憎しみの檻

-もしもの物語-

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 浴場には常に新鮮な水が湛えられており、水浴びをしても気温は高く風邪なども引く心配はなかった。
 だけど、いつ誰が来るかわからない。
 家人の多くが起きている時ならともかく、深夜に一人で行くのは軽率な行為と言われても仕方がないだろう。

 外に出て井戸まで行き、布を水で絞って部屋に戻った。
 体を拭くだけでも大きく違う。
 夜着も着換えたのでさっぱりした。
 これで眠れる。
 今夜はもう、あの夢は見たくない。



 それから何ヶ月か過ぎた頃だ。
 エリーヌ様が王妃に招かれて後宮に参られるというので、わたしも供をして行った。

 なぜだろう?
 あちこちから視線を感じる。
 後宮に勤める女官達が、エリーヌ様に嫉妬交じりの視線を向けることはよくあったが、今日はその目がわたしに向けられていた。
 始めは気のせいかと思っていたが、どうやらそうではなかったことが、王妃と対面した時に判明した。




 アーテスの王妃は後宮の主だ。
 各国から送り込まれてきた多くの妃達を、絶大な権力と威厳で束ね、従えている。

 彼女が生んだ三人の王子だけが王位継承権を持ち、側室達の子供は生まれた時から臣下として生きるべく教育を施された。
 少しでも欲を出した側室は子供共々秘密裏に葬られる。
 そんな噂さえ流されるほど王妃は冷徹で聡明な人であり、また人の上に立つ者としての器量や優しさも併せ持つ、不思議な人であった。

「ごきげんよう、エリーヌ様。今日はあなたと私の二人だけ。堅苦しい作法は抜きにしても良いですよ、お座りなさい」

 三番目の息子の后であるエリーヌ様に対しての王妃の態度は好意的に見える。
 穏やかに微笑み、王妃はエリーヌ様に席を勧めた。

「ありがとうございます」

 エリーヌ様がお座りになったので、わたしはその後ろに立ったまま控えた。

「ああ、そうですわ。そちらにいる侍女の名は、レリアだったかしら?」

 急に王妃の視線がこちらに向けられ、動揺してしまった。
 なぜ、わたしに関心を?
 驚きすぎて固まっている間に、エリーヌ様が王妃に答えた。

「はい。そうですが、レリアが何か?」
「近頃、面白い噂を耳に入れたのです。エリーヌ様もアシル=ロートレックのことは当然知っておいでですわね。フェルナンが最も信頼を寄せる側近であり、あの子の乳兄弟でもあるのですもの」

 優雅に笑い、王妃は話を続ける。

「アシルは昔から性に奔放な子でしてね。それはもう数え切れないほどの女性と関係を持って浮名を流していますのよ。相手を選んでいるだけ、まだ救いがありますが、花から花へと渡りゆく姿を城内で知らぬ者はおりません」
「そ、そうなのですか……」

 エリーヌ様は困惑顔で相槌を打たれた。

 わたしの大切な姫に、あの男の穢れた噂を耳に入れないでもらいたい。
 止めたかったが、悲しいかな口を挟むには力が足りない。
 せめて露骨なことだけは言わないで。

 祈るような気持ちで会話の成り行きを見守っていたが、王妃は再びこちらに目を向けて人の悪い笑みを浮かべた。
 次に彼女はエリーヌ様にではなく、わたしに対して言葉をかけた。

「前置きはこのぐらいで良いでしょう。噂と言うのはあなたのことです。あのアシルが、エリーヌ王女の侍女を恋人にしたと城外にまで広まっているそうですよ。それにしては女遊びは元のままらしいのですが、あなたはそれでもいいのですか?」

 え?
 恋人?
 誰が、誰の?

 噂の内容が衝撃的過ぎて声を失い、立ち尽くして数秒後……。

「ええーっ!」

 目の前の人の身分も、自分の立場も、ここがどこなのかも忘れて、わたしは大声を出していた。




 知らない間に、わたしはアシルの恋人にされていた。
 根も葉もない噂ではなく、あの男自身が公言したのだということだ。
 嫌がらせにしても度が過ぎる。
 相手の思惑もわからないために、困惑と怒りを胸に抱えて屋敷に戻り、アシルが訪問してくるのを待った。




 アシルの来訪を聞きつけて、エントランスまで飛んでいく。
 彼はわたしの顔を見ると、少しだけ驚きを見せて笑った。

「おや、侍女殿がお出迎えしてくださるとは珍しい。これは何かの吉兆か凶兆の前触れかな」

 何を白々しい。
 怒りに目を吊り上げて、アシルを怒鳴りつけた。

「とぼけないで! 何のつもりか聞かせてもらいますからね! どうしてわたしがあなたの恋人だなんて嘘をついたんですか!?」

 怒りに任せて詰めよると、アシルの表情が冷たく変わった。
 いや、真剣と言えばいいのか。
 笑みは引っ込んで、険しい目つきで睨まれた。

「大声出すな。納得するまで話してやるから、こっちに来い」

 腕を掴まれて、近くの部屋に連れて行かれる。
 アシルは部屋にわたしを押し込むと、慎重に廊下の様子を窺ってドアを閉めた。

「んで、誰からどこまで聞いた?」

 問いかけられて、我に返った。
 アシルがあまりにも落ち着いているから、先ほどの自分の振る舞いが、ひどくみっともなく感じられて居心地が悪くなった。

「王妃様からよ。アシルが自分でそう言ったと王宮はおろか城下にまで広まっているっておっしゃっていたわ」
「ああ、そっちから耳に入るとは考えてなかったな」

 失敗でもしたかのごとく、アシルは苦笑気味に呟いて頭を掻いた。
 わたしの耳にってこと?
 もう、わけがわからない。

「きちんと説明してください」
「わかったって。じゃあ、お前、自分の立場がどんなものかわかっているのか?」

 わたしの立場?
 わからないとでも思うの?
 バカにして。

「わたしはエリーヌ様の侍女です。それ以外の何者でもない」
「今の答えでよーくわかったよ、オレの判断は間違っていない。お前は何もわかっちゃいねぇ、世間知らずのお嬢様だってことだ」

 額を指で小突かれてムッとした。
 世間知らずだなんて。
 侍女だってもう四年近くもやっている。
 ちょっと年上なだけで、威張らないでよ。

「ネレシアは戦争に負けてアーテスの支配下に置かれた。それはわかるな? なら、エリーヌ王女がアーテスに来たのは何のためだ? 従属の証としての役目を負わされた姫は、アーテスの王族、すなわちフェルナン様のものになったわけだ。正妃なんて言葉で繕っても所詮は従属する立場だ。もしも、フェルナン様が人を人とも思わぬ外道だったなら、姫は今頃どんな目に遭っていただろうな?」

 淡々と語られる話を聞いている内に、ぞくりと寒気がした。
 わたしは王子を憎みながら、その優しさに縋っていた。
 仮定の通りにあの人が敵には容赦をしない残虐な性格であったのなら、この平穏な日々はなかったに違いないのだ。

「幸い、フェルナン様は誠実で穏やかな気性の持ち主だ。あの人のやることに裏はねぇよ。お前の姫や故国が裏切りさえしなければ、どちらも必ず守ってくれる」

 息を吐き、呼吸を落ち着かせた。
 アシルはわたしを見下ろして、さらに続けた。

「だが、この国にはそうでないヤツもいる。勝者は敗者を虐げて当然だと考えているようなヤツだ」

 吐き捨てるように呟く彼から怒りを感じた。
 わたしに対するものではない。
 何か別のものに対して、アシルは憤っていた。

「エリーヌ王女はフェルナン様のものだ。だが、お前はどうだ? 王女でさえ、王子の庇護下でようやく守られているんだってのに、単なる王女の侍女が尊重されるわけがない。お前自身の庇護者が必要なんだ。オレが恋人を名乗った理由はこれでわかったろ」

 つまり、アシルはわたしを守るために嘘をついたということ?
 ますますわからなくなってきた。

「なぜなの? あなたがそこまでしてわたしを守る理由がないわ。こ、恋人なんて言ったら、あなたが困るでしょう?」

 理由は三つ考えられた。
 一つは王子の命令。
 それに加えて、わたしの兄を殺した後ろめたさと、心許ない境遇への同情。

「フェルナン王子に頼まれたの? それとも同情? 戦争でわたしの兄を討ったから、残されたわたしに罪悪感でも持ってるの? そんなことで憐れみを受けるなんて冗談じゃないわ!」

 どっちも嫌だと思った。
 どうあがいても対等になれないもどかしさが、拒絶の言葉を紡ぎだす。
 自分の無力さが憎い。
 強くならなければいけないのに、現実のわたしは家族や故国の仇にすがることしかできないなんて。

「命令でも同情でもねぇ。オレがしたいからやった、それだけだ」
「ごまかさないで! それであなたに何の得があるっていうの? わたしの恋人でいることで利用価値があるなら言いなさい。そうしたら、もう何も聞かない!」

 どうせ縋ることしかできないなら、相手にも同等の対価を与えればいいんだ。
 そうすれば対等でいられる。
 せめてアシルとだけは対等でいたい。

「利用価値か。今のままじゃ何もねぇな」

 アシルの答えに愕然とした。
 顔色を失ったわたしに対して、彼は口の端を歪めて囁いた。

「だが、特定の相手ができるってのは、大いにメリットがあると思うがな。娼婦を買えば高くつくし、病気持ちに当たる危険がつきまとう。王宮にもやらせてくれる女はいるが、独身女だと結婚迫られてうるせぇし、自然に相手は年増……いや、熟女ばかりになっちまって若いのがいねぇ。オレに代価を払うなら体で払ってもらうとするか」

 対等でいる代価が体。
 体で払うという意味が理解出来ないわけじゃない。

 でも、そんな……。
 純潔は結婚するまで大切にするようにと、言い聞かされて育ってきたのに。
 どうしよう……。


代価を払う


払わない



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