憎しみの檻

-もしもの物語-

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 月日は過ぎ、エリーヌ様は健やかに成長されて十六才になられた。
 フェルナン王子は、相変わらず保護者役に徹していて、寝所に立ち入ることは決してない。
 婚姻が解消されることはないのだとしても、ずっとこのまま平穏に過ごせればいいと思う。
 本音を言えば、エリーヌ様だけでも穢れなきまま生涯を終えて欲しいのだ。

「レリア、近衛騎士団は今日戻ってくるのだったわね」

 エリーヌ様は喜びを隠すこともせずに、騎士団の帰還……、正しくは王子の帰宅を待っている。

「ええ。そろそろ王都につく頃かと。彼らも大変ですね、今回は同盟国に要請されての戦でしょう」
「フェルナン様はご無事でしょうね。心配だわ」

 王子の身を案じるエリーヌ様を、苦々しい思いで見つめた。

「何の連絡もないのです。ご無事なのでしょう。ご帰還なされれば、せっかく静かだったこの屋敷も、また煩くなりますね」

 ポットを手に取り、カップに紅茶を注ぎながらそっけなく答える。

「もう、レリアはいつもそう。嬉しくないの? アシルも帰ってくるのに」

 思わず紅茶を溢れさせそうになった。
 どうしてここでアシルの名が出てくる?
 ぎょっとしてエリーヌ様の方を向くと、我が主はからかいの表情で目を輝かせていた。

「知っているのよ。レリアはアシルとお付き合いしているのでしょう? それもかなり親密な」

 エリーヌ様は全てお見通しなのだと言外に匂わせた。
 おそらく、屋敷の中で行った情事を見るか聞くか、なされたのだろう。
 変なところで好奇心旺盛なお方だ。
 だが、その認識は間違っている。
 わたしとあの男の間に愛はない。
 あるのは肉欲と快楽、それと憎しみ。

「いえ、別に付き合ってはいません。この国でわたしが結婚することはないでしょう」
「え? だけど……」

 エリーヌ様は賢明にも口をつぐんでくれた。
 わたしもこれ以上は言いたくない。
 体だけの関係などと生々しく醜い現実を、この人は知らなくていいのだ。




 王子は戦の報告を兼ねて王宮に入り、そのまま祝勝の宴が催されたらしく、屋敷に帰ってきたのは翌日だった。

「ただいま、エリーヌ」
「フェルナン様、お帰りなさいませ」

 エリーヌ様は王子に駆け寄り、抱擁をねだった。
 王子も疲れた顔をホッとしたように緩めて、エリーヌ様を腕に抱いた。
 二人の姿はどう見ても仲睦まじい夫婦のようで、意見したい気持ちが膨らんだが、王子の前でもあり、黙っていた。

「一晩中、宴に付き合わされてしまった。これから一眠りさせてもらうよ。また後でね、エリーヌ」

 頬にキスをして、エリーヌ様の頭を撫でると、王子は自室へと歩き去った。
 エリーヌ様は不満そうだったが、王子の疲れように我が侭は言えずにおとなしく見送られた。
 そして、ちらっとわたしを振り向く。

「フェルナン様のお部屋について行ってはダメ? 何もしないでお傍にいるだけよ」
「いけません」

 寝室に入れるなど言語道断。
 王子も男だ。
 以前のような子供ならともかく、今のエリーヌ様は初潮もとうに迎えられ、女らしい体つきをした十分な大人だ。
 疲れているとは言え、ベッドを前にして二人っきりになって、襲わぬという保証はない。
 何より二人は夫婦なのだ。
 情事を行っても、後ろめたいことはない。
 むしろ遅すぎたほどだと誰もが言うだろう。

「レリア、前から言おうと思っていたのだけど……」

 エリーヌ様の表情が硬くなり、語られる言葉の先に不吉なものを感じた。
 聞いてはいけないと、本能が警告した。

「用事を思い出しましたので、そのお話は後日改めてお伺いします。いいですか、エリーヌ様。フェルナン王子がどれほど良い方であっても、我々と彼の間には越えてはならないものがある。それは生涯消えぬもの、忘れることは許されないことなのです」
「レリア!」

 エリーヌ様の悲痛な呼び声を無視して、その場を離れた。

 エリーヌ様に聞かせた言葉は、わたしに言い聞かせる言葉でもあった。
 アシルに抱く憎しみの感情に、別のものが混ざり始めている。
 憎しみと相反する、絶対に認めてはならない感情。
 あの男は兄の仇。
 わたしを辱め、長年に渡り、体を弄んできた憎い男。
 そのはずなのに、憎しみは消えはしないのに、なぜわたしはあの男の帰りをこれほど待ち侘びているのだろうか。




 当てもなく、自室に戻った。
 部屋の手前で、扉の前の人影に気づき、足を止める。
 胸にじわりと小さな喜びが浮かんだ。
 だが、意識して打ち消し、冷たい表情を作る。

 王子同様、昨夜の宴に巻き込まれていたのか、アシルの制服は少しくたびれて見えた。
 着替えをする間も惜しむほど、わたしに会いたかった?
 それとも戦の後で、女が欲しくなっただけ?

 後者であると確信して、再び足を動かして近づいていく。

「よう、久しぶり」

 獲物を見る目で、彼はわたしを眺めやり、口の端を歪めた。

「生きてたんですね。死ねば良かったのに」

 冷淡にきつい言葉を吐き出す。
 アシルもわたしが抱く憎しみはわかっているはず。
 だが、どれほど敵意を向けても、彼はむしろ面白がって、わたしに絡む。

「随分な言い草だな。これでも真っ先にお前のとこにきたんだぜ。オレの帰りを待っている女達を放っておいてさ」
「でしたら、そちらを優先でどうぞ。王宮や街にいる娼婦達が大喜びで歓迎してくださるのでしょう?」

 わたしを抱く傍らで、アシルは相変わらず娼婦を買い、遊び相手を求める貴婦人達の誘いにも応じているらしい。
 この腕で他の女を抱いたのだと思うと、ムカムカと怒りが込み上げてくる。

「冷てーな。せっかくご主人様が無傷で生還してきたんだ。もっと喜べよ。今から天国に連れてってやるからよ」
「天国? 地獄の間違いじゃないの?」

 ふんっと、そっぽを向いてドアノブをまわした。
 わたしに続いて部屋に入ってきたアシルが、背後から体を抱きしめてきた。

 服の上から胸を揉まれる。
 アシルは慣れた手つきで侍女のお仕着せの留め具を外し、直に肌へと触れてきた。
 指先で乳首を摘ままれて、体の奥が熱くなる。

「お前の体は最高だ。行軍の間、何度思い返して抜いたかわからねぇ。やっと本物にありつけたんだ。楽しませてくれよ」
「勝手なこと言わないでっ、あんっ、んぅ……」

 抵抗しても腕は緩まない。
 ドアに鍵がかけられ、ベッドの上に投げ出された。

 半分脱がされた衣服をかき寄せて、身を硬くする。
 逃げられないのはわかっている。
 この国にいる限り、わたしはこの男の奴隷だ。
 だけど、心までは征服させない。

 殺気を放ち、睨みつけるわたしを、アシルは嘲りの目で見下ろしてきた。
 彼は衣服を脱ぎ捨て、傷だらけの逞しい体を晒した。
 瞼を閉じて、覆い被さってくる男の気配を感じる。
 アシルの手が肌を探り始めた。
 唇が押し当てられ、赤い痕をつけていく。

 間もなく、アシルが欲望をわたしの中に埋めた。
 足を抱え、奥まで突き上げてくる。

 激しい憎しみと怒りが湧き起こる。
 陵辱に耐えながら、わたしの中で憎悪の感情がさらに大きく育つ。

 耐えるのはエリーヌ様のためだ。
 でなければ、もう死んでいる。
 あの方にはわたししかいない。
 わたしは何があっても生きなければならない。
 その思いだけが、アシルに対する複雑な感情に揺れ動くわたしを支えていた。




 明け方に、寒さのせいで目が覚めた。
 起き出して窓のカーテンを開けると、ガラスの向こうに広がる曇り空からちらほらと雪が降ってきていた。
 初雪が降ったんだ。

 深々と降り注ぐ雪は山となり、屋敷の男達が屋根から雪を落とす作業を始めた。
 積もるほど降ったのは数十年ぶりのことらしく、雪の重みに耐えられる設計ではない建物は、こまめに雪を下ろさないと潰れてしまう。
 王子自らが指揮をとって雪下ろしを行っている間、わたしとエリーヌ様は庭に出た。
 庭には屋根から下ろされた雪が運び込まれて積まれていた。

「わあ、すごい雪。こんなに積もったのを見るのは初めてね」

 エリーヌ様は初めて見る一面の銀世界に感嘆の声を上げた。
 今までは降ってもすぐに溶けてしまうほどの雪しか見たことがないからだ。
 防寒用のコートを着て毛糸の手袋をしたエリーヌ様は、雪だるまを作って遊び始めた。
 まだまだ子供だ。
 無邪気な姿に安堵してお傍に行く。

 存分に雪遊びを楽しんだエリーヌ様は、立ち上がって屋根を見上げた。
 屋根の上には王子がいて、エリーヌ様はその姿を無心で追っていた。

「エリーヌ様」

 声に咎めの含みを持たせて呼びかける。
 エリーヌ様は我に返ってわたしを振り向き、憂いの表情を浮かべた。
 小さく口を開け、わたしに何か告げようとしたようだが、すぐに唇は結ばれ、何も言葉は出てこなかった。

「お体が冷えてしまいます。お部屋に戻りましょう」

 肩に触れて、屋敷の中へと促す。
 エリーヌ様は何も言わなかった。
 見交わした瞳の中に、悲しみの感情を読み取って胸が痛んだ。

 それでも認めることはできない。
 エリーヌ様はわたしの支えでもある。
 その主君が、仇である王子と心から結ばれることなど、あってはならないし、それは亡くなった故国の者達への裏切りでもあるのだ。




 夜になっても雪はまだちらつき、真っ暗になった空から、ちらほらと舞い落ちてくる。
 夜着にコートを羽織って庭に出て、ぼんやりと雪が降る様を眺めていた。
 落ちてきた結晶が髪にくっついては消えていく。
 吐く息が白く変わる。
 寒かったけど、動く気にはなれなかった。

「風邪引くぞ」

 背後からマントで包まれた。
 マントの上から男の太い腕がまわされる。
 いつもわたしを好き放題に嬲る憎い男の腕。

 だけど、今は温かい。
 わたしを包み込んで守っている。
 何者からも守護する、頼もしい腕。

 彼がこうして時折見せる優しさの理由を知るのが怖い。
 ふらふらとすがりつきそうになる度に思い出すのだ。
 魂の抜けた亡骸となった父と兄の姿を。

 敗者として晒された多くの屍。
 兄を斬ったと告げた時の、アシルの顔も声もはっきり思い出せる。
 深夜の浴場で犯された時の、恐怖と絶望も。

 わたしの内から声が聞こえる。
 憎めと。

 家族と故国の仇。
 わたしの未来と幸せを奪った男。

 生涯消えない憎しみがわたしを駆り立てる。
 この男の心臓に刃を突き刺し、抉り取る。
 そうできれば、この心に平穏は訪れるのだろうか。

「オレを殺したいか?」

 アシルの問いに、ぎくりと体が強張った。
 密着しているのだ、アシルにも動揺は伝わったはずだ。

「図星か。いや、最初からそうだったな」

 何がおかしいのか、アシルは笑っていた。

「いいぜ、殺しても。お前にならこの命、くれてやってもいい」

 本気なのか、冗談なのか、わたしには判断がつかなかった。
 だけど、彼の思惑がどうであれ、答えは決まっていた。

「殺したいけど、今はその時じゃない。わたしには復讐より大事なものがある。わたしの体より、心よりも大切なものなの。あなたを殺したら、もう守れなくなる」

 この場にいるのは、遠い日に誓った使命のためだ。
 エリーヌ様と一緒に故国に帰る。
 その日を信じて共に耐えようと、二人で誓ったのだ。

「人の心ってのは変わっていく。お前はそうでも、相手はどうかな?」
「変わらないし、変わらせない。許されないことなのよ」

 アシルも気づいているのかもしれない。
 エリーヌ様が王子に抱く気持ちに。
 わたしは声に出すことで、自分が正しいのだと心に言い聞かせた。

 アシルの腕が離れて行く。
 マントはわたしの体を包んだままだ。

「次に会った時に返せよ。病気になられちゃ楽しめねぇから、貸しといてやる」

 雪を踏む音が遠ざかり、わたしだけがその場に立っていた。
 マントの中は温かく、涙がこぼれた。
 温もりなんていらなかったのに。
 余計な感情を生み出す優しさなんか見せないで。

 雪の上に崩れ落ちて泣いた。
 わたしを支えてきた憎しみという名の柱が、頼りなく傾き始めていた。




 エリーヌ様が話があるのだと切り出した時、もう逃げることはできないと悟った。
 口実を作ることは許さないと、エリーヌ様の目は告げていた。

「わたしももう大人です。フェルナン様の本当の妻になりたい。今夜にでも、この気持ちを打ち明けようと思っているの。あなたに嘘はつきたくないから、先に言っておくわ」

 恐れていたことがついに現実となる。
 憎むべきはずの王子に身を任せる、それは故国への裏切りに他ならない。
 わたしは我を忘れて詰め寄っていた。

「いけません、エリーヌ様! あなたはあの男が何者かお忘れですか!? 父君と兄君達を亡き者にして、あなたと母君を引き離した敵国の王子に心を許すなどあってはならない! そのような感情は今すぐ捨ててください!」
「いやよ!」

 エリーヌ様は毅然とわたしの言葉を撥ね退けた。

「この国に来てからフェルナン様はずっとわたしを守ってくださった。確かにあなたの言う通り、アーテスはネレシアを滅ぼした。でも、それは仕方のないこと。元はといえば戦を仕掛けたのは我が国の方なのです。あの戦で家族を失ったあなたの気持ちもわかる。だけど、薄情だと言われてもいい。わたしにはあの時の記憶は薄れてほとんどないの、この国に来てからの、フェルナン様との思い出の方がこの心には強く残っている」

 エリーヌ様は涙を浮かべてわたしの手を握った。

「わかって、レリア。わたしはフェルナン様を愛しているの。あの方と幸せになりたい。あなたもそうよ。過去に縛られず、未来を見て。憎しみに囚われていては何も生まれはしないわ」

 誰よりも大切にしてきた姫が、遠い存在に思えた。
 忘れろと言うのか。
 肉親を殺され、屍を晒し者にされたことを。
 心を踏みにじられ、体を犯され、希望を消されたわたしに、どんな未来があるというのだ。

 最後に残された、生きる支えだった人さえもが、わたしを切り捨てる。
 わたしがいなくても、エリーヌ様は幸せになれるんだ。

 何のためにわたしはこの国に来た。
 何のために耐えてきたのだ。

 これまでの歳月が、全て無駄なものに思えた。
 胸に穴が開いたような、空虚な気持ちになり、自嘲の笑みが浮かんだ。

「レリア?」

 黙り込んだわたしに気づき、不安そうにエリーヌ様が顔を覗き込んできた。
 先ほどまで反対して詰め寄っていたわたしが笑っていたことに、エリーヌ様が驚いているのがわかった。

「いいえ、ならば何も申しません。ご自由になされればいい」

 エリーヌ様に背を向けて歩き出す。
 引き止める声が聞こえたが、無視して扉を閉めた。




 わたしの役目は終わった。
 足早に部屋に戻り、扉を背にしてもたれかかった。
 次に服の下から懐剣を取り出し、鞘から刃を抜いて輝きを確かめた。

 手入れはしていたから、切れ味も十分だ。
 今夜この剣は血を啜る。
 アシルの、もしくはわたしの血を。

 悪夢の再現をしよう。
 今度は覚めない現実の出来事として。

 足音が近づいてくる。
 短剣を鞘に戻し、枕の下に隠した。
 ほどなくドアが開き、アシルが入ってきた。

 相変わらず遠慮というものをしない男だ。
 わたしは微笑んで彼を迎えた。
 恐らく初めて見るであろう、わたしの表情に、アシルは驚きを隠さず息を呑んだ。

「あなたを待っていたのよ。さあ、抱いて」

 衣服を脱いで裸体を晒す。
 身動き一つせず、つっ立っているアシルに焦れて、自分から抱きついた。

「抱いてもいいって言ってるの。たまにはわたしも楽しみたくなったのよ」

 これで最後だから。
 アシルを殺しても、逆に殺されても、間違いなくこれが最後。
 復讐に成功したとしても、騎士を殺した罪でわたしは処刑される。

 アシルが唇を重ねてくる。
 わたしはそれを受け止めて、舌を絡めて応えた。
 こうしていると、恋人同士みたいだ。
 あなたはどう思っているの?
 いつも反抗的な奴隷がいきなり従順になって、さぞかし気味が悪いことでしょうね。




「んっ、ああっ、あんっ、アシルっ!」

 正面から貫かれながら、わたしはアシルに抱きついた。
 肩に腕をまわし、しがみつく。

 アシルはわたしを貫いたまま抱き起こし、座位の形にして下から突き上げてきた。
 上下に腰を動かし、キスを交わす。
 唾液が交じり合うほど舌を重ね、貪りあった。

 余計な感情は全て捨て去り、目の前の男を欲しがる気持ちだけを表に出した。
 わたしは心から彼を欲していた。
 アシルの大きな男の象徴、逞しい手足や、頑強な胸板など、彼の全てを喰らい尽くしたくてうずうずしている。

「レリア……」

 情欲の嵐の中で囁かれた声が、ひどく切ない響きを持って聞こえた。
 わたしは手足を彼に絡め、繋がりを深くした。

 再び押し倒され、激しく突かれる。
 中で精液を出されても構わずに、続きをねだった。

「もっと、もっと欲しいの……。アシル、お願い……、壊れるぐらい激しくしてぇ!」

 わたしは半ば狂っていた。
 アシルの名を呼びながら数えきれないほど達して、彼の精を搾り取った。




 規則正しい寝息が隣から聞こえてくる。
 起き上がり、裸の体に薄物の夜着を羽織った。
 白地のそれは死へと誘う衣装にぴったりだった。
 意図して選んだわけではないけど、この場面に一番相応しい装いに思えた。

 枕の下から懐剣を取り出して、鞘を外す。
 きらりと光る刃を、眠る彼の上に向けて掲げた。


このまま突き刺す


寝顔を見る



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