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13. 14. 15.
16. 17.

Marin's Note
Web拍手


     
17.

 マンションの地下に入っていくとゲートがあって、澄水人は取り出したカードで解除すると奥へ進み、やたらと外車ばかりが並ぶ駐車場の一角にバイクを停めた。
 降りてメットを取ると、ひんやりとした空気が頬をなでた。俺たちの他には誰もいない。エンジン音が止まり、コンクリートの壁と柱で囲まれた空間は静けさに包まれた。
 まるで死角のような場所だ。俺はまたとんでもない所へ来てしまったんじゃないかと感じ始めていた。澄水人と二人きりでいるのが今更恐くなってきた。
 そんな俺の顔を見て、横に並んだ澄水人がクスっと笑った。
 何だよ? と目だけで訊き返すと、
「ほら」と言って上を指差した。
「え?」
 指先を視線でたどると、そこには、こっちを向いている監視カメラがあった。
「覗かれながら何かをする趣味は無い。もったいないから見せたくない」
 そう言ってクスクス笑っている横顔を、俺は不思議に思いながら見つめた。どうしてこいつは、俺の考えてることや感じてることを簡単に分かってしまうんだろう?
 澄水人はバイクからキィを抜いた。
「おまえさ、無免許だろ?」
 カメラに口元が映らないよう顔を背けて訊いてみる。
「そうだけど?」
 それがどうかしたの、という口調で澄水人が訊き返した。
 やっぱりそうだったのか……。大きな溜め息が漏れた。
「あのなぁ、おまえ…、カメラに映ってるって」
 澄水人は俺の質問の意図がわからない、という顔をした。
「仕方ないでしょう? だって、先輩を追いかけるなら、原付よりこっちの方が早いから。二人乗れるし、銀行にも行けたし、便利じゃない?」
「…………」
 俺は頭を抱えそうになった。こいつは、違反行為を『仕方が無い』の一言で済ませている。乗せてもらったのは、やっぱり大間違いだった。グチャグチャな配線の頭には、社会倫理も無いらしい。
 事故を起こさなくて本当に良かったと思った。もしも人を傷つけたらどうなっていただろう? 俺がバカだった。こいつといる時は、もっと俺がしっかりしなきゃいけないんだ、でないと面倒に巻き込まれる。
「あのな…、違反はコッソリする…んじゃなくて、しちゃいけないんだ。俺もこれから気をつける…。だから、もう乗っちゃダメだ」
 きつい調子で言うと、澄水人は拗ねた口調で答えた。
「いつもは乗ってない。公道を走ったのは今日が始めて」
「は……」……じ、め、て!?
 無事故が奇跡に思える。よく人や車と接触しなかったもんだ。俺を追いかけるためだったっていうから、俺のせいなんだ……頭痛がしてきそうだ。
「このバイクは別荘の私有地で乗ってるだけだから」
 澄水人は俺の顔を覗き込み、笑みをひっこめた。
「先輩にそんな顔をされると、すごく悪いことをしたみたいに思える」
 少し不安そうな顔をした澄水人が、なんだか可哀相に思えてきた。でも、教えてやらないと、きっと分からないんだろうな…。
「悪いことなんだよ……。逆に考えてみろよ、もしも、知り合いが無免許のバイクにハネられて死んだら、おまえはどう思う?」
 途端に澄水人の顔が曇った。ひどく傷つけてしまったみたいだが、仕方が無い。「だからさ、」
「わかりました」
 遮るように澄水人が言った。
「もう公道では乗りません。バイクは番犬に取りに来てもらいます」
「……うん、それがいいと思う」
 澄水人の様子を見ながら俺は応えた。取りあえず、配線が一つマトモになってくれればいいんだけれど……。
「エントランスホールは、こっちです」
 それほど不機嫌になった様子もなく、澄水人は背中を向けて先を歩き始めた。
 一瞬、俺は逃げたい衝動に駆られた。でも、逃げ込む場所が無い。荷物も心配だ。
 思い直して、仕方なしに澄水人の後を追った。
 逃げ込む場所があったら、俺は逃げるだろうか?
 何歩か歩く間に自問自答したが、答えが出せない。
 澄水人はさっさと俺の前を歩いている。
 階段があって、登りきると、一角に仕切られた部屋があった。その窓の中から俺たちを見ている男がいる。そんなに若くなくて、ネクタイをしめていて、紺色の制服みたいなのを着ている。多分、このマンションの管理人か警備員だろう。
 バイクのこと、知ってるのかな? 呼び止められたらどうしよう? 俺がそんな心配をしてるのに、男におかえりなさいとにこやかに声をかけられた澄水人は、ごく普通に、というか、堂々と「ただいま」と男に会釈してそこを通り過ぎた。
 俺は驚いてしまった。澄水人の身体から、恐怖心以外にも抜け落ちている感情を、また一つ見つけた気がした。後ろめたさも無いらしい。配線が全部マトモになったら、人間らしい感情もマトモに働くだろうか?
 そんなことを考えていると、澄水人の背中越しに光が見え、突然、天井の高い明るい空間に出た。
 柔らかそうな白いソファが何組か置かれていて、俺がよく行くクラブの隣にあるホテルの、小さなロビーみたいだ。一面に広がる窓の外で、石積みの壁の間から流れる人工の滝が白い水しぶきを上げている。その音はガラスに遮られてここまで聞こえてこない。横の壁には花を飾ったテーブルがあって、正面玄関は、花と緑で飾られている。
 俺の足は止まっていた。本当にここに住んでるのか?
 気がつくと側に澄水人がいない。扉の開いたエレベーターの前で俺を待っている。窓から覗く男の視線を感じながら、俺は白っぽいツルツルの床の上を急いで歩いた。
 二人で乗り込むと、澄水人が“15”のボタンを押した。数字は15までしか並んでいない。最上階へ行くんだ。
 俺は澄水人から離れて立った。この狭い空間が苦手だ。二人きりだと、余計に息苦しい。落ち着かなくて上を見ると、天井の角に丸いカバー付きの監視カメラがあった。
 気がつくと、澄水人が俺を見ていて、だから何もしないよ、という笑いを押さえたような、すました顔をした。
 俺は目の端に澄水人を捉えながら顔を背けた。早く着けばいいのにと心の中で溜め息をついた。
 何もかもが二年前と違う。俺の方が澄水人に気を使っている。その上、自己嫌悪を感じて奴の頭の配線まで心配している。澄水人に二年前の面影は無い。背は俺よりデカくて逞しい。そして俺は──。父親が再婚し、家と母親が、消えた。
 上昇感が止まった。それほどの振動もなく扉が開いて、先に降りた澄水人に続いて、進まない足を前に踏み出した。
 非常階段に出る扉と、二つしか門のないフロアだ。
 澄水人は右側の門を開けて、ドアに鍵を差し込んだ。
「どうぞ」
 そう促されても、俺は開いた扉の中へ入れない。
「荷物は奥の部屋です」
 決心させるような言葉を澄水人が言って、俺の腕を掴んで笑った。その顔は意地悪なんかじゃなくて、自分の家に俺を招いて嬉しがっている感じだ。
 また騙されるかもしれない、どうなるかわかったもんじゃないのに…、と頭の隅で思いながら、どこか無邪気な笑顔に警戒心を薄められて、家に上がった。
 澄水人は待ちきれないように靴をぬぐと、「こっち」と言って振り返りながら、廊下の奥の部屋へと俺を引っ張っていった。
「う…」
 突き当たりの、光に溢れたその明るい部屋を見て、俺は唸った。
 どうやらリビングらしい。無駄に広くて、家具も引き離されたようにポツポツと置かれている。その配置も変だけれど、インテリアセンスが変すぎて、俺はまた澄水人の頭の具合を心配した。
 ダイニングテーブルも飾り棚も、ソファもサイドボードも、すべて研かれた緑色の石のような素材で統一されている。ショールームに並んでいたらきっと高価なものなんだろうけど、良いと思う前に、やっぱり変だと感じてしまう。澄水人の洋服と同じで、物は良いのに部屋との組み合わせが悪すぎる。高価な粗大ゴミって感じがして、俺が模様替えしたいぐらいだ。それとも、家具はこの部屋に運ばれて適当に置かれただけかもしれない。テレビもソファも無い。人が住んでる感じがしない。
 右手には続き部屋があって、引き戸の開け放たれたその和室には、家具が一つも置いてなかった。生活の匂いが全く無くて、引っ越したばかりというのも嘘じゃないみたいだ。
「どう、明るいでしょう?」
 澄水人がなぜか嬉しそうに同意を求める。
 俺は別に、おまえのマンションを見学に来たワケじゃないんだけど……。俺の荷物はどこだよ?
 そう思ってるのが顔に出ていたのか、澄水人は、
「先輩、こっち」と手招きして廊下に出た。
 本当にあるのかな、荷物…。心配になりながら後についていくと、澄水人は、部屋を出てすぐ左にある扉を開けて、「ここ」と中を指差した。
 半信半疑で首を突き出して覗くと、俺のギターケースが目に飛び込んできた。
「あっ…」
 澄水人の横をすり抜けて部屋に入り、積まれた段ボール箱の前に寝かせてあるケースを両手で掴んだ。
 家が崩壊しているのを見た時は、もう二度と触れないと思っていた。でも、確かにここにある。中味を確かめると、俺の大事なギターが、ここまで運ばれていても、傷ひとつなく収まっていた。
 そっとフタを締めて、俺は嬉しい溜め息をもらした。
 座り込んでケースを撫でていると、澄水人が横に来てしゃがんだ。
「ね? 荷物、ちゃんと預かってたでしょう?」と、にっこりと笑っている。
 俺はあらためて段ボール箱に目をやった。真新しそうなフローリグの上に青いビニールシートがひいてあって、その上にひとかたまりにして置かれている。
「ど…うも……」
 ありがとう、と続けて言えなかったのは、頼んだ覚えのない引越屋のロゴマークや、『食器』とか『本』とかマジックで書いてある黒い文字を見たからだ。小さな食器棚や本棚、布団は丁寧に梱包されている。
 なんで俺の荷物だけ勝手に引越してるんだ……。俺は何にも知らなかった。家が取り壊されることすらも。今度は不安の溜め息がもれた。これからどうするか考えなきゃいけない。
 部屋の隅にはセミダブルぐらいのベッドが置いてあった。
 それを見て、なんだか落ち着かない気分になってきた。視線を逸らして見回すと、出窓が一つと、片開きの窓が3つある。俺の荷物の他には、ベッドしか家具が無い。
 ここは澄水人の部屋なんだろうか? 俺の荷物がいつまでも置いてあるから、自分の家具が置けないんだろうか?
「ここって、おまえの…部屋…?」
 横にいる澄水人は、笑いを浮かべたまま立ち上がった。
「僕の部屋はこっちです」
 俺の腕を掴み、引っ張り上げて部屋を出ようとしている。
「え、おい、ちょっと……」何でおまえの部屋を見学しなきゃいけないんだよ……そう思いながらグイグイ引っ張られて、玄関に近い部屋まで連れて来られた。
「ここが僕の部屋です」
 さっきの部屋よりも狭い気がする。壁は二面とも大きな窓があって、バルコニーに出られるようになっている。ここには少しだけ生活の匂いがあった。きちんと片付けられていて、雑誌や文庫本や辞書の詰まった本棚もある。机もパソコンもベッドもある。
 ベッドは大きめだ。澄水人は身体がデカイから、これを使ってるんだろう。なんだかまた居心地が悪くなってきた。
「玄関ホールにある横のドアと、あそこから屋上に出られるようになってます」
 そう言って澄水人はベランダを指差した。
 そんな説明されても困ってしまう。何が言いたいんだろう? ただ家の中を見せたいだけなのか?
「出てみますか?」
「え?」
「屋上がスカイテラスになってるから」
 16階か。眺めはいいだろうな。そんなに隣接してビルが建ってるわけでもないし。高い所は好きだ。眼下に広がる景色や、遠くを見ていると、自分の悩みがちっぽけに思えてくる。俺は今でも時々高い場所に出かけてるけど、そういえば、澄水人とは一度も行かなかったな…。ボケっと景色を見てるより、巻き上げた金で遊んでた方が楽しかったから。……ああ、またどす黒い自己嫌悪がやってきて、胸の中で膨らみ始めている。
 澄水人は俺の返事を待っている。
 誘いに乗ってやれば少しは気分が楽になるかもしれない。うん、と声に出さずに頷くと、澄水人は俺の期待通りの嬉しそうな顔をして、ベランダに続く窓を開けた。
 躍場みたいになっていて、左の方へ回り込む階段がある。用意されていたみたいに、二足のスリッパが並べてあった。
 それをはいて階段を一歩一歩登っていくと、広い空の下に建ち並ぶビル郡が少しずつ現れ始めた。視界の半分が空だ。
スカイテラスは、椅子も何も無い、手すりで囲まれた屋上という感じだった。
「ほら、山が見える」
 澄水人がぐるりと周りを指差した。隣の家もここに出られる構造になっているのか、腰ぐらいまでの高さの一直線の仕切りがこの屋上を半分に分けていた。視界を遮る壁がなくて、180度どの方向も風景が見える。
 はるか彼方にまで広がる街を、囲むようにして山が連なっている。その山の頂が白くなっているのは、まだ残ってる雪だろうか、それとも雲だろうか。
 見上げた空は、頭の上に落ちてきそうなほど近くて、ビルや人家の窓も、下を歩いている人間も、走っている車も、すごく小さい。
 自分の居場所なんてどこにもなくて、誰といても、どこにいても一人ぼっちだ。一人が嫌なわけじゃない。家族のいない淋しさ。それがやりきれない孤独を感じさせる。
 俺は澄水人から離れて手すりに持たれた。
 足許は、コンクリートではなく、樹脂みたいなものが敷き詰められている。足先で触ってみると、裸足の方が気持ちいいような感じがした。
「それ、土みたいに雨が染み込むんです」
 側に来た澄水人が説明した。
「ふうん…」
 俺は返事をした。こういう、たわいのない会話だけして生きていきたい。家も親も、学校のことも、心配とか不安とかとは全く無縁の生活がしたい。
 目の前にある空は西の方角で、太陽も雲も薄いオレンジ色に染まり始めている。なんだか泣けてきそうになった。泣く暇があったら頭を回転させて、これからのことを考えなきゃいけないのに。
 夕陽なんて大っキライだ。またこんな気持ちで見なきゃならない。
 中学生の頃、帰りたくても帰れなかった家。両親のケンカを見ずにすむなら、そのままどこか遠くへ行きたいと、いつも思っていた。時間が止まってしまえば、ずっと街をウロついていられるのに、太陽は沈んで一日の終わりを告げる。時間なんて止まらないと教えられる。自然なことなのに、それは俺にとってすごく残酷だった。離婚した母親と暮らしていても、一人暮らしを始めても、夕陽を見るたびに胸に不安が広がった。空がオレンジ色に染まっていくように、胸の中が不安でいっぱいになって、こんな思いをするぐらいなら、もう消えてしまいたいと思うことすらある。
「ねえ、先輩」
 手すりにもたれた澄水人が、遠くを見ながら言った。
「帰る家が無いんでしょう?」
「…………」 ……そう。無い。
「しばらくここにいたら?」
「は? 何で!?」
 俺は驚いて訊き返した。澄水人も顔を向けて俺と向き合った。
「僕のマンションだから、気を使わなくてもいいし。先輩の荷物が置いてあった部屋、あそこを使ってください」
「え………」
 こいつ、今、何て言った? ここで一緒に暮らそう、みたいなこと言わなかったか?
 澄水人の顔は真剣だ。冗談を言ってるわけじゃないらしい。
 他に泊まる金もなけりゃ野宿する勇気も無いけど……。普通だったら嬉しい申し出だけど、澄水人と二人でなんて、素直に喜べるはずがない。別荘で繋がれて散々あんな事し合ったっていうのに、俺が承知するとでも思ってんのか? バカかこいつ? ……あ、バカは俺で、こいつは配線おかしかったんだ……。
 住む場所を探さないと、バイトして金も返せない。住み込みのバイトって探せばあるんだろうか? でも、高校は卒業したい。できれば大学にも行ってちゃんと就職したい。バンドだってやりたいし、俺にはやりたいことがいっぱいある。母さんのバカやろー。いきなり選択肢を取り上げやがって。駆け落ち、もう数年だけ待てなかったのかよ?
 俺は目の前の澄水人をじっと見つめた。
 …だからといって、こいつと暮らすのは絶対嫌だ。
 澄水人と再会して、俺は自分がどんな人間か嫌というほど思い知った。
 本当にバカで、底なしにだらしなくて、簡単に狂い、快楽を求めてどこまでも堕ちていく────。
 両親や他人の都合で、選択肢が無くなったり、運命に翻弄されるのは、もうこりごりだ。まして自分の愚かさのせいで、運命にクシャクシャにされるのは絶対に避けたい。無力だから翻弄されるというなら、力を持って自分が運命を操ればいい。……だったら俺、ちゃんと学校行って就職して、自分で選択肢を増やさないと……。バンドやってる場合じゃないな……。
 澄水人は、じっと俺を見つめている。
 もし、こいつと暮らしたらどうなる?
 寝る時も風呂入る時もメシ食うときも、二十四時間警戒して神経尖らせて暮らすのか? 澄水人が狂わないように、それとも俺が狂わないように? 機嫌を損ねたら最後、また鎖で繋がれて、今度は殺されるかもしれない。ナイフを持つ手が滑ったとか、クシャミして力が入っちゃったとか、どうしようもなくクダラナイ理由で、大量出血して。それとも毎日犯られまくって衰弱死とか。それとも、俺が澄水人を殺すのか──。
 考えるとキリが無い。それに、あの……荷物があった部屋のベッド、あれは何なんだ…?俺には布団があるのに。あのベッドを使えっていうのか? どうしてシングルサイズじゃないんだ。澄水人のベッドだってかなりデカかった。しかも……ベッドフレームは鉄格子みたいになってたし……。繋ぎやすいってことか? 誰を? 俺を?
 またこのマンションでアレをするのか……?
 全裸で、繋がれて…毎日犯られて……日常の感覚すらマヒするまで……。
 それとも──。
 それとも、やっぱり…俺が狂って────。
 想像して、恐くなって頭を振った。
 澄水人の頭の配線の責任は充分感じている。でも、配線を正しい位置に替える作業は、一緒に暮らさなくったってできるはずだ。
 俺と澄水人は、ある程度距離を保っておかないと、きっと、とんでもない事になる。このテラスの下は密室だ。
 澄水人はふと顔をそむけ、遠くへ視線を投げた。
「ここは良い場所ですね。都心なのに夜は静かだし、コンビニも食事する店もたくさんある。先輩の高校にも近い」
「高校のことなんて、どうして…?」
「ここからなら、前と同じで歩いて通学できるでしょう?」
 そうできれば、どんなにいいか。また溜め息が出そうになる。
「…学校は…、やめるかもしれない。それか…もっと授業料の安いとこに替わろうかと思ってる」
「僕としては、替わってほしくないな」
「なんで…」…おまえが、そんなこと口出しするんだよ? 俺の通学のことまで考えてくれてたってことは、監禁は春休みの間だけするつもりだったのか?
「ここから一緒に通うのも、楽しいかもしれない」
「は?」
「僕ね、頑張って合格したんです。先輩の高校に」
 誉めてほしいといった感じで、澄水人がはにかみながら報告する。
「………?」
 ちょっと待ってくれ。俺は頭の中を整理した。
「おまえ、外部受験したのか? 中学で辞めちゃうのかよ? せっかく付属でエスカレーターなのに、高校にも大学にも進まないつもりか?」
「先輩と同じ高校がいい」
「それじゃ…、四月から俺の高校に……?」
「通うつもりです」
「もしかしたら…、俺と……一緒?」
「それもいいなって、今思った」
「今…… ! ! 思いつきかよ!?」
「だって、どうなるかわからなかったし。最初は、ずっと監禁しておくつもりだったから」
 それまで黙って聞いていたが、「バカッ ! !」と思わず叫んでしまった。澄水人は一度だけ瞬きをして、笑みを引っ込めた。
「バカかおまえはっ!? 思いっきり人のことモノ扱いしやがって。その時の気分で、俺が可哀相だからって、何も見ないように仕向けたり、やっぱり学校行かせようかって、こんなとこに引越たり、ずっと監禁しておきたいとかメチャクチャ言いやがって!! 俺はおまえのモノじゃねえって何度言えば分かってくれる? 百回か? 二百回か? それとも……」 ……殴られれば分かるようになるのか? ……とは言えなかった。そんなことをしたら、俺はケダモノに成り下がってしまう。
 今、澄水人は何も感じない顔をして俺の言葉を聞いている。罵声をシャットアウトしている顔だ。傷つかないための自衛手段なんだろうか……? これは、誰のせい?
「あー…、クソッ」
 無意識に握りしめていた拳を開いて、俺は空を見上げた。
 さっきよりも濃いオレンジ色に染まっている。ベタベタした果汁が身体に張りつくような嫌悪感。陽が沈めば、やがて夜が来る。そうしたら、どこへ行こう?
 少し風が出てきた。こうやって外にいると、寒さも感じる。俺は両手で自分の腕を抱いた。
「ねえ先輩、下に戻って、温かいもの……何か飲もう」
 バカとか言われたくせに、いたわるような言葉をかけて澄水人が促した。
 これ以上ここにいると風邪をひいてしまう。俺も黙って頷いた。イライラが治まらない。少し冷静になった方が良さそうだ。
 それきり俺たちは無言だった。緑色の家具の置かれたリビングに戻ると、澄水人はダイニングテーブルを指差して座るように促し、キッチンの方へ入っていった。
 俺は緑色の布が張ってある椅子に座った。
 テーブルの表面は緑色で、不思議な模様をしていた。表面がツルツルしていて、冷たくて、キズ一つ無い。
 なんで俺、ここにいるんだろう?
 部屋はがらんとしていて、淋しい感じがする。見回していると、どっしりとした飾り棚の真ん中の棚だけに、いろんな色や形の瓶がぎっしりと並んでいるのが見えた。他の棚には何も入っていないのに、そこだけぎゅうぎゅう詰めで、なんだか変だ。
 何だろう、あれ…? 
 よく見えない。目を細めようとした時、
「はい」と、目の前に水色のマグカップを置かれた。
 甘い匂いのする湯気が、茶色の液体から、ふわふわと立ち上っている。
 またとんでもないモンを飲まされるのか、俺は?
 これは何だと訊く前に、お揃いのような緑色のマグカップを持った澄水人が口を開いた。
「ココア。先輩、好きだったでしょう?」
 そう言って隣に座ると、自分はふうふうと冷ましながら、さっさと飲んでいる。
 はあ…。溜め息も出ない。本当に俺が飲むとでも思ってるんだろうか?
「交換しよう」
 水色のマグカップを指で差すと、澄水人はちょっとだけ目を見開いて、自分のカップを俺の手に握らせた。
 温かさが指から伝わってくる。俺は両手で包み、毒見のすんだココアをすすった。
「毒なんて入ってないのに」
 澄水人が口を尖らせる。
「信用してない」
「そんなんじゃ一緒に暮らせませんよ?」
「…………。暮らす気は、ない」
「じゃあ、どうする気ですか?」
「うるさいな。だから今、考えてるだろ」
 そんな簡単に答えなんて出ないよ。胸の中で、不安が染みのように広がっていく。澄水人の言葉が、不安を掻き立てる。
 こいつを好きになれない理由は、コレだ。
 こいつはいつも、俺を現実から引き離そうとする。俺が家に帰りたくない時は、帰らなくていいように金を貸してくれたし、家も母親のことも、現実と向き合わなくてもいいように監禁までしやがった。現実から目を逸らしても何も変わらないし、イタズラに不安を呼び込むだけなのに、こいつはいつも、そうすることを勧める。
 澄水人の側にいると、夕陽を見ているような不安が胸いっぱいに広がる。
 そうか、そういうことだったんだ……。
「先輩?」
 澄水人が心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
「夕陽……」俺は呼びかけるみたいに、噛み締めるみたいに、小さく呟いた。
 隣の和室の方を見て、澄水人が「そうですね」と答える。障子が半分開いていて、西向きの窓からオレンジ色の光が差し込んでいる。
 俺は、違うよ…、と心の中で呟いた。
 おまえが夕陽なんだ。説明するのが面倒だから、黙っておくけれど…。
 部屋が少しずつ暗くなっていく。夜が来るのが恐い気がした。
「先輩、もう少ししたら、戻りましょうか」
「どこへ?」
「別荘」
 俺は鼻からココアを噴き出しそうになった。咳き込みながらカップをテーブルに置いて、澄水人を睨んだ。
「…何言ってんだ、おまえ!?」
「だって、まだ春休みは大分残ってるし、僕と暮らすのか、どうするのか、あそこでゆっくり考えればいいでしょう? ここよりももっと静かだから、落ち着けると思う。僕はこのマンションより、別荘の方が好き。番犬以外に誰もいないし、バイクにも乗れる。そうだ、先輩にもっと庭を案内してあげる」
「………。繋がれるために戻りたくない。考える余地もない。一緒に暮らしたくなんか、ない」
「繋ぎませんよ? 約束したのに。それでも嫌ですか?」
「どうせ、俺には戻る所が無いから、逃げてもムダだって思ってるんだろ?」
 澄水人は曖昧に笑ってみせた。絶対そう思っているに違いない。繋がなくても、俺は逃げない、と。
 俺に見えない鎖でもつけた気になってるらしい。でも、俺の意思はいつでも自由だ。
「俺の気持ちまで、繋いでおけるって思ってるのか?」
 嫌味ったらしく言ってやると、澄水人は少し考えて、首を横に振った。
「…そうですね、……先輩は、逃げてしまうかもね…」
 澄水人はじっと俺を見つめた。何かを言いたそうにしている。言いたいことがあるなら言ってみろ、そう思って俺も睨み返した。
「先輩を、瓶に詰められたらいいのに」
 澄水人が呟いて、飾り棚に視線を移した。言葉の意味がわからないけれど、本音を吐いたような、静かな言葉だった。
 殺されて、バラバラに切断された俺の身体が入っている大きなガラス瓶……を想像してしまった。
 瓶って何だよ???
 密室で味わうはっきりしない恐さに、頭から足の先まで包まれたような奇妙な感じがする。
 見たくないと思いながら、視線を澄水人の顔から飾り棚へと無理遣り移した。
 棚には様々なガラス瓶が並んでいる。薄い水色や緑色の手作りみたいな瓶、何かの模様が彫ってある瓶やジャムが入っていたような透明のもの、平たいのや丸っぽいもの、それらはみんな中に何か入っていて、蓋がしてある。
 中味が何なのか、もっと近くへ行かないとわからない。
「僕には、小さい頃の記憶があまり無いんです」
 澄水人が呟いた。俺から視線を逸らし、テーブルに置いた自分の両手の指を硬く握り締めている。
 俯いた横顔が金髪に隠れて表情が見えない。
「どんなに思い出そうとしても、切り取られたみたいに、ぽっかりと穴が開いていて、そこには僕がいない。母もいない。確かにそこにいたのに、記憶は真っ白で、何も掴めない」
「記憶が…無い?」
 俺は言葉を繰り返した。もっと違うことを言いたいのに、見つからない。
「母に殴られた記憶を、自分で思い出さないようにしてるだけなんだろうけど…。でも、本当は、自分がそこにいなかったんじゃないかって、…本当は、もっと酷いことがあったのかもしれないって、すごく不安になる。
 僕が憶えてるのは、一つだけ。…母と一緒に庭で夕陽を見たこと……それだけ。手をひかれて、庭に出て、……いつもの母と違う、そう思いながら、すごく嬉しかった。今でも不思議な気分になる。この幸せな記憶は、自分が作り出した偽物なんじゃないかって。
 小さい頃の写真もあまり無いし、記憶をたどるものが何も無い。だから、初めて記憶が無いって気づいたときに、僕は決めたんです。もし忘れてしまっても、ちゃんと思い出せるように、瓶に詰めておこうって」
 澄水人は俺の顔を見ずにテーブルを離れて、飾り棚のガラス扉を開けた。そして、手前にある小さな瓶を取り、手のひらに包んで唇を押し当てた。
 俺は立ち上がり、恐々と、それでも吸い寄せられるように、澄水人の側へと近づいていった。
 棚に並ぶ瓶の中味は、ひと目見ただけじゃわからないようなモノばっかりだ。
 布の切れ端、服のボタン、皮紐、ピアス、小さな人形の足、シャープペンシル、折りたたまれた何かの説明書、タトゥーシール、ギターのピック、ガラスの破片──。
 瓶の底にはすべて白いコットンがひいてある。中に入れているものを傷つけない配慮だろう。
 そして、すべての瓶に細長い紙切れが入っていた。
 澄水人の拳を両手で掴み、口元から離すとゆっくりと下ろして、目の前で指を一本ずつ開いてみた。
 手のひらの上に、コルクのフタの小さなガラス瓶が現れた。薄桃色の桜貝が数枚入っている。
 俺はその瓶をそっと取り上げて、紙切れの文字を読んだ。
 二年前の日付けと、俺の名前と、海岸の地名が、几帳面な字で小さく書かれていた。
 俺の記憶の引出が不意に開いて波の音が聞こえた。
 あの海で拾った桜貝だ。あの日の記憶と同じ色をしている。
 ──『僕の思い出まで壊す権利なんて、先輩には無いはずだ』
 澄水人が叫んだ言葉を俺は初めて理解した。
 二度と戻れない時間の中にだけ幸せな記憶があったのかもしれない。俺は、それがどんなに大切かも知らないで、好きじゃなかったと平気で否定してしまった。
「返して」
 澄水人は怒ったような、困ったような顔をして手を広げた。
「返して…。記憶が無くなるのが、恐い」
 俺は瓶を手のひらの上に返した。今にも泣き出しそうな澄水人の顔を見て、我慢できなくなって、その手を瓶ごと掴んだ。
「無くならない。俺を見ろよ、俺はここにいるだろ?」
 そう言っても、澄水人は俺の言葉を信じられないというように首を横に振るだけだった。
「こうやって先輩に触っていても、いつか忘れてしまうかもしれない。先輩だって、僕のことを忘れてしまう。僕の手にはいつだって……グローブがはまっていて……ちゃんと自分の手で触れない…」
「…違う!」
 そう叫んで澄水人の肩を掴むと、瓶が掌から落ちて床の上を転がっていった。拾おうとする澄水人の手首を握って無理遣り引き戻し、その掌を俺の左胸に押し付けた。澄水人は驚いて目を見開いた。
「おまえは、ちゃんと触ってる。この手で、俺を触ってる。心臓が動いてるの、わかるだろ?」
 まるで固まったみたいに澄水人は動かなかった。うつむいて、つらそうな顔をして、唇を噛みしめた。
「……どれが本当の記憶で、どれが偽物の記憶なのか、時々わからなくなる。…先輩が…いないくなるのが怖い……黙ってどこかに行かないで、一人は嫌だ…、愛してる……」
 心臓がドクン、と強く跳ねた。
 手のひらにそれが伝わったのか、澄水人は顔を歪めた。
「ああ……」
 溜息をついた俺は、絶対に言わないだろうと思っていた言葉を自分で口にした。
「戻ろう…」
 澄水人の手を両手で包み、もっと強く胸に押し当てる。
 あの別荘に戻って澄水人と二人で夕陽を見たいと思った。澄水人の隣に立って、この手を力強く握ってやりたいと思った。幸せな記憶の中の一部になるために……。
 瓶なんかに詰めきれない記憶を、思い出を増やしてやりたい、そう思った。
 なんでこんな気持ちになるんだろう?
 俺がバカで、実はおせっかいが好きだから? 澄水人が泣いたから? 俺を必要としてるから? こんな選択は明日になったら後悔しているかもしれない──。
 自分でもわからない。答えを出すには少し手間取るかもしれない。静かな時間はたくさんある。
 考えてみよう、あそこに戻ってから。
 澄水人と二人で大っキライな夕陽を見て、俺は何を感じるだろう?
 いつか好きになるのなかな……。夕陽を、魔に逢う時を。
 澄水人はあの頃と同じように淋しそうに笑った。琥珀色の瞳が濡れていく。見つめているうちに、それはもっと濡れて、涙が溢れた。
「泣くなよ」
 俺は言いながら、頬を伝って流れ落ちていく涙を指先で拭った。
 澄水人はゆらゆらと視線を漂わせて、
「そのTシャツ、嫌いだ」と呟いた。「番犬のなんて、着て欲しくない」
 子どもが拗ねるような口調だ。それとも本気で怒ってるのか、俺にはわからない。澄水人のことをまだ何にも知らない。
「この服……あの人のだったんだ。じゃあ、返しに行くよ」と俺は答え、他にも返すものがあるから、とは言わずに黙っておくことにした。
 澄水人は俺の言葉が信じられないのか、急に困惑したように訊く。
「この記憶は偽物じゃないよね? 僕は先輩に触ってるよね?」
「ああ、本物だ」俺は語気を強めて頷いた。「ちゃんと触ってる。グローブなんか、はまってない」
 いきなり澄水人が、しがみついてきた。薄暗くなった部屋で、俺は戸惑いながら澄水人の背中に片手を回した。
 途端に、記憶の引出からオレンジ色の光が溢れ出す。
 あの日、あの海で、本当はこうしたかったのかもしれない。
                                              END.


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