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02. |
佑( たすく )は手元の文庫本から視線を外した。
ふと見上げた青空は、色を薄めたような冷たい感じのする色で、千切られたように白く浮かぶ雲の形が緩慢に変わっていく。
その様子をぼんやりと眺めていたが、ホームに電車が入ってくると本を閉じて鞄にしまった。一気に退屈な現実に引き戻された気分だ。
通学の為に毎朝乗る電車は満員状態で辟易する。たとえ遅刻しない程度に時間をずらしても、どの電車も同じような混み具合で、二本後の電車には自分と同じ高校に通う同輩もいるけれど特に親しいわけでもなく、心配性で真面目な性格から二本乗り過ごしても始業時間に余裕で間に合う電車に乗ると決めている。この習慣は中等部から高等部に進級してからも変わらない。相変わらず佑は一人で通学し、電車は満員だ。
けれども、四月になってから一つ気になる事がある。それは、車内で居心地の悪さを常に感じていることだった。
佑がいつも乗る車両は決まって先頭から六両目で、駅のホームにベンチが設置してある前あたりで電車を持っている。二区間乗車し、下車するT駅で改札口に一番近い階段付近に止まるので都合がいい。しかし、最近はその都合の良さを優先しているせいで居心地の悪さを感じている。
その原因は、他校の男子生徒の視線だった。
佑の顔を、無遠慮にじっと眺めてくる。
その少年も、どういう訳か知らないが連れがいなくて、いつも一人だった。どの駅で乗って来るのか知らないが、佑が利用するニ両目の車両にすでに少年は乗車していて、人の流れに押されるようにして乗リ込む佑を車内からじっと見ている。そしてそれは佑が満員電車に揺られている間も続き、下車してようやく少年の妙な視線から解放されるのだった。少年の着ている制服から推測して、多分終点まで乗っていくのだろう。佑にとって少年と一緒になるたった二区間が、だんだんと苦痛になってきている。
ある時佑は一度だけ、下車するときに少年を振り返ったことがあった。
やはり少年は佑を見ていた。まるで佑の姿を必死で目に焼き付けているかのような少年の視線に、不愉快さよりも微かな恐怖を感じた。
そのことがあってから、佑は無関心を装い自分から目を合わせるような真似は避けている。けれども、身長が172センチの佑よりも少年の背は10センチ以上は高そうで、満員電車の中にいても周囲より頭一つ分は突出して目立っていた。少年の髪は肩まで伸びていて、赤茶色や灰茶色、茶色、黒色の混じった色をしている。わざとそういうふうに染め分けているのだろう。いつも前を開いて着ている紺色のブレザーと緩んだネクタイ、左耳のわりと大きな銀色のピアス、不貞腐れているのか侮蔑を込めているのかよくわからない表情から察して、学校生活を楽しんでいるようにも見えない。
(あの格好でも先生に注意されないんだろうか? 変わった髪の色…。赤く錆びた鉄みたい)
佑はそんなことを考えた。小学生の頃だったろうか、海辺に捨てられていた錆びた自転車を見た記憶がある。佑の脳裏で、少年の髪の色とその錆の色が重なった。
佑の目には少年が不真面目で何かの悪意を持って自分を凝視しているように映り、あまり関わりたくない人物という印象を受けた。
どうして毎日舐めるように見てくるんだろう?
あの射るような視線は、少年の顔が端正でごく普通そうに見えるだけに、かえって不気味だ。目は口ほどに物を言う、というなら少年は何が言いたいのか?
少年の視線に気づいたのは高等部の入学式の頃だから、もう二週間ほど経っている。帰宅の時にはまだ少年と乗り合わせたことは無く安心していたが、これからもそうだとは限らない。
最初は自分がその少年の知り合いに似ているのかもしれないと思い、あまり気にしなかったが、さすがにこう毎日じっと見られては気味が悪い。
悪意だとしたら、どんな類のものなのか、佑には見当もつかない。
想像できないから余計に気味が悪いし、対処の仕方もわからない。そしてその悪意が行動に移ったら被害を受けるかもしれない。
……そうなってからでは遅すぎる。
そこまで考えて、(車両を変えよう…)と思った時はもう人の波に押されてしまっていた。
少し憂鬱になりながら、佑は諦めて電車に乗る。
そして、あっ…、と声を上げそうになった。
出入り口付近に、あの少年が立っていたのだ。
あまり視界に入れたくない赤錆色の髪の毛がすぐ間近にある。
(いつもはもっと離れた所にいるのに、どうしてこんな近くにいるんだろう?)
佑の背中に軽い恐怖が這い上がった。今日になっていきなり少年が距離を詰めて接近してきたように思えて、物事が予期しない悪い方向にいきなり加速したように感じた。
相変わらず、少年は冷たい眼差しで佑を見つめている。
(どうしよう…、何だよこいつ…? 何が目的なのか、さっぱりわからない……)
不快な視線を浴びながら、少年の行動が、これからもっとエスカレートしていくかもしれない、そう思うと佑の気分は暗くなった。
人の流れに逆らって少年から離れたかったのに、あっけなく押し戻されてしまい、佑は意に反して少年のすぐ近くに立ってしまった。
満員電車の中で、佑の右肩や右腕が少年の胸や腹の辺りに当たっている。身動きが取れないから身体の向きを変えられない。
そして、いつも制服を着ている少年が今日は私服姿だということに初めて気づいた。
(学校サボる気なのかな?)
佑は少しだけ顔を上げ、横目で少年の様子を探った。
目の端に映った少年は、高い位置からじっと佑の横顔を見下ろしている。
(やっぱり見られてる。不気味……)
少年の視線は無遠慮に投げつけられ、佑の横顔、耳、首筋、肩、横顔、睫毛、唇にまとわりつく。
身体の奥まで覗かれている感じがして、顔が赤くなりそうだ。
まるで侵入者のようだ、と佑は思った。こちらの同意も無しに無遠慮に入り込んで来るその図々しさの裏側には、追い出そうとしても居座り続けてしまう相手の得体の知れない恐怖が透けて見えている。
視姦──。
その言葉が頭に浮かび、少年から顔を隠そうと佑は俯いた。
少年の身体からは清潔な匂いがする。シャワーを浴び、洗いたての衣服を着ているのかもしれない。
俯いたまま佑が自分の右肩へ視線をずらすと、少年の着ている服が見えた。黒いニット地のパーカーを着て、首元から黒いTシャツが覗いている。電車にひどく揺られた時に少年と密着していた佑の肩が離れ、少年の着ているTシャツのイラストが見えた。
(は!?)
佑は瞬きを忘れるほど驚いた。
イラストは少年の胸のあたりから裾まで大きく描かれている。それは細密な、残酷で陰惨な風景だ。太った男が、まだ生きている女の腹を包丁で縦に裂き、裂け目から手を突っ込んでいる。男の周りには作業台のようなものがあって、血がべっとりついた肉切り包丁やミキサー置いてあり、手前には切断された死体が首、胴、脚、と丁寧に分けて積まれている。
(どんなTシャツだよ……)
そのイラストの上の部分にはバンドのロゴらしきものがあるが、アルファベットが崩れているのですぐには読み取れない。知りたい気もするけれど、あからさまに覗き見る勇気は無い。
(どっかのバンドのTシャツみたい。そういえばクラスに一人、こんなジャケ絵のCD持ってた奴がいたっけ…)
佑はクラスメートの顔を思い浮かべたが、まだ喋った事も無い相手で、やはり今は少年の事が気になる。
(この格好だと、これからライブでも行くのかな? こんなに朝早く? それとも朝帰り……だとしたら電車の方向が違うよな…?)
頭の中でいろいろと考えてみたが、少年について何一つ推測することができなかった。
そして、こんな気持ち悪いイラストのTシャツを着ている奴が毎朝自分を凝視していることに、今更になって寒気がした。
目の端に映る少年は今も佑の顔をじっと見ている。
自分が何の反応も示さないから、少年も無遠慮に見てくるのかもしれない。
(だとしたら、一度でいいから、嫌悪感いっぱいの顔をして睨み返してやろうか?)
そう佑は決心して、少し顎を上げた。
再び電車が揺れて人の波が動く。傾いた身体を立て直した時には、佑は少年と向き合う形になってしまった。
(さ、最悪…)
佑は思いっきり顔をそむけそうになったが、相手を観察する最後の機会だと思い直して少しずつ顔を上げた。薄気味悪さよりも好奇心が勝ってしまったのだ。目の端に少年の肩と錆色の髪の毛が見える。そして、左耳のピアスが見えた。
(…? 何だろう?)
その銀色のピアスが何の形かわからない。佑はちらちらと盗み見て、それが棘の生えた芋虫だとようやくわかった。
(変わったピアス…。やっぱり、ちょっと変わった奴……)
関わりたくないと思い直して、佑は少年の顔を睨むという行為をやめた。
(だいたい、毎日睨んでくるなんてやっぱり変。顔は普通だけど、髪の色とか着てる物とかも、ちょっと変だし…。精神が崩壊してるのかな? 身に付ける物にそれが現れてるのかもしれない…)
車内に次の停車駅を知らせるアナウンスが響いた。
佑はこれで人の流れに乗って少年から離れられると思うと安堵し、次の駅で一度降りて、違う車両に乗る換えることにした。
しかし、その必要は無かった。
電車が停車すると、私服を着た少年は、いつもは降りないその駅で下車してしまったのだ。
電車が発車し、窓際に立っていた佑はそっと駅のホームに目をやった。
あの少年が、人の流れに逆らってホームに立っていた。射るような視線で、身じろぎもせずに佑を見つめている。
全身に水を浴びたような寒気がして、佑は竦みあがった。
(何だ、あいつ……。もう明日から、絶対車両変えよう)
怒りよりも、不気味さしか感じていない。
早く少年のことを頭から追い払いたくて、車内から見える青空を眺めてみた。
太陽の光を受けて、綿のような雲が真っ白に輝いている。
その輝きよりも、あの少年の瞳の強い光が、いつまでも消えない残像のように体中に居座っていた。
佑は小さな溜息をついた。
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