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HAND
IN
GLOVE

01. 02. 03.
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07. 08. 09.
10. 11. 12.
13. 14. 15.
16. 17.

Marin's Note
Web拍手


     
14.

 ここに座って、というように澄水人が揃えた指先で椅子を示した。その仕草が妙に穏やかで礼儀をわきまえた態度だったので、俺は肩透かしをくらった気分になり、『イヤだ』と言うきっかけを失って促されるまま腰掛けてしまった。それを見届けた澄水人は満足そうに微笑み、大きく見開いた両目で俺の顔を覗き込みながら隣に座った。
 これからどんな時間が訪れるのか、見当もつかない。俺はぎこちなく視線を外して、フェイクファーのコートの間から出ている自分の膝頭を見つめた。
 暗い温室の中で肌に感じる風は無く、外よりも随分と温度が高いようだ。噴水の水音だけが流れている。澄水人はじっとして動かないが、ちらりと横目で盗み見ると、まだ俺の方に顔を向けている。痛いほどの視線を感じて、俺は呪縛をかけられたように動けなかった。
 なぜ、ここに居るのか?
 そう誰かに訊かれても明確に答えられない。枷が外れて身体は自由になったのに、死ぬ気で逃げ出しもせず、並んで食べ物を食べ、手を引かれるまま庭をウロつき、墓の前に立ち、今は温室に二人きりだ。その理由を言葉にできない。自分の心に広がり渦巻く気持ちや、麻痺させるものの正体を自分自身でつきとめたいという好奇心からここに居るが、決して楽しくはない。
 心臓はずっと痛いし、呼吸も普通にできない。
 居心地の悪さからガラステーブルの上に視線を移すと、そこには使いかけなのか芯の先の黒いキャンドルが数個とライターが置いてあった。その横に鉢植えが一つあり、葉は丸い形をしていて、小さなつぼみのようなものがたくさんついている。
「これも毒草?」
 奇妙な沈黙が続きそうだったので、俺は鉢植を見ながら、そんなことを口にした。
「…そうです。ニオイスミレ」
 それほど興味は無いといった様子で澄水人が答えた。
「毒があるみたいに見えないけど?」俺は無理やり会話を続ける。
「種子と根茎にViolin(ビオリン)という神経毒を含んでいます」
「俺のアパートの横の道にも、こんな葉の形したのが生えてた気がする…」
「毒とは知らずに植えられている植物は、学校の花壇にも公園にも、公共施設にもたくさんあります」
 澄水人が喋り終わると、また沈黙が訪れた。
 二年前、俺と澄水人は、普通の会話をしたことがほとんど無かった。俺は口を開けば金か身体のことしか言わなかったし、無口な澄水人から何か話を振ってくることもほとんど無かった。俺たちは会話すらぎこちなくて、まともに話せない。言葉も通じないのに、澄水人は何がしたくて、俺をここに連れてきたのだろう?
 椅子の上には四角や丸い形をしたクッションが無造作に置かれている。その一つの下に、文庫本が開いたまま伏せてあった。
 一体、何の本だ?
 俺が澄水人の方を見ると、澄水人も俺を見ていた。とっさに俺は顔をそむけて本を手に取り、もう一度澄水人に向かって、「何これ?」と訊くと同時に澄水人が「どうぞ」と言った。
 なんて不器用な会話だろう。
 互いに間の悪さから黙ってしまい、妙な沈黙が続いた。少ししてから「おまえの?」と訊くと、澄水人はわずかに口を開いただけで、思い直したように、何も言わずに頷いた。
 表紙を見ると、『中国名詩選』とわりと大きな字のタイトルが読めた。澄水人がこんな本を読むとは知らなかった。どんな詩を読んでいたのか開いてあるページに興味が湧き、満月の光でも小さな活字が見えるだろうかと思った時、澄水人がガラステーブルに手を伸ばしてライターを取り、キャンドルに一つ一つ火をつけはじめた。
 しばらく黙って見ていると、月の光しか差していなかった闇の中に、小さな炎の群れが浮き上がった。無風だと思っていた温室の中にも風が通っているのか、それとも空気の振動なのか、炎は小さく揺れながら瞬いている。
 その淡い光を受けて、澄水人がとても美しい生き物に見える。激しい感情も理解しがたい思考回路も、すべてを奇麗に包み隠してしまっていて、俺は思わず見蕩れて視線が外せなかった。
 甘さを含んだ目で澄水人が俺を見た。
 恋人同士なら、こうして見つめ合ったあと、キスするだろうか?
 澄水人の柔らかな髪に、額に、何も言わない唇に──?
 けれど俺は、する気は無い。
 息苦しさを我慢して、ページに視線を戻した。
 キャンドルの灯りでも充分に文字が見える。漢文の教科書みたいだと思いながら、そこに載っていた二つ目の詩を読んだ時、“殺”という字に目が吸い寄せられた。


 打 殺 長 鳴 鶏            長鳴鶏(ながなきどり)を打ち殺し
 彈 去 烏 臼 鳥            烏臼鳥(くろもずく)を弾(う)ち去(ころ)し
 願 得 彈 連 冥 不 復 曙      願わくば冥(よる)を連ねて復(ま)た曙(あ)けず
 一 年 都 一 暁            一年都(すべ)て一暁(いちぎょう)なるを得ん


 ──ナガナキドリヲウチコロシ……
「あ……」
 思わず声が出た。
 雷鳴の轟く暗闇の中で、澄水人が歌うように囁いた呪文が頭の中で蘇る。
 俺には、このたった四行の詩が、壮絶な恋の詩に思えた。
 朝が来たら恋人が去ってしまうから、夜明けを告げる鳥をすべて殺して、どうかこのまま、いつまでも夜が明けないようにと願っている。
 朝が来るのは一年に一度きりだったらいいのに──と。
 澄水人の想いを、詩を通して伝えられた気がした。現実の世界から遠く離れ、二人きりで夜の底へと抱き合って沈みたいと望むような、決して叶わない願い……。澄水人の頭の中では、俺の日常生活も学校もバイトも、本当に何もかも排除されて、長く続く夜だけを願っていそうだ。
 本から目を上げると、澄水人が無表情で俺を見つめていた。
 静かな夜だ、と頭の隅でずっと思っていた。淡い光と柔らかな水音に包まれている。普通なら、こんな穏やかな夜を過ごせるなら、それは幸せに違いない。でも、俺は澄水人を傷つけていて、自分は未来にたくさんの不安を抱えていて、幸せに浸ることができない。
 俺はなんてバカな生き方をしてきたんだろう……。
 澄水人の肌に映る蝋燭の光がゆらめいている。表情はずっと変わらない。何を考えているのかわからないその顔がゆっくりと近づいてくる。
 羽根が唇に触れるように、そっとキスされた。
 その瞬間に、心臓が抉られたような痛みを感じた。
 痛みがナイフのせいではなく、驚きからだとようやく解った時には、すでに何秒か経過していて、俺は動けないまま瞬きもせずにキスを受け止めていた。
 乱暴じゃないキスは、澄水人の唇の柔らかさと温かさを感じさせ、二年前、俺がどんなに澄水人を乱暴に扱ってきたかをあらためて教えた。
 唇が離れたとき、この不意打ちのようなキスに何か言おうとしたけれど、ただ間近にある澄水人の顔を見つめているだけで、言葉は出てこなかった。
 澄水人は俺を鋭い目で凝視している。これからどうするかは俺の出方次第だというように……。
 舌と唇が言葉を捜して動くと、澄水人の指先が唇を塞いだ。喋るな、と命令しているその指は熱を発していて、なぜ人の指がこんなに熱いんだろうと不思議に思いながら、力強い光を放つ瞳に見据えられて動けなかった。
 俺は泣きそうになった。この二つの瞳から送られる受け止めきれないほどの感情が、今更、怖くなった。
 俺はどうなるんだろう?
 一瞬、暗闇の中で澄水人の双眸の奥が光って見えた。
 澄水人は、人間の形をした“何か”だ。その妄想が更に恐怖を膨らませていく。澄水人は人間じゃないから、どこかすっぽりと感情が抜け落ちているし、平気で俺を拉致ったり監禁したりするんだ。バカな俺は、今からその“何か”に食い殺されようとしているんじゃないだろうか? また判断を間違えて、のこのこと澄水人に連れられて温室に来てしまった。俺は相当なバカだ。わかりきっていたはずなのに……このキチガイじみた澄水人の目を間近で見てからこんなに震えているなんて──。
 澄水人を拒否したら、今度こそナイフで心臓を抉られるだろうか、それとも目を潰されるのか? 足の腱を切られるかもしれない、走って逃げられないように……。
 顔が歪むのが自分でもわかる。恐怖が俺を飲み込みはじめた。
「…ぅ…ぁあ…っ…」
 喉で引っかかっていた悲鳴が息と一緒に漏れはじめる。途端に澄水人は悲しそうに目を伏せ、無言のまま、俺の額に自分の額をくっつけた。
 最初、自分が何をされているのかわからなかった。心臓に氷の杭を打ち込まれたように、喉の悲鳴すら凍りついた。
「何も、言わないで──」
 懇願するように、澄水人が声を絞り出した。
 熱い指先は、まだ俺の唇を触っている。指が蠢いて頬や耳を撫で、首を這い、頭を押さえられた。もう片方の手で肩を掴まれる。何をされるのかと考えてみる間もなく、そのまま病人のような丁寧な扱いで押し倒され、椅子に寝る形になった。肘掛の部分が頭につかえたのが澄水人の手を通してわかった。俺が頭をぶつけないようにという気遣いかもしれないが、自分の恐怖と相手の優しさが結びつかなくて、俺はますます混乱した。
 澄水人は俺を威圧するわけでもなく、上から覗き込んでいる。俺を黙らせるためにわざと無表情を装っているらしいが、眼球だけが不安そうに動いて、興奮した神経を隠し切れないでいた。それは開いた窓から秘密めいた家の中を覗いているような奇妙さだ。
 苦しい。俺は胸で大きく息をしていた。突然、澄水人が腕を動かした。
「ヒッ」と短い悲鳴が漏れ、身体が凍りつく。
 動けない俺の髪を、澄水人は指で梳き始めた。何度も、何度も、繰り返し──その仕草は俺の悲鳴を吸い取るためにかけている呪文のようだ。
 何の真似だ?
 舌が動かない。訊きたいのに、訊けない。
 澄水人が、少し微笑んだ。
 その優しそうな表情を見て、理由もわからずに、俺は泣きたくなった。
 澄水人は何も言わない。微笑みながら俺の髪を梳いている。
 俺は目だけで澄水人に問い掛けた。
 今、何を考えている? 何が言いいたい?
 澄水人は、月の光のように冴えた微笑を浮かべているだけだ。
 俺は顔をそむけた。視線の先にあるキャンドルの揺れる炎が滲んで、こぼれた涙が鼻梁を横切ってこめかみを濡らした。
 目を閉じると炎の残像が見え、次第に消えていった。
 不思議と恐怖が薄れていく。それでも安堵感など無く、感情が麻痺していくのに近い。澄水人の体の重みと顔にかかる息を感じて、俺は堅く目を閉じた。
 視界を遮断してもキャンドルの光を感じることができる。嫌な色だ。暮れ始めた空の色に似ている。俺は何一つ変わっていない。変われない。『NO』が言えない。結果がわかっているのに、流されるまま何もせず何もできず、バカな上に妙な好奇心のせいでいつも後悔する。
 これから何が起きる? 
 それは簡単に想像できることだ。一回十銭の行為だ。
 熱くなった耳に、澄水人の声が聞こえた。
「…逃げたりしないで…………」
 逃げなかったら、体中に充満している気体みたいな気持ちの正体がわかる? それは形になって言葉に変わる?
 逃げなかったら、俺を麻痺させるものが何だかわかる? 
 逃げなかったら、……身体を与えることで、胸に抱えている重い後悔が少しは軽くなる?
 瞼の裏に感じる明かりがゆらゆらと揺れている。衣服の擦れる音がする。澄水人が服を脱いでいるのだろう。ギシっと椅子が軋んで、胸の上に澄水人の手が這い、コートを左右に開いた。脹脛(ふくらはぎ)に、何も履いていない澄水人の脚が触れる。腹の上に、何も着ていない澄水人の上半身が押し付けられる。額に、瞼に、こめかみに、頬に、顎に、唇に、雨のようなキスが降る。
 動いたら殺される?
 突き飛ばしたら後悔する?
 最後まで我慢していれば、混乱した日常が少しは修正される?
 こんなふうに触られるのは、やっぱり我慢できない。
 嫌だ、嫌だ、嫌だ──。
 キスされたままの唇が動く。
「約束します……、優しくするから……大切に扱うから……」
 俺は何も言えずに首を振った。信じない、そんなこと、信じられない、嘘だ──。
 熱い吐息が耳にかかる。
「…僕は……嘘は…つかない……」
 息を飲んだ。酷く責められた気分になって、このままおとなしく罰を受けるべきだという気持ちが胸の中に広がった。
「先輩の中に入りたい…、いいですか…?」
 囁きが全身を強張らせる。澄水人は俺の両脚の膝を立てさせ、間を割って顔をうずめ、×××を舌で舐めまわして唾液でベタベタにした。
 それから身体の位置を戻し、指先で入り口を探りながら、硬くなったペニスで俺をつついている。
 終わってほしい。早く──。
「…入るよ……」
 ゆっくりと、澄水人が俺の中に侵入しはじめた。
「あぁっ……」
 思わず声が出て、逃れようともがいた肩は奴の手に抱え込まれた。
「逃げたら駄目……」と呟いて、再び澄水人が動き始める。
 食い縛った歯の間から、詰めた息が漏れる。
 不意に大きく身体が突き上げられ、「あぅ…」と呻くと同時に頭が肘掛にぶつかった。
「あっ」と澄水人が声を上げた。「大丈夫…? ごめんね、先輩…」
 澄水人は動きを止めて俺の頭を抱え込む。
 俺は何も言わない。何も答えない。何をされようと、反応したくない。
 瞼にキスした奴は再び俺の中へと進みだした。
 ×××の周りに温かな皮膚が密着して、澄水人が奥まで入ったのがわかる。顔に、「ああ…」と、こらえきれずに漏らしたような澄水人の溜息がかかった。
 澄水人は動かない。俺の頭を抱え直して頬擦りしている。
「このままでいたい…、ずっと繋がったままで……」
 嫌だ、嫌だ、嫌だ────。
 何十回その言葉を繰り返しただろう? 抱え込まれた頭の中で。澄水人の柔らかい髪の毛を頬に感じながら、溜息まじりの喘ぎ声を聞きながら。
 嫌悪感すら感じたくなかった。何も感じたくなかった。意識を失ってしまいたいのに、澄水人をはっきりと感じている。
「あ…あ、すごく…いい……」
 うわ言のように澄水人が呟いて、腰を動かし始めた。
 支配されたくない、この感覚に、澄水人に。
「先輩は…? ちゃんと…気持ちいい? …僕だけ? …あぁ、いい…」
 勝手に言ってろバカ、俺は嫌だ、嫌だ、嫌だ──。
「イくよ……、ねえ…、イくよ? ……イっていい?」
 早くいけバカ、早く──。
 瞼にはもう光を感じない。感じているのは、水音と椅子の軋む音、揺さぶられ続ける身体、擦れる背中、頭を抱える澄水人の掌、澄水人自身、勝手に流れる温かい涙、濡れて冷えたこめかみ──。
「……あ…あぁ………」
 澄水人が掠れた甘い声を出し、勝手に果てた。さっさと身体を離してほしいのに、繋がったままでいる。俺は呪文のように「嫌だ」と頭の中で繰り返していた。奴の荒い息遣いが聞こえていて、俺はまだ目を開けたくなかった。
 横を向いたままでいると、頬にキスされた。そのあと、澄水人はゆっくりと自分自身を俺の中から抜いた。
 最後まで我慢できた──今はそんな気持ちしか感じていない。
 そんなことを考えていると、また髪を触られた。澄水人は何も言わずに髪を梳き、ただそれを繰り返している。やがてその手が止まった。耳をそばだてると奴の息遣いはゆっくり整っていき、次第に寝息のようになっていった。
 長い時間息を詰めて様子を伺っていた俺は、そっと目を開けた。
 肩先に澄水人の寝顔がある。床に座り、頭だけを椅子に乗せて寝ている澄水人の顔は俺の感情とは反対に満足げで、それを見ているうちに無償に腹立たしくなってきた。深く息を吸い込んで大きな溜息をつき、視線を上げると、闇に包まれているキャンドルの灯はどれも消えていた。
 空調があるのか皮膚に触れる空気は随分と温かく、植物の匂いと湿気が混じって重く感じる。それが心の淀みと重なるようで気分が沈み、澄水人の側を離れて一人になりたくなった。
 俺はゆっくりと起き上がり、物音を立てないように椅子から降りると、コートとクッションを掴んで噴水の方に歩き出した。
 そこは天窓の真下にあり、月の光に照らされて、入って来た時と同じように水音だけが辺りに響いている。
 階段状になっている噴水の元にコートを広げて敷き、クッションを置いて身体を横たえた。ゆっくりと上を見上げると、白い満月がガラス窓の向こうで無慈悲に輝いていて、風が強いのか薄い黒雲が形を変えながら月の手前を流れている。
 俺は…何してるんだろう……。
 身体を与えたって罪の意識が薄れるわけじゃなかった。それどころか、ますます苛立ちはじめている。
 逃げればよかった? 逃げなくてよかった? 
 どっちだろう、まだわからない。
 冴えた月が俺を見下ろしている。
 月は何も語らない。決して答えをくれない。
「先輩……?」
 声が聞こえ、振り向くと、澄水人がゆっくりと立ち上がっていた。
「いなくなったのかと思った…」
 責めるよりも安堵した声で澄水人が呟き、片手にクッションを持ちながらこちらに歩いてきている。俺は一人で眠るのをあきらめた。
 全裸のままの澄水人は横に来て床の上に身体を伸ばし、こちらに顔を向けると、両手で抱えたクッションの上に頭を乗せてにっこりと微笑んだ。
 何が嬉しいのか無邪気で優しさに満ちた笑顔だ。真冬の空気みたいに澄んだ瞳でしばらく俺を眺めてから、ゆっくりと瞼を閉じた。
 無言でヘラヘラ笑いやがって。そんなに満足したのか? 俺の苛立ちは更につのった。
 月の光の中で、優雅に脚を伸ばした澄水人の裸体は白く浮き上がって見える。
 空調が効いているとはいえ、冷たい床の上に寝たりして平気なんだろうか? 時々、本当にコイツは人間かと疑いたくなる。容姿も思考も行動も、どこか人間離れしているのだ。その謎の部分が俺の好奇心を少しずつ魅了して判断を狂わせていくのかもしれない。
 俺がコイツの意のままにヤラレタのは判断が狂っていたからだ。
 考えてみると、二年前に俺が澄水人を金蔓にしたのは金を持っていたという理由だけじゃなくて、澄水人自身に興味があった。澄水人を支配して金を自由に引き出し、身体をただ傷つけるようなセックスをして、澄水人のすべてを支配したかった。それが間違っていると気づき、増長していった自分が怖くなって澄水人を捨てた。
 でもまた俺は澄水人と出会ってしまった。今度は奴から俺に近づいて来た。わざわざ、俺の住所を探って。
 俺は引き戻されたせいで、思い出した。二年前、澄水人に抱いていた感情を今なら言葉で説明することができる。
 ほんの少し前、胸の中から漏れ出て身体中に充満していった、フワフワした気体のような気持ち──形も無く、言葉にならないその正体が、今ならわかる。
 ──“怒り”だ。
 俺は弾かれたように身体を起こし、澄水人を見下ろした。
 この怒りは、澄水人を傷つけたがっている。支配したがっている。俺の身体を好き勝手にしやがって。許さない。罰を食らうべきだ。おまえが俺を支配するのは許さない。最初、ピークエクスペリエンスで澄水人に会った時、俺は動揺してしまった。怯えにつけこまれて脅されるままにこの家に来てしまった。庭の見える部屋で、テーブルの上に並んだ食べ物を見た時、俺に「食え」と命令したのは、俺の中にいるケダモノが、澄水人を食え、と言ったのだ。澄水人と別れた時に、心の奥底に押し込めたはずなのに──。
 美しい生き物を支配する喜びを想像しただけで、俺の感覚は麻痺していく。だから俺は澄水人に深く関わってしまう。怒りと嫌悪感をも同時に抱きながら。そうやって関わり続けたら、俺はどうなってしまうんだろう……?
 身体のあちこちに違和感がある。太腿に触れてみると、乾いた精液が皮膚にこびりついていて、脚の付け根はまだ濡れていた。
 月光の中で広げた手には精液がついている。色が変なのは血が混じっているからだと暫く目を凝らしてから気がついた。
 許せない。
 判断を間違えた自分が嫌になる。
 俺はバカで駄目な奴だ、澄水人がいるともっと駄目になる。澄水人がいなくなればいいのに──。
 立ち上がった俺は澄水人とその周りを見た。バタフライナイフは持っていないようだ。どこにあるのだろう? 頭を巡らして長椅子の方を見ると、床の上に脱ぎ捨てた澄水人の衣服が置いてある。俺は歩み寄ってジーンズを掴むとポケットを探った。指先に冷たく堅いものが触れ、心臓が疼く。取り出してみると、それはやはりナイフで、ぎゅっと握り締めながら澄水人に近づいた。
 奴は目を閉じて寝ている。ふんわりと広がった髪の中に安らかな寝顔があり、柔らかそうな首の下には意外と筋肉のついている胸板がある。俺は手の中のナイフを見つめ、震える指で留め金を外した。両手でゆっくりと柄を回転させると、銀色に鈍く光る刃が現れた。留め金を固定し、握り直す。
 澄水人の白い胸は呼吸に合わせて上下していて、奴一人だけが安らかな眠りを甘受しているようだった。
 耳の奥が熱くなる。呼吸が荒くなる。俺は澄水人の側にしゃがんで、刃先を白い胸に押し当てた。だが、それ以上力を入れることができなかった。
「僕を殺したい?」
 突然、声がした。澄水人が寝ぼけた顔でこちらを見ていた。
「そ…う、だ……」と俺は目をそらさずに答えたが、震えそうな声は掠れて小さかった。
「ナイフ、よく切れますよ。試してみますか?」
 少しも動揺していない調子で澄水人に訊ねられても、俺はすぐに答えられない。
「先輩は何事も中途半端だからね…、いつも最後の詰めが甘い。ちゃんと殺してくれればいいけど……」
 顎を上げてぼんやりと天井を見つめた澄水人は、何を思ったのか薄笑いを浮かべた。何がおかしいんだと訊く前に、奴が口を開いた。
「いつになったら愛してくれるの?」
「……俺がおまえに抱いているのは……怒り…だ」
「そう…?」
 声の調子を落とした澄水人の顔にはまだ笑いが張り付いている。
「どうしたら俺を解放してくれる? 何をすれば俺を嫌いになってくれる?」
 澄水人は黙り込み、しばらくしてから、
「思いつかない」と答えた。
「嘘つけ」
「本当…。先輩に何を言われても、何をされても、嫌いにならないと思う」
「……何だよソレ…!?」
「だって……、愛してるから…」
 決定的な絶望に身体を拘束された気がした。痺れた頭の中で、俺は嫌われる方法を探した。
「俺がこんなことをしても?」
 澄水人の胸の上に置いたナイフの刃先に力を込め、短い線を引くように手前に動かしてみる。耳を塞がれたみたいに、聞こえていたどんな音も消えて無くなった。白い皮膚が破れ、ナイフのあとを追いかけるようにうっすらと血が滲み出す。澄水人は自分の胸にちらりと目をやってから俺の顔を見つめ、力強く断言した。
「嫌いにならない」
 カッとして頭も顔も熱くなり、ますます絶望で首を締められたように感じる。その苦しさに突き動かされて今度は真横に線を引いた。力の加減ができなかったせいで思ったよりも出血し、それを見て頭から水をかぶったように背中まで凍りついた。皮膚の上からナイフを離し、澄水人の顔に刃先を向ける。それでも澄水人は動かずに、迷いの無い声で呟いた。
「嫌いになれない」
 不意に、けたたましい鳥の鳴き声がした。
 温室の中が、うっすらと明るくなってきている。
「朝が来る」そう言って天井を見つめた澄水人は、片手で自分の目を覆った。「夜がずっと続けばいい……」
 澄水人の頬に、一筋の涙がこぼれた。
 途端に手の力が抜け、落ちたナイフが床の上でカシャンと乾いた音を立てた。
 涙を見て感情が感染したように、俺の両目から涙が溢れた。
「うっ…、うぅ……」
 両手で自分の口を塞いでも、吐くように嗚咽が漏れた。
「大丈夫、こんな少しの血じゃ死にはしないから…」
 まるで慰めるように澄水人が言う。
 もうダメだ、本当に、何もかもダメ──頭の中で繰り返す。
 俺は自分の為に泣いている。澄水人の言う通りだ。怒り狂うケダモノに支配される自分が哀れで、そのケダモノに抵抗する術も抑え込む方法もわからないから泣いている。澄水人はケダモノを含めて俺を愛しているらしい。キチガイだ、敵わない。
 澄水人がゆっくりと手を動かして胸の傷跡を撫でると、指と掌で絵の具を塗るように赤い血の跡が広がっていく。
 俺は自分が恐ろしい。
 澄水人が嫌いだ。俺の中で深く眠っていたケダモノを簡単に起こして、引っ張り出すから。
 澄水人のせい? 違う。自分が愚かだからケダモノを解放してしまう。
 もう声を上げて泣けない。自分の本質を見てしまった衝撃はかなり大きい。
 頭の中は混乱していても、妙に澄んでいて奇妙な感じだ──。
 俺は立ち上がり、視界から澄水人を消そうと、よろけながら温室の中を歩いた。
 もうすぐ夜明けだ。月明かりの中で黒い影だった植物たちが少しずつその色と輪郭を見せはじめ、行き止まりのガラス窓の向こうに広がる空は濃い青灰色に染まっていた。
 額をくっつけると、ガラス越しに外気の冷たさが伝わった。
 なんてバカなことをしてしまったんだという後悔が重く胸を押しつぶしている。また澄水人を傷つけた。
 空を撫でるようにガラス窓に手をあて、ぼんやりと外の景色を眺めながら、やってしまったどうにもならないことをいつまでも考える。
 俺は目を瞑った。こうやって目の前の景色を一瞬で消せるように、簡単に澄水人も過去もケダモノも何もかも消せてしまえたらいいのに。とりとめの無いバカな考えの繰り返し──。
 ──澄水人の出血は止まっただろうか?
 ふとそう思って目を開けたとき、ガラス越しに人影が立っていた。
「………!!」
 驚いて声が出ず、俺はその場で固まってしまった。相手もまた大きく目を見開いてこちらを見ている。
 澄水人が番犬と呼んでいるあの男だった。俺ではなく、俺の肩越しの何かを見つめていた。
 ぎこちなく首を動かして男の視線を辿ると、そこには薄い赤色の血で胸を汚した澄水人が裸で横たわっていた。一瞬、死んでしまったのかと思ったが、胸も腹も呼吸に合わせて動いていた。
 コツン、とガラスを叩く音がして、俺は男の方に向き直った。
 男はどうやら爪で音を立てたようだった。そして、その指先で俺と澄水人を交互に指差した。
 男の表情も仕草もかなり焦っていて、ひどく混乱しているようだ。
 ああ、そうだ。俺と澄水人は、こんなことになってしまったんだ──。
 頭の中でそう答え、男の顔を見たまま黙って泣いた。
 男はガラスに両手をつき、目には怒りが満ち溢れていった。目の周りも頬も赤くしてしばらく俺を睨んだあと、急に視線を外してうなだれたまま、じっと動かなかった。
「だから俺を逃がしてくれって言っただろ?」
 思わず俺は口に出してそう呟いた。
 顔を上げた男が片手を広げて押すような仕草をしても、俺は意味がわからなくて首を傾げた。すると、また同じように繰り返した。「落ち着け」と言ってるようにもとれるし、「そこで待て」と命令しているようにもとれる。
 俺は自分でもどうしていいのかわからなくなっていた。澄水人を傷つけたことで罪悪感に苛まれ、ここから逃げ出すという選択肢が消え、自分から見えない鎖をつけてしまったようにも感じていた。
 男は念を押すように仕草を繰り返し、足早にその場から立ち去った。
 視界から男が消えても俺は動かなかったが、
「先輩……」という澄水人の声に呼ばれて、引っ張られるみたいにフラフラと噴水の方へ歩いていった。
 澄水人の側へ行き、胸の傷を見下ろす。冷たい水を浴びたように自分が青ざめていくのがわかる。俺は何てことをしてしまったんだろう──。
 かがんで奴を抱き起こそうと片腕を首の下に回すと、一瞬、驚いた顔をした澄水人は、すぐに嬉しそうに微笑み、自分から俺の腰に手を回してしがみついてきた。
「ごめ…ん……」俺の声は途中で掠れてしまった。「……痛い?」自分でもバカなことを訊いていると思う。澄水人は「今は別に…」と大したことでもないというふうに答え、俺の腹に頬をくっつけて甘える仕草をした。澄水人の肩も背中も冷たくなっている。出血のせいではなく、多分、床の上で寝ていたせいだろう。
 滑らかな、柔らかい肌の感触。俺の手はこの感触を憶えている。
「俺は、おまえといると駄目になる……。どうせおまえも傷つくだけだろう…?」
 真剣に話を切り出したつもりだったが、澄水人の答えは、
「ふうん…」で、俺はあっけにとられるよりもゾッとした。
「おまえに対して、愛してるとか、そんな気持ちじゃなくて……支配したいとか、傷つけたいとか、そういう…よくない感情しか…持ってない……」
「僕はどうでもいい。側にいてほしい」
 両腕に力を込めて澄水人が嬉しそうに言う。
 俺は何度もこうやって澄水人に驚かされ、困惑させられ、自分がバカだと思い知る……その繰り返しだ……何の進展も無いままに。
「……疲れたよ」
 つい口から出た言葉だったが、澄水人が、
「そのうち慣れます」と返したので、更に疲れが増して思考が止まりそうだった。
「どんなに近くで話しても、俺の声はおまえに届かないんだな……」
 それには澄水人は答えなかった。覗き込んだ澄水人の横顔はこの世の不幸など自分には無関係で、今は最高に幸せだという表情をしている。甘い目をして俺の腹に頬擦りし、現実から遠く離れた世界に引きこもっているようだ……。
「澄水人さん、ここにいるんですか?」
 重い静寂が、あの男の声で破れた。
 姿は見えなかったが、男は温室の外から呼びかけているようだ。澄水人がここにいるのはさっきガラス越しに見て知っているはずなのに、なぜか知らないふりをしている。姿は見えず、言葉だけがまた聞こえた。
「カメラマンの方がいらっしゃいました。撮影を始めたいそうですよ」
 澄水人の顔色は一瞬で変わり、苛立ちをあらわにして頭をもたげると、ガラスの向こうをじっと睨みつけた。


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