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02. |
身体を解放された場所は、廊下の奥にあるトイレだった。俺は奴に胸を突かれて乱暴に個室に押し入れられた。
「いてぇ! 触るなっ! どういうつもりだよ!」
俺の抗議も耳に入らないというように、奴は
「クッ…クク…フフフ…」と、奇妙な笑い声を漏らしながら、鍵を閉めて振り返った。
俺はヤバイと感じながら、口で呼吸する自分の息遣いを聞いていた。このトイレは出演者専用で、助けを呼ぼうにも誰もいない。もっと時間が経てば夜の部に出演する奴らが入ってくるかもしれないが、《ヴェルベット・ブレス》のメンバーですら来る気配が無い。俺の世話は奴に丸投げされてしまったようだ。
両手を広げて、心の底から喜びに溢れた不気味な笑顔が目の前に迫ってくる。奴の両の目玉はせわしく動き、舐めるように俺を見た。
「ああ…、この目、この唇……、やっと会えた、やっと…」
思いっきり顔を歪めて拒否してみせたが、言葉が出なかった。
会いたくなかった。奴の態度はあきらからにおかしい。考えていたよりも事態はよりヤバイ方向に向かっているらしい。
「髪をショートにしたんですね。ワックスで毛先を遊ばせて…よく似合ってますよ。この黒い色は地毛…?」
奴は今にも手を伸ばして俺の髪に触ろうとしている。それとも、その手は首を締めてくるかもしれない。俺はそれほど酷いことを、こいつにしたのだ。何をされるかわかったもんじゃないが、逃げ回れるほど個室は広くない。後退ってすぐにぶつかった壁に背中をくっつけたまま、奴の吐息が頬にかかるのを感じて顔を背けた。
「ちゃんと僕を見て下さい!」
荒々しい声と共に手を添えられ、無理遣り顔を上げさせられた。それがこの状況に耐えられる限界だった。俺は壁を乗り越えて逃げようと便座に飛び乗ったが、ものすごい力で床に引きずり下ろされ、両の二の腕を掴まれた。奴はそれだけで俺の動きを封じてしまっている。
「逃がさない」
急に笑顔を引っ込めて、奴が冷たく言い放った。
「お、おまえ、本当に澄水人なのか…?」
半信半疑で怯える俺とは対照的に、相手はまた楽しそうに笑った。
俺にはまだ信じられない。こいつが『浮船澄水人』だなんて……。
俺が知っている二年前の澄水人は、一つ年下で中学生になったばかりの青白い華奢なチビだった。髪は黒々としていて、いつもオドオドしながら俺の後にくっついているような奴だった。けれども、目の前にいるこいつは見上げるほど背が高く、俺を掴んでいる手は身動きできないほど力強い。
威圧的に見下ろす奴の目を見ているうちに、記憶の中の澄水人と目の前の顔がオーバーラップしていく。
言われてみれば何となく面影がある。くっきりとした二重なのに切れ上がった目。透き通った琥珀色の瞳。左目の下にある涙のような小さな黒子。色白の顔の中で浮き上がる赤い唇…。
「あ……」
思わず声が出て、全身から血の気が引いていくのを感じた。
なんてことだ、俺は……ライブを見ても全く気がつかなかった。さっき、楽屋に入った時でさえも……。この力持ちで頭のヤバそうな金髪野郎は紛れもなく浮船澄水人じゃねぇか。俺が一生会いたくなかったあの下級生の……。
「澄…水人…」
呟きと溜め息が混じり合って口から漏れた。全身が痺れた緊張感に包まれ、胸の中にもやもやとした不安の染みが広がっていく。
「やっと、わかりましたか」澄水人は不満そうに俺を睨んだ。「…時間がかかりすぎる」
見覚えのある琥珀色の瞳に責められるのは初めてで、それがまた俺の記憶を混乱させた。
「僕が怖いですか?」
そう訊かれて初めて、怯えた表情をしているであろう自分に気づいた。けれども正直に頷くのは悔しすぎて、俺は不貞腐れたように睨み返した。すると澄水人は笑みを浮かべた。
「…何が…可笑しい?」俺の声は震えている。
「嬉しいから」喜々としてとして澄水人が答える。
「…意味が、わかんねぇよ…」
「先輩のこの怒った顔。懐かしくて……。さあ、これからどうしようか」
奴は黒いマニキュアをした爪の先を俺の胸に押し当て、ゆっくりと下ろしていった。長く尖った爪は猛禽のようで、油断したが最後、本当に切り裂かれそうな気がする。実際に澄水人がそれ以上のことをしたとしても不思議ではない理由と過去が俺たちの間には有った。
「僕はそんなに変わった? どうしてすぐに僕だと判らなかったんですか? あんなに……あんなに一緒に居たのに。……どうして?」
澄水人は微笑んだまま悲しそうな目をして首を傾げた。さっきから目まぐるしく変わる表情に俺の頭はますます混乱し、発熱しかけている。
「し…仕方ねぇだろ、判んなかったんだから」
奴の目が泣き出しそうに細められた。
「…ねぇ、先輩。僕は……。二年前の僕は、あなたの何だったんだろう?」
唐突に核心をつく質問をされて、俺は息を呑んだ。ただ、首を横に振ることしかできない。
澄水人が俺の何だったのか……。答えは、単なる金蔓だ。……しかし、口が裂けても言えない。火に油を注ぐつもりは無い。
答えを待っているのか、澄水人は壁にもたれて優雅な仕草で腕組みをした。
ああ、そうなんだ…こいつは上品ぶってるわけでもないのに、何をしても育ちの良さみたいなものが滲み出ている奴だった。けれども、黙ったままの俺を見つめる表情はだんだんと曇って眼光だけが鋭くなっていく。
澄水人は俺を責める為に、わざわざトイレまで連れて来たんだろうか。そんな根性がこいつにあったとは驚きだが、それだけ俺を恨んでいるのだろう。俺は制裁を受ける為に過去から引きずり出されたのだ。
「お、俺のこと、恨んでる…よな?」声が掠れて上擦ってしまう。顔もきっと蒼白に違いない。「…復讐する気なんだろ?」
澄水人はゆっくりと瞬きをしてから、平然と言った。
「どうしてそう思うんですか? 二年前、先輩が僕を騙して、金を巻き上げていたからですか?」
「う、うわぁぁぁ──っ!」俺は両耳を塞いでその場にしゃがみ込んだ。「やめてくれっ、いや違う、ごめんっ澄水人、今さら謝ったって赦してもらえないだろうけど、ごめんっ!」
手荒く脇の下を抱えられ、今度は無理遣り立たされた。咄嗟に殴られると覚悟してギュッと目を閉じたが、何も起こらない。恐る恐る薄目を開けると、澄水人は視線を宙に泳がせて楽しそうに微笑んでいた。その瞬間、輪郭のはっきりしない、もっと不吉なものが背中を這い上がった。
「なるほど、復讐か。フン、復讐ねえ…」
ブツブツと反芻し、呪文のごとく呟いている。
「き、ききき聞いてくれ澄水人っ、あの頃の俺は荒れてたんだ、面白くねぇことがたくさんあって、おまえに八つ当たりしてた、今でも後悔してる。謝りたかったけど、俺、急に引っ越しが決まったから…」
必死になって言葉を継いだ。口からでまかせの嘘なんかじゃないし、嘘をつく余裕も無い。俺は両親が離婚した中学二年の春休みに、母親と、新しい父親になるであろう男と三人で県外に引っ越した。その時に、通っていた私立男子校の付属中学も辞めて、学区内の公立中学に転校した。もともと見栄っ張りな母親に無理遣り行かされたような有名中学だったし、裕福で品のいい家庭の奴が多くて俺はあんまりなじめなかったから、辞めても別にどうも思わなかった。それに、母親の新しい男は金使いが荒かったから、どっちにしろ、普通の私立よりも更に授業料の高いあの中学に通い続けるのは経済的に難しかっただろう。引越し先で一年間過ごしたあと、三人で暮らすのにウンザリした俺は、今通っている公立高校に合格して、学校の近くにアパートを借りて一人暮らしを始めた。以前住んでいた家からは随分離れている場所だから、澄水人とまた顔を合わせる確率なんて、ほとんど無いと思っていた。できれば一生会いたくなかったのに、どうして今夜、こいつと出会ってしまったんだろう……頭はますます混乱し始め、吐き気を我慢するのも限界にきている。
その時、誰かがトイレに入ってきた。
「おおい、雨龍君、大丈夫か?」
心配そうな店長の声がして個室のドアがノックされた。俺は返事をする代わりに便器の中にゲロを吐いた。
「駄目みたいですね…救急車を呼ぶほどではないですけど」澄水人がドア越しに答えている。「雨龍さんの家は僕の家の近くらしいですから、このまま送り届けます」
「ウゲゲゲェ(近所だってぇ?)、ゲェーッ(いつそんな話したんだよーっ)」
「…そうか、そうしてくれるか? すまん、浮船君。俺も今夜はまだ店を出られないし…。それじゃあ、タクシーを呼んで表に回しておくよ。早く帰った方がいいかもな。夜には雨が振るらしいから」
慌ただしい店長の足音が遠ざかっていく。
俺は身体を起こすと、胃の痛みに耐えながらトイレットペーパーで口の回りを拭い、便器の中へ捨てた。こめかみが疼いて足許がフラつく。流した水の渦を見ていると、また吐きそうになってくる。
「量を多く入れすぎた」
残念そうに呟く澄水人の声がした。奴は軽く曲げた人差し指を唇に当てて何かを考えている。黒い爪が曲線を描いて赤い唇の輪郭をなぞり、それを見た俺は痺れた頭の奥で(あれっ?)と思った。…どうしてなのかわからないまま、奴の唇が開いた。
「こんなに吐くなんて、相変わらずアルコールを受け付けない体質なんですね」
まさか、という想像が頭の中で明滅する。
「…あの…ジュー…ス……!?」
「そう、差し入れたのは僕」口の端だけを上げて澄水人が笑う。「そんなに不味くはなかったでしょう? 日本酒入りのオレンジジュース」
「ゲエエエエエッ」
澄水人の目の前で、もう一度吐いた。俺は料理に酒が使ってあっても気持ち悪くなるぐらいアルコール類が苦手で、それは澄水人も知っているはずだ。あのオレンジジュースを飲んだとき何も変だと思わなかった事が、かえって計略の緻密さを思い知らされた気がする。こめかみが痛いほど疼いて思考が鈍り、澄水人を罵るほどの気力も無かったが、一つだけはっきりと確信した。
「…やっぱり復讐する気なんだろ……」
痙攣する胃を押さえ、壁に手をついたまま横目で澄水人を睨むと、奴も透き通った琥珀色の瞳で俺を睨み返した。
「先輩は、さっき僕に謝りたいって言いましたよね。あれは嘘だったんですか?」
「嘘……じゃ…ない」
「それなら謝ってもらおうじゃないですか。時間をかけてじっくりと、僕の家で」
「お、おまえの…家!?」
「先輩は今、一人暮らしでしょう? このまま無断外泊しても、誰かに叱られるわけじゃないし」
「…な、なな、なんで知ってるんだ…!?」
「中二の終わりに先輩のご両親が離婚された事も、公立中学に転校した事も、今通ってる公立高校に合格してアパートに引っ越した事も、全部知ってます。あのアパート……」澄水人は思い出したのか、嫌悪をあらわにして顔を歪めた。「高校には近いけど、あんなに古くて狭くて汚いアパートは、美しい先輩が住むには似つかわしくない」
「調べたのかっ!?」
怒りが口をついて出たが、澄水人の行動の薄気味悪さに頭の芯が冷たく痺れた。こいつは的確にすべてを言い当てている。
「住所…知ってんなら、訪ねて来りゃいいだろ。それもできずにアパートの周りウロついていたのかよ? 答えろよっ」
澄水人は質問を無視して微笑んだ。故意に本心を覆い隠すような、答える気の無い笑い方だ。
「先輩を誘い出すのはこんなに簡単だった。僕の作ったシナリオ通り、先輩は店長の話に乗ってピークエクスペリエンスにやって来た。ジュースを飲んで、吐き、今は僕と二人きりでここにいる」
口調には策士のような強かさがある。こいつは、こんな性格じゃなかったはずだ。俺は何度もこいつを騙したが、騙されたことは一度も無い。唖然としていると、奴が手を伸ばして、冷たい指で両頬を挟まれた。
「僕はね……ステージの上からすぐに先輩を見つけることができました」
頭を振って澄水人の両手から逃れても、皮膚に残る感触に嫌悪が走る。奴の恍惚とした表情を間近で見るのは、それ以上に耐えられない。
「今夜のライブは最高だった……先輩の視線を感じただけで、イきそうになった……いつ僕に気づいてくれるだろう? …そう考えただけで、息が詰まって……」
とろけるような澄水人の視線は俺の頭上を越え、壁を突き抜けて遠くを見ている。
トイレの個室にこんな奴と二人でいるのは嫌だ、家に行くなんてもっと嫌だっ!!
「返してもらいたいものの相談もあるし、話の続きは僕の家でしましょう。逃げたりしたら、先輩の係わる人間全員に僕たちの過去をバラしますよ」
「そ、そんなことしたら、おまえだって…」
「かまいません。僕は被害者ですから。手始めに、楽屋にいる連中に聞かせてあげましょうか? 先輩を良い子だと信じている店長はどう思うでしょうねえ?」
これこそ俺が最も恐れていた事だった。俺がとんでもなく酷い人間だったなんて他人には絶対知られたくない。今になって考えても、澄水人と遊んでいた頃の俺は性格が悪すぎて、たくさんの酷すぎることを澄水人にしてしまった。それは、澄水人が口を開かない限り、世間には知れ渡らない。だから俺はあっさり澄水人を捨てた。自分の過去を捨てるように、知られたくない恥部と向き合わなくてもすむように…。
澄水人の顔は意地悪な表情に戻っている。因果応報という熟語が頭に浮かんで残りの気力を吸い取り、拒否や抗議をためらわせた。いつも不安げに俺の後を追っていた澄水人を思い出し、言いなりになってやることで過去を少し清算できるような気がしてきたのだ。以前の俺だったらフザけたことをヌかすなと澄水人を半殺しにしていただろう。しかし、人間は成長する。怒りや不愉快、不安な感情から抜け出すために繰り返していたロクデモナイ行動も制御できるようになり、我慢という強い感情が生まれる。それから、思いやりや過去を反省する気持ちも…。澄水人に謝るというケジメはつけなかったものの、この二年間、俺は充分反省し、穏やかな人間関係を築いて毎日を過ごしてきたというのに…。運命の出会いは赤い糸だけじゃない。蜘蛛の巣のように張り巡らされ、ある日突然囚われてしまう。……世間ではそれを腐れ縁と言う。
「僕の誘いを断るのは利口な判断じゃないですよ。さあ先輩、行きましょうか」
ほとんど脅しに近い言い方で促しながら、澄水人が個室の扉を開けた。
「…俺はそんなに暇じゃない」
「先輩次第ですよ」
話を大きくしない為には、ここで食い止めておくしかなさそうだ。
「話は短く済ませろよ。十五分以上は付き合わねぇ」
吐き捨てると、澄水人は個室から先に出て、ニヤつきながら掌を差し出した。
「何だ、バカ」
「歩けますか? 手につかまって」
「うっ、る…せぇ…」
怒鳴ろうとしたが、まだ残っている吐き気と胃痛のせいで弱々しい呟きにしかならない。ヨロヨロと廊下を歩いていると、澄水人が横に来て不意に俺の肩を抱いた。
「は、放せよ…っ」
立ち止まって振り払おうとしたが腕を掴まれ、上半身が固定されたようになってしまい、そのまま歩き続けるしかなかった。もう澄水人の顔を見るのも嫌だった。俯いていると、非力だと笑っているに違いない奴が楽しそうに言った。
「まだ介抱している最中ですからね。演技は続けないと」
「……演技かよ」
嫌味を言ってやったのに、澄水人は何も言い返さない。肩に食い込む手や、触れ合う身体の感触に、俺は心底嫌悪した。
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