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10. |
「来いよ」
少年は佑の二の腕を掴み、無理遣り椅子から立たせようとする。
「は、放せ…、食べたら、まず歯磨きだろ!」
戸惑った顔の佑が、叱るように声を上げて少年を睨みつけた。
少年は勢いをそがれた様子で佑を見下ろしていたが、やがてプッと噴き出して、「そうか。そうだな」と笑った。「じゃあ先にするか」
「え…?」
(“何”の先なんだ……!?)
「磨くんだろ?」と訊いた少年は、有無を言わせず佑の肩を掴むと、後ろから押すようにして廊下へと出る。玄関へ行く途中にある左側の引戸を開けると、そこは浴室・トイレ・洗面所などの集まったサニタリーになっていた。
「シャワー浴びるなら勝手に使ってくれ」と言った少年が、化粧台の鏡の裏から買い置きしてあった真新しい歯ブラシを取り出して佑に渡した。
「どうして二人並んで歯を磨かなくちゃいけないんだ…」と文句を言う佑を無視して少年は先に歯磨きをすませ、佑が終わるのを待っていたように佑の腰を掴んで抱き寄せた。
「やっ、やめろよ、何だ、いきなり…」
それでも佑は少年と向き合う形になり、間近に迫る相手の顔から逃れるように頭を引くと、右手に持っている歯ブラシを軽く振って警告した。
「放せ。これでも一撃で殺せる」
それにはまったく取り合わず、少年は真顔で、
「俺、許可をもらうことにするよ」と言った。
「は?」
顔をしかめながら、佑は自分の両肩を掴む少年の手を交互に見た。大きい割にほっそりとしていて長い指だ。佑はこの指で何をされたのかを思い出して、また顔が赤くなりそうだった。
「何だよ…許可って…!?」
「ここじゃ言えないな」
もったいぶった調子で笑った少年が、佑の指先から歯ブラシを取り上げて洗面台に置く。
「…? どこなら言えるんだ…?」
怪訝そうに見上げる佑に向かって、少年は親指で扉を示した。佑はその扉の向こうが何なのかわからない。半透明の風呂場の扉は洗面所の後ろにあるし、小窓のついているトイレの扉はすぐ左にある。ドアノブのついたその扉の奥は物置でもなさそうだ。この方向には少年の部屋があるはずだとと考えていた佑は、少年の部屋にあった二本の黒い本棚は離して置かれていて、その間に扉があったのを思い出した。
「あ…、まさか…」
「行こう」
少年は佑の背後に回ると後ろから手を伸ばして扉を開けた。思った通りその扉は少年の部屋に続いていて、ほんの一メートル程先にはベッドがある。
「お、おい…」と振り向きかけた佑の背を少年が強く押して歩き、佑はそのままベッドに倒れ込んだ。
「何す…」
起き上がろうとすると背中から少年が覆い被さって、もがく佑を両手で抱きしめ、脚をかけて自由を奪った。
「なあ、いいだろ?」
佑の横顔の上に自分の頬を重ねた少年が、縋るように囁く。
「な、何がっ…!?」
「今度は泣かせたりしねぇし…」腕の中で暴れる佑を少年は一層強く抱きしめ、「優しくしてやるから」と言いながら佑の耳朶に唇を押し付けた。
その感覚が快楽と屈辱を思い出させて、佑は唇を噛む。
少年が佑の首筋にキスをした。
「あ………」
驚いた佑が身体を強張らせて動きを止めると、少年は両手の力を緩めて佑を抱き直した。その仕草がなぜか何年も付き合った恋人のように思えて、佑は不思議な感じを覚えた。少年の妄想の中で、自分はずっとこういう存在だったのかもしれないと思うと、少年の歪んだ一方的な想いが身体を通して入り込んできた気がする。たとえそれが自分に対して愛情のようなものを含んでいるとしても、簡単には受け入れられない。佑はようやく伊織の言葉を少しずつ理解しようとしていた。飢えた鳥に同情して勝手に餌を与えたあと、もし鳥が懐いたらどうするのかを全く考えていなかったのだ。現実は自己満足では終わらない。
「…僕は…、ああいう玩具は……嫌い…」
少年に抱かれながら、消え入るように佑が呟く。
「おまえ、泣いてたもんな…」後悔しているのか翳りのある少年の声に、佑の怒りは胸の中でそれほど大きくならない。「悪かったな……」
溜息混じりに少年が呟き、佑は黙ってその言葉を受け止めた。とても赦せるものではないけれど、少しは反省しているらしい。考えてみれば当たり前だ、あれは犯罪行為なのだから。そう考えた矢先に、少年が言った。
「おまえがもっと喜ぶように改良する」
「はあぁっ!?」
瞬きしながら佑は大声を上げ、激しくもがいて少年の顔を振り返った。少年は身体を少し離して、真正面から佑を見つめた。
「俺さ、創造のコンセプトを“実用的”にしようと思う」
「な…、何の話…!? 理解が…」
「今日…、学校サボったんだ。つまんねーし、辞めてぇ…。入学して二週間だけど全然面白くねぇ…」と少年が独り言のように話を切り出す。
入学…って、もしかして同じ歳なのか、と佑は驚いたが質問する間も無く少年は一人で喋り続けている。
「で、すごく尊敬してるアーティストに会いに行った」
いきなり会話が飛んで、疲れるよりも興味を感じた佑は瞬きを一つすると、黙って少年の話を聞くことにした。
「親にこのマンション買ってもらった手前、辞めたいって言い出しにくくて。学校を辞めて何がしたいのか考えて、造形やりたいって思ったんだ。あの人みたいに、世界を相手に仕事がしたい…」
言葉を切った少年は、足元の壁に飾ってある額の絵を見た。佑も少年の視線を追ってそれを見たが、棘と骨と肉が混じり合った肉塊の絵は佑には理解できず、禍々しく恐ろしいという印象しか受けない。不思議なことに、全体からは静寂さを感じる。こんな絵はあまり見た事が無かった。
ふと、その絵の印象と少年の着ているTシャツのイラスト、奇妙な芋虫のピアスのどれも雰囲気が似ていることに佑は気付いた。
「この絵も」と佑は少年の腹の辺りを指差した。「芋虫ピアスも、あの壁の絵を描いた人の作品?」
すると少年は嬉しそうに顔を輝かせて頷いた。
「よくわかったな」
「…なんとなく……」
「でもこれ、芋虫じゃない」
「…はあ…」
「蛆虫だ」
「……そう…」
「このリングも」
少年は右手の中指にはめているシルバーリングを見せた。髑髏を頭部に持つ奇妙な生物が何かの肉を食べているというモチーフだ。
佑は顔を寄せてそれを見た。気持ちが悪いと顔をしかめそうになったが、少年の様子からするとお気に入りのようなので黙って無表情を装い、再び少年の顔に視線を戻した。
「そんなの、はめてたっけ…?」
佑が自分の記憶の中を探ろうとすると、少年がニヤリと笑った。
「外してた。おまえン中で引っ掛からないように」
「…………」
「傷つくからな、粘膜が」
「……い…、いちいち説明しなくていい」
顔を赤くして佑は少年を睨んだ。
「商品名は“ランチ”」
少年は取り合おうとはせず、すました顔で更に説明を加える。
「こいつの昼メシは死体。これには原画があるんだ。ピアスにも」
「……そう…、変わった…絵を……描く人なんだね……」
そんな感想しか言えなかった。
「本人はそれほど変わり者じゃなかったな。近くに住んでるって知って、作品を見てもらった」
少し落胆したように少年が言った。声の調子から、結果はあまり良くなかったのだろうと佑は推測し、それで?と先を促すように首を傾げた。
「君の作品には絶対的なオリジナリティが無いって言われたよ」
少年は今朝の出来事を思い出しながら苦々しく呟く。尊敬するアーティストにやっと会ってもらえて、持参した作品を見てもらったのはいいが、高校生だとバレて学校をサボった事をやんわりと叱られ、学生としての義務を果たさない人間は信用もされにくいと婉曲的に説教され、いろんな知識を吸収することも創作には大切だから勉強もした方が良いと意見され、持参した作品に関しては欠点をいろいろと指摘され、かなり落ち込んでいたのだった。
(アーティストの作品を真似てあの黒いディルドを作ってるんだから、最初からオリジナリティなんて無いと思うけど…)と佑は言いたかったが、更に落ち込ませるのも気の毒なのでやめておいた。ただのパクリの二番煎じになるか、インスパイアを受けて才能を開花させ全く別物の素晴らしい作品を作れるかどうかは、これから先の話だ。それよりも、なぜ少年はこんな話をするのだろう?
「僕と創作を無理遣り結びつけるのはやめて」
呆れた佑がそう言うと、少年は「何もわかってないんだな」と不敵な笑いを漏らした。
「俺はおまえが喜ぶモノを作りたいんだ。おまえ以外の誰かで試すなんて……創作意欲すら湧かねえよ……」
「……えっ」
佑の頭の中を嫌な予感が走る。
「そうだよ、オマエの身体で試したいんだ」
「いっ…嫌だっ!!」
大声で否定したのに、少年は全く動じずニコニコしている。
「心配すんな。さっき、泣かせねえって約束しただろ」
「……は?」
佑は伊織の言葉を思い出し、少年の勢いに引っ張られていく自分を認識したが、唖然として口からは「…そんな…勝手に…」と切れ切れの言葉しか出なかった。それすら少年は聞いていない。
「もっと先端を丸くしてみるか、おまえが痛がらねぇように」
「いや…、それ……は…」
「今度は透明樹脂で作ることにする」
「……と、透明って……、何の意味が…?」
「透明だとおまえの中が見える。色とかもわかるし」
にっこりと笑う少年の顔を見ながら、佑は頭の中で想像してみた。
「……!!」
「実用的だ!」
「……あ、……の…」
何も言えなくて焦っている佑の額に、少年は頬を寄せた。
「今度は泣き顔じゃなくて、イイ顔させてやるから。おまえが感じるような、すっげーイイの作ってやるよ。やる気が出てきた。決めた。俺の目標は、オリジナリティ、実用性、イイ顔させる、この三つ」それから少年は想いを込めたような低い声で呟いた。「夢とか目標が、すべておまえを通して実現できら、どんなにいいか……」
しばらく黙っていた佑は、身体に少年の重み感じながら、
「そんなの、駄目…」と呟いた。
「駄目なのか…」
大袈裟に悲しむフリをした少年が訊き返して佑を抱きしめようとした。佑は何度も両手で押し返して抵抗する。
「や、め、て、って……、僕が居なくなったらどうするの?」
「おまえが…?」
急に少年はおとなしくなって、二人はもがくのをやめた。
「よく考えて…」と佑は冷静に話し始める。「頼りながら何かをしても、頼っているものが消えたらその時はどうするの? 夢も目標も持続できなくなるよ?」
「一緒にいてくれ」
真剣な表情で少年が懇願する。
まるで冬の鳥だ、と佑は思った。可哀想に、餌が無いから求めている。
餌って……──この身体!?
「頼むよ……」
少年は佑の一言で生死が決定するような真剣さで見つめている。
「…眩暈がしてきた、少し待って。……唐突すぎて…、すべてが…」
額を押さえていた佑の手を取って、
「愛してる」と少年が低い声で呟く。
佑はその言葉に両目を見開いて驚き、すぐに呆れた顔をして、わざと周囲を見て誰かを探す真似をした。
「だから、おまえに言ってるんだ」
「…どうせ、説明できない、意味のわからない曖昧な“愛してる”でしょう」
「違う。でも、“愛してる”以外に思いつく言葉はない」
少しも揺らがない少年の視線が心に突き刺さって、佑はうろたえる。
「信じられないよ…、愛してるのは…僕の…身体とか……、あの時の…表情……じゃないの?」 変態だから…とは付け加えずに、黙っておいた。
「それを言うなら全部だ。あの時も、そうじゃない時も」
「………、全部って……?」
訊き返した佑の頬を、少年がそっと撫でる。佑は無言で少年の顔を見つめた。
「俺は……駅のホームや電車の中から空を見てる時のおまえの顔が一番好きだ」
意外な言葉を聞いて佑は驚いた。思わず、本当に×××よりも?と口走りそうになって、あわてて言葉を飲み込み、一人で動悸を激しくさせた。
自分はいつもどんな表情をして空を見ているのだろう? 難しい事など何も考えず、ただぼんやりと眺めているだけだ。そんな気を抜いている時の顔が一番好きだなんて、本当に変わってる。
「おまえさ、空見てる時、顔の筋肉が弛緩してる」
少年は思い出したように笑った。
「気合入れて空なんか見ないよ」と佑は笑われたことに少し腹を立てた。
「怒るなよ。ユルい顔がいいんだから」
やっぱり変態だ、と、佑は心の中で呟く。射精する時の顔も見たいとか言うし……。
「空に心が漂ってるんだろう」と少年が穏やかな表情で言った。
「そうかな。空を見るのは好きだけど…」
佑の心の中に青い空が出現した。見上げれば頭上にあるのに、簡単にはすぐに行けない場所。空を眺めていると、日常の重力から解放される。空は、此処じゃない何処かへ心を連れて行く。
「緊張や怒りや憎しみとは無縁の顔してる。おまえの綺麗な目には邪念が無いから、俺とは違う世界が見えているのかもしれない」
「…誤解…してるよ…」
佑はそれだけしか言えなかった。自分は伊織の分析通り、すぐに同情して無償の愛をふりまいては満足している愚かな人間で、毎日の生活に少し退屈している。佑にとって少年は、良くも悪くも外界からの刺激になったのだ。
「僕は善人なんかじゃないって…」
「どうでもいいさ、そんな事は。強い衝動を感じる。おまえは俺を突き動かす。誰にも触らせたくない」
少年は力強い瞳で佑を見た。その両目に滲んでいるのは軽い狂気のような気がして、佑は息を飲む。
「おまえを穢していいのは、俺だけだ。守ってやるよ、どんな事からも。だから俺のものになれよ」
「おい……」困惑しながら佑が言った。「一番最初に犯したいから守ってやるって…意味?」
「違うな。最後に犯すのも俺だ。俺しかおまえを犯さない」
佑の顔に羞恥と怒りが広がっていく。
「……堂々と、変なこと言うな」
「そういう顔も、×××も好きだ…。色とかヒクつくところとか、もっと欲しがるところとか。おまえってあんまり、気持ちイイとか言わねぇじゃん? ×××見てると、おまえの言葉と気持ちが伝わってくるから見飽きないんだよな。一気にテンション上がる」
「…………。…」
佑はなぜ自分の×××が他人のテンションを上げるのか理解できずに驚いて、言葉の出てこない口を半分開けたまま少年の顔を見つめていた。
「俺の全てを捧げ尽くしちゃうよ」
冗談にしては真剣な眼差しで少年が言うと、佑はその言葉を理解しようと頭の中でいろんな単語を探してみた。捧げる、尽くす、献身的な…愛?
「……devotion…?」
ふと思いついた佑は、首を傾げて呟く。
「ん? 何ソレ? 俺、英語の成績悪くてさ」
「………、尊敬する人に語学はやっておけって言われなかった?」
「どうしてわかるんだよ、スゲーな、おまえ」
「世界を相手に仕事するんでしょ…」佑は呆れて言う。
「そう、世界を目指せ、自分の芸術作品が逆輸入されるぐらいの勢いでやってみろって言われた」
「それなら、真面目に学校に行って、英語の勉強もしたら…?」
「ああ、……そうだな…」少年は視線を落として首を傾げ、一点を見つめながら何やら考えている様子だったが、ふと明るい表情になって顔を上げた。「おまえの言う通りだ。あんなに迷ってたのにな、たくさんの問題が片付いていく気がする」
「……、まだ他に問題があるの……」
「窓」
そう答えてから、少年は人差し指を部屋に向けて軽く振った。
「? この家の…窓のこと?」
「そう。駅から近くて弁当屋が入ってるってだけで買ってもらったけど、引越してみて初めて、窓から空が見えないのが苦痛だってわかってさ。雲のデッサンもしたいんだけどな」
「引越したら?」
「買ったばかりで?」
「親に真剣に相談してみたら? 本気なら説得できるでしょう? よく知らないけど、芸術家って移住する人が多いから環境って大事なんじゃないの?」
「…正論かもな」
「僕には我慢せずにローター突っ込むくせに、気に入らない環境には耐えるなんて矛盾してる。カツ丼だって、そう。遠慮なんかして。なんか……全部、矛盾だらけ…! 僕だけ、僕の身体だけ遠慮してもらってないって、どういう事!?」
苦笑しながら少年は頷いただけで、佑が黙ると、しばらくしてから口を開いた。
「近いうちにオヤジに相談してみるか。おまえがいてくれて本当に良かった、ありがとう」
いきなり真顔で感謝された佑は、不満な表情を引っ込めて顔を赤くする。
「おまえ、こういう時だけホント素直で可愛いな。……俺の“愛してる”は…“いつも気になる”って事なのかもな」
少年は自然な仕草で佑を抱きしめ、髪の間に顔を埋めた。
「もう放したくねぇ…」
囁くような呟きが、佑の耳をくすぐった。その言葉は心にまで染みて、佑の胸や心臓もくすぐる。不思議と少年の腕の中は居心地が良く、抵抗する気が少しずつ萎えてしまう。
「結婚詐欺の被害者って、こうやって巧い言葉と勢いで騙されるのかも……」
脱力した佑が、少年の腕の中で小さく呟く。
「詐欺かどうか、ずっと側に居ればわかるだろ」と少年は笑った。「おまえ、さっきより身体が熱くなってる」
「…そう? 普通じゃない人との会話に、すごく疲れた…」
「眠いんだろ、このまま寝ろよ。おまえが寝たら、俺は続きをやる」
「このまま寝たら……、馬鹿だろ…、犯罪者の…、家で……」
「おやすみ、佑」
不意に名前を呼ばれて、佑はピクリと肩を振るわせた。
「どうして名前…を…?」
「生徒手帳に書いてあった」
「僕にも教えろよ、名前…」
「玲二。天羽玲二」
「れいじ…」と佑は無造作に繰り返した。
「ああ…」突然、少年は泣きそうな声で言った。「もう一度呼んでくれ」
驚いて顔を上げた佑が少年の顔を見つめ、それから、我に返ったように口を開いた。
「嫌だ」
「……、どうして?」
「…うるさい…、絶対、呼ばない…」
佑の瞳の中に頑なな意地のようなものを感じ取って、少年は仕方無く諦める。
「………、じゃあ、もう寝ろ…」
そっと佑の頭を抱いて少年が呟く。
「嫌だ…、少しの間…目を瞑ってる…だけ……」
少年が噴き出して笑ったのを、佑はぼんやりしはじめた意識の中で聞いた。「眠たいくせに」という少年の言葉は無視した。頬には、Tシャツを通して少年の胸の厚さと温もりを感じている。自分の身を預けているのは誰なのか、もう少し知りたい気がした。
「……れいじって、どんな字…? …麗しい? それとも…」
「“王”ヘンに、命令の“令”、それと漢数字の“二”」
「ふうん……、玲……」
佑の瞼の裏に高く澄んだ青空が広がった。英語の長文に、Brilliant Skyという言葉が出てきて、クラスの誰かが玲瓏な空、と訳していたのを思い出した。ああ、あのクラスメートだったっけ、玲二のTシャツと同じようなジャケ絵のCDを持ってた奴だ…。玲瓏な、輝く空……。今日はものすごく疲れた……。
身体の中に力を蓄電するつもりでじっとしていたが、途中で眠りに落ちてしまった。夢の中で、青空のその下にもっと青い海が広がっていて、少年の髪の色をした錆びた自転車を波がさらっていった。その波はどんどんと大きくなっていろんなものを青い色に塗り替えていく。白い庭にも波は被さり、雪を溶かしながら青色に染め上げ、輝く空の光を水の上に踊らせた。
水面に急浮上するように目覚めたのは真夜中で、佑はベッドの上で一人で眠っていた。身体にかけてある薄い布団が温かい。視線の先に、机に向かっている少年の姿が見える。少年は一心不乱に粘土と格闘していた。それを見ながら佑は再び眠りの底へと沈んでいった。
次に目が覚めたのは、何かの物音が聞こえた時だった。目を開けると、少年が窓辺に立ってロールスクリーンを上げている最中で、冷たい空色のスクリーンはくるくると巻き上がり、ほのかな明け方の光が部屋の中を淡く浮き上がらせていく。
寝返りを打とうとすると、少年が振り返った。
「ああ、起こしたか、ごめん…」
気遣うような声に、佑は目を擦りながら、
「もう…起きる…」とだけ応えた。
少年は窓の外を見ながら両手を横に広げて伸びをしている。
「寝てないの?」と佑が訊くと、
「寝てない」と少年は答えた。
一晩中、集中して何を創ったのだろうと思いながら、佑は上半身を起こした。
「見てくれよ」
寝起きの顔の前に、突然少年はデジカメを差し出して、写した画像を見せた。
「創ったあと、撮ってみたんだ」と少年は説明を加え、佑はまだ半分眠っているような顔で瞬きしながらそれらを見た。黒いディルドと大きさや形状は似ているが、パーツは少し変わっている。破れた心臓から米粒のようなものがこぼれていて、棒のように積み上げられた肉片にも、それはこびりついている。佑は先端を凝視してから、机の上に視線をやって画像と同じディルドを見た。
「大きすぎる…」
佑は眠い目をデジカメ画像に戻して批評した。
「そうかぁ? ま、出来上がったら試してみるか」
「…………」
ベッドの横に立っている少年の顔を黙って見上げた佑は、わざとらしく無視して口元に手をあてながら欠伸をした。
「あ、無反応ですか?」
「無視」
素っ気無い佑の答えに、少年は顔を寄せて言った。
「おまえの顔を思い浮かべながら型作ってると、初めは小さくても、どんどん粘土を足して大きくなる。やっぱり、愛してるからなんだろう。そのうち、もっとデカくてイカツイの作ってやるよ」
「……これが…愛なら…、僕…入らない……」
佑が言葉を押し出しながら答えると、少年は気にする様子もなく笑った。
「大丈夫。俺が少しずつ調教してやるから」
にっこり微笑む少年に言うべき言葉が何もみつからない。佑は溜息をつきながら掛け布団の中にある自分の膝を抱えて視線を落とした。
「お断り。僕は反抗的だから調教のし甲斐が無いと思うよ」
「俺の愛は我慢強いんだ」
「…………。玲二の……愛は大安売りだな…」
佑が何気なくそう呟いた途端、少年は崩れるようにベッドの端に腰掛けた。それから恐々と手を伸ばして佑の顎を持ち上げた。
「え…っ?」
「キス…してもいいか? やっと名前を呼んでくれたな」
少年はほんの少し顔を赤らめて、嬉しそうに佑を見つめている。
「…何だよ、急に…」思いがけず、佑は自分の心臓が高鳴るのを感じた。そして、「また今度、いつか」と、キスを待つ姿勢のままで意地悪く言った。
「許可してくれ」
「しない」
「してくれ」
「やだ。永遠にしないかも」
「どうして?」
「許可無くヤラレタことが多すぎるから」
「仕返しされた…」
少年はベッドの上に寝転がって、布団の上から佑の脚を撫でた。
「反省しろ、犯罪者」
佑はそれほどきつく責めるわけでもなく呟いて、自分の脚を撫でている少年の手を払おうとした。けれども逆に強く握られて、
「愛してる」と思いがけず真剣な面持ちで言われ、しばらく絶句した。
「またそれ?」
少年を見下ろしながら、佑が尋ねる。
「一晩中、いろんなことを考えた」表情を変えないまま、少年が話を切り出した。「俺が死に惹かれるのは、自分が生きていることを再確認できるからだと思う」
それから、少し照れたような顔で少年は続けた。
「愛してるって、いつも気になるっていうより、いつも気にかけているってことじゃないかな。おまえが寝てる間、何度も振り返って…、寒くないか心配したり、寝顔を覗きに行ったんだ。耳を寄せて寝息を聞いたとき、俺の部屋におまえがいてくれるなんて奇蹟みたいだって思えた。嬉しくて、ただ側にいてくれるだけで幸せだった」
青白い眼球の真中にある黒い瞳が、じっと佑を見つめている。
冷たく拒絶するような言葉が吐き出せない。玲二に対する強い興味とひとかけらの愛情を瞳の奥にしまい込み、それを隠すようにして佑は視線を外して呟いた。
「……もしも騙したら、死なない程度に殺っちゃうことにする」
少年は優しく微笑んでから、佑の手をそっと握り直した。
それから、今まで佑が聞いた中で一番誠実な声で少年は言った。
「俺は殺られねぇよ。だって、本気だから」
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