|
| |
03. |
クラプ活動を終えた佑は、帰宅の為に駅に向かって歩いていた。
佑は中等部の頃からずっと文芸部に所属していて、高等部でも引き続き活動している。今日は顧問の先生や部長たちと今年度の入部希望者に対する説明会の準備をしていたので、帰宅時間がいつもより一時間ほど遅くなってしまった。
(この時間の電車も、帰宅ラッシュで混んでるんだよな…)
今日のように時々部活で遅くなっても、電車は朝と同じく満員だ。そして佑は毎朝一緒になるあの少年のことを思い出した。
(明日は乗る車両を換えて、近づかないようにしよう…)
そんなことを考えながら、あともう少しで駅に着くという時に、顔に水がかかった。それを手で拭いながら見上げると、分厚い黒雲が頭上を覆っている。大粒の雨は続けて地上にぽつぽつと降ってきた。
(天気予報じゃ曇りのはずなのに……)
すると、雨はいきなり音を立てて激しく降り始め、アスファルトの上で雨粒が跳ね上がった。
駅の建物の中に駆け込んだ時、佑は髪から雫が滴るほど濡れていた。同じように駆け込んできた人たちに混じって、佑も取り出したハンカチでブレザーや鞄を拭いた。ハンカチはすぐにぐっしょり濡れてしまい、とりあえず早く帰ってシャワーを浴びたくなった。
改札を抜けて階段を上り、そのまま真っ直ぐ歩いていこうとホームに目をやった時、佑は信じられないものを見た。
階段を上りきった付近にベンチがあり、その一番端にあの少年が座ってこちらを見ている。
この駅で誰かを待っているのだろうか? だから階段に一番近い所に座って、ホームへと上がって来る人たちを眺めていたんだろうか?
しかし、少年の視線は佑の顔をじっと見つめている。二人の距離は十メートルほどしか離れていない。
佑は驚いて立ち止まってしまった。
後から歩いていた人たちが、迷惑そうに佑をよけて歩き続ける。
(なんでこの駅にいるんだ…?)
少年は朝見かけた時のままの服装だった。黒いニットパーカーにTシャツ、ビンテージっぽいジーンズをはいている。膝の上には革素材のような黒いボディバックを置いていた。その上にはコンビニのビニール袋みたいなものがあり、缶ジュースを持った片手は胸の前にあって、飲むのを忘れたような格好で佑を見据えていた。その目は最初、大きく見開かれていたが、やがて毎朝佑を見ている時と同じように、たくさんの感情が混じったような不可解な色を浮かべはじめている。錆色の髪も服も濡れていない。さっき雨が降るよりも前から、駅にいたのだろう。
(偶然…だとしたら、奇跡的な確率のような気がする……)
佑は嫌な予感に捕らわれた。少年が、いつかこの駅に現れる自分を、ずっと待っていたように思えた。
その時アナウンスがあって、電車がホームに到着すると告げた。
関わらない方がいい、と頭の奥で警鐘が鳴る。
少年から離れなければと思った佑は、ぎこちない足取りで歩き始めた。
佑がいるのはホームの最後部だから、距離を開ける為にはこのまま真っ直ぐ進み、先頭車両が止まる位置へと歩いて行くしかなく、それには座っている少年の前を通り過ぎなければならない。
電車がホームに入って来る。わざと無視して正面を向いたまま、座っている少年の前を足早に通り過ぎる。目の端に、少年がベンチから立ち上がり、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくるのが見えた。佑は思わず人々の間を縫って駆け出し、先頭車両を目指した。振り向いた時に目が合うのが嫌で、決して振り返らなかった。皆、電車に乗り込んでいる。早くしないとドアが閉まってしまう。乗り遅れてホームにあの少年と二人で取り残されるのは嫌だし、同じ車両に乗るのも嫌だ。
佑は頭の中で計算し、わざと先頭から二両目に乗るふりをしてそれとなく辺りを振り返った。少年が斜め後ろに立っているのが見えて心臓が跳ねた。
(どういうつもりだよ、こいつ…?)
佑は人の流れに乗って前へと進み、いきなり身体の向きを変えて駆け出すと、四両目に飛び乗った。
いくら何でも、いきなり走り出した佑を追いかけてきたら、周囲の人間は少年を怪しむだろう。あの少年がそこまで大胆に追いかけてくるとは思えない。毎朝電車の中で、ただ佑を見ていたのは、やはり周囲が気になって、それ以上の事ができずにいたからかもしれない。それでも、今日になって少年が自分との距離を詰めてきたことにある種の危さを感じ、目に見えない緊張の均衡が崩れていく気がした。
ドアが閉まり、電車は走り出した。
(あいつ、何を考えてるんだろう……?)
そう思いながら窓の外を眺める。外は雨雲のせいで普段よりも暗く、車内灯はすでについている。濡れた髪の雫が、佑の頬に落ちた。
(早く帰って、シャワー浴びたい。でもって宿題して夕飯食べて……、それから何しようかな?)
両親は親戚の法事で他県へ出かけていて今夜は一泊してくる予定だから、家には佑しか居ない。両親不在の家に友人を呼んで泊まらせるのは禁止と言い渡されていたが、一人の夜を普段と違う過ごし方をしてみたいと思うと少し胸が躍る。
電車が高速道路の下を潜ると、窓の外が暗くなり、ガラスに佑の顔が映った。
「…………!?」
佑は息を飲んだ。驚きすぎて声は出なかった。自分のすぐ後ろに、あの少年が映っている。
背中に密着している他人の身体は、少年だ……。
心臓が激しく鳴り始めた。佑と少年の距離は無くなってしまっている。
電車に乗る時、少年が周囲の目も気にせず急に駆け出した自分の後を追ってきたのかと思うと、その行動は信じがたく不気味だ。そしてなぜそんな行動を取るのか全く訳がわからない。
佑は身動きもできないまま、見開いた目で窓ガラスに映る少年を見つめた。
佑の瞳に、後ろに立っている少年がゆっくりと動いて、自分の耳元に顔を寄せるのが見える。
息を飲む間に、少年の唇が耳朶を掠め、身体中の血が沸騰したような感覚に襲われた。思考が飛び散って何も考えられなくなりそうだ。
「逃げるなよ…」
少年の囁きが、佑の耳の奥へと流れ込む。身体の芯から痺れて動けなくなる力を持った言葉だった。その囁きは、おそらく雑音に消されて誰にも聞こえていないのだろう、佑の前に立っている男性も女性もこちらに背中を向けていて何も気づいていないようだ。少年の声色には、やっと佑を追い詰めた嬉しさのような、佑に逃げられて怒っているような悲しいような、何とも読み取れない感情が含まれていて、他人のそんな言葉に一度も触れたことの無い佑は混乱した。
(どういうつもりだ…?)
訳がわからない。そして耳元で、性欲の匂う少年の長い溜息を聞いて、佑の胸は重く沈んでいった。
佑の背中に少年の胸が当たって密着している。その背中に、少年が少しずつ身体を動かしているのが伝わってきた。腕を動かしているらしく、その手は佑の尻の割れ目の辺りを下からそっと指で撫で上げた。
(………!?)
佑は驚いて身を強張らせる。他人にこんなふうに触られたのも初めてだ。ただ驚くばかりで声も出ず、すぐに反応ができない。
「声を…出したら、刺し殺す……」
少年が、切れ切れに言葉を囁く。
佑は自分の耳を疑った。身体に緊張が走り、息が乱れていく。振り返る事もできない車内では、少年が本当に刃物を持っているのかどうかも確かめられない。悪質な冗談にしては少年の声は切羽詰っていた。毎朝無遠慮に人の顔を凝視するような奴だから精神が正常ではないのかもしれない。もしも周囲に助けを求める声を上げたら、それが合図になって刺される場合もあるだろう。どうしようかと考えていると、少年の指先が制服のズボンの尻の辺りを摘んで、ゆっくりと引っ張った。
「ここをナイフで切り裂かれるのと、ファスナーを自分から下ろすのと、どっちがいい?」
すぐには少年の言葉の意味が理解できない。更に声を押し殺した少年が笑みを含んだ言葉で言った。
「ケツの破けたズボンで家まで帰るのは、かなり恥ずかしいんじゃねーの?」
少年の物言いはだんだんと図々しくなっている。どうやら布の裂け目かファスナーの開口部から手を入れて佑の身体を直に触りたいらしい。
声よりも視線で抗議しようとして振り向きかけた佑の尻を、
「じっとしてろ」と、その動きを封じるように強く揉んだ。
痛みを感じるほどの触られ方に、佑は衝撃を受けて振り向けなかった。
少年はますます身体を密着させて、尻にあった手を佑の腰から身体の前へと這わせ、後ろから覆い被さるように佑の股間へと伸ばした。
「あっ……」
佑は思わず声を上げたが、それはほとんど声にならず、息を漏らしただけだった。恥ずかしさに身体の芯が熱くなっていく。少年の手がズボンの上から佑のペニスを掌で擦りはじめた。その触り方は、さっき尻を揉んだ時の手荒なやり方とは違って、少しずつ快楽を引き出すような控えめな触り方だ。指先が緩慢にペニスの形をなぞり、掌で包み込む。気を許すと押し込めている快楽を一気に吸い上げられそうで、佑の身体いっぱいに耐えがたい屈辱感が広がった。同意も無しに触ってきた相手に、身体も精神も支配したと偽の満足感を与えてやるくらいなら、刺されてもいいから少年を拒否してやりたい。そうと思うと、快楽を押しのけて頭の隅から怒りが沸いてきた。
「…感じないのか?」
いくら触られても勃たない佑に、少年はなぜか絶望したような声で訊いた。
一体、どんな顔して言ってるんだ…?
佑は顔を上げて窓ガラスを睨んだが、薄暗い外の景色が流れていく様子は見えても少年の顔ははっきりと映っていない。
身体を強張らせている佑の耳元で、ああ…という少年のつらそうな溜息が漏れた。そして喉の奥で悲鳴を噛み殺したような、悲しそうな声がした。
「…なあ、勃たせろよ……、感じてくれよ……、最後だから……。どうせおまえは、手に入らないんだ……」
理解できない言葉なのに、失意のような感情だけが耳から流れ込んで、佑の頭の中は痺れ始めた。
電車は幅の広い道路の下を通過して、外が暗くなった窓ガラスに少年が映る。曇らせた顔を佑の頬に寄せていた。
危ないと感じていた少年の世界を少しだけ覗かされた気分になって、佑の心になぜか唐突に、雪の降り積もった白い庭が浮かんだ。それが何なのか今は考えられない。きっと混乱しているせいだ。心臓がこんなに早い。息が苦しい…。
次はC駅です、というアナウンスが聞こえ、電車は減速して駅に停車した。
降りようとする人が出口に向かって流れはじめる。佑はその流れに乗じて降りようとしたが、後ろから少年に二の腕を掴まれた。異様なほどの力強さに、佑の心臓は更に跳ねた。
「こっちへ来い…」
少年は小声で脅し、佑の身体を押して乗車口から離れた。その間に今度は乗り込んだ人たちで車両はどんどんと詰まり、佑は声も上げられないまま車両の連結部分に連れていかれた。そこで少年と向き合う形になったが、佑の視界には背の高い少年の胸から上しか見えず、他人からは完全に死角に収まっている。
「手を後ろに回せ」と少年が命令した。
佑が目をそらして無視していると、いきなり両手首を掴まれ、持っていた鞄ごと身体の後ろへ回された。乗り込んで来た人たちに押されて身体は更に少年と密着し、無防備に股間を少年の身体に押し付ける姿勢から動けなくなってしまっている。
佑は無言のまま顔を上げて少年の目を睨み返した。
口の端だけを上げて少年が笑う。ずっと佑を見下ろしていて、不貞腐れたような笑みは消えず、その目には佑を追い込んだ悦びのようなものが光っている。
再び電車が走り出した。
「おとなしくしてろ」
命令した少年が、佑の頬に自分の頬を軽く触れ合わせる。
その頬の温かな感触と少年の清潔そうな匂いが、佑に呪縛をかけた。
錆色の髪が顔にかかったが、佑は瞼を伏せただけで、声は出さなかった。
|
| ←
previews next → |
|
|

|