|
| |
05. |
電車はS駅に停車した。快速の停まらない、少し淋しい感じのする駅だ。
佑の足元に落ちている学生鞄を拾った少年が、佑の腕を掴みながら歩いて車両の出口へと向かう。佑が見上げた少年の横顔は奇妙なほど真剣で、額や鼻のラインの均衡が美しく、ますます少年が不気味に思える。
ラッシュ時でもこの駅を利用する人は少ないのか、ホームにはそれほど人は降り立っていない。雨は上がっていたが風は少し冷たく、空は青い薄闇に覆われて暗くなりかけている。佑はローターの振動のせいでフラつきながら、少年に腕を取られてホームを歩いた。周囲の人間は二人にあまり感心を示さずに通り過ぎていく。佑の鞄は少年が持っていて、足がもつれている佑は脇を抱えられながら歩いていた。
少年はわざとゆっくりと歩き、人の流れに追い越されてホームに二人だけが残った。
「どこ…へ…?」
佑が顔を歪めながら訊いた。
「俺の部屋」
まっすぐ前を向いて答えた少年の目は、階段を下りて改札へと急ぐ人々の背中を見ている。
「……、バカ…な…」と言いかけた佑の言葉を少年が遮った。
「飽きたんだよ、妄想するのに」
消えそうな、力の抜けた声だった。
少年は佑の方を見ようとしない。あれだけ毎朝、舐めるように見ていたくせに、と佑は思った。それから少年のTシャツのイラストにちらりと目をやって、少年が自分を見ながら、触りながら、何を妄想したのか知ってみたい気もした。危険で馬鹿げた好奇心だと自分でもわかっている。
「犯罪者が……自分の家を…教えるって…?」
皮肉を込めて佑が言い返す。好奇心を満たして屈辱を晴らすには少年の家に行く方が佑にとっても都合が良い、という手の内はまだ明かさないつもりでいる。
「妄想は実態を越えられない部分がある」
独り言でも呟くように少年が言った。
その横顔を見つめながら、佑は不意に抑えきれない感情が突き上げてくるのを感じた。越えてはならない一線を犯罪行為によって簡単に越境したのに、少年はそれほど罪悪感を持っていないように思えたからだ。ただ触りたいから触ったとでも言うつもりなのか。佑の胸に渦巻いたのは怒りだった。
「一撃で、殺してやる…」と佑は唸った。
少年は立ち止まり、佑の顔へと視線を移した。青灰色の風景の中で錆色の髪が風に揺れ、唇の端に笑いが浮かんで消えた。
「……それは困るな」思案に沈んだ調子で少年が答えた。「殺されたら物が創れなくなる」
少年を睨みつけていた佑は、途端に、真黒い深淵を覗いているような暗い気分になった。物を創ることだけが人生の僅かな楽しみだとしたら、なんて狭い世界なんだろう。少年と二人で雪の庭に閉じ込められた錯覚すら覚えて、雪で塗り固められたように心が冷えていく。
「そんな顔して誘うなよ」
冗談まじりに少年が笑い、佑は真剣に怒った表情を作ってみせたが、×××の奥で唸るローターのせいですぐに顔が歪んでしまう。少年はそれを満足そうに眺めていた。
「歩けよ」
笑顔のまま少年が促し、佑の腕を引っ張った。
階段を降りながら、足がもつれそうになった佑の身体を何度も少年が支えた。二人で自動改札を出る時、少年が通学用に使用している自分の定期券と佑の分の切符を入れるのを見て、その用意周到さに少年の仕掛けた罠に引っかかったと佑は悟った。少年は初めから、T駅からS駅までの佑の切符を買ってあのベンチに座っていたのだ。
「…この、犯罪者。恥知らず。……死ね、変態野郎」
並んで歩きながら、佑は、おとなしい風貌に似合わない言葉を吐き捨てた。
「そりゃ、ありがたい肩書きだな」
歩調も変えずに軽い調子で答えた少年を、佑は肩透かしを食った思いで見上げた。
暗い空に視線を向けたまま少年が呟く。
「実態に触れたかったんだ。殻が破れなくて……、もっと先へ進みたい」
「……実態って…僕? 迷惑だ。それと、殻って何だ?」
「壁みたいなもんかな。時々、創作してると行き詰まる」
「創作…?」
何かを求めたり創ったりするその情熱の本質は創作者も犯罪者も大して変わらないと、佑は頭の隅で感じている。
「何か知りたいのか? 部屋に行けばすぐにわかる」
震動の苦痛に耐えながら考え事をしていた顔を覗かれて、佑は恥ずかしさから乱暴に吐き捨てた。
「勝手に詰まってろ…!」
「おまえは、創作のツールだ。ヒント…、ひらめき…、……」
「勝手にツール扱いするな。代替品を捜せ」
「代わりは、無い」きっぱりと少年が否定したので、佑は唖然としてしまった。「手に入らないと思ってた。だから渇望した」
「……気違い創作者」
「おまえの代わりなんて、どれだけ考えても思いつかない。……いらない、嫌だ」
「………僕だって、嫌だっ。ものすごく苦痛だ」
奇妙な求められ方に、佑は戸惑いながら反抗する言葉を捜したが、オウム返しのような台詞になってしまった。
少年はおどけたように目を見開いてから、佑の股間の辺りを眺めた。
「それは苦痛じゃない。そうだろ?」
顔を赤らめた佑がどう答えようか考えている間に少年は前を向き、佑の腕を強く引っ張って歩き始めた。
駅前には小さなロータリーと自転車置き場があるだけで、周囲にはマンションとビルがまばらに林立し、その後ろに住宅街が続いている。
佑は駅前のビルまで歩かされた。一階には小さな弁当屋の他にわりと大きなゲーセンが並んで入っていて、ガラス張りの向こうに客がゲーム機で遊んでいるのが見える。ビルの横には通路があり、壁際には郵便ポストが取り付けてあった。二階にも店舗があるらしいが、どんな店が入っているのか佑はそれほど興味を持たず、三階から上が居住区になっている事だけを目視した。通路の奥に階段とエレベーターがある。少年は何も言わずに佑の腕を掴んで歩いていた。
「おい、天羽(あもう)」
不意に後ろから声がして、立ち止まった少年が気だるそうに振り返った。佑も同じように背後を見ると、少年と同じ学校の制服を着た学生や、同じ歳ぐらいの私服姿の少年たちが三人、離れた所に立っていた。
「何だよオマエ、今日、サボったのかよ」
黒いパンツのポケットに手を入れた格好で、その少年は声をかけてきた。黒い薄手のジップジャケットに派手なバンドTシャツを合わせて着ているその少年の髪は茶橙色に近い。Tシャツのフロントプリントは、荒廃した実験室で実験用に改造された動物が研究員を食べていたりする悲壮感漂うイラストだ。胸元には髑髏モチーフを革紐で繋いだネックレスをしている。佑の爪先から頭の先までを値踏みするように眺めた後、まるっきり無視して少年に話しかけた。
「あとで俺たちも部屋に行っていい?」
「今日は駄目だ」
少年が、少し疎ましそうに断る。
「なんで? オレさ、オマエに渡すモンがあるんだけど」
「悪ィ、今度な」
佑の腕を握り直しながら少年が答え、前を向いて歩き始める。突っ立っていた佑はグイと引っ張られて足元をフラつかせた。
「ちぇっ」と背後で舌打ちする声を無視した少年は、そのまま進んでエレベーターのボタンを押し、扉が開くと佑を押し込んだ。
昇っていく駆動音が耳に入ってくるだけで、二人とも無言だ。佑はローターの振動に我慢できずに腰を屈めてうなだれた。
「しっかりしろよ」
少年が佑の背中を撫でながら言う。
「死ね…」と佑が吐き捨てると、少年は鼻で笑った。
エレベーターは三階で停まり、少年に引っ張られて降りた佑は、通路の一番端の部屋まで歩かされた。見上げた表札には“天羽”と書かれていて、この少年の苗字は、さっき呼ばれた通り“アモウ”なんだろうかと考えた。
少年は鍵を取り出すと、少し焦った様子でドアを開けた。妄想が現実になって、今更のように緊張を感じ初めているらしく、廊下に突っ立っていた佑を強引に部屋の中へ引き入れた。持っていた佑の鞄を落とすように置き、勢いよく扉を閉めて鍵をかけ、佑が周りを見回す暇も与えずに、きつく佑の身体を抱きしめた。
「ああ…」
少年が深く静かな溜息をつく。佑は動きを封じられたように立ち尽くしていた。予想しない展開に、身体が反応できずにいる。
長い抱擁は永遠に続くかと思うほど終わりが無い。少年は何度も佑を抱き直して黒髪に顔を埋め、頬擦りしながら溜息をついた。
佑は迷惑そうに頭を動かし、横目で周囲を伺った。少年がいつ明かりをつけたのか玄関ホールは明るく、広い。片側の壁は高い天井いっぱいまで鏡張りになっている。それはシューズボックスになっているのか鏡の表面に取手がついていた。中央には空間があり、割りと大きな花瓶が置いてある。何も活けられていないその白い花瓶には青い色で絵付けがしてあって、よく見ると筆でさらりと描かれた骸骨だった。死神の格好をしてボロ布を纏い、大きな鎌を持っている。
佑は少年の息づかいを聞きながら、頭の中で手の内のカードをあれこれと捲り、あることを考える。
(ここで実行するか?)
想像し、まだ今はやめておくことにした。
「生徒手帳、返せ」
しがみつくように自分を抱いている少年の身体を佑は押しのけた。惜しみながら身体を離した少年が佑を見下ろして薄笑いを浮かべ、佑の次の言葉を待っている。
「…返せよ」
ローターの振動に耐えながら佑が言った。
「まだ返せないな」
さっさと靴を脱ぎながら、少年が思わせぶりな口調で答える。
「これ以上は付き合えない」
噛み付くように佑が声を荒げても、少年は少しも動じずに、
「ベッドに行こう」と穏やかに言った。
「は…あ!?」
驚く佑に笑いかけた少年が、顔にかかる佑の髪を指先で梳いた。
「もっと気持ちいい玩具があるって言っただろ?」
その手を払いのけようとした途端、身を屈めた少年が佑の腰を両手で持ち上げた。
「やめろ!」
叫ぶ佑の視界が大きく揺れて、脚が床から離れた。少年は軽々と佑を肩に担いで黒いフローリングの廊下を歩き始めている。宙に浮いた脚で佑は少年を蹴ろうとした。
「あまり暴れると、頭ぶつけるだろ」
「うるさいっ、下ろせ犯罪者!」
「それにな、ローターが奥に入って取り出せなくなる。いいのか?」
わざとらしく心配した口調で少年が訊いた。
「えっ…?」
担がれながら身体を捻って少年の肩と胸を掴んでいた佑は思わず手の力を緩め、少年の顔を覗き込んだ。
「嘘…だ……」
「なら、もっと暴れろよ。病院でケツの穴突き出して取り出してもらえ」
「…………」
「最初にレントゲンを撮るだろうから、それも記念にもらっとくか?」
「……おまえが……ぃれ…ん……ら…」
「ん? 聞こえねぇ」
「おまえが入れたんだから、おまえが取れよ!」
佑は顔が熱くなるのを感じながら叫んだ。
「そうだな。……そうしよう」
可笑しそうに少年が笑い、部屋の扉を開けた。
そこは薄暗く、廊下と同じ黒いフローリングの床が続いている。生活感の無いシステムキッチン、横に広い窓のあるその部屋を通って、もう一枚の扉開ける。一歩中へ入った少年が足を止め、手を動かして壁を触ると部屋の明かりがついた。佑の視界にまた黒いフローリングが見え、顔を上げて周りを見ようとしたが、抱え直された身体が揺れて、少年が再び歩き出した。視界が天井に移りながら身体がふわりと落下していった。ベッドに下ろされたのだとすぐにわかった。身体がそのまま沈んでいくような眩暈を感じて、その不愉快さに佑は顔を歪め、すぐには起き上がれなかった。
少年は自分のボディバッグを床に投げ捨て捨てるとベッドのふちに腰掛け、覆い被さるようにして佑の顔の両側に手をついた。キツい目で覗き込み、事務的な感じで佑に問い掛ける。
「大声で叫ぶか?」
質問の真意が読み取れない。しばらく佑は無言で少年の様子を伺った。少年の目が少しだけ心配そうに見える。青白い眼球をしていて、少しも濁っていない。黒い瞳は割りと小さい。だから目つきがキツく感じるのかもしれない、そんなことを佑は思った。
真っ直ぐに佑を見下ろしながら少年が言葉を続ける。
「叫ぶなら、口を塞ぐ。うるさいのは我慢できない」少年が顔をしかめた。「俺は静寂が好きなんだ」
静寂という単語が、しんとした雪の庭を連想させて、佑の頭の中を冷たい空気が吹きぬけた。
「……叫んでも無駄だろう?」
小馬鹿にしたように佑が言い返した。さっきこのビルまで歩いて来た時、車の量は意外と多かったのに、部屋の中はとても静かで外の音がほとんど聞こえない。防音設備が整っている証拠だ。
「どうしてそう思う?」と、少年が楽しそうに口の端を上げた。佑は頭を巡らせて窓を見つめながら、
「二重サッシになってる」と答えた。
「そうだ。防音膜入り6ミリペアガラスと防音サッシになってる」続けて少年が質問した。「暴れるか?」
「……は?」
一体何が知りたいのだろう? 妙な質問ばかりして。
佑は面食らってポカンと口を開いた。その唇を少年の指先がなぞった。
「縛りたくないんだ」
指先で確かめるように触りながら、少年が言った。
佑の唇を撫でていた指は頬を横切って耳の軟骨を触り、耳朶を軽く引っ張る。そのまま耳の後ろから首筋を這い、肩を擦り、肘を撫で、手首から指へと移動して佑の指先に絡まった。佑は身体を強張らせて指先の動きを感じていた。
「この身体の皮膚のどこにも、縛った跡をつけたくない。おまえがイく時、この指がどんなふうに動くのか見たい」言いながら少年は佑の指をそっと握り、佑はただ目を丸くして少年の言葉を聞いていた。「×××を触ったとき、我慢しながら呼吸する腹の膨らみが見たい」少年は佑の革靴を脱がせて、床の上に落とした。それから靴下を履いたままの佑の足を擦った。「足の指が開いたり反ったりするのが見たい。……電車の中じゃ服を着てたから、見たいものが何も見えなかった。それに、おまえ…、イく時、顔見せてくれなかったしな……」少年は少しの間、甘い表情になった。「雨に濡れた…うなじが……綺麗だった……」
(頭ン中、腐ってるんじゃ…)
心の中で佑は呟き、少年の顔から視線を外した。ベッドの横には低い棚のようなものがあって、引出しもある。ヘッドボードと繋がっているその上には黒いマグカップが置かれていた。
それを見つめながら、佑はこの家の玄関で考えたことをもう一度検討しはじめたが、慣れないローターの刺激に思わず息を漏らして両足を擦り合わせた。
「取り出してやるよ」
少年の手が脚の間に入ってくる。あわてて膝を閉じようとすると、愛しいものでも撫でるように触られた。あまりに優しいその行為に驚いた佑は抵抗するのも忘れて固まってしまい、ぎこちなく脚を押し開かされた。
「なあ、見せてくれよ。おまえを全部、この目で見たい」
呟いた少年の目に、性欲よりも違うものを見た気がして、佑は怪訝そうに眉をしかめた。
「見たいって…、何を?」
「裸になれよ」
命令しながら少年の目は懇願していた。縋るように佑を見ている。眼差しが妙に真剣で、佑は少年の言葉に抗う力を奪われていく気がした。
「どうして見たいんだよ、…僕の…、……」
言葉を濁した佑を、少年の力強い瞳が見つめた。
「言っただろう、おまえが創造の源だからだ」
「………」
佑には理解できない。少年の静かな言葉の裏に潜む気迫を感じて、自分の知らない別世界に生きる人間の言い分だと思った。
少年が背を伸ばしてベッドの横にある机の上を眺めた。その仕草に誘われるように佑もゆっくりと上半身を起こして横を見た。
机の上には、作りかけの粘土細工が置いてある。ベッドから少し離れた位置にあるからよく見えないけれど、それは作業の途中らしく、まだ形を成さないままだ。
少年が着ていた制服を思い出した佑は、また首を傾げた。美術系の学校ではないと記憶していたからだ。
視線を目の前の少年に戻し、少年の肩越しに部屋の壁を見た。何処へ続くのかわからない扉を挟んで左右に黒い本棚が一つずつ置かれ、本はきちんと整理整頓されている。それが何となく病的な神経質さにも思えた。右側の本棚の右には黒いローボードが置いてあった。上には20センチから30センチほどの様々な長さの棒状のものがいくつか並べられている。何かよくわからないけれど、机の上の粘土の完成形があれなのかもしれない、と佑は思った。視線を上げると、そこには額に入れられたモノクロの絵が飾ってあった。怪奇な絵で、棘と骨と肉が混じり合った肉塊が一つの形を成している。本棚と絵の間には、何か顔のようなものが描かれた紙が貼ってあった。学校で使うノートぐらいの大きさだ。それを丸く囲むように、いろんな大きさの写真が壁に留められていた。その画像のほとんどが横たわった人間の接写で、肌色と赤で構成されているから、ネットに落ちている死体写真だろうと推測した。
「あれはおまえだ」
佑の視線をたどった少年が言った。
「……、死体…が…?」
佑は身体からうっすらと血の気がひくのを感じた。横にいる少年を凝視しながら、
(いつ実行しようか…)と頭の隅で考える。
すると少年は呆れたように否定した。
「違う。真中のデッサン画だよ。おまえを描いたんだ」
佑は弾かれたように目をそらし、壁の白い紙を見つめた。
|
| ←
previews next → |
|
|

|