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Marin's Note
Web拍手



     
12.

 部屋の外から男が話しかけている。
「カメラマンの方がいらっしゃいました。どうしても撮影を許可してほしいとおっしゃって、澄水人さんと話がしたいそうです。コンサバトリーでお待ちになってます」
 俺は下半身にバスタオルを巻き付けながら、鎖を引きずってベッドのふちまで歩いていき、二人の様子を窺った。
 澄水人が苛立たしそうにドアの前に立ち、廊下に向かって、
「おまえが断れよ」と、短く命令する。
「言われた通りにお断りましたが、承知していただけませんでした」
 ああ、あの男の声だ、と俺は思った。
 撮影だとか許可だとか、何の事かさっぱりわからない。それに、この二人の関係もわからない。男はあれだけ殴られていながら丁寧に話しかけているし、澄水人は年上の男を番犬と呼び蔑んでいる。
「もう一度断ってこい」
 澄水人が念を押し、しばらくの間、沈黙があった。
「直接会って断られた方がよろしいと思います。何度でも押しかけてきそうな様子ですから。現に今でも階段を上ってここまてやって来る勢いで、とても私では、」
「僕と接触する奴を見張るのも番犬の役目だろう」
 皮肉をこめて澄水人が遮った。
「あの方は無関係ですから、見張る必要はありません」
 感情を含まず義務的な調子で男が言い返す。
「フン、調査済みか」澄水人が鼻で笑った。「一族の回し者」
「…まだ私を……信用していただけませんか? 私は……」
 男の声は段々と、訴えるように変わっていく。
「奥様と約束したんです、あなたを…」
「黙れクソ番犬野郎っ!!」
 怒鳴りながら、澄水人は拳を握り、もう一方の手をドアノブにかけた。
「澄水人っ!!」
 思わず俺は声を上げた。怒りでいっぱいになった琥珀色の瞳が俺を振り返った。
「な、殴るつもり…なのか? それは、ちょっと……」
 もつれる舌で言葉を押し出すと、澄水人がグッと眉間にシワを寄せたので、俺が殴られるんじゃないかと一瞬思ったが、奴はすぐに興奮を抑えた顔をしてドアに向き直った。
「雨龍さんはあなたのものでしょう?」しばらくしてから、男が話を切り出した。「私はあなたのものには触らない。心配しないで、カメラマンと話をしてきてください」
 男の口から名前を呼ばれた俺は驚いた。なぜ俺の名前を知っているんだ? 澄水人が話したのだろうか? 『監禁するために連れて来る奴の名は雨龍』だとでも説明したのか? それよりも、勝手に俺を澄水人のモノと言ったことが一番腹立たしくて怒りが沸騰した。
 なんでこいつにまで、そんなこと言われなきゃいけないんだ?
 ──俺は誰のモノでもねぇーーーー ! !
 俺まで怒ると澄水人を刺激するから、怒鳴りたいのを思いとどまった。
 三人とも黙ってしまい、ドアを隔てて重苦しい沈黙が続く。
 いきなり澄水人はクルリと向きを変え、バスルームの前の床に脱ぎ捨てていたセーターとジーンズを身につけると、バスローブを拾い上げ、早足に俺に向かって来た。
「何だ?」と身構えていると、バスローブを肩にかけられ、腕を取られてベッドに腰掛けさせられた。足元の鎖の音がうるさい。澄水人がベッドを指差して「そこから動かないで」と小声で命令した。
 俺はムッとしながら「どうせ逃げられやしないだろ」と言う代わりに足を組み、足首を振って鎖の音をわざとさせてみせた。
 俺を見下ろす冷たい視線を男の方へと向け、澄水人はドアに歩み寄ると、廊下に立っているかもしれない男におかまいなしに、勢い良くドアを開けた。
 開いたドアの向こうに、澄水人の行動を見越した男が少し離れて立っていた。
「絶対に、入るな」と澄水人は低い声で男に言うと、相手を押しのけるようにして部屋を出た。
「わかっています。非常時以外は」と男が答えた。
 澄水人が部屋からいなくなっただけで、張り詰めていた空気が緩んでいく。俺は大きな溜め息をついた。
 ドアの隙間から、また男は半分だけ顔を覗かせてこっちを見ている。その目蓋も、頬も、唇の端も、澄水人の暴行のせいで気の毒なほど腫れ上がっている。
 今更のように、全裸をバスタオルとバスローブで隠し、足首は鎖で繋がれているという自分の姿を異常で恥ずかしく感じ、バスローブに袖を通して前を合わせた。けれども男には俺の羞恥心など全く伝わっていないようだ。男の方は、俺が裸でいようが何をされようが、何も感じていない目をしている。この男に助けを求めても無駄だ。俺から視線を外して、いつまでも部屋の中を見回したり、首を伸ばしてドレッサーの上を覗いている。
「何…だよ…?」
 気持ち悪くなって訊くと、男は、
「いえ……」と視線を外したまま答えた。「澄水人さんが、さっき、ナイフを持ち出したかと思ったんですが……」
 ナイフ !? 冗談じゃねぇ。銃の次はナイフかよ?
「困ったな。また……」
 独り言のように呟いて、男は再び視線を俺の足許辺りに戻すと、
「逃げるのはもう諦めましたか?」と、まるで普通の話でもするように話しかけてきた。
 怒りよりも、不気味さを感じる。この男はこの家と同じくらい不気味だ。
「うるせぇ…」俺は小声で言い返した。「どうせ逃がしてくれないんだろ?」
「ええ。命に別状もなさそうですから」
 何を言っても無駄だと感じた。そして、男がさっき澄水人に言った言葉を思い出した。
「非常時って、どんな時だよ?」
「火事、天災の類いです。繋がれていては逃げられませんからね」
 平然と男が答える。
「もし焼け死んだら、呪ってやるからな」
「大丈夫ですよ、常に鍵は持っています」
 男は首にかけたチェーンをシャツの下から引っ張り出した。鎖の先端に黒い鍵が揺れていた。
 一瞬、俺はカッとなった。こいつ…、持ってやがったんだ、鍵。わざわざ見せたのは、俺が非力で奪えないと思っているのか、それとも俺を安心させるためなのか、鍵は本物なのか、全部が謎だ。
「いつか雨龍さんも、この状況に納得する時がくるかもしれません」
 慰めるような口調で男が言った。
「勝手なこと言うなっ!」
 怒鳴ると、男は横を振り返って辺りの気配を窺い、口の前に指を立てて「静かに」と言った。
「知るかよっ、そんなこと」
 男は怒りもせず、下を向いて、ただ困ったような顔をした。
「もう暴れるのは勘弁して下さい。あなたが割った、あの対のランプスタンドは奥様の形見だったんですよ」
「……え? 形見?」
 脳裏に、投げつけて粉々に砕けたあのスタンドが浮かんだ。ひょっとして俺は、とんでもない事をしてしまったのか?
「奥様って……誰…?」
 驚いて訊くと、男の方がもっと驚いた顔を上げた。知らないことを責めているような視線だ。
「澄水人さんの、お母様です。二年前にお亡くなりになった……」
 すぐに理解できず、数秒たってから「……えぇっ!? 本当に? 澄水人の? え? いつ?」とあわてて訊き返す。
 男は目を合わさないまま、一度浅く頷き、
「…二月です。…桜も見ずに……」と、うつむいた。
 二年前の二月……。
「嘘だろ──!?」
 思わず叫んだ。
 津波級の後悔と自己嫌悪が俺をさらった。地の果てまで押し流された気分だ……。
 男は俺の顔をまじまじと見てたが、声を出さずに「ああ」という口の形をして、溜息をついた。腫れた目が、俺を凝視している。
 この男は澄水人のシナリオに合わせて嘘をついているのかもしれない。それともこれは、シナリオにはない男のスタンドプレイ?
 澄水人の母親の死……本当なんだろうか?
 もしも本当なら、俺は、母親を亡くしたばかりの澄水人から金を巻き上げて、弄んで捨てた……。
 俺は、……最低野郎か?
 心臓が段々と苦しくなる。
「少し話してもいいですか?」
 男は、再度周囲の気配を窺った後、部屋の中に視線を放ちながら静かに切り出した。
 俺は返事もしない代わりに、聞きたくないとも言わなかった。
 この部屋から、澄水人から、解放されたかった。
「この別荘には、澄水人さんと、彼の母親がずっと住んでいたんです」
 唐突に男が話しはじめる。腫れている男の顔を、俺は痛々しい思いで見つめた。
 なぜこの男は澄水人の側にいるんだろう? 本当に側にいるはずの人間はどうしていないんだろう?
「…澄水人の家族は、どこにいるの?」
 疑問を思わず口にしてしまった。男はうつむき、慎重に言葉を探しているようだった。
「澄水人さんのお父さんは、他に家庭を持ってるから、簡単には会えません。この別荘はもともと、奥様と旦那様が過ごす為に建てられたものなんです。澄水人さんには腹違いのお姉さんが二人いらっしゃいますけど、一生顔を合わせることもないでしょう」
 ナニソノハナシ? リアル? シナリオ? どっちなのかワカラナイ……脳味噌が微熱を帯びてきた。
「それが……澄水人の…家族?」
「家族と言えるかどうか…。奥様が亡くなった時、澄水人さんは本家から絶縁され世間への口止め料として、この別荘をもらい、一族から追い出されましたから。母親の性を名乗り続け、父親の会社経営に一切関わらないという条件で」
「……それ、本当に、本当の話…?」
 黙っているだけで、決して男は否定しなかった。底なしの気まずい沈黙が広がっただけだ。こんな現実があるだろうか? また俺の日常が遠くなっていく。
「澄水人は、死ぬまで父親に会えないのか…?」
「必要が生じた場合は、私が間に入って代行しています。条件を守って暮らしているかどうかも、定期的に報告しなければならないので。おかげで澄水人さんには随分と嫌われています」
 ……もし、男の話が本当なら……誰もいないじゃないか…、澄水人の側には、誰も……。
「どうか……澄水人さんを、赦してあげて下さい」
 俺は何も言い返せずに、かすかに震えた男の声を聞いていた。
「あなたにこんなことをしたのは、……多分、奥様のせいでもあるんです……」
 声は消えてしまいそうに掠れて、つらそうだ。
「なんで母親のせいなんだ…?」
 意味がわからなくて、俺は訊き返した。
 男はどういう言葉を選ぼうか迷っているようだ。複雑な、やりきれない表情をしている。
「奥様は……、心が…病んでおられました……、虐待も……」
 その言葉を聞いて、思い当たることがあった。二年前の澄水人の身体にいつも、俺がつけた覚えのない小さなアザやヤケドの痕、切り傷があった。それらは白く滑らかな肌の上で、治ったり増えたりしていて、俺は気づいていたけれど、澄水人が学校の外でケンカでもしたのだろうと思っていたから本人に確かめたことは一度も無かった。
 この部屋で澄水人の裸を見たとき違和感を覚えたのは、白い肌が無傷だったせいだ。
 たった一人、側にいた母親が澄水人を傷つけていた……? 
「…そ…んな……。俺、いい迷惑だ、とんでもねぇ母親だな!」
 俺は頭を振った。こんな話を頭の中に留めておきたくなかった。
「でも、奥様は、亡くなる前の一瞬に、はっきりと私に……澄水人さんを頼む、そうおっしゃったんです……」
 苦しそうに搾り出される男の言葉の端に、澄水人の母親に対する淡い片思いのような感情が溢れていた。
 男の顔にはどことなく陰鬱な影があって生気が感じられない。ただ疲れているだけかもしれないし、心が手の届かない死人の側にあるからかもれない。
 この家に初めて入ったときに感じた『時間の外に存在しているような奇妙な感覚』は、この男も澄水人も、過去の想いの中に心を預けて生きてるからじゃないか──この話がすべて真実なら……俺は漠然とそう思った。
「…私にとって奥様は、天使のような方でした」
 男が呟く。
 天使?
 俺はテーブルの上にあるフレームを探し、優しそうに微笑む天使の絵を見た。
 澄水人も俺に同じことを言った。
 一つの考えが浮かんで、消えない濃い染みになっていく。ゆっくりと頭を巡らせて、男の方を見た。
「俺は……澄水人の母親に…似て…るんだ?」
 男がぎこちなく頷いた。痺れた頭の中で、俺の知らない澄水人の背景が少しずつ見えてくるのを感じていた。
「あの頃、澄水人さんも、奥様も、私も……、皆…、少しずつ狂って……」
 …狂って? それを黙って受け入れたのか?
「澄水人は狂いっぱなしじゃねぇか!」俺は話にムカついてきた。「あんた、わかってるなら、なんで俺をこのままにしとくんだよ!? 俺が借金してるからか?」
「いいえ。今のところ私は、あなたはここに居た方がいいと判断しているからです。借金は関係ない。以前、澄水人さんが、あなたと遊ぶ為にこっそりお金を持ち出しても、私は黙認していました」
「じゃあどうして?」
「あなたといると、澄人さんは少しずつ人間らしい感情を取り戻していくからです。あの頃もそうだった、奥様や私には一度も笑顔を向けないのに……あなたと遊ぶのが、よほど楽しかったのでしょうね、時々思い出したように、一人で嬉しそうに笑っていました」
「嘘だっ……!!」
 頭の中に、天使の顔をした母親が、澄水人を殴りつけるシーンが浮かんだ。そこに、俺に無理遣り犯られて苦痛に歪む澄水人の顔が重なった。海辺で、夕陽を浴びながら微笑んだ澄水人の顔が浮かぶ。母親の顔が俺にすり替わる。
「嘘ばっかり言うんじゃねぇよ! 俺は……」
 騙してたんだ、ただ金が欲しくて、あいつといただけだ……。
 男はもどかしげな顔をして、俺が間違っていると言わんばかりにこっちを見ている。
「嘘ではありませんよ。澄水人さんは…」男は少しの間、自分の手をじっと見つめた。「時々、ポケットから何かを取り出して……嬉しそうに眺めていましたよ」
「……? 俺があげたもの?」 ……そんな物は一つもない。何もないはずだ。
「話はこれで終わりです」
 男は唐突に話を終わらせ、「待って」と立ち上がりかけた俺を片手で制した。そして、視線を落とし、ドアを閉めようとしている。
「待ってくれ! ここから出してくれ、金は絶対返す! 澄水人はキチガイだから、とっとと病院に連れて行けって! 俺を澄水人にあてがうな! 医者の方が適任だろ?」
「それは、澄水人さんが望まない」
 切り捨てるように言うと、男は静かにドアを閉めた。
「バカかっ!!」と俺は怒鳴った。
 あの男はまるで澄水人に忠実な番犬だ。立派な番犬じゃねぇか……。
 男が俺に話を聞かせたのは、俺から逃げる気力を奪い、より多くの罪悪感を植え付けるためか?
 俺を騙し、判断力を狂わせるシナリオなのかもしれない。
 俺は狂ったって、澄水人の側に居ることを選ばない。狂ったって、絶対に愛さない。
 澄水人も男と同じ話をするだろうか?
 シナリオ通りに? それとも真実だから?
 確かな真実は、俺が澄水人に酷いことをしたという、その一つだけだ。
 食い入るように見つめていたドアが、もう一度開いた。
 驚いていると、足早に澄水人が部屋に入ってきて、クルリと向きを変えた。
「カメラマンはどうしました?」と、部屋の外から男の声がした。
「一日だけ許可して帰ってもらった。撮影はおまえが同行しろよ」
 面倒臭そうに澄水人が命令する。
「わかりました」と答えた男の声は、閉まるドアの音と重なった。
 部屋の中で、俺は澄水人と二人きりになった。
 場面を換えてシナリオが進行し始める、そんな焦りを感じた。
 俺は澄水人と一緒に狂ったりしない。
 不意に、澄水人は目が合うとにっこりと微笑んだ。整った顔立ちのせいで本当に奇麗な顔だ。その表情のまま、側に来て隣に並んで座ると、何かを話し出す様子もなく、ただ俺を見ている。俺は斜め後ろを振り返り、チェストの上に一本だけ残ったスタンドを見た。
「あ…、あの割ったスタンド……あれ…、俺が投げて、…えっと…ごめん…」
 ヘヴィな話のせいで、言葉を組み立てる気力がもう無くなってる……。
「別に気にしなくてもいいです」
 気持ち悪いほど穏やかに澄水人が言う。
 男の話を確かめたい……そう思うと痛いほど心臓が高鳴った。その痛みを我慢しながら、俺は唐突にカマをかけて訊いてみた。
「あれも、おまえの父さんの?」
 途端に、澄水人は笑顔を引っ込めた。その変わり様に俺は目を見張り、バカな訊き方をしたと後悔した。
「あれは……、母親の形見ですけど、別に大切じゃないから」
 不機嫌な澄水人の言葉が心臓に突き刺さる。
 やっぱり本当の話なのか?
 それとも、澄水人と男はシナリオ通りに話を合わせているのか?
 しかし、母親の死を確かめたところで……俺が酷い奴だということに変わりはない。
 自分の口から大きく長い溜息が漏れた。
 このまま、ここから逃げ出して、二度も澄水人を捨てたら……俺はもっともっと酷い奴になってしまう……。
「…聞いてくれ……」
 澄水人の顔色を窺いながら、俺は話を切り出した。
「ああ、さっきの続きですか?」
 不機嫌なまま澄水人が訊ねる。つまらなそうな話だから聞きたくないといった感じで、俺が何を言い出すのか待ち構えている。
「うまく、言葉にできないかもしれないけど…」と俺は前置きした。自分の頭の中には、自分の気持ちを明確に表す言葉が無くて、漠然としている。
 いつの間にか、俺は人差し指を軽く曲げて、唇に当てながら考えていた。
 逃げたら、どうなるだろう?
 もしかして俺は、同じことを繰り返して、同じように後悔するのだろうか。
 それって……学習できないバカってことか?
 何を考えたって結論は、「俺はバカ」じゃねぇか……。
 自分の気持ちすらはっきりと自分で知ることができない。
 がっかりと肩を落としてうなだれていると、それまで黙っていた澄水人が、
「言葉は不完全な道具にすぎない」と皮肉っぽく言った。
「え……?」
 俺は澄水人の顔を覗き込んだ。琥珀色の瞳が、心の中まで覗こうとしているようにこちらを見ていた。
「…でも…、話さないと……。俺……」
 澄水人がこのまま冷静に聞いてくれることを祈って、言葉を捜しながら喋りはじめる。「…俺から提案するのは……間違ってるって思う。でも、おまえも間違ってる……この情況じゃ何も解決しない……そうだろ?」 澄水人は無反応だ。俺は話を続けた。「わかってほしいんだ……、俺は、感情をはさまずに解決したい。この枷を外してくれ。それから借金の返済方法を話し合おう、ここじゃなくて、この家の外で……」
「ここから出て行きたいってこと?」
 意外なことに澄水人は深刻ではなく、子どものような単純さで確認しようとした。
「当たり前だろ。今すぐ出て行きたい」
 答えたすぐ後で、澄水人の目が段々と虚ろになっていくのを見て、「しまった」と思った。澄水人に巧く誘導質問されたようだ。澄水人は俺への興味を急に失ったようにも見えたし、静かに怒っているようにも見える。ヤバイかも、どうしよう…と焦っていると、澄水人が焦点の合わない視線を俺の周りに漂わせながら、うって変わって突き離すように言った。
「大体、解決解決って、何を解決するんです?」
「えっ、…んん……」いきなり反撃を食らって、俺は言葉に詰まった。「借金と……この状態…」
「この状態は、感情が起因している。それなのに感情をはさまずに解決したいということは都合よく無視したいという卑怯な考えだ」
 えーーーーーっ!? と俺は頭の中で叫びながら口では絶句していた。
 店長を使って俺をピークエクスペリエンスに誘い出し、ジュースに酒を入れ、銃で脅し鎖に繋ぐのは卑怯じゃないっていうのか? 澄水人の屁理屈に太刀打ちできるだろうか? でも、何とか説得しなければ……俺は必死になって言葉を捜した。
「じゃあ、感情の起因の起因を考えてみろよ、借金だろ? まず借金の返済方法について、落ち着いて話し合おう」
「まだわからないの?」
 明らかに苛立った様子で、澄水人が脚を組み替えた。次に俺を蹴るんじゃないかと身を引くと、澄水人は横目で軽蔑したように言った。
「言ったはずです、金は今すぐこの場で先輩が一括で返すか、この身体で払うか」言い終わらないうちに、澄水人は俺の心臓の上に手を当てた。驚いて離れようとすると、澄水人が鎖を踏んだ。その素早い仕草が、忘れかけていた“殺される”という恐怖と殴られている男の姿を脳裏に甦らせた。
「何回説明すればいい? 一括で返せないんだから、ここにいるしかないんですよ」
 態度ほどは怒っていない口調で澄水人が言う。俺にはそれがまた不気味だった。完全に澄水人のペースだ。
 落ち着け、落ち着け……俺は自分に言い聞かせる。澄水人の手がバスローブの上から俺の肩や腕を撫でまわしているが、無視だ。俺は俺のペースで、普通に返済方法を話し合わなきゃ……。
「あ?」
 今頃になって気づいたことが、一つある。
 普通の話し合いなら、まず借金の額を互いに確認するだろ? 肝心なことを見落としていた。やっぱり俺ってバカだ──!!
「お…、俺は……おまえに……」様子を見ながら、少しずつ話を切り出した。「…いくら借りて…る…? 正確な金額は……」
「50万5千670円」
 即座に澄水人が答えた。笑顔ではなく、真顔で。
 50万ぐらいだと思っていた俺の記憶とほぼ一致しているが……俺はいつも澄水人に札ばかりを借りていたはずだ。小銭は借りた憶えが無い。「670円って、……何?」
「海を見た日の帰り、先輩が小銭を貸せって言ったから、財布の中にあったのを全部渡しました」
 記憶の糸を手繰り寄せる。潮風の匂い。駅への道。切符を買おうと自販機の前に立つ俺と澄水人……。なんとなく、借りた気がする…。
「わかった……」と呟いたとき、澄水人が身体を寄せ、バスローブの間から手を滑り込ませた。
「頼むから、やめてくれって」
 澄水人の手首を掴むと、澄水人は意地悪く笑った。
「一括か、身体か、どっち?」
 からかうような口調なのは、楽しんでいるからだろう。一括は無理だとわかっているのに……。俺は少しムッとして言った。
「じゃあ訊くけど……一回ヤったら、いくらなんだよ?」
 間髪入れずに澄水人は答えた。
「一銭」
「…………。はッ!?」
「じゃあ…、一回十銭に値上げしてあげます」
「十回で一円ーー!?」
「そう。百回で十円、千回で百円、一万回で千円、十万回で一万円、五百万回で五十万円。一日十回セックスするとして、一日で一円、十日で十円、百日で百円、千日で千円、一万日で一万円、五十万日で五十万円」
「ごっ、五十万日ーーー!?」
「一日十回で一円、つまり五十万五千六百七十日を要して、一年を三百六十五日で計算すると、千三百八十五年と百四十五日かかりますね」
 頭の中が真っ白になって、腹の底には諦めと怒りがドロドロと溜まりだした。
 澄水人は、どうやったって俺をここから出さないつもりだ──。
 俺が頑張って百年生きたって、とうてい返済できないじゃないか……。
 言葉が通じない。たとえ言葉が完全な道具になって意味を完璧に伝えられても、澄水人と俺は、同じ言語で違うことを喋り合うだろう。
 この家から逃げ出すのは、不可能だ──。
 解決したいと抱いていた淡い希望は、粉砕され、砂つぶになり、サラサラとどこかへ飛んでいってしまった。
 俺は何を根拠に希望を抱いていた?
 しかも、『今すぐ出て行きたい』だなんて、手の内を見せて高らかに宣言してしまったなんて……。
 やっぱり俺って、本当にバカだ……。
 俺はそのまま後ろへ倒れた。ベッドが軋んで揺れるのを感じながら、天井を見つめた。
「雨が上がりましたね」
 窓の方に目を向けて、澄水人が嬉しそうに言う。つられて外を見ると、分厚い雲の裂け目の向こうに青空が見え、そこから柔らかな日差しが漏れていた。あの空の下を自由に歩けるのはいつなんだろう……?
「散歩に連れていってあげましょう」
 穏やかな表情に戻った澄水人が、まるで犬にでも話しかけるように言った。
「外へ出られるのか?」
 思わず訊き返すと、澄水人は身体を向けて俺を覗き込み、微笑んだ。
 琥珀色の瞳が俺を捕らえる。
 おまえは、その透けた宝石のような目で俺を見て、何を考えているんだ?
 見入ったわけじゃない、反抗を放棄したわけじゃない……、それなのに俺は動けずに、俺を見つめる瞳をじっと見ていた。
 罪悪感がそうさせたのか、それとも、もっと違う何か──。
 何────?
 微笑みがゆっくりと降りてきて、言葉を喋れない唇にキスされた。頬に、耳に、キスされ続ける。俺の視界は金色の髪で塞がれている。
「今夜は満月です」
 毒に似た囁きが耳から入ってきたとき、胸の中で、フワフワした気体が小さく硬い種のように形を持ったものへと変化していくのを感じた。
 この種は何────?
 バカな好奇心だとわかっている。なのに、正体を知りたいという自分自身の考えに支配されてしまった。
「おとなしいんですね」と澄水人が耳たぶを噛み、「利口だ……」と呟いた。
 いや、バカだ………
 俺は頭の中で否定した。


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