくなった。
アシルの荒い息づかいが聞こえる。
わたしの心臓がすごく音を立ててる。
この後、どうなるんだろう?
ドキドキしてアシルが動くのを待っていたら、落ち着いた彼は体を離してわたしを見つめた。
「誰の入れ知恵か知らねえが、変なことするなよ、無理に大人になろうなんてしなくていいんだ」
「変なことじゃないよ、わたしはアシルが好き。前のわたしみたいに愛して欲しいと思うのは、そんなにおかしなことなの?」
わたしが好きだと言っているのに、アシルが喜ぶことはなく、彼の顔に浮かんでいたのは、悲痛ともいえる感情だった。
「あれは愛じゃない、オレは自分勝手な感情と欲望を押しつけて、お前を苦しめただけだった。お前は死を選ぶほど追い詰められて、死にきれなかったから記憶を失うことで逃げたんだ。前と同じになんてできるわけがない、オレはお前を傷つけることしかしなかった、最低で最悪のクソ野郎だったんだよ」
最低で最悪なんて言っておいて、じゃあどうしてそんなに苦しそうなの?
悪い人なら罪悪感なんてないでしょう?
あなたが改心したのは良心が咎めたからなの?
「アシルはわたしに償いたいだけなの?」
「償いたい気持ちはもちろんある。だがな、オレは決めたんだ。お前から奪うことしかしなかった償いに、オレからはもう何も望まないって。お前が幸せになれるなら何でもする、オレのことより自分のことを考えてくれ。クロードの所に帰りたいならそうすればいい、オレの恋人になろうなんて思わなくていいんだ」
今までモヤモヤしてた不安が形になって襲いかかってきた。
アシルがわたしに強い罪悪感を持っていることが痛いほどわかってしまった。
でも、本当に知りたかったことはわからない。
あなたはわたしが他の人の手を取ることを許せるの?
わたしの想いが簡単に移ろうほど軽いものだと思っているの?
「もういい、今日は一人で寝る。心配しなくても、もう寝られるの。アシルと一緒にいたかったから、言わなかっただけだから!」
アシルを押して、部屋から追い出した。
彼は抵抗しなかった。
押されるままに部屋から出て、どこかに行ってしまった。
行かないで。
ここにいて。
わたしを抱きしめて。
自分で追い出しておいて、頭の中は彼を求める気持ちでいっぱいだ。
アシルがわたしの言葉を優先することはわかっているのに、それでも手を伸ばして欲しかった。
掛布にくるまったまま、ベッドの上で蹲って、声を殺して泣いた。
どれだけ泣いても好きな気持ちは消えてくれない。
自分のことを考えて、それでもそうなのに。
どうしたらアシルはわかってくれるの。
翌日、支度をして侍女の控え室に行くと、みんなわたしを見て驚いた顔をした。
「どうしたんですか、レリアさん」
「顔色が悪いですよ」
「もしかして泣いたんですか?」
泣いて、眠れなくて、目元が腫れ上がって酷くなっているのは、鏡で見て自分でもそう思った。
心配させてしまったことが申し訳なくて、自然と俯きがちになってしまう。
元気に振る舞おうとしても、不自然になってしまってできなかった。
「今日は休みなさい。問題が起きたなら、相談しなさいと言ったでしょう」
マガリ様が優しく声をかけてくれた。
「すみません、個人的なことなので、気持ちの整理をつけてきます」
許可を得て、控え室を出る。
どうしよう。
気持ちの整理と言ったって、何をすればいいのかわからなかった。
廊下を当てもなく歩いていたら、アシルとクロードがいた。
声を潜めて何か話している。
二人とも、わたしに気づくと、話をやめて近寄ってきた。
「泣いたのか?」
アシルが躊躇いがちに手を伸ばしてきたけど、わたしはその手を払いのけた。
クロードに駆け寄り、彼を盾にしてアシルの視線から隠れた。
「クロード、わたしを連れて帰って。ここにいたくない」
今アシルと話そうとしても、言葉が見つからなくて、自分の気持ちがうまく言えない。
逃げ場所が欲しくて、クロードに縋っていた。
クロードはしばらく黙ってわたし達を交互に見ていたけど、やがて頷いてくれた。
「いいだろう、侍女長には後で使いを出そう。私服に着替えて必要な物だけ持ってこい」
部屋に駆け戻り、侍女服から着替えて、鞄に衣類や必要な物を詰め込んだ。
そして、また同じ場所に戻ると、クロードだけがそこにいた。
「お互いに頭を冷やす時間がいるんだろ、それに都合もいいしな」
クロードはよくわからないことを言いながら、わたしを連れて帰ってくれた。
お屋敷に着くと、応接間でクロードと二人でお茶を飲んだ。
こうなった以上、隠すこともできないので、クロードには今までのアシルとの関係や昨夜の出来事までを全て打ち明けた。
話を聞き終えると、クロードは呆れたように呟いた。
「あの男、意外に面倒臭いヤツだな」
面倒臭いって、そういえばクロードも女将さんに言われてたっけ。
アナベルさんのことを思い出してしまったけど、今はわたしの話だから、脇に置いておく。
「レリアは罪悪感だけで尽くされていると思っているのか?」
「それだけじゃないと思いたいけど、アシルの気持ちが全然見えないの。わたしが好きって言ったら受け入れてくれるけど、それは何か違うんだよ」
クロードは立ち上がると窓辺に立った。
窓の向こうには、訓練場が見える。
懐かしむ気持ちにはなれなくてまだ行ってなかったけど、遠くから見ているだけでも家族が揃っていた幼い頃のことを思い出してしまう。
「なあ、レリア。オレはいずれお前と結婚するものだと思っていた。身を焦がすような恋情はなくとも、お前となら夫婦になっても穏やかな暮らしが営める。オレはドミニク様に拾われてからずっと幸せだった。いつまでもあの暮らしが続くものだと信じて疑っていなかった」
それはわたしも感じていたこと。
クロードと夫婦になれば、これまでと変わらない穏やかな日々が続く。
それなりに幸せな生活が送れただろう。
けれど、そんな未来はなくなった。
環境は激変して、あの頃のわたし達はいなくなった。
「この屋敷は建物だけは昔のままだ。だが、そこにあったものは何もない。どれだけ取り繕っても元には決して戻らない」
クロードは自分にもわたしにも言い聞かせるように力強く言った。
「十年は長過ぎた。お前の傍にいたのはオレじゃない、アシルだ。お前達が二人で積み重ねてきた出来事が、今に続いている。逃げないでちゃんと見ろ、幸せになりたいなら、大切なものを見失うな」
突き放すような言葉だけど、クロードの思いやりが伝わった。
幸せになれるように、彼はわたしの背中を押してくれている。
「うん、そうだね。わたしはアシルが好き。目覚めた日から寄り添って、わたしを支えてくれた彼が好きなの」
「それだけわかっているなら大丈夫だ。どうせあの男はお前から離れない。あんな面倒なヤツが付き纏っている女を誰が嫁にするんだよ、責任取れって言ってやれ」
クロードの笑みは、少年だった頃の快活さを取り戻していた。
彼の心を過去に引き留めていたのは、わたしだった。
もう大丈夫。
わたしも前を向いている。
あなたもわたしも、これからは新しい未来のことだけ考えれば良い。
「寝室を用意させるから、休暇を兼ねてしばらく泊まっていけ。あいつとすぐに顔を合わせるのは気まずいだろう」
「うん、ありがとう。そうさせてもらうね」
お城に戻ったら、アシルとどんな風に話そう。
わたしの気持ちを伝えて、これからのことを一緒に考えたい。
夜も更けた頃、ふいに目が覚めてしまって、そこからなかなか寝付けなかった。
星でもを見ようかと窓に近づいたら、裏庭で小さな明かりが動いているのが見えた。
「誰だろう、見回りの人?」
屋敷のどこかで扉が開く音がした。
なぜか胸騒ぎがして、羽織り物を着て部屋を出て、音がした方へと行ってみた。
音がした扉の向こうは窓から見えた裏庭に続いている。
不穏な気配を感じたから、静かに外に出て、茂みに身を隠しながら近づいていく。
話し声が聞こえてきた。
クロードと知らない男の人が二人でいる。
クロードが男の人に身振りで何かを促した。
「約束のものは持ってきたのか?」
「ああ、説得するのに苦労した。しかし、ようやく復讐が果たせる好機だというのに、意外に冷静で驚いたぞ」
「騎士は脳味噌まで筋肉でできている馬鹿だとでも思っていたのか? 貴様らの都合の良い駒にされてたまるか。こっちは好きな時に動いてもいいんだ。お前らの思惑に乗ってやる義理も利益もないのだと、いい加減に理解しろ」
男の人から舌打ちの音が聞こえた。
雰囲気は険悪だ。
何の話しをしているんだろう。
「一度偽物を持ってきたからな、信用なんてしてるわけがないだろう」
「わかっている、これが契約書だ。侯爵様のサインと印章が押してある」
「ああ、今度は紛れもなく本物だ。予定日ギリギリまで待たされて、計画を取りやめにするのかと思っていた所だったぞ」
「ふん、公爵就任の不安定なこの時期が好機なのだと言っただろう。フェルナンが消えれば、公爵位と領地はあの方のものになる。私は貴族に取り立てられて返り咲ける。お前達も陛下の仇を討てて満足だろう。しかし、幾ら仇討ちのためとはいえ、復讐心を隠して少しも疑われずに懐に入り込むとは、たいした演技力だな」
フェルナン様を消す?
あの人何を言ってるの?
クロードはどうして冷静にあの人の話を聞いているの。
「聞いた話によると、アシル=ロートレックはドミニク殿の仇だそうじゃないか。ヤツはフェルナンの側近だ、生かしておいても邪魔になる、ついでに殺してしまえ」
「ああ、そのつもりだ」
躊躇う素振りも見せずに、クロードは言い切った。
どうして?
アシルが好きだと言ったわたしを、あなたは励ましてくれたじゃない。
理解が追いつかなくて混乱した。
すうっと体が冷えて震え出す。
「決行は明日の夜だ、城で落ち合おう」
「了解した、仲間にも伝えておく」
温度の感じない冷たい声で、クロードは密談を終えた。
男の人は闇に紛れて姿を消してしまい、どこに行ったのかもわからない。
大変なことを聞いてしまった。
このままじゃ、フェルナン様とアシルが殺されてしまう。
「レリア、聞いていたのか」
茂みを掻き分けてクロードがわたしを見下ろしていた。
柔らかい笑みを見せてくれていた顔は、今はとても冷え切って恐ろしく見えた。
「やめて、クロード。復讐なんてしちゃだめだよ」
やっと出せた声は震えていた。
わたしの言葉で、彼に今の会話を全て聞いてしまったことを悟られた。
「何も知らないままで終わらせたかったんだがな、聞いてしまったのなら仕方がない。事が済むまでこの屋敷にいろ、城はこれから少々騒がしくなる」
「クロード!」
クロードはわたしの手を引くと、屋敷の中に戻っていく。
「何も心配はいらない、オレを信じろ」
アシルを殺すと言ったあなたの何を信じろって言うの?
復讐を止めるためには、何も知らないわたしじゃだめだ。
忘れていた記憶を全て思い出さないと。
開けてはだめだと、叫ぶ声が聞こえる。
頭が痛い。
でも、アシルが死んでしまうより、痛いことなんてない。
「う、ああああああっ!」
「レリア!」
頭が痛くて割れそう。
意識が遠のいていく。
倒れていく体を、クロードが受け止めたのを最後に感じて、わたしの意識は闇の中へと落ちていった。
わたしは扉の前に立っていた。
二度と見ることはないと思っていた、記憶を封じたあの扉だ。
もう一人のわたしが向かい合うように立っている。
彼女はやっぱり泣いていた。
「泣くのは終わり、扉を開けて。思い出しても大丈夫、今のわたしなら、あなたが見なかった真実が見える。もう憎みたくても憎めない、許せないなんて言えないから」
泣き声が止まった。
彼女の姿が消えて、扉に絡みついていた無数の鎖が千切れていく。
扉が開いて、忘却の彼方に押しやった記憶の波が、わたしに向かって流れ込んできた。
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