Top

HAND
IN
GLOVE

01. 02. 03.
04. 05. 06.
07. 08. 09.
10. 11. 12.
13. 14. 15.
16. 17.

Marin's Note
Web拍手


     
04.

 脇腹に押し付けられた銃の硬い感覚が思考を麻痺させる。
 もつれる足を交互に前へ出し、澄水人に身体を支えられてこの部屋に入った時、すでに暖炉の火は入れられていた。暖かな空気が雨で冷えた体を包んだ。
「フン、番犬も気がきく」
 澄水人は侮蔑のこもった意味不明の言葉を呟いた。
 番犬…? と考えていると、暗かった部屋に明かりがついた。
 天井には重そうなシャンデリアが肌色に輝き、部屋の中央にある黒く円いテーブルには二人分の食事と冷やされたワインまでが用意されている。しかし、俺たちの他に人の気配はない。それは洋館の中に一歩入った時からそうだった。古そうな梁や柱がチョコレートブラウン色のせいで余計に薄暗く感じられ、時間が遠い昔のまま止まっているような空気が漂うこの家は、時間の外側に存在しているみたいだ。まるっきり生(せい)が感じられない。俺自身もそれを吸い取られたような感覚に浸されている。
 澄水人は椅子を引き、俺の肩を上から押すようにして座らせると、自分は反対側の席についた。
 そうして俺に銃口を向け、上機嫌な笑顔を見せた。赤い唇の間から真珠のように真っ白い歯が覗いている。
「今のところ、ほぼシナリオ通りにいっている。このシーンも現実になった」
 そう言って澄水人が目を細めると、長い睫毛が澄き通った瞳に夢みるような翳を煙らせた。
 束の間、頭の片隅で、なぜこいつはこんなに綺麗なんだろうと思った。二年前の澄水人は、あどけなさの中に綺麗というよりは可愛らしさを留めていた。今はそこから抜け出して完璧な美を形作ろうとしている。あの血の滲んだ太陽みたいに、こいつもこの世のものではないみたいだ。
「僕と向かい合って座る先輩の姿を何度想像したか……。僕は…」
 奴の唇から「とても嬉しい…」という甘い溜息のような声が漏れた。
「…手を伸ばせば触れることができる。先輩は現実だ。僕の声が聞こえている。僕を見てくれている。僕と同じ空間と時間を共有している。……そんな目でいつも僕を見ていた……その黒い瞳を何度想い返したか……何度、その目に映りたいと思ったか……。僕はずっと苦しかった。先輩には、わかりますか?」
 俺は、答えられない。こちらを向いている深くて暗い穴のような銃口と澄水人の顔を交互に見つめ、誰かが部屋に入ってきて助けてくれるよう、ひたすら祈っていた。
 澄水人は俺の返事を辛抱強く待っている様子だったが、諦めたのか、機嫌を害うことなく再び喋りはじめた。
「今日という日の為にいろいろと準備をしました。気に入ってもらえるといんですが。いかがです、この部屋? どの部屋で食事をしようか随分考えたんですよ。コンサバトリーで庭を見ながらとも思ったけれど…」 澄水人は喉の奥でクククッ…と笑いをかみ殺した。「…夜は真っ暗ですからね。結局、僕の一番好きなものが揃っているこの部屋にしたんです。…居心地はどうです? この家の建築設計の原案は僕の父親です。内装が洋風五分、中華四分、和風一分の一種異様なこの家が建った時、まわりからは狂人の妄想の産物だと言われたそうですけど、僕は気に入ってる……」
 途切れることなく柔らかに説明する澄水人の声が悪夢のナレーションに聞こえる。俺は無力に祈ることしかできない。
「彼は僕にいろんな物を与えてくれた。この家、コレクション、家具、庭……」
 この部屋に入るまで通ってきた廊下を少しずつ思い出してみる。これ見よがしの大きな木彫りの竜や死体がすっぽり入りそうな中国風の壺、日本画の屏風、ヨーロッパ調の絵画などが飾られていて、不気味さと悪趣味に溢れていた。澄水人のセンスの無さは父親譲りで、無敵の筋金入りだ。けれど、なぜ澄水人は父親を「彼」と呼ぶのだろう?
「これも」と澄水人が付け加えた。
 見ると、奴は愛でるように銃を眺めていた。
 その様子は死の恐怖など少しも感じていないようで、人間として当たり前に持っている普通の感覚が身体から抜け落ちているように見える。
 澄水人は狂っているのだろうか…? こんなバカ息子に銃を与える父親も狂っている…。
「これ、見事な螺鈿細工でしょう? この美しい真珠光が大好き」澄水人はテーブルの模様を何度も指先で撫でた。無機質な物の表面を往復する指は優しく、いやらしい。その手をひらりと裏返し、「こっちも見事な料理でしょう? 召し上がって下さい」と優雅に揃えた指先で料理を示した。
 何が入っているか分かったものじゃないメシなんて食えない。言い返したいが、銃を握っている澄水人に逆らうのは無謀すぎる。
「腹は……減ってない」
 俺はざらついた舌で言葉を押し出た。膝の上で握り締めた手はじっとりと汗をかいて湿っている。
「今夜のために料亭から取り寄せたんです。遠慮しないで、どうぞ」
 奴の顔には人をバカにした薄笑いが浮かんでいる。
 ステージの上で俺と目を合わせた時の、あの嫌な目つきは今夜のことを見越していたに違いない。こんな無茶な状況を作り出したのは、よほど俺を恨み、謝罪の言葉を聞きたかったからだろう。
 二年前の俺は何もかもが楽しくなく、澄水人と付き合うことで欲求不満を解消していた。俺の両親はそれぞれに恋人を持ち、家庭はいつもゴタついていたが、なかなか離婚に踏み切れなかったのは俺という未成年の子どもがいたせいだ。親権や養育費をめぐって言い争う両親の姿を見たくなくて、俺はほとんど家には寄りつかず、澄水人から金を巻き上げて遊び回っていた。澄水人が俺のことを好きだと知っていたし、奴はいつも多額の金を持っていて、借り放題の俺に一度も催促してこなかった。中二の春休みになって、いきなり両親から離婚したと言われた時も澄水人を誘って泊まり歩き、引っ越す前日に二人で海を見に行った。それが澄水人と一緒に過ごした最後の日だった。
 俺は金も返さず、サヨナラも言わずに澄水人の前から消えた。巻き上げた金は少なくとも五十万円はあっただろう。一晩かけても謝りきれない。
「悪かった……」俺はテーブルに視線を落とした。「金は…払える範囲で毎月返済する……」
 それは素直な気持ちから出た言葉だった。けれども澄水人は一蹴するように遮って言った。
「一括でなきゃ受け付けませんよ」
「え……!?」
 思わず顔を上げて見た澄水人は相変わらず薄笑いを浮かべていた。俺が母親からの少ない仕送りとバイトで何とか生活している事まで奴は調べ上げているのだろうか。俺の貯金はほとんど無く、余計な出費を極力避けて暮らしている状態で、築五十年のボロいアパートに住んでいるのもその為だ。母親はあまり口に出さないが、ここ数年で家の経済状態は悪化している。それは俺にもたやすく感じ取れるほどで、実を言えば、バイトを増やすか、もっと授業料の安い高校へ転入しようか迷っている最中だ。
「少し待ってくれ…。親に相談してみる」
 そうは言ってみたものの、母親が金を出してくれるかどうかは怪しい。まして父親になるはずだった男が出してくれる可能性はほとんど無い。男は初対面の印象とは全く逆で、稼いだ金を全部ギャンブルに使うような奴だった。母親は、また男にハズレたとグチって入籍しなかったが、同棲生活を解消しようともせずに男とケンカばかりしていた。俺はそんな二人と一年間暮らして、もうウンザリだった。オヤジの方は今、どこに住んでいるのか知らないし、殴られたことしかない奴に連絡を取るつもりもない。俺の周りには親や親戚を含め誰一人として金の相談などできる人がいないのが現状だ。
「僕は先輩に返してもらいたい。それができないなら他の方法で返してもらいましょうか。…先輩が僕にしたようにね」
 澄水人の言葉には棘が含まれていて、身に覚えのある俺は青ざめた。
「……俺に…どうしろって…」
「思い出したらどうです? 自分がどうしていたのか」
 水底に引きずり込まれるような重たい沈黙がのしかかる。俺はまた、やっとの思いで言葉を絞り出す。
「他の、方法を──」
「選ぶ気はありません」
 断固とした冷たいその言葉を、俺は耳の奥で何度も再生し、少しずつ理解する。頭の中が冷たく痺れていく。
「……これが目的か。こうすることが…、それを強要して復讐するのか」
「まさか。これは僕の夢の、ほんの一部分」
「…夢……? 一体、何の話だ……?
「説明が必要ですか? そう、これは…復讐じゃない。僕は……夢が見たいんです。僕は先輩に取り憑かれてしまった」澄水人は肩をすくめてみせた。「助けて下さい」
 頭の先から冷たい冷気に包まれたようにぞっとした。
 こいつは何を言っているんだ……? 助けてほしいのは俺だ。それとも俺をからかっているのか?
「どんな方法なら、おまえは納得するんだ?」
 声を荒げてしまったのは後悔の裏返しにすぎない。澄水人にもっと警戒心を抱くべきだったのに、俺はノコノコとこんな所まで来てしまった。それとも、二年前のツケが回ってきたと言うべきなのか──。
「食事は静かにとりましょうよ」澄水人の口調はたしなめるというより、どこか面白がっている様子だ。「冷酒はどうです?」
 澄水人の指先に、ワインクーラーに突っ込まれている緑色のガラス瓶があった。ラベルには日本酒らしく筆文字で銘柄が記されている。バカにしているとしか思えない。
「俺が飲めるわけねぇだろ…」
 思わず立ち上がろうとして腰を浮かせると、即座に銃口を顔面に向けられた。澄水人の目は笑っていない。
「行儀が悪いですよ。座って。僕のシナリオに無い行動は慎んでもらえませんか。僕たちは今夜二年ぶりに再会した。そして互いに喜び合うんだ。それ以外は許さない、絶対に」
 俺には澄水人の言葉が理解できない。俺の言葉も澄水人に通じない。成り立たない会話など喋るだけ無駄な気がする。
 崩れるように俺が座るのを見届けてから、澄水人は片手で冷酒の瓶を取り出し、二つの小さなグラスになみなみと注いだ。
「さあ、グラスを持って」
 逆らうのは無謀だと観念し、命令されるがままにグラスを持ち上げた俺の手は震え、指やテーブルを濡らした酒は嫌な臭いを漂わせた。
 後戻りできない時間が加速して流れ始める。銃口の向こうで満面の笑みを浮かべた澄水人が手を伸ばし、グラスを軽く触れ合わせた。
 その透き通った音を聞きながら、復讐劇の幕が上がるのを呆然と感じていた。澄水人は口に運ぼうとしていた手を止めてにこやかに俺を見ていたが、すぐに表情を険しくさせた。
「飲んで下さい。乾杯なんだから」
「…飲…め……ない…」
 唇に押しあて、湿らす程度に含んでみても、すぐに口の中が熱くなって咳込んでしまう。
 すると、立ち上がった澄水人が近寄ってきて俺の首すじに冷たい銃口を押し当てた。
 脳裏に頭の砕けたガーゴイルが蘇える。飲まなければ簡単に殺され、あの広い草地のどこかに埋められるのだろうか……!? 口に含んだものを喉の奥へ押しやろうと何度も舌を動かした。けれども臭いにすら我慢できず、液体の焼けるような感覚にとうとう吐き出してしまった。口元を押さえた指の間から雫が滴り落ちていく。
「世話のかかる人ですね」
 澄水人は俺の手首を掴んで口元から剥がすと、雫に濡れた指先を自分の唇へと持っていった。
「…やっ……」…逆らえば、すぐに死への扉が開かれそうで手を引っ込められない。拒否する言葉すら出てこない。
 赤い唇が開き、掴まれた指が咥えられる。柔らかく温かな口の中へ指が入り、激しい嫌悪感に眩暈がした。舌は生き物のように尖ったり柔らかくなったりしながら絡みつき、ゆっくりと俺の指を吐き出した。そして、舌先がゆっくりと、指先、手のひら、手首へと這い出した。体は恐怖を感じているのに、伏せ目がちの澄水人の顔を綺麗な絵を眺めた時のような感覚で見ていた。自分の感覚まで狂っていくようだった。首すじに澄水人の息がかかり、驚いて大きく見開いた目に澄水人の顔が映った。
 逆らうことを許さない琥珀色の双眸に射ぬかれて、俺は動けない。
 澄水人は目を閉じて俺にキスをした。
 唇に、澄水人の唇の柔らかさを感じた途端、キスされているという嫌悪感と、自分も同じようなことをしていたというもう一つの嫌悪感が合わさって甦った。
 俺は唇の感覚を心のすべてで拒否した。
 けれども澄水人は思いがけず優しいキスで俺の唇を塞いだ。俺にそう思わせたのは、澄水人の唇から伝わる微かな震えだった。
 俺は途端に悲しくなった。このキスは俺がしていたものより、もっと純粋な気持ちからしているものだからだ。澄水人は今でも、俺が好きなんだろうか?
 そっと触れ合う唇の間から、澄水人は切なげな溜め息を漏らし、俺は暗示にかかったみたいに簡単に切なさに取り込まれ、同じように溜め息をついた。唇を開くと、澄水人の舌が侵入するのを赦してしまっていた。
 そうだ、俺はこのキスを覚えている──いつも遠慮がちに動く、柔らかな澄水人の舌──俺とこいつは二年前、こうやって身体だけで繋がっていた……。
 思い出したくない過去が唇を通して蘇り、突然、記憶の引出(ひきだし)からオレンジ色の光が溢れ出した。ベタつく果汁が西の空に広がり、海に滴り落ちている。その記憶をさかのぼろうとするほど不安に沈みそうになって、俺は引出を閉じた。
 澄水人を捨てた時から、いつかこんな日が来るんじゃないかと二年間怯えていた。
 俺は目を開けたままこの行為を受け止めていたが、ふと目が合うと、奴は唇を離した。
「睨まれたままのキスなんて、欲しくない」
 言葉にはキスの甘さのひとかけらも含まれていない。
 銃口が縦に揺れ、俺に立ち上がれと命令する。
 ここから逃げ出さなければ……殺される前に……。
「僕の部屋に来て」
 抑揚のない声で澄水人が言った。
 耳を塞ぎたくなるような雷鳴が続けざまに轟くとシャンデリアの光が点滅した。
 停電になる前の一瞬に、目の錯覚のせいで、澄水人の背中にコウモリのような黒い羽が見えた。


← previews  next →

海中の城 (C) Marin Riuno All Rights Reserved

テレワークならECナビ Yahoo 楽天 LINEがデータ消費ゼロで月額500円〜!
無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 海外旅行保険が無料! 海外ホテル