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IN
GLOVE

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Marin's Note
Web拍手


     
08.

 目を開けると、澄水人の顔が間近にあった。
 責めるように俺を睨むその表情には、夢の中で見た無邪気さは少しも残っていない。
 それが自分のせいに思えて、俺は悲しくなって視線を背けた。
 どうしてあんな夢なんか見たんだろう。思い出したくもなかったのに──。
 夜が明けたらしい。あらためて見る部屋の窓の外が青白くなっている。
 窓は少し開いていて、淀んだ空気に緑の外気の匂いが混じり、静かな雨音が部屋を満たしている。この世のすべての不幸から遠く離れた場所にいるような平穏さと、手首の痺れと足首の重さに、泣きそうになる。
 俺は全裸のまま、一人でベッドに寝かされていた。
 両手首はベルトで縛られていて、どこかに繋がれてはいなかったがそれほど自由はきかない。寝返りを打つと足首は重く、鎖が音を立て、まだ悪い夢に繋ぎ止められていることを教えられた。
 二年前、澄水人がこんなシナリオを持って会いに来るとわかっていたら、決して黙って別れたりはしなかった。
 異物が身体に侵入した感覚は、はっきりと身体に残っている。どこか目覚めきらない頭の中で、時間が巻き戻され、場面が蘇える。
 信じられないほど甘い自分の声。身体を満たしていた感覚を思い出すと、心臓がドクンと跳ね上がった。
 俺は澄水人に一部始終を見られていた。大きく脚を開いて、自分であの妙なオモチャを出し入れするところを。俯せになって×××を突き出しながら、射精したところを。
 どうして『NO』が言えなかったんだろう? 殺されたくなかったから? でも、もっと抵抗できたかもしれないのに──?
 裸のままの澄水人が、ベッド脇のチェストの前に立ち、
「朝食にしましょうか」と呟くように言った。
 何時なのかわからないが、やっぱり今は朝らしい。昨日の夜、眠くなってからどうなったんだろう? 何も覚えていない。
「…俺が寝てる間、何かしたのか?」
「先輩のアソコに僕が入ったかどうかってことですか?」
「…………」
「ぐっすり眠っていたようでしたから、あきらめました。無反応だと面白くありませんからね」
 俺も澄水人も、裸のままだ。×××にも違和感がある。疑う視線を投げつけると、澄水人はすました顔をして、
「先輩はかなり偏食でしたよねえ」と話しかけてきた。
「いきなり何の話だよ…?」
 そこでようやく、さっきから部屋に漂っているのは食べ物の匂いじゃないかと気づいた。肘を使って身体を起こし、警戒しながらチェストの上を覗くと、見覚えのあるでっかいスタンドと、銃と、食べ物をのせたトレイが置いてあるのが見えた。
「先輩、何から食べたいですか?」
 目の前にトレイを差し出される。
 バタートースト、スクランブルエッグ、野菜サラダ、ブルーベリーソースのかかったヨーグルト、ライチ、オレンジジュース、それらの器やグラスが銀色のトレイの上に所狭しと並んでいて、美味そうに見えるだけに、ますます疑わしい。
「……いらない」
 俺はまたベッドの上に横たわった。意味もなく天井の模様を眺めていると、澄水人が諭すように言った。
「酒も毒も入っていませんよ」
「だったら、おまえが全部食えよ」
「口移しで食べさせてあげましょう」と澄水人が笑う。
「……絶対、いらねぇ」
 澄水人はわざとらしい溜め息をついた。
「僕は用事があって出かけるから、食べてくれないと安心できない」
「……どこか…行くのか?」
 俺は驚いて澄水人を見た。このまま澄水人が帰ってこなかったら、俺はどうなるんだ?
「そんな顔をしないで。ちゃんと戻ってきます。先輩、何だか顔色が悪いですよ」
 そう言って、澄水人は俺の視線と反対の方向を指差した。そこには、ベッドをはさんでシンメトリックにもう一つ同じチェストが置かれていて、同じスタンドの脇に、天使の絵の入った写真立てが飾られていた。
「天使の頬は赤みを帯びてるでしょう。青ざめた天使なんて、おかしい」
 おかしいのは、おまえの頭だろう……。おまえは俺の体調を心配しているんじゃなくて、手に入れたコレクションの状態が悪くなるのを防ごうとしているだけだ。おまえにとって、俺はただの、モノだから……。
 シーツの上にトレイを置いた澄水人は、スプーンでヨーグルトをすくうと、寝ている俺の口の上に持ってきた。
「少しでも食べて下さい」そう言って唇に少量のヨーグルトを垂らした。
 俺は唇を噛み締めて澄水人を睨み付けた。疑わしいものなど食べたくないのに、何でも無理遣り押し付けてくるのが腹立たしい。
「口を開けないと、こぼれますよ」
 澄水人がスプーンの先を傾けると、唇の上にまたヨーグルトが垂れてきた。それでも俺は唇をきつく噛み締めていた。唇が冷たくてイライラする。縛られた両手でスプーンを払いのけようとしたとき、澄水人がヨーグルトの器を持ち上げ、
「残りを全部、鼻の穴から入れられたいですか?」と訊いた。
 こいつなら本当にやりかねない……。どうしようか迷っていると、スプーンで唇をこじ開けられて、冷たいヨーグルトが口の中に入ってきた。顔をしかめても、澄水人は強引に歯の間にスプーンを突っ込んだ。歯に金属のあたる感触が気持ち悪くて、俺は自分からもっと口を開けた。
「ちゃんと飲み込んで」
 俺の頭の下に、澄水人が枕をあてがった。
 喉へと流れていくヨーグルトをゴクリと飲み込むと、奴は満足そうな顔をして、俺の口の端を指で拭いた。そして、指先についた白いヨーグルトを舐めた。
 毒は入っていないのかもしれない……疑わしい目で見ていると、澄水人が意味ありげないやらしい顔で笑った。とっさに昨日のことを思い出して、俺は顔が熱くなった。
「ちゃんと起きて食べたらどうです?」
「もう……いらない」
「食べないと、本当に死んじゃうかもね」
 ……そんな事はわかってる。逃げるときに体力が無いと困るのもわかってる。でも、疑わしいものを口に入れるのはバカすぎるだろ?
 澄水人は俺の頭の中を覗こうとして目を輝かせはじめた。
「どうして食べてくれないんですか?」
「……おまえは、うるさい。…どうしてどうしてって、訊いてばかりで……ウンザリする」
 睨んだまま、俺は吐き捨てた。
 二年前の澄水人だったら、俺に文句を言われるとすぐ顔を曇らせて黙ったのに、取り合おうともせず平気な顔をして言葉を継いだ。
「さっき泣いてましたよ。泣くほど嫌な夢って、どんな夢?」
 頭の中で、波の音がした。
「……二度と、思い出したくねぇよ。これもいらない」
 トレイを顎で示すと、澄水人はあきらめたようにチェストの上にそれを戻し、ベッドの端に座った。
 目の前に澄水人の腰がある。俺は寝返りを打って視界から澄水人を消した。
「ねえ、先輩」
 俺は答えない。
「海に連れて行ってくれたこと、覚えてますか?」
 唐突に訊かれて、頭の中にオレンジ色の光が差し込んでくるのを感じた。
「僕はね、本当に嬉しかったんです。あの日は特別だったから」
「……特別…?」思わず聞き返してしまった。
「あの日一日だけでした。先輩が僕に、金も身体も要求しなかったのは。……そして先輩はいなくなった」
 雨音に吸い込まれそうな低い声が、背中に爪を立てる。
 澄水人はあの日からずっと俺を恨んでいた──その事実が自己嫌悪の波と一緒になって、何度も俺の身体を叩いた。
 こんなツケが二年後に回ってくるなんて、考えもしなかった。
 澄水人の顔を見る勇気は無い。俺は目を瞑って、縛られた手首を祈るように口元に寄せた。
「急に引っ越していなくなったから、最初は、先輩が何かの事件に巻き込まれたんじゃないかと思いました。……何か理由があって去ったのなら、もしかして…偶然に…また会えるかもしれない……そう思って、先輩と行った場所を思い出しながら順番に回ったりして…グルグルと何度も」
 俺はそんなことをさせてしまったのか…、と溜息をついた。歩き回っても見つけられなかった澄水人の落胆ぶりと怒りを想像して落ち込んだ。
「……恨んだろう、俺のこと……」
 少しの沈黙があってから澄人は、
「いいえ」と答えた。「あの時は、心配していました。不安で仕方なかった」
「どうして不安に…」と訊きかけて俺は黙った。俺に貸した金の回収ができないから?
「……また一人になったから」
 澄水人が力のない声で答えた。
 一人になった、というのがどういう意味かわからない。家族はいないのか? あの頃、澄水人はふとした拍子に不安そうな顔を見せていた。それはいつも、一人になってしまう恐れからだったのか……?
 俺がもう少し気を遣ってやっていたなら澄水人の生活環境を多少なりとも知っただろうが、当時からずっと全く知らないままだ。澄水人が胸に抱えていた不安なんて考えた事も無かった。俺は側にいながら、「どうした?」というたった一言でさえ、声をかけてやらなかった……。
「……ごめん、澄水人」
 俺の呟きは震えている。
「……あの頃、家ン中はいつもケンカばっかりで、面白くなかったんだ。俺は、自分のことを世界一不幸だと思って甘ったれてた……。余裕もなくて、他人を思いやるこもできなかった。不満とか鬱憤を、おまえに全部ぶつけてた。…八つ当たりしたいときも、誰か側にいてほしいときも、おまえだけが、俺の思い通りになってくれた…おまえは逆いもしなかった…。俺はそれが面白かったんだろう…。一人で暮らすようになってから、親との繋がりなんて、そんなに太いもんじゃないってわかった。おまえにした事も、後悔してる……」
「…面白かった……? それだけ?」
 澄水人が背中で呟く。二年前、澄水人が俺のことを好きだったのは知ってる。だから余計につらくて返事ができない。
「先輩は、僕のこと…」
「ごめん……。俺は……」
 …好きじゃなかった。…好きとか嫌いとか、そんな感情すら持っていなかった。ただ利用していただけだ。
「好きじゃなかったなんて、言わせない…!」
 悲痛な声に、俺は思わず振り向いて澄水人を見た。
 大きく見開いた琥珀色の瞳が、怒りのせいなのか金色に見える。俺は怖くなって体を起こし、ベッドフレームに背中を押し付けた。少しでも奴から離れたい。繋がれてなけりゃ、とっくに部屋を飛び出している。
 澄水人は動こうとはせずに、ただ俺を睨んでいる。そして、弾かれたように瞬きを一つして、口を開いた。
「僕の思い出まで壊す権利なんて、先輩には無いはずだ。……本当は……嫌われていたのを知ってました。ただ利用されてるだけだっていうのも、わかってた…。…でも、先輩は僕にキスした。僕を抱いた。だから僕は我慢ができた。…先輩は、僕が初めて好きになった人だから……僕のすべてだった……。海に連れていってくれた次の日、先輩は、何も言わずに引っ越してしまった…。僕は……追いかける勇気が無かった……金と身体以外、僕にはもう与えるものが何も無かったから……。僕はいつも先輩に触れたいと思ってた。でも、僕の手は、グローブがはまってるみたいに、本当は触ることすらできなかったんだ。先輩の髪に触れても、手を繋いでも、僕の気持ちはいつも届いてなかったんだ。……二年もの間、あきらめようと努力して……心と身体がバラバラになりそうだった。でも、あきらめるのはやめた……だって、ピークエクスペリエンスで、偶然先輩を見かけてしまったから……!」
 澄水人は両手で顔を覆った。それを見つめたままの俺は、別れた後もずっと澄水人を苦しめていたと知って愕然とした。俺にとって澄水人は過去の人間になっていたのに、澄水人はいつまでも俺の存在を引きずっていたなんて──。
 俺は別れてからも、澄水人を支配し続けていたんだろうか?
「……ずっと…会いたかった…」
 力を失った人形のように、澄水人は両手を下ろした。
「……やめてくれ」聞きたくなくて、俺は頭を振った。「何度でも謝る。でも、おまえには、もう関わりたくない。金はなんとかして返す、だからもう、放っておいてくれよ。俺のことは…もう…、忘れ……」
 最後まで言わせないかのように、澄水人はしがみついてきて、俺の膝に頭を乗せた。柔らかそうな金色の髪が膝の上で広がり、急に無力で従順になった生き物が無防備に身体を投げ出しているのを、俺は信じられない思いで眺めていた。
 消え入りそうな言葉で、澄水人が呟いた。
「……愛してる」
 俺は銃を向けられた時よりも驚いて硬直した。黙って膝に澄水人を寝かせておくのが罪滅ぼしだと思ったけれど、二年前みたいに、嘘でも抱きしめることはできない。膝の重みは、受け止めきれない澄水人の感情の重みと重なって、俺をベッドに釘付けた。
 澄水人は顔を上げると俺の両手を掴み、強く握り締めながら甲にキスした。
「もう一度、僕と付き合って下さい」
 指の間に、掌に、指先に、柔らかな唇の感触が蠢いても、俺は言葉が理解できないでいた。
 ……どうして? 
 どうして俺が好きなんだ?
 そんなこと……銃で脅して、鎖に繋いで言うことだろうか?
 二年前の澄水人は、わざとらしい演技をしているのかとイラつくほど素直に騙されて、呆れるほど優しかった。その優しさは、言い換えれば、逆らうことを知らない従順さだ。二年もの間、どういう生活をしていたのかは知らないが、こんな頭のおかしな人間になってしまったなんて……。
 その原因が俺にもあると思うだけで胸が痛い。澄水人は俺と付き合っていた頃の酷い事実を未だに直視できなくて、もう一度俺と付き合うことで幸せな気分が味わえたら過去を忘れられると思ったのかもしれない。
 でもそれは、心のバランスを失いかけた人間が必死で考えついた方法だ。俺は澄水人を好きになれないし、そんなフリもできない。あの頃、好きでもない澄水人に、どうして側にいてほしかったのか、金以外の目的を差し引いても不思議に答えが出てこない。それがまた自己嫌悪を呼び寄せた。
「俺は……付き合えない…」
 もう嘘はつけない。俺は硬く目を閉じて、意識的に避けていた言葉で告げた。
「……愛…せ…ない」
 息が詰まるような沈黙の後に、手首を握り直されて俺が見たものは、二年前と同じような、不安と淋しさの混じった澄水人の顔だった。
 意思の無い、逆うことを知らない目──。
 指に澄水人の唇が押し付けられる。
「僕は……どうしたら…先輩に……愛して…」
「やめろよっ!!」
 最後まで聞かずに澄水人の手を振り払った。自虐めいた奴の言葉に吐き気がした。
 澄水人は黙って俺を見ている。その態度が逆に俺をうるさく責め立てているようで、ますます気分が悪くなった。
 確かにこいつは俺と出会って不幸だったに違いない。自分でも『被害者』だと、はっきり言っていた。その不幸な被害者が、加害者の俺に愛してほしいだなんて、嘘だ。俺の母親もそうだった。いつも俺に嘘をついた。「私はどうしたら良い母親になれるの?」「私に悪いところがあったら直すわ」と自虐的で不幸な母親を装いながら、俺を「出来損ないの息子」「父親そっくりのロクデナシ」に仕立て上げていた。
 俺自身に向けられていた嫌悪感は、澄水人を通り越して母親へと移行していった。澄水人も母親も似ているんじゃないか、そんな考えが頭をよぎって、母親の存在に澄水人を重ねたとき、俺は思いがけなく愕然とした。
 俺は母親を憎んでいたけれど、心のどこかで愛されたいと願っていた。母親を憎むように澄水人を憎み、母親の愛情を求めるように澄水人を求めていたんだろうか? 左手を伸ばして愛情を求め、得られない失望から右手で打ち払い、今になってその両手を重ねて自分の胸に手を当ててみると、心のどこかで澄水人を愛していたかもしれないという、とんでもない答えを引き出してしまった。
 海を見に行ったあの日、澄水人の笑顔を見て、芽生えた良心を潰してしまったのは、本当の気持ちに気づきたくなかった俺の防御策だったのか?
 そんな、バカな──。
 こんな考えこそ、過去に押し潰されそうになってる俺の防御策だ。
「先輩…」
 澄水人が、動揺している俺を見透かすような目で見ている。
「そんなふうに俺を見るなっ!!」
 いつも心の中で母親に投げつけていた言葉を、澄水人に投げつけた。
「復讐するならさっさと殺してくれた方がマシだ!! 俺にどうしろって言うんだ? 死んでもできないことをさせる気かっ!? わからなけりゃ言ってやる、おまえなんて愛してない! キライだキライだ大っキライだっ!!」
 どれほど深く傷つけてしまったのかは澄水人の顔を見て気がついた。取り繕う言葉も見つからないまま、曇っていた澄水人の顔が険しく変わった。
 言葉を失って、胸の中にも黒い雨雲が急速に広がった。さっきまで自己嫌悪に浸っていたのに、どうして取り返しのつかないことを言ってしまったんだろう?
「僕がどんなに願っても、愛してくれないんですね……」
 澄水人は静かに俺から離れると、スタンドの横に置いてあった銃を掴んだ。
「な…に……する気だ?」
 俺に向けられると思っていた銃は、澄水人のこめかみに押し付けられた。
「バカッ!! やめろっ!!」
 すべてがスローモーションの映像のようだった。俺の身体はもどかしいほど遅く動き、銃を取り上げようとして伸ばした両手はいつまでたっても届かない。
 鎖が脚を引っ張って音を立てた。
 そうして息を飲む間に、澄水人の指がゆっくりと動いて引き金を引き、俺は絶叫した。


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