Top

HAND
IN
GLOVE

01. 02. 03.
04. 05. 06.
07. 08. 09.
10. 11. 12.
13. 14. 15.
16. 17.

Marin's Note
Web拍手


     
11.

 俺は、軽く曲げた人差し指を唇に当てて考え込んでいた。
 澄水人と同じように──。
 あいつが人差し指を唇に当てるのを見るたびに、どうして俺が(あれっ?)と思うのか、ようやくわかった。
 あの仕草は澄水人の癖というより、俺自身の癖だ。今まで気にしたことはなかったけれど、何かを考えるとき、俺は無意識に指を唇に当ててしまう。
 二年前の澄水人には、あんな癖は無かった。奴は別人みたいに変わってしまった。自分勝手で、強引で、他人の都合なんておかまいなしに振る舞っている。まるで、以前の俺そのものだ……。
 その考えに行き着いたとき、恐ろしい連想が生まれた。
 澄水人は、俺を模倣している。
 俺に倣ってバンドを組み、俺が春休みの間だけ金髪にしていたのを真似て髪を染め、俺があの頃よく着ていたライダースジャケットを着て、乱暴な態度を取り、俺と同じ仕草で考える…。
 そうやって俺になりきり、同一化することで、俺を手に入れた気分に浸っているんだろうか? 俺を好きになって、好きになりすぎて手に入れられなかったから、俺の外見を自分に取り込んでしまったんだろうか…!?
 澄水人という人間が、俺のことを好きな『澄水人の心』と『俺の外見』で形成されているとしたら、そのうちに分裂してしまうかもしれない。本人も無意識にそれがわかっていて必死にもがき、本物の俺を手に入れようとして、こんな監禁をしている……としたら!?
 自殺は冗談なんかじゃなくて、俺に対する歪んだ愛情表現だったんだ……。
 澄水人は本当に殺されることを望んでいたのかもしれない。
 殺されることで、自分が死ぬことで、俺を手に入れようとした……、生き残った俺が、自分のせいで死んでしまった澄水人のことしか考えなくなって、他の誰のことも考えられなくなるように、奴は望んだ……?
 澄水人は死にたがっている。監禁したがっている。愛情を手に入れたがっている。俺に対する感情は憎しみと愛情しかなく、両極端にコロコロと変わっている。それは俺が以前、澄水人に取っていた態度そのものだ。
 俺が、そうさせてしまった。何の打算もなく、見返りも期待しない、ただ一緒にいるだけで幸福だと言わんばかりの無邪気な笑顔を、俺は奪ってしまった。
 俺は澄水人に苦しめられてるんじゃない。過去の俺にそっくりな澄水人に、結局は俺自身に苦しめられているんだ。
 冷水を浴びたみたいに、寒気がする。
 静かな部屋を、俺はゆっくり見回した。
 悪い夢の真っ只中にいる。俺が創りだした悪い夢の中に。澄水人は今でもそこに囚われて、漂流しながら待っている。永遠に、手に入らない俺を──。
 澄水人なんか好きじゃない。愛してない。愛してやれない。でも、逃げ出すわけにはいかない。逃げてここから出ていけば、また同じことの繰り返しになってしまう。監禁され、強要されて、どこまで行っても離れられない。
「最っ低で、最悪のシナリオじゃねぇかっ……!!」
 俺は口の中で噛み潰すように呟いた。
 すべて間違っている。すべてがおかしな方向に進んでいる。
 終わらせるべきだ。
 今、すぐに──!
 頭の中にある言葉を全部澄水人に投げつけたい衝動にかられて、俺は鎖を引きずって勢いよくバスルームのドアを開けた。
 興奮した俺の気持ちとはまったくかけ離れた落ち着いた空間が、そこにはあった。
 立ちこめる湯煙が雨音に混じって漂っている。
 薄い霧の向こうにいる澄水人は、浴槽のふちから静かに溢れる湯に身体を伸ばして浸かっていた。無視しているのか、視線すらこちらに向けようとしない。
 目を凝らして見ると、澄水人は濡れた両手の指先を全部を下に向け、先から流れ落ちる雫をじっと眺めている。
 雫が落ちると、「澄水人」と唐突に自分の名を呟いた。
 まただ。また、わけのわからないことをしている。
 澄水人は湯に両手をつけたり出したりして、何度も同じ動作を繰り返しては指先を凝視し、雫が落ちるたび、「澄水人」「澄水人」「翔」「澄水人」「翔」と、飽きる様子もなく呟く。その顔や仕草は無心に何かをする幼児のようだ。どうやら、右手から雫が落ちたら「澄水人」と言い、左手から雫が落ちたら「翔」と言うルールらしい。その独り言のような呟きが、「翔」「澄水人」「翔」「澄水人」と交互に言い続けるのを聞いて、俺は以前に見た高村光太郎の自伝映画のワンシーンを思い出した。気のふれた奥さんの智恵子が、彫刻作品を指差して、「智恵子、光太郎、智恵子、光太郎、智恵子、アハハハハ……」と高笑いするシーンで、まだ小学生だった俺にはとてもショックで、それに加えて、なぜ光太郎が涙も流さず黙って智恵子を眺めていたのかよくわからなかった。けれども今の俺には理解できる。奇行に驚き、ただオロオロして泣くのではなく、変わらない愛情を捧げながら、深い悲しみも不安な未来もすべてを引き受けるという決意の強さが光太郎の表情にあったのだ。
 智恵子の側には死ぬまでずっと光太郎がついていたけれど、澄水人には、家族とか友達といった類の誰かがいるんだろうか……? 
 友達……と考えて、あのバンドの連中の顔が浮かんだ。よくよく思い出してみれば、初対面の人間に泣きそうな顔を向けたベースの奴もストレートに感情を見せすぎだし、傷跡をリストバンドで隠していたドラムスの奴も、どこか感情をうまくコントロールできないような危うさがある。澄水人とバンドを組めるぐらいだから、よほど個性が強いんだろう。
 澄水人には、あの二人の他に、普通の友達がいるんだろうか?
 学校での澄水人は友達も少なく、遊び相手は俺ぐらいしかいなかった。もともと人見知りが激しいせいもある。何人かの後輩や同級生から、「あいつは少し変わってる」と聞かされた。澄水人はクラスメイトとも打ち解けられず、学校で見かける時はたいてい一人だった。その少し変わった性格を、とても変にしてしまったのは、俺だ。
 澄水人は、あまりにも多く俺の影響を受けすぎている。
 あのバンドの音にしてみてもそうだ。ゴチャゴチャした思考回路で作り上げた不可解な音……まるで澄水人自身じゃないか。言動と行動、そして創作活動においてまで、キチガイっぷりが滲み出ている。
 俺のせいだ。俺の影響を受けすぎて、こんなにおかしくなってしまったんだ……。
 俺はがっくりと膝をついた。自分のしてしまった、あまりの酷い事に、より強いショックを受けて力が抜けた。
 こんなにも澄水人に悪影響を与えてしまった自分が……嫌になる…。
 ああ……、本当にごめん、澄水人……。
 俺に何ができるだろう、何からすればいいんだろう?
 責任を持って、澄水人の精神を少しでも正常に戻すべきなのか……?
 第三者を入れた方がいいのか? バカな俺のことを全部話して、すべてを晒して…。
 このまま二人で一緒にいたって、何の進展もなく、解決しない。
 澄水人と俺は離れるべきだ。
 俺は、この異常な場所から逃げ出さなければならない。
 そうして、互いに距離を取って落ち着いた後に、どれだけ愛しても監禁しても、俺の心は決して澄水人のものにはならないとわかってもらう必要がある。あとは、金のこと。身体で払うとか、そんなバカな支払い方法ではなく、もっとちゃんとした具体的な方法で解決するべきだろう。
 そして……永遠に、俺を解放してほしい。
 二人それぞれの行く道が、未来で決して交わらないように。
 会わない方が、お互いのためだ。
 俺は、澄水人を愛せないのだから……。
 それから……、もしも…いつか…、可能なら……、バカな俺を赦してほしい。
 つくづく勝手だけど…………。
「あっ」
 澄水人が小さな声を上げ、嬉しそうに笑った。「やっと同時に落ちた」と澄水人がこちらを見ないまま答えた。
 そんなことが嬉しいのか? 右手と左手の雫が同時に落ちたことが? 幼児なら喜ぶだろうか? でも、澄水人はもう幼児ではないのに……。ああ、わからない……これも俺のせいなのか…? あああ………。
 床にしゃがみこんで両手で頭を抱えている俺の肩に、暖かな湯がしたたり落ちた。
 顔を上げると、澄水人が手ですくった湯を俺にかけていた。
 無言のままで、機械のように同じ動作を繰り返す。茶色い瞳は冷たい宝石のようで、不意に何か思いついたのか、いたずらっぽい笑顔の中で輝きを増した。
 絶対に何か企んでいる目つきだ、と警戒した途端、いきなり腕を掴まれた。振りほどこうとして俺は立ち上がったが、勢い良く腕を引っ張られた。
「うわっ…」
 叫び声は、しぶきにかき消され、俺は肩から飛び込む形で浴槽の中へ引きずり込まれた。
 頭の後ろに浴槽の底が当たり、視界いっぱいにたくさんの泡が見える。その泡の湧き上がるような音が呼吸のできない恐怖をあおる。鎖が足に絡まって、澄水人の胸や手が邪魔で、顔を上げるどころか身体が起こせない。澄水人もこうなるとは予想してなかったようなもがき方だ。息が苦しい。入水自殺の心中って、こんな感じなんだろうか? 
 このまま死んでしまうのか?
 これは罰か?
 それとも、俺と澄水人はこうなる運命だったのかもしれない…。やっぱり腐れ縁だったのか……。
 妙に、あきらめに似た気持ちに囚われたとき、力強い腕に身体ごと引き上げられて浮上した。声を出しながら息をして、肺に空気が入るほどに怒りが込み上げてきた。触れていた身体を離すと浴槽の隅に避難して俺は叫んだ。
「おまえなあああぁっ本ッ当ーーに狂ってるよ殺す気かああぁこのキチガイッ死ぬかと思ったいい加減にしろッ!!」
 澄水人は無反応で、濡れた金髪をかきあげた。ニヤついてないところをみると、ふざけすぎたと思っているかもしれない。うまい言い訳が思いつかないみたいに、不貞腐れてずっと黙っている。
 気まずい空気が流れて、俺は怒りが収まるにつれ、言い過ぎた…と今度は自分を責めた。これじゃ、番犬男を罵った澄水人と変わりないじゃないか……。いや、違う、澄水人が俺を真似ているからだと再確認して、更に落ち込みはじめた。一方的に怒鳴ってしまったけど、何か理由があったのだろうか?
「おまえ、…足でもつったのかよ?」と声を和らげて訊くと、澄水人は射るような視線を向けて、
「あのまま、死んでもよかった」と答えた。
 耳には柔らかな雨音が聞こえている。それが段々と強くなってきて不揃いになり、耳障りで大きな音に変わっていく。外は大雨らしい。
 俺はその音しか聞きたくなかった。『死んでもよかった』なんて、精神が健康で、普通に幸せを感じながら生活している人間なら軽々しく言わない言葉を、澄水人の口から聞きたくなかった。澄水人の喋る投げやりな言葉はすべて俺が言わせているような気がする。俺は自分がとんでもない元凶に思えて仕方なかった。
「俺は絶対嫌だ! いい迷惑…」
 言葉が続けられなかったのは、澄水人が無言で近寄ってきたからだ。逃げようとしたけれど、あっという間に顔が目の前に迫ってきた。
 両手で浴槽の淵を掴んだ澄水人は、その腕の中に俺を閉じ込めて囁く。
「ねえ、ここで、しよう…」
「冗談、だろ…!?」
 キスされる前に顔を背けると、首筋を舐められ、「わっ」と叫んで、奴の顔を両手で押し戻した。
「やめろって!」
 指の間から覗く澄水人の顔が意地悪く笑う。掴まれた手首を簡単にひねられ、背中で束ねられる。
「じゃあ、どうして自分からここへ入って来たの? するつもりだからでしょう?」
「違う!!」と、俺は大声で否定した。「話があるんだ、おまえに、大事な話が! 放せ!!」
「それは一体、どんなお話でしょうか?」
 かしこまったセリフとは裏腹に、話にはまったく興味がないというふざけた態度で澄水人は俺を一層強く抱きしめ、力いっぱい唇を押し付けてキスをした。俺に一言も喋らせるつもりのない子どもじみた嫌がらせだ。俺は意地になって抵抗を続けていたが、ふと、この唇が離れたとき、最初に何を言うべきなのか、どうやって何から説明すればいいのか、自分の頭の中をいくら捜しても巧い言葉が見つからないと気づいて焦り始めた。
 自分の気持ちをすべて言葉で説明することが、とても難しい。
 頭の中でハッキリと言葉になっているもの……「俺はバカ」と「逃げなければ」「澄水人に償うべきだ」……たった三つ、これだけだ。もっとたくさんあるのに、フワフワした気体のように広がって言葉という形にまとまらない。その中の一番大きなフワフワが身体中に充満している。これは何なのだろう? 形になったらどんな言葉になるんだろう?
 考えても考えてもわからない。とても不可能に思えてきて、俺は考えるのを放棄した。その途端、澄水人の両手は優しく動いて俺の背中を撫で、そっと抱きしめた。
 脱力した俺と澄水人は唇を離し、目を合わさないまま頬と頬をくっつける。
 澄水人は痩せているのに、意外と柔らかい肉付きをしている。二年前と変わらない。温かな頬、首筋、胸、背中──。濡れた髪の毛だけが少し冷たかった。
「どうしたんですか?」と澄水人が俺の腕の中で呟いた。
 どうしておとなしく抱かれてるんだ? 頭の中には答えが無い。
 澄水人をおとなしくさせるため? 罪悪感?  ……どれも少し違う。
 愛? ……もっと違う。
「わからない…」と、俺は正直に答える。
 本当にわからない。俺は鎖で繋がれ、ヤられ、首を締められながら口に突っ込まれたっていうのに。俺も一緒に狂ってしまったのか?
「わからない?」と澄水人が不思議そうに訊き返す。
 俺は無言で頷いた。
 好きになれたら、どんなに楽だろう。どんなに簡単だろう。
 愛せたなら……。
 俺は澄水人が望むまま、ずっと側にいてやるだろう。
 言い争いも憎みあいも暴力も無い、穏やかな時間を二人で過ごすだろう。
 ……でも、愛していない。 
 俺たちは一緒に居られない。
「…ずっと、ここにいて……」と澄水人が呟く。
 俺は戸惑いながら澄水人の顔を覗き、琥珀色の瞳に言い聞かせた。
「……そんなことしたって、……二人で悪い夢に沈んでいくだけだ…」
 すると澄水人は唇に温かな笑みを浮かべ、
「それが僕の夢だもの」と言った。
 ただそれだけをひたすら願っているような、無垢な祈りのような表情だった。
 頭の中で、『NO』という感情がベタベタした果汁みたいに言葉にまとわりついた。違う…、ダメだ…、そうじゃない…、逃げ出さなきゃ…、愛せない…、償わなきゃ…、そんなのは夢じゃない…、心の中に、身体いっぱいに、夕陽を見た時に感じる不安が広がっていく。
 自分の望む日常は、無力な自分のいるこの場所からなんて遠いんだろう。未来は禍々しく、黒く渦巻いて大きな口を開けている。
 澄水人の微笑みを見ているのがつらくて、俺はただ顔を歪めていた。
「夢が……」
 澄水人は言葉を切って溜息をつき、額を俺の肩に押し当てると、両手ですがるように抱きついた。 
「……夢が、見られるキカイがほしい」
 怒り、悲しみ、望み、そんな感情を何一つ含んでいない冴えた声で言うと、それきり澄水人は黙った。
 ……キカイ、…機械、…機会、…頭で変換しながら、感情の無い澄水人の声を頭の中で再生する。そして、その声から絶望を読み取って、打ちのめされた。
 悪い夢に沈んでいくほうが、まだよかったかもしれない。
 澄水人の瞳の奥にある暗い闇が、憎しみでもなく、深い悲しみでもなく、絶望だと気づかなくてもすんだからだ。
 澄水人は俺に対して、何の希望も持っていない。
 だから、俺をモノ扱いしているのか?
 鎖で繋いで、コレクションの一つにして。
 目を閉じると、目蓋の裏に暗い海とオレンジ色の空が広がって、唇を噛み締めた。
 あの日、俺は澄水人を捨てた。何のためらいもなく、サヨナラも言わずに。人を傷つけることがこんなに酷い事だと、俺は二年もたってから気がついた。なんてバカなんだ。
 雨の音がしている。
 俺たちは黙って抱き合っている。
 静かな時間というよりも重い沈黙だ。それが、突然の人の声で破れた。部屋の外から、誰かが澄水人の名を呼んでいる。
 澄水人は声のする方を向くと、チッと舌打ちをして「番犬が」と忌々しそうに吐き捨て、素早く身体を離して浴槽から飛び出した。壁にある扉を開け、そこからバスタオルを掴んで引っ張り出すと俺に放り投げる。続けてバスローブを取り出し、袖を通しながら、振り返りもせず足早にバスルームから出て行った。


← previews  next →

海中の城 (C) Marin Riuno All Rights Reserved

Gポイントポイ活 Amazon Yahoo 楽天

無料ホームページ 楽天モバイル[UNLIMITが今なら1円] 海外格安航空券 海外旅行保険が無料!