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Marin's Note
Web拍手


     
16.

 アパートは轟音とともに取り壊されている真っ最中だった。
 壁が崩され、柱が倒れ、土木機械の下で踏み潰されて、ただの瓦礫になっていく──。
 周囲には立ち入り禁止の紐が張られて、傍らではおじさんがホースを片手に、もうもうと上がる土煙と埃に向かって散水していた。
 二階建木造築五十年のボロアパートはすでに半壊状態だ。俺の部屋のあった二階の右端部分は跡形もなくなって空が見えている。
「そ……んな……バカなっ…!?」
 俺の荷物は? ギターは? 家具は? 服は? 教科書やCDは? 
 みんな、あの瓦礫の下 !?
 悪夢だ…なんでこんなことになってるんだ、家が無くなるなんて……!!
 ヨロめく足取りでアパートに近付いていくと、行く手を遮るように目の前でバイクが急停止した。
「わっ……」
 転びそうになって、初めて周りを警戒した。バイクを見ると、そいつは行き過ぎずに、じっとこっちを睨んでいる。
 俺は息を飲んだ。ライダースジャケットにも、フルフェイスのメットからはみ出た金髪にも見覚えがある。
「………!!」
 声が出ず、心臓がキリキリと痛みだす。運転しているのは澄水人だ。
 連れ戻される……俺は咄嗟に後退った。さっきまで軽く感じた身体が、鎖で巻かれたみたいに重く感じて、震えそうになる。
 グリップを握る澄水人の左腕には、フルフェイスが通されていた。何だよソレは、俺の分のメットか? 連れ戻して、繋いで、閉じ込めて……また約束を破ったと責めるつもりだろうか? 澄水人は多分、無免許だ。しかも中型を飛ばしてここまで追って来るなんてムチャすぎる……。
 澄水人の肩越しにアパートの解体作業が見えている。その轟音と、バイクの低いエンジン音が重なって耳が痛い。何が何だかわからなくて、もう泣きたい気分だ。
 バイクに跨ったまま、澄水人はジャケットの内側に手を入れた。
 刺されるかもしれない──逃げたいのに足が動かない。
 けれども、澄水人はそこから丸めた封筒を取り出して、俺の目の前に差し出しただけだった。
 封筒には総合探偵事務所と記されている。
 いつだったか、澄水人が男に渡していた封筒かもしれない。
 視線を上げて澄水人を見ても、黙ったきりで、封筒を引っ込めようともしない。俺に中味を確かめろと言わんばかりの態度だ。
 一体、何なんだろう……?
 手を伸ばすと、いきなり手首を掴まれた。
 今度こそ刺されるんだ、そう思って引っ張られた身体は、澄水人の腕の中でぎゅっと抱きしめられた。
 最初、何をされているのかわからなかった。身体に巻きついた腕が痛くて、次の瞬間に刺されることばかり考えていた。
 澄水人は何度も俺を抱き直して、「ああ…」と大袈裟な溜息をついたあと、「見つかってよかった…」とフルフェイスの中から言った。
 本気で俺を心配していたような、優しく静かな呟きだった。
 なにやってんだよ、おまえは……。抱かれながら、俺は呆然と思う。
 俺は……ちっともよくないよ、澄水人……。
 おまえさ、さっき俺にナイフで傷つけられたくせに、なんでそんなこと言うんだよ? その前は無理遣り犯ったくせに。俺はやっばりおまえが嫌いだ。なのに、なんで俺を抱きしめてんだよ? 
 おまえ、酷いよ。俺と同じくらい酷い。おまえはいつも、こうやって俺の気持ちをグチャグチャに引っ掻き回すんだ。俺はいつも、おまえのことがわからなくなる。自分の本性すらも目をそむけたくなるほど嫌なのに、その本性を簡単に引っ張り出すおまえがもっと嫌いなのに──!
「…ちっともよくない」
 俺は呟いて、澄水人の手を振り払った。
 重い空気が流れはじめたとき、澄水人が俺の手に封筒を押し付けた。どうしても読ませたいらしい。
 今更……。そう思った。
 封筒の中身が何だろうと、目前で起こっている自宅崩壊より驚くことなんて無いはずだ。
 もしかしたら、その件に関係があるかもしれないと思い直して、澄水人の目を見ながら封筒を受け取った。
 封筒の中には書類らしいものが入っていて、一番上の紙に調査報告書と記されていた。
 ……何だこれ? 何の調査だよ?
 澄水人はじっと俺の手元を見ている。フルフェイスのシールドはスモークで表情が見えにくいが、なぜか悲しそうに感じられた。
 嫌な予感がして紙をめくると、二枚目には母親と俺の戸籍謄本のコピーが綴じられていた。離婚した時に母親が役所からもらってきてたのを俺も見たことがある。名前も住所も、本籍地も、間違ってない。
 こんなものを、どうして澄水人が持ってるんだ? 見る必要があるのか?
 そういえば、先輩のことは何でも知ってるとかヌかしてやがったが、まさかこんな調査をしていたなんて…。
 澄水人を睨むと、奴は、いいから早く先を読めと言うように、顎を上げた。
 怒っても通じないだろう……、と思い直して視線を戻し、三枚目を見てみると、それはオヤジの謄本だった。初めて見る名前が家族として載っている。俺は深く息を吸った。クリップに挟んで添付してある写真の中のオヤジは、女性と手を繋いで歩いていた。背景は遊園地だ。休憩所みたいなところで二人で向かい合って座り、笑いながら何かを食べている写真もある。女の人の顔には見覚えがあった。一度、家に遊びに来てたアジア系の外人だ。会社関係の人で、日本語が不自由だからおせっかいを焼いているとオヤジは説明していたが……この人も恋人の一人だったのか。もう再婚してやがる…。
 両親が離婚すると知ったとき、大袈裟ではなく、自分の身体が二つに引き裂かれるような感覚を味わった。心のどこかで、家族がバラバラになって、またそれぞれに家庭を持つかもしれないと予想していたけれど、やっぱりショックだ。それも、澄水人から知らされるとは思ってもいなかった。
 動揺しながら見た四枚目には、俺の写真が留められていた。ピークエクスペリエンスの入り口の前にいて、腰から上が写っている。服装からすると、今年の一月のライブの日かもしれない。俺は笑っている。友だちと雑談している時に撮られたみたいだけれど、全く気がつかなかった。写真の下には、俺の住所と電話番号、通っている高校、バイト先までが記されている。
「な…んだよ……これ……」
 家が壊されていく轟音を聞きながら、知らない間に調査されていた薄気味悪さと驚きが重なって、呟きが掠れた。
「次を読んで」
 フルフェイスを被ったまま、少しくぐもった声で澄水人は言い、指先で書類を叩いた。
 促されて、そこを見ると、文字が羅列していた。読む気力もなく目で追っていると母親の名前があって、行方不明の四文字が飛び込んできた。
「……え?…」
 あわてて頭を回転させて、理解しようと読み始める。
 すぐには信じられないことが書いてあって、何度もそこに目を走らせた。
 母親と同棲相手が今年の二月末に同棲を解消して、家は現在、他の家族が住んでいる──そう報告されている。
 どういうことだ…!?
 引っ越してから高校に入るまで暮らしていた家は、もう他人が住んでいる。
 それなら、母親は今どこにいるんだろう?
「その次のページに、写真があります」と澄水人が言った。
 これ以上何かを知るのが怖くて、それでも恐る恐る書類をめくると、母親と俺の知らない男が一緒にいる写真が何枚もあった。夜の街を背景にして歩いている二人の写真もあれば、どこかの店のウィンドウ越しに二人を写したものもある。まるで恋人同士にしか見えない。多分、そうじゃないかと思う。男は、母親が好きだと言っていた俳優に少し似ている。
「調査員が言うには、行方不明といっても、事件に巻き込まれた可能性は少ないそうです。今まで扱ったケースから分析すると、同棲を解消したあと、その写真の男と駆け落ちしたんじゃないかって」
 澄水人の声はただ事実を伝えるニュースキャスターみたいに淡々としていた。
 目眩がして、足許がフラついた。
 写真の下には、知らない男の名前と住所、電話番号、そして、妻、長男、長女と書かれた名前が並んでいる。母親は、奥さんと子どもがいる人と不倫して、どこかに行っちまったのか?
「なんだよ、これ……」
 呟きが口から漏れる。
「その後ろに、男の戸籍謄本のコピーがあります」
「もう…、いい…」
 頭が混乱している。目の前の家が無くなって、母親も消えた……らしい。
 母親からは、何の話も聞かされていないし、連絡すらもらっていない。ここしばらく連絡してなかった事が、どうしようもなく悔やまれた。部屋の家賃も授業料も、直接母親が大家さんと学校にそれぞれ振り込んでくれていたし、一人暮らしを始めた時に俺の名義のキャッシュカードを持たされて、毎月の生活費も、そのカードを使って下ろしていた。生活には何の支障もなかった。
 用が無くても電話ぐらい入れるべきだった。
 全部、何かの間違いじゃないのか?
 俺が澄水人に監禁されている間に、母親から説明の手紙が届いていたかもれない。でも、ポストのあった場所はもう瓦礫の山になっている。
 報告書を澄水人の胸に押し付けて返し、呆然と壊されていくアパートを見つめた。
「仕方がないです。このアパートはもう古いし、壁のひび割れも崩れはじめて危険だったから、急に取り壊しが決まったんです」
 澄水人は受け取った書類をポケットにしまいながら、慰めるように言った。なんでそんな事情を知ってるんだ、おまえが……。
 バキバキっと壁にショベルがめり込む音がして、埃の混じった風が顔に吹きつけた。思わず咳き込んで顔をそむけても、ショベルカーは何事も無く瓦礫の上を進んでいく。
 何から先に考えればいい? 何から先にすればいい? なんでこんなことになってるんだろう?
「それから、先輩の荷物は僕のマンションに運んであります」
 澄水人が言った。
「………。…は?」
「僕が預かってます」
「マンション? あの山ン中の…別荘じゃなくて?」
「そう」
 すごく良いことをした、というように澄水人は胸を張った。
「いっ…つ…の間に、そんなこと……???」
 開いた口が塞がらない。澄水人が指で俺の顎を下から押し上げた。
「一ヶ月前、僕が調べたとき、先輩の家の家賃は半年間未納になってました。母親の同棲相手が保証人になっていたようですけど、支払いはされないままで、契約者である先輩の母親の方には大家から立ち退き勧告が出ていました。どっちにしろ春休みになったら、先輩はこの家から出なきゃいけなかったんです。報告書にあった通り、母親は行方不明だし、立ち退きの期限も迫っていたから、僕が支払いをすませて荷物を引き取りました」
 俺は信じられない思いで澄水人の話を聞いていた。
「なんで、そこまで…おまえが…」
「好きだから」
 目を逸らさずに澄水人が即答した。一日は二十四時間だと当たり前のことを言うみたいに。
「それに、大家さんに荷物を捨てられたら、困るでしょう?」
 何か違う。頼むから俺を見つめるな…頭が痛い。勝手に調査しまくりやがって、勝手に荷物を預かってくださって、罵るべきなのか、礼を言うべきなのか。どうして母親はこの件で動いてくれなかったんだろう? 自分の生活で手一杯だったんだろうか?
「急な立ち退きで、本来なら大家さんから多少お金が出るんですが、先輩の場合、滞納分の違約金で差し引きゼロです」
 そう言ってから、澄水人は思い出したように、
「さっき、大家さんからポストの中味を預かりました」と、ジャケットの内側から広告の束を取り出した。
 受け取って中味を確認してみると、広告に混じって母親からの手紙があった。消印は二日前だ。俺は身体中の力が抜けるほど安心した。きっと、引っ越し先が書いてあるに違いないからだ。
 急いで封を破ると、中から一枚の便箋が出てきた。
 そこには、たった三行の文字が、見慣れた母親のクセ字で書かれていた。

 私は好きな人と暮らします
 翔はお父さんと暮らしなさい
 探さないで さようなら

「……え?」
 全身が固まった。見間違いじゃない。
 顔を近づけて隅から隅まで見たけれど、どこにも新住所が書いてない。
 ちょっと、母さん……。オヤジはもう再婚してるよ…。
 呼びかけたって返事があるはずもなく、現実と向き合わされただけだ。
 母親は俺を捨てて、最後に会おうともせず手紙をポストに投函して、そのままどこかに行ってしまったんだ。奥さんと子どもを捨てた男と一緒に。
「大丈夫ですか?」澄水人が声の調子を落として言った。手紙の内容を気にしている様子だ。
 俺は黙って便箋を見せた。その薄い紙がペラペラと風に泳いだ。
「勝手すぎますねぇ…」と、澄水人は皮肉っぽく笑った。同情するよりも、自分の方が俺の保護者として勝っていると言いたげな調子の声だった。
 力が抜けて、左手に持っていた広告がバラバラと地面に落ちた。
 広告は風に舞い上がって、あっという間に飛んでいってしまった。
「あ……っ」
 俺はバカみたいにボケっとその様子を眺めていた。見上げた目に青空が映る。白い雲が、眩しく輝いている。自由になったのに、前より不自由になってる。この風景の一部になって融けてしまいたいと俺は本気で思った。
 気がつくと、母親の手紙だけは右手にしっかり握っていた。俺はそれをジーンズのポケットにしまい、辺りを見回した。
「電話、しないと…」
「どこに?」澄水人が訊いた。
「母親の…携帯…」
 すぐに澄水人が携帯電話を取り出し、「ここでしょう? 使って」と俺に登録番号を見せた。
 確かに母親の携帯番号だ。
 こんなもんまで……しかも登録済みかよ…。そう思いながら電話を借りて、耳にあてる。
『お客様の都合により、現在使われておりません』
 繰り返されるメッセージが、耳元から冷たい現実を流し込む。それでも俺はまだ信じられなかった。
 澄水人の持っていた報告書にオヤジの連絡先が書いてあったけれど、連絡を取る気もない。今日から俺はどこに寝泊まりすりゃいいんだ? 友達の家に行こうか。でも、何日も泊まれないだろうし…そうなったら…とりあえず今日は安いホテルを探そうか。まだ金は十万ぐらい銀行の口座に残っていたはずだ…。
「俺…、銀行……行かなきゃ…」
 呟くと、澄水人が、
「無駄じゃないの?」と言って、フンッとバカにしたような溜め息をついた。
「それ…どういう意味だよ…?」
「金は全額引き下ろされてますよ。僕がピークエクスペリエンスでライブをやった日の朝に」
「…え……?」
 ライブの日、まだ財布には金もあったし、寒かったから、家を出てそのまままっすぐピークエクスペリエンスに向かった。もしも銀行に寄ってたら、残高を確かめられたのに。
「…そんな話は…、信じ…」
 俺の言葉を片手で遮った澄水人は、左腕からメットを抜いて差し出した。
「銀行に連れていってあげる。乗って」
「そのまま……あの別荘に戻る気かよ?」
「僕は嘘は言わない」
 一秒でも早く、銀行に行って確かめたい。
 鎖はついてないし、身体は自由だ、と俺はそんなことを思った。ヤバくなったら飛び降りるつもりでメットを受け取り、シートに跨った。
 メットを被ったのに、澄水人はいつまでたっても発進させない。前を覗き込むと、同時に澄水人も振り返り、俺の両手首を掴んで自分の腹に巻きつけた。
「危ないから、ちゃんとつかまって」
「なんか、嫌だ…」
 手を引っ込めようとすると、澄水人は俺の手首を強く握って、「絶対、駄目です」と言った。「本当に危ないから」
 小さな子どもに言い聞かせるように言われて、俺はなんだか情けなくなり、黙って従った。
 澄水人はギアを蹴り、握ったクラッチをゆっくり戻して静かに発進させた。
 身体に風がぶつかって、アスファルトの地面が後ろへ流れていく。
 こんなふうに嫌な現実の中を、素早く通り過ぎることができたらいいのに……そんな夢みたいなことを思った。
 これからどうすればいいんだろう。もし荷物を本当に預かってもらってるとしたら、どこに移そう?
 銀行の正面でバイクが止まり、俺は待ちきれずに飛び降りてメットを取り、キャッシュコーナーに向かった。
 カードを入れて、残高照会を選び、暗証番号を押す。
 画面に現れた残高金額は、0円だった。
「嘘……」
 頭の中が急速冷凍みたいに凍っていく。
 金がいつ下ろされたのかわからない。俺は窓口に行ってキャッシュカードを見せて、最近いつ金が引き出されたのかを聞いてみることにした。
 そのまま別室に案内され、店長から名刺を渡され説明を受けた。結果は、澄水人が言った通り、ライブの日の朝に下ろされていた。それも、ネット画面上で俺の口座から母親の口座に移されていた。
 パスワードは俺と母親しか知らないはずだ。やっぱり母親がおろしたのか? 俺の生活費なのに……? それとも誰かに脅されておろしたのか…?
 右手に持っているメットがさっきより重く感じて、ヨロヨロと銀行から出た。メットを取った澄水人がバイクに跨ったまま、ハンドルに両肘をついて俺を見ていた。ふわふわと金髪が風に揺れ、光を受けて透き通った。
 その様子が映画の中のワンシーンみたいで、一瞬、日常の現実から遠く切り離された気がした。何を話すつもりでもなく、俺は澄水人の側へ歩いていった。
「ちゃんと店長が説明してくれたでしょう?」と澄水人が言う。
 銀行にも根回ししてあったのか…。なんだか俺一人が今頃あわてているようで、とんだマヌケに思える。
「口座に移した金を下ろしに来たのは先輩の母親だそうです。知り合いの銀行員が言葉を交わしたらしく、はっきりと覚えていたようです。報告を疑うなら今から事務所に行って、直接、調査員に聞いてみますか?」
 澄水人の言葉に嘘の響きは無かった。
 脳裏に、さっき見た母親と知らない男の写真が浮かんだ。駆け落ちに金が必要だった、それが真実だろうと思った。
「今は…もう何も考えられない…」
 俺は倒れそうになって、バイクのタンクに手をついた。
 帰る家がない。金も無い。母親は行方不明。オヤジは…一度も養育費を送ってこないような奴だから、俺が助けを求めたって横を向くに決まってる。オヤジはロクデナシだと、母親はいつも罵っていた。俺のこともロクデナシと罵ってたっけ。初めてその言葉を聞いたとき、俺は意味がわからなくて辞書で調べたのを覚えてる。役立たずとか、まともじゃないとか書いてあった。確かに俺もそうかもしれない。澄水人にだって取り返しのつない酷いことをいっぱいした。まともじゃないから。
 ロクデナシの俺を上回るロクデナシは、やっぱり俺の親か……。
「ははははは…」
 乾いた笑いが込み上げてきた。
 これからどうしよう。頼れる親戚なんて一人もいない。新しく住む家を借りるにも金が必要だ。もうすぐ新学期だって始まる。学校はどうする? 頭が熱くなって、何も考えたくない。
「僕が先輩の母親だったら、こんな目には合わせないのに」
 澄水人は俺の首の後ろに手をあてて、身体を引き寄せようとした。
「やめろって……」
 その腕からすり抜けて俺は言った。
「俺、おまえと一緒にいるのがヤだよ……、段々とおかしくなってく……」
「僕は全然かまわない」
「おまえはよくても、俺はイヤなんだよ! 自分が狂っていくのがハッキリわかるから!!」
 思わず大声を出すと、周りにいる通行人たちが一斉にこっちを見た。俺だって銀行の出入り口でこんな話したくねぇよ。
 澄水人は笑みを引っ込めて複雑な表情をした。
「僕を憎んだ? 僕と母親と、どっちが憎いですか?」
「何だよその質問は? なんでいちいち憎まなきゃいけないんだよ?」
「愛すのは退屈で、憎むのは忙しいから」
「はぁ !? またわけのわからんことを……」
「どうして逃げたんです?」
「……、何が言いたい…?」
「春休みが終わっても、学校が始まっても、ずっとあそこに居たら何も知らずにすんだのに。母親が行方不明だってことも、家が無くなったってことも。何も見ないで、何も聞かないで、ずっと僕の側にいて、僕を憎んでいれば、忙しくて余計なこと何も考えずにすんだのに……」
 身体の中をすさまじい嵐が突き抜けた。
 内臓が抜き取られてからっぽになったみたいに、ふわりと倒れそうになった。
「…理解できないよ、澄水人…」
 泣き声になりそうだ。おまえのそんな考え方は激しく間違ってる。ズレてるよ。
 知らない方が幸せなんて、俺は思っちゃいない。俺はおまえのこと何にも知らなくて、死ぬほど後悔したんだぜ? 知りたくないことはたくさんあるけど、現実から逃げ切れるわけないだろう? 俺の自由意志は無視か? 母親の駆け落ちも家が無くなったことも、ずっと俺に知らせないつもりでいたのかよ? それが可能だとでも本気で思ったのか?
 どうして愛すより憎む方が忙しいんだ?
 ……わからない。また謎の引出が増えた。考えても答えが出なさそうな、あまり開けたくない引出だ。
 おまえは絶対にオカシイよ。きっと思考回路の配線がグチャグチャなんだ。それから、俺もオカシイ。俺はおまえを傷つけたくて、支配したくてたまらなくなる。
 発熱した頭を抱えて呆然と立ち尽くしていると、澄水人は俺の腕を痛いほどの力で掴んだ。
「僕は……今なら、どれだけ先輩に八つ当たりされても、ちゃんと受け止めてあげられる。ずっと、守ってあげる。僕は先輩のことしか考えられない」
 そんな真剣な顔して、そんな強い目で俺を見るな──。
 俺を現実から引き離すために監禁したのか? 好きだから? 愛してるから?
 違うだろう?
 俺はおまえのお気に入りのモノだから、深く傷つけない程度に大事にコレクションしておきたいだけなんだろう? 俺と、おまえの母親から教わった愛し方でしか、俺を愛せないんだろう?
 そう、俺も一因だ──。
 天使の顔をした母親と俺が、澄水人の配線をグチャグチャにしてしまったんだ。
 すべてが身体の中で崩れていくような奇妙な感覚に、俺は必死に両足をふんばって耐えていた。 
 そんな俺を、澄水人はじっと見上げている。瞳を輝かせて。
「おまえ…、自分がオカシイって…知ってるか?」
 どこかあきらめに似た想いに包まれながら、俺は訊いた。
「先輩も一緒だから、丁度いいんじゃないの、バランスが取れて」 
 確信を持った笑みを浮かべて澄水人が答える。
「それ…、バランスっていうなのかな……。プラスとマイナス、凹と凸みたいな者同士の組み合わせをバランスっていうんじゃないのか…?」
 力なく反論すると、澄水人は、
「違いますよ、両天秤の均衡のバランスが取れるんです」と打ち消した。
 俺は倒れそうになって空を見上げた。
 似た者同士……その言葉がクルクルと頭の中を巡っている。
 こんな狂った二人がこうして一緒にいると、世界中からつまはじきにあったような感覚に陥る。俺たち二人は、互いに受け入れあわなければ一人ぼっちになってしまうのかもしれない…そんなバカバカしい想像が、事実のように思えてくる。
 俺も澄水人も、簡単に狂ってしまうからいけないんだ。
 冷たい煉瓦の床の上で、噴水の側で、長椅子の上で、澄水人の部屋で、ベッドの上で、絨毯の上で、風呂で、シャワーの雨の中で、二人きりの空間で……あの満月の下の温室で……、俺たちは狂ってた……。
 たった今、わかったことがある。
 どうやら俺は本当に愛されてるらしいってことだけだ。それも、かなり間違った愛し方で……。
 俺は自分から澄水人の頬に手を当ててた。柔らかい肉、温かな頬。グチャグチャの配線で俺のことしか考えてないこの頭……。
 そうしておまえは、また俺の中のケダモノを引っ張り出すのか──?
 ハッと気づくと、見知らぬおばさんたちが数人、足をとめてこちらを見ていた。一人のおばさんは、俺と目が合うと恥ずかしそうに下を向いて走り去った。
 見物人の目から逃れようと、俺は澄水人から身体を離した。もっと他に考えなきゃいけないことがたくさんある。ここじゃ考えられない。もっと静かな場所に行きたい。どこへ行こう…、もう家はない、そう思うと涙が出てきそうになった。
「待って」
 肘を掴まれて引き戻されると、激しく肩を揺すられた。
「また何も言わずに行ってしまうんですか? 許さない、そんなこと絶対に…!!」
 澄水人は今まで見た中で一番悲しそうな目をした。
 引出が開いて、オレンジ色の光が溢れ出す。澄水人は、引っ越して誰も居なくなった俺の家を見て、こんな目をしていたんだろう。その時きっと感じたに違いない深い悲しみが、感染したみいに俺の中に流れ込んできた。
「……そんなこと…、しないよ」
 目を逸らさずに俺は答えた。
 それが意外だったのか、澄水人は驚いた様子で手を外した。
「本当に? 嘘じゃない?」
「ああ」俺は頷く。「…もう嘘はつかない」
 澄水人の瞳が潤んだように見えた。けれどもそれを確かめる前に、澄水人はメットを被ってしまった。
「行こう」
 澄水人は言って、俺にもメットを被るように指で促した。
「どこへ?」
「荷物が心配でしょう?」
「…さっき言ってた、おまえのマンション…か?」俺は鎖を思い浮かべ、ためらった。
「繋がない」
 思考を読み取ったように、澄水人が右手を上げて宣言のマネをする。ふざけているのか、本気なのか、俺にはわからない。
「早く乗ってください。先輩の大切なギター、どうなっても知らない」
「また脅す…」
 俺は呆れて呟いた。
 そして唐突に、あの男の言葉を思い出した。
『君は……、いずれ戻ってくるかもしれない…』 
 すべて知ってたからに違いない。だから、一度家に寄れと言ったのだ。
 男に対する気持ちをどう表現していいかわからない。逃がしてくれたけれど、それは問題を回避するために、一時的に俺と澄水人を引き離しただけのことだ。理由は、俺よりも澄水人、澄水人よりも澄水人の母親が大事だから。澄水人があれ以上傷ついて問題が起これば亡くなった母親に申し訳ないとと考えたのかもしれない。男の心は一生死人の側にある。幸せで、同時に可哀相な人かもしれない。
 きっと、男の予想通りに俺は動いてるんだろうな、そう思いながら澄水人に訊いた。
「おまえのマンションってどこにあるんだよ? また隔離されたみいな山ン中か?」
 澄水人は顔を上げ、「あそこ」と言って、背景から飛び出るように建っている茶色いマンションを指差した。
 それは、取り壊された俺の家の、道を挟んだ向こう側に最近完成したばかりの15階建てのマンションだった。
「あ…そこ? そんな近くに住んでたのか、おまえ…!?」
「そう。最近引っ越したんですけど」
 平気な様子で答えた澄水人は、エンジンをかけ、クラッチを切ってアクセルをふかした。
 数秒間迷い、俺は溜め息をついてバイクのシートに跨った。


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