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13. |
「行きましょうか」
身体を離した澄水人に促され、俺は上半身を起こした。
「…どこへ?」
がっかりしなくてもいいように、あまり期待せずに訊いてみた。澄水人は俺の反応を楽しむかのように眺め、
「一階のコンサバトリー。庭が見える部屋です」と言った。
「なんだ……、別室へ移動かよ……」
この洋館の外へ出られるわけじゃないんだ…。
不意に、澄水人がポケットからカギの束を取り出し、屈んで俺の足首を掴んだ。
「わっ、……な、何だよ!?」
足元に目をやると、束の中から黒い小さな鍵を選んで枷の鍵穴に入れている。何をされるのかと大きく目を見張っている間に、枷はあっけなくその輪を開いて絨毯の上に置かれた。
「えっ……!?」
信じられなくて、言葉すら喉の奥で固まっている。
自分の身体を繋ぎとめ、あれほど忌まわしかったものが、外れた…
……これは逃げるチャンスか?
立ち上がった澄水人の顔を見上げたまま、心臓が高鳴ってくるのを感じていた。
ゆっくりと、澄水人は鍵の束をジーンズの前ポケットにしまった。そして手を後ろへ回し、何かを探っている。足枷の代わりになるモノを取り出すのだろうか?
……今度は犬みたいに、首につけられるのか?
「……リード?」
そう訊くと、澄水人はフッと鼻で笑い、もう片方の手で俺の頬を触った。
「つけてほしいの?」
目を細め、楽しそうに訊いてくる。
俺は黙ったまま、恨みや憎しみがまったく読み取れない澄水人の顔を見ていた。二年前に戻ったかのような、まるで、別れた後から再会までの記憶がすっぽと抜け落ちたような、不思議な笑顔だ。
「じゃあ、今度用意しておきますね」と澄水人は穏やかな声で言い、取り出した何かを俺の胸の前に突きつけた。
胸元に視線を下げ、俺は「う…」と呻き、身を引いた。
銀色のバタフライナイフの先が、あと数センチで胸に刺さろうとしている。
「逃げたら刺してしまうかもしれない」
口元は笑みを浮かべていたが、奴の目は瞬きもせず食い入るように俺を睨んでいる。
ドクン…と心臓が跳ねた。
多分、澄水人は本気で言っているんだろう。俺が何か喋って、それが気に食わなければ簡単に、ためらいもせず、ただ腕を前に突き出して刺すのだろうか? 澄水人は、この不気味な洋館に俺を閉じ込めておくのに必死になっている。
なぜだ? 俺はおまえのモノだから──?
俺はおまえを偽物の愛情で縛り付けていたけど、おまえはこうやって恐怖で俺を縛り付けるんだな……。
俺の目的は金だった。
じゃあ、おまえの目的は? 閉じ込めて、どうするんだよ? 俺をモノみたいに所有して、それから何がしたいんだ? 俺を飾っておくだけで満足はしないだろう?
無防備に胸をさらけ出したまま、俺は澄水人を見つめ返していた。
「おまえは…どうしたら満足するんだ? 毎日おまえに犯らせてやればいいのか?」
唐突に訊くと、澄水人は一瞬で口元の笑みを引っ込めた。俺を睨んでいた目の力が弱くなり、表情が暗く曇った。
「そういうことを喋らないでほしいな。耳障りです、黙って。どうせ言葉なんて、もっと邪魔になってくる。多分、これから先、僕たちはケンカばかりするだろうから……」
「フン、よくわかってるじゃねぇか」
最後の台詞に俺は笑いそうになった。けれども、ますます雲っていく澄水人の淋しそうな顔を見て、小さく息をのんだ。
澄水人は、決して俺が屈しないとわかっている。金が無いのも、多分知っているだろう。それなのに、なぜ閉じ込めようとするのか。何の期待もしていないくせに、どうしてそんな顔をするんだ……?
まるで感情が感染したかのように、俺の胸の中に不安と淋しさが広がっていく。夕陽を見たときのような、この手に負えない感情が身体を浸していく感覚には耐えられない。
せめて、少しの間だけでも、愛してるふりをしようか……?
そうすれば、こんなに簡単に淋しさに感染しなくてもすむ。
俺は罪悪感と向き合わなくてもすむ。不安も感じないだろう。
「俺はバカ」「逃げなければ」「澄水人に償うべきだ」……頭の中でハッキリと言葉になっているものに「卑怯」が増えそうになった時、すぐに自分でそれを否定した。
卑怯じゃないなら、…同情……?
俺は自分の心の内側を覗こうと自分自身に問い掛ける。
……違う。同情でも、愛情でもない。
胸の中にある、さっき形になったばかりの小さな種。
これは一体何なのだろう……?
考え事をしている俺を、澄水人はモノの形状を確かめるような目つきで眺めていた。俺が反抗しようとしたら暴力で制して、おとなしかったら利口だと誉めるだけだ。俺の内面には無関心なのかもしれない。俺が何を考えようと、どんな意思を持っていようと、澄水人には関係が無いのだから……。
澄水人と言葉も心も通い合わせるなんて不可能に近い……そんな考えが、俺の中で動かしがたい確信へと変わっていく。
それでも、愛しているふりをすることを、俺は望んでいる。なぜだろう……?
枷はもう無い。身体は自由だ。
刺されてもいいから澄水人を殴り倒して逃げるか?
………それは…したくない。
俺はナイフの先を、握っている指先の爪を、手を、澄水人の淋しげな顔を見ながら、自分の抱く感情に戸惑い、疑問の答えと種の正体を探しあてようとしていた。
澄水人は俺を凝視している。
切れ長の鋭い双眸、形のいい赤い唇、白い頬、柔らかな金髪、俺の外側しか見ていない琥珀色の瞳……。
本当に、奇麗だと思う。俺なんかより、よっぽどおまえの方がコレクションに向いた美しい生き物じゃないか。
そう思ったとき、胸の中で突然種が弾けて、何かに全身を麻痺させられたような感じがした。
目の前で音がして我に返ると、澄水人がナイフを折りたたみ、ジーンズのポケットに入れていた。すぐに、何も持っていないその手がまた伸びてきて、俺の首の後ろを触った。
次に何をされるかわからない恐怖から全身が強張り、息が止まりそうになる。目を見開いたまま動けずにいると、澄水人が、
「先輩、行こう…」と小声で囁いた。
首にあった手が、肩を撫で、肘を触り、俺の手首を掴んで立ち上がるよう促した。
「待てよ、こんな格好のまま?」
俺は手を引っ込めると、澄水人を睨んだ。
「…嫌なら、裸になったら?」俺を見下ろした澄水人が意地悪そうに笑う。「ここには番犬しかいないのに、誰の目を気にするの?」
「…………」
俺の羞恥心は無視か。俺がイヤだと言っているのに。
澄水人は、こうやって話をずらしてしまう……。俺たちの会話はなかなかかみ合わない。言葉が言葉として機能していない。
俺はあきらめて怒るのをやめた。
「ああ…」と澄水人が何かを思いついたように呟き、ドレッサーとドアの間にある四枚扉のうちの一枚を開けた。中は俺が想像した通りクローゼットになっていて、澄水人はそこに手を突っ込むと白い毛皮のロングコートを掴み出した。振り向きざま、
「これ、先輩に似合いそうですね」と言って、俺の目の前でコートを広げ、腕を通せといわんばかりに着せようとしている。
「えっ…?」と俺は絶句した。「こ、これ…!?」
よく見ると、それは動物の毛皮ではなくフェイクファーだった。しかも所々、掌ほどの大きな斑点みたいな模様があって、それらは薄い黄色、ピンク、オレンジ、黄緑色などで着色されている。
ナニコレ?
センス悪すぎる……、絶対、澄水人のコートだろ?
嫌そうに眺めていると、
「早く、それを脱いで」と、澄水人に急かされた。
「……いい、遠慮するって。裸にフェイクファーって、変態じゃ…」
言い終わらないうちに、乱暴に皮を剥かれるようにバスローブを剥ぎ取られてしまい、「あ、ちょっと、テメー」とか言って反抗している間に無理遣り袖を通させられた。
「ほら、とってもよく似合う」と澄水人に後ろから肩を掴まれ、強引に押されてドレッサーの前に立たされる。
「黒髪によく映える…」
澄水人は鏡の中の俺を見て満足そうに言い、後ろから俺を抱きしめた。
嘘だー…… 俺、ヤだよ、こんなヘンな趣味のコート……
俺は、澄水人を振り払う気力も無くなるほど、鏡に映った奇妙な模様を眺め、それを着ている自分の顔を見た。
自分の人生の中で、こんな趣味の悪い格好をするとは、夢にも思わなかった。コートも澄水人もこの家も、みんな悪夢のような現実だ。……ああ、俺は倒れそうだ……けど、倒れない。背中に澄水人が、しがみついているからだ。
俺を拉致って脅したり繋いだりする澄水人が、鏡の中で幸せそうに笑っている。俺は脱力して黙って眺めている。日常から遠く離れてしまった不思議な光景だ。
澄水人はしばらく俺の首筋に頬をくっつけていたが、ふと顔を上げた。
「早くしないと、青い夜が来る」
意味不明なことを鏡越しに言って横に並ぶと、俺の手首を強く握った。
「痛い」という抗議に耳も貸さず、澄水人は俺を引っ張るように歩いて扉を開け、廊下に出た。
あれほど出たがっていた部屋の外へこんなに簡単に出られたのを、更に不思議な気持ちになりながら、立ち止まる間もなく階段を下り、長い廊下を歩かされた。
この家に来て初めて目にした時よりも少し落ち着いて周りを観察することができる。チョコレートブラウン色の板張りの床はよく磨かれているという感じがするのに、滑りそうで滑らない。飾ってある絵画のモチーフは花が多く、その中でも一番目立っているのが白と黒の大輪の花だ。それは屏風にも、死体でも入りそうな大きな壷にも、同じタッチで描かれていた。左右に置いてある木彫りの竜は、よく見るとそれぞれ二匹いて、長い腹をくねらせながら互いの身体に絡み付いている。
根拠は無いけれど、どこか死者のために用意されたような、副葬品みたいな感じがする。澄水人がこんな家を気に入り、暮らしているのが理解できない。
急に澄水人がドアの前で立ち止まった。
何だよ?と訊く前に、振り返った澄水人は口の前に人差し指を立てて、静かに、と無言で命令し、耳をそばだてた。
俺は首をかしげながらも、一体、このドアの向こうに何があるのだろうと耳を澄ませた。わずかにドアは開いていたが、中を覗けるほどの隙間は無い。カチャ……カチャ……と、一定のリズムで金属が触れ合うような音が聞こえている。それに合わせて、「……はぁっ…、はっ…、ふっ…、うっ…」と、息の漏れるような声が重なって聞こえる。
誰の声? 何の音?
俺は澄水人を見上げ、わざと顔をしかめた。どうしても俺に聞かせたかったのか、それとも単に澄水人が様子を伺いたいだけだったのか……。
軽く肩をすくめた澄水人はそれには答えず、もう行こう、というように顎で行き先を示し、俺を連れてドアの前から立ち去った。
一体何なんだ、この家は? この家には番犬以外に居ないと言っていたから、さっきのドアの向こう側に居たのはあの男なんだろうか? 男は何をしていたんだろう? 何も言わない澄水人の後姿を見ながら、手首を引っ張られてしばらく歩くと、澄水人がもう一枚別のドアを開けた。
そこはキッチンになっていて、鼻をつくような甘い香りがした。部屋の真中には銀色の調理台があって、壁にはガスレンジや大きな冷蔵庫、流し台や棚がある。何だか学校の調理室か理科の実験室のようだ。調理台が解剖台にも見えて怖くなり、掴まれている腕を自分に引き寄せた。
「怖いですか?」
澄水人が耳元で、からかうように囁いた。調理台から目が離せない俺は、どうして澄水人は俺の考えていることがわかるのだろうと不思議に思った。
「別に先輩をここで解剖しませんから」と笑いを含んだ声で澄水人が言うと、俺の手を引いて流し台の前を通った。シンクには、水を張った銀色のボールの中に、一抱えもありそうな花束の茎の先がつけてある。白くて大きな百合だ。顔を近づけてみると、毒のように甘い香りが一層増して、部屋に充満しているのはこの百合のものだとわかった。頭痛がしてきそうだ。澄水人は屈んで流し台の扉を開け、ゴミを入れる大きなビニール袋を片手で取り出すと頭上の扉を開けて、スナック菓子やポテチの袋、紙皿や紙ナプキンを掴み、俺の手首を掴んで放さないせいで手間取りつつビニール袋の中へそれを全部放り込んだ。
「手を放せば、簡単に入れられるのに」と皮肉を込めて言ってやると、澄水人は、
「駄目です」と静かに拒否した。その答え方があまりにも真面目な断り方だったので、俺は何だか面食らって黙り込んでしまった。
ポテチの横には、プロテインの袋が置いてあった。澄水人はそれを「フン」と鼻で笑って、ハエでも追い払うように指先で叩いた。
それは俺にはわからない行動で、プロテインがどうかしたのか? 何か恨みでもあるのか? と思っている間に、澄水人は缶詰やクッキーをビニール袋に入れ、また俺の手首を引いて冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターや缶ジュース、チーズやクッキーやハムの塊を取り出しては入れにくそうに片手だけで袋の中へと落とした。
それから澄水人は無言のまま、食料がゴチャゴチャに入った袋の口を手で絞り、持ち上げて肩に回した。その格好は、まるで生ゴミを背負ったサンタクロースのようだ。
「こっち」とだけ言って、澄水人はまた俺の手首を掴んだ。
空腹のせいか少し足元がフラつくのを感じながら、手首を引かれてキッチンを出る。行き先は本当に庭の見える部屋なのだろうかと考えた。広いリビングに入ったが、澄水人は無言でそこを突っ切って通り抜け、温室のような部屋に出たかと思うと、壁際の大きな窓に沿って歩き、突き当たりにあるガラス扉を開けた。
入ってみると、中には柔らかな光が溢れていた。そこは正面がガラス張りで、外の庭と空が一面に広がっていて、庭と建物がガラス窓で仕切られていると言う感じの部屋だった。
俺はしばらくガラスの向こうに広がる景色を眺めていた。なだらかな地面を這う芝生が続き、濃い緑の木々が横たわっている。あの林の向こう側には敷地の外へ出られる道はあるのだろうか。しかし、そんな考えがどこかに消えてしまうほど、俺の喧騒的な日常とは無縁の、とても静かな場所だ。木々の上には空を覆う灰色の雲と光の衰えはじめた午後の太陽があり、適度な孤独と落ち着きがある。日常を離れてどこかに行きたいと思う時、それはこういう場所かもしれない。
「座って」
機嫌の良い澄水人の声がして、現実に引き戻された。
部屋の真中には、細長い木のテーブルと、その周りに椅子が十脚ほど置いてある。澄水人は出入り口から一番遠い端の席に俺を座らせ、テーブルの上にビニール袋を置いた。そして、中からすべての食べ物を取り出して神経質そうに丁寧に並べると、椅子を寄せて俺の横に座った。
「この部屋は、夕陽が一番綺麗に見えます」
そう言って、澄水人はミネラルウォーターのペットボトルを取り、俺の前に置いた。
空腹のはずなのに、並べられた食物をざっと見ても、それほど食欲をそそられない。これから先、何があるかわからないから無理してでも食べて体力はつけておくべきだと、頭ではわかっている。
…食べようか……。
じっと菓子の箱を見つめて考えている俺に、
「もっと違うものが良かった? だけど先輩は、缶とか袋とかパッケージされたものしか安心できないんでしょう? せっかく用意した料亭の夕食も食べなかったし」と、澄水人が不満そうな声で言った。
「……恩着せがましく言うなよ」と俺は小声で反論する。何も食べていないせいか、声に力が入らない。「当たり前だろ、何が入っているか分かんねぇモンなんて食えるか」
「毒が入っているとでも?」
追求するような口調で訊く澄水人は無表情で、俺は何やら不吉なものを感じた。
「おまえ、…もしかして、学校の実験室からヘンなモン持ち出してないだろうな?」
途端に澄水人はバカバカしい、という顔をした。
「そんな必要はありませんよ。この庭には毒草や毒の実のなる木がたくさんありますから」
「…………」
毒殺の二文字が頭に浮かんで、じっと澄水人を見ていると、奴はふと顔をそむけた。しばらく庭に視線を放ち、
「もうすぐ夕暮れだ」と呟いた。
その言葉につられて、俺も窓の方を見た。
雲は何層にも重なっていた。分厚い灰色の雲の向こうに、白い綿を固めたような雲があって、大きな亀裂の間から薄い青い色をした空が見えていた。微かにその空の端がオレンジ色に染まり始めている。
このまま雲が晴れたら夕陽が見えるのだろうか。
夕陽は嫌いだ。
俺の嫌いな時間がまたやってくる。イヤな思い出しかない。
今もまたまた一つ、増えつつある。
俺は真っ裸の上にヘンなコートを着て、奇妙な家の一角の部屋から庭と空を眺め、横にはナイフを所持している澄水人が、俺を逃がすまいと出入り口への通路を塞ぐように座っている。
本当に元気が無くなると腹に力が入らなくて、大きな溜息すらつけない。俺は視線を戻して、まだ外の景色を眺めている澄水人を見た。
陽があたっている金色の髪も、眩しそうに細めた目も、何も言わない唇も、柔らかな光の中にいるのがふさわしい美しい生き物みたいに、そこに存在している。
俺は見とれているのか、それとも呆れているのか、自分でもわからなくなってきていた。
そして、澄水人を眺めているうちに、俺の本能が、『食え』と囁いた。
────『食え』 『食え』
頭の中が命令に支配されていく。食べて体力をつけておくべきだ、と俺は思い直した。
「これ、食っていいか?」
クラッカーの箱を指差すと、それを見た澄水人が、
「それだけ食べるんですか?」と訊き返した。「チーズを乗せて食べましょうか」と、ビニールでパッケージされているチーズの塊を掴んだ。頭の中に嫌いなチーズの匂いが再生されて思わず顔をしかめてしまう。
「……、俺、チーズ食えねぇし…」
澄水人は俺の嫌いな食べ物を知っているはずだ。無理やり食わせる嫌がらせでもするつもりなんだろうか?
「大丈夫、先輩が食べられるクリームチーズですから。苺の果肉入りで甘いです」
「……そりゃ、どーも……」
湧きかけた怒りが途端に消えていく。俺を脅すわりには、こういう所で気を使っていて、一段と居心地が悪い。
澄水人は少し腰を浮かせてジーンズのポケットからまたバタフライナイフを取り出した。ぎょっとして身をすくめる俺を無視して、澄水人は紙皿とプラスチックのフォークを並べ、チーズやハムの包みを器用に破って、中身を均等に切り分け始めた。随分とナイフの使い方に慣れているように見え、ますますヤバイ奴だと感じた。
「何だよ、その丸くて茶色いのは?」
ハムかと思っていたものは切り分けられた断面が茶色くて、見たことも無く、何という食い物なのか見当がつかない。
「これですか? ハムです」
「…………」 …ほんとかよ?
「ああ、…」と澄水人は少しだけ微笑を浮かべて、「亜硝酸塩という発色剤を使っていないので、こういう色をしているんです」と丁寧な感じで説明をした。
「……添加物?」
「そうです。身体に悪いといわれる食品添加物を先輩に食べさせるつもりはありません」
そこまで気を使ってくれてるのか…、と何だかありがたいような妙な気持ちになりかけたとき、
「たかが食品添加物のくせに、先輩の内臓を汚すなんて許さない」と怒ったように澄水人が呟いたので、俺はそれ以上何も言えなくなった。
夕陽が窓から差し込んで、部屋の中のあちこちに淡いオレンジ色の光が散らばっている。嫌な色だ。どこへ視線を移しても目に入ってくる。気をそらそうとしてミネラルウォーターを飲むと、忘れていた空腹感が胃に甦ってきた。
紙皿の上に食べ物が一つ二つと増えていく。その食べ物の匂いが更に食欲を刺激した。
「どうぞ」
澄水人が丁寧な口調で勧めたにもかかわらず、お預けを命令していた犬に向かって許可するような感じに聞こえたので少しムッとしていると、澄水人は俺におかまいなしに先に食べ始めた。背筋を伸ばし、目の前にあるのはフルコースのディナーかと思うほど上品に食べている。空腹に負けてフォークを手にすると、ハムを一切れ口に放り込んだ。
「美味い…」
思わず呟くと、澄水人がこちらを向いて嬉しそうな顔をした。俺は微笑み返すことも、何か礼を言うこともできなくて、見つめられる恥ずかしさから視線を手元に戻した。
ハムを飲み込むと食欲がわいてきて、俺は手と口を忙しく動かして食べ始めた。
俺たちはずっと無言だった。澄水人はそれほど食べずに俺を見ていたが、俺は視線を合わせないようにして、体力をつける為にひたすら食べ続けた。苺のクリームチーズはアイスクリームのような淡い色をしていて果肉も大きく、食べている間だけ幸せを感じるほど美味かった。そう言えば、このところあまり豊かな食生活を送っていなかったな……。借金を返すとなると、もっと貧乏な暮らしになるだろう……。こんな美味いモン、食えるのかな……?
ふと見ると、また澄水人は嬉しそうにこっちを見ていて、俺は気まずい思いにかられ、紙皿の食べ物を黙々とつついた。
やがて満腹になり、椅子の背にもたれると、流れる雲の速さに目を奪われて、形が変わっていく様を眺めていた。
太陽は雲の向こうに隠れ、室内が少し暗くなっている。何の照明もつけないせいで、部屋は薄い青色に包まれ始めた。もうすぐ夜がやって来る。
ああ……、と俺は一人で納得した。だから、青い夜なのか。
おまえの言葉には、ちゃんと意味があったんだな。
そう思って澄水人を見ると、奴は紙ナプキンを使って熱心に、というか、一心不乱にナイフの刃を拭いていた。
「月が見えるかもしれない」手を止めた澄水人が顔を上げて呟いた。「見に行こう」
思いついたように、ナイフをしまって澄水人が立ち上がる。
外へ出るのか?
心臓がドクンと高鳴る。
本当に、外に出るつもりなのか?
そう訊く間もなく強引に手首を引っ張られ、その痛さに思わず立ち上がると椅子が床と擦れて音を立てた。
「おい、痛いって……」
「早く!」
待ちきれない子どもみたいに歩き出した澄水人が、ガラス扉を開く。その途端、澄んだ外の空気が流れ込んできて顔を撫で、髪を梳いた。俺は夢から覚めたような感覚にとらわれながら目を見開き、湿った緑の匂いのする空気を吸い込んだ。
肺に染み渡り、五感が浸されていく。心臓がまた高鳴り始める。
外だ、外に出られる!
喜びを感じたのも束の間、澄水人が俺の手首をぎゅっと握り直し、無言で俺を威圧した。
さっきから何度も強く握られた右の手首が痺れてきている。多分、俺が右利きだから、反撃を封じるために右手ばかり掴んでいるのだろう。
今のところ逃げ出す気は無いが、どうせ信じてもらえないだろうから、「逃げないよ」とは言わなかった。あと数歩歩けば外へ出られる薄暗い部屋の端で、俺たちは互いの瞳の奥を無言で覗きあっていた。
やがて澄水人は視線をそらすと、俺の手を引いて外に出た。
あれほど渇望した建物の外を、庭を、芝生の上を、俺は歩き出す。
頬に風を感じ、足の裏に芝生の柔らかさを感じながら、もうすぐやってくる夜の言いようの無い不安を胸に感じながら、澄水人の握力と熱を手首に感じながら、俺は黙って引っ張られるまま歩いた。
庭は色を失いはじめ、夜の闇が少しずつ地上に降りてきている。さっきのが青い夜なら、これは黒い夜だとか言いそうだな…と考えていると、澄水人が、
「黒い夜が来る」と独り言を呟いたので、俺は頭の中を覗かれたんじゃないかと一瞬だけだが本気で怯えた。
ふと、澄水人が立ち止まって振り返り、空を仰いだ。
「今夜は満月だ」
つられて見ると、黒い影になった建物の上に白く丸い月が浮かんでいる。辺りは静かすぎて、二度と浮上できない夜の底に沈んでいくような眩暈を感じた。巨大な闇に押しつぶされてしまう……そんな恐怖を感じ始めたとき、俺の手首を掴む澄水人の力強さと温もりに安堵している自分に気づいた。
「今頃きっと、あそこで番犬が泣いてるな」
冷たい感情しか含んでいない声で澄水人が呟く。
「は?」
意味がわからねぇ、と俺が首を傾げると、澄水人がいたずらを思いついたように唇の端だけを上げて笑った。
再び澄水人が歩き出す。どこへ行くともわからず、澄水人に目的があるのかどうかも知らないまま、月明かりだけが照らす庭を黙って歩き続ける。二年前、俺に引っ張り回されていた澄水人も、夜の街を徘徊しながらこんな不安な気持ちだったのだろうかと俺は考えていた。
なだらかだった地面が、いつの間にか斜めになって登り坂になっている。先を歩いていた澄水人が立ち止まり、横に並んだ俺をじっと見つめた。ここから先は静かに、というサインらしい。澄水人は足音を立てないよう大きな木の側までゆっくりと歩き、俺を引き寄せて影に隠れた。
澄水人の視線の先に、白い塊があった。目を凝らしてよく見ると、外国の墓地にあるような形をした墓石だった。もしかしてあれは…、と考えていると、
「母の墓です」と、澄水人が小声で言った。
頭の中で、ある程度は予想していたことだ。後悔する事や、それとは反対に、目の前に存在するあの墓は本物なのかと疑う事すら疲れてしまっている。言葉のピースで埋められていくパズルが完成したとき、それが本物なのか嘘なのか、俺にはわからない。
澄水人は口元をきつく結んで墓を睨んでいる。墓に視線を戻すと、何か黒い塊がゆらゆらと動いた。
息を飲んで声が出そうになったが、咄嗟に澄水人の掌で口を塞がれた。
黒い塊は縦に伸びて人の形になった。あの男だ、と俺は思った。澄水人が番犬呼ばわりしていた男が、墓の前で両膝をついて跪き、その祈りの格好から立ち上がったのだ。
男はしばらくうなだれて墓の前に立っていたが、やがて顔を上げ、踵を返して歩き出した。男が視界から消え闇に紛れてしまうまで、俺たちはその場を動かなかった。そして、どちらともなく二人揃って墓の方へと歩き出した。
キッチンで嗅いだ甘い匂いが辺りに漂っていた。墓の前には百合の花が活けてあり、白い石膏のような墓石に二年前の西暦とSAYAKO
UKIFUNEという文字が刻まれているのが読めた。俺は黒い空を見上げて月を探した。満月は意外と明るいものだ。
澄水人は瞬きもせずにじっと墓を睨みつけている。
これは澄水人の母親の墓なのだろうか? だとしたら、コートの下は全裸というこんな格好で立っているなんて、なんて不謹慎なんだろう。
「いつか番犬が、墓の前で何かすると思って時々覗いているんですけどね」
澄水人は視線を動かさず、説明するように言った。声には男に対する侮蔑と嫌悪感が混じっている。覗くというハシタナイ行為を平気で口にするほど、心底、あの男が嫌いらしい。
「あの人は、この花を捧げてただけだろ」
「母が亡くなった日は満月だったから、満月の夜には必ずここに来る。今でも母に好意を抱いているなんて、気持ちが悪い」
澄水人は吐き捨てるように言った。こんな感情を抱えたまま男に接しているのだから、機会があればまた男を殴るつもりなんだろう、と俺は感じた。
「だからっておまえ、あの人が、ここでオナニーするとでも思ってんの? わざわざ墓の前ではしないだろ?」
「…………」
珍しく澄水人が言葉に詰まっている。言ってしまった後で、とんでもない格好をしながら、更に不謹慎なことを言ってしまったと反省した。
男が自分の母親に好意を抱いているのが許せない気持ちはわかるが、それは誰にもやめさせられないし、仕方の無いことだ。澄水人はどうしても男が許せないらしい。男に対する暴力の酷さは普通じゃない。そういえば、男を殴ったとき、『いつまでも死人の為に筋トレしやがって…』と意味不明のことを言っていたが、さっき、ドアの前で立聞きしたあの音と息使いは、男が部屋の中で筋トレしてたんじゃないだろうか? 金属の触れるようなカチャカチャという音は、プレート(錘)をつけてバーベルを上げ下げしている時の音に似ている。キッチンにあったプロテインも男が飲んでいるものかもしれない。身体を鍛える目的がよくわからないが……。
男の想いが深ければ深いほど、澄水人は男に対して嫌悪し、男はより強い澄水人のサンドバッグになる為に筋トレしているのだろうか。
親の恋愛なんて子どもの思いの届かないところで勝手に展開していくものだ、それが納得できない澄水人が、急に幼く見えた。
バカだなおまえは……。自分と切り離して考えれば楽になるのに。
そう考えて、俺もバカだからエラソーに言えないと思い直して、このことは澄水人に話さず黙っていようと思った。どうせ話したところで理解しようとしないだろうし、屁理屈をこねて男に八つ当たりでもされたらたまらない。
「寒くありませんか」
澄水人が話題を変えるように訊いてきた。
「少し。裸足だし」
こんな格好にさせたのはおまえじゃないかと抗議も含めて答えると、
「じゃあ温かいところへ行きましょう」と澄水人が微笑んだ。「少し湿ってますけど」
「どこだよ、それ?」
「緑の中」
「はあ?」
「空調もカウチもある」
「…かうち?」
「ベッドのように寝られる椅子のことですよ、寝椅子」
その言葉を聞いて心臓を掴まれたように驚いたが、澄水人はそれ以上何の説明もせず、また俺を引っ張って歩き出した。鼓動が収まらない。呼吸が浅くなって、息苦しい。
……俺たちはそこへ行って何をするんだ?
暗い森の外側に沿って歩き、やがて視界にぼんやりとしたものが見えた。
俺の住んでいる小さなアパート一件分ぐらいの、球体が半分になったようなガラス張りの建物だ。植物が詰め込まれたように生い茂っている様子が影となって、外からでもわかる。
澄水人は何も言わずにガラスのドアを開け、先に俺に入るようにと促した。背後でドアの閉まる音がして、二人きりになって外部から遮断されると、余計に息苦しさを感じる。妙に湿った生暖かい空気と植物独特の濃い匂いが鼻をつく。床は土ではなく、つるつるした冷たい石が張ってあった。小さな水音に気づいて中央を見ると、三段重ねの丸いケーキのような噴水があり、その横に、澄水人が言った通りの籐の寝椅子とガラステーブルがあって、あちこちに鉢植えの植物が置いてある。光源はどこだろうと上を見上げると、天井もガラス張りになっていて、流れる雲を従えて見下ろすように満月が輝いていた。
不意に後ろから抱きしめられて、俺は小さな驚きの声を上げた。
「な…、なんだよ? あんまりひっつくなって!」
澄水人はいっそう強く力を込めて無言で反抗した。
心臓が痛い。息苦しい。耳たぶに澄水人の唇が触れて、
「毒草ばかりの温室ですよ」と溜息のように囁かれると、背中から首に悪寒が走った。俺の胸の前で交差してしている澄水人の腕に、心臓の高鳴りが伝わりそうなほど息苦しい。深呼吸してあらためて周りを見ると、それほど毒々しい形ではなく、どこにでも生えているような木が大きな鉢に植えられ、壁際にずらりと並んでいる。小さな鉢にも花が咲いていて、とても毒草には見えない。
「あそこに座りませんか?」
澄水人が寝椅子を指差した。
「…な…んで、…あんなのが、…置いてあるんだよ?」
心臓の鼓動に邪魔されてうまく喋れない。
「時々、ここで昼寝をする為に」
落ち着き払った声で澄水人が答え、俺に回していた腕を外して前に回り込んだ。
幸福そうな笑顔が、見上げた目の前にある。
なぜそんなふうに笑えるのか、俺にはまったくわからなかった。頭の中が混乱しはじめた時、澄水人が丁寧な仕草で俺の手を取った。
現実離れした夢に誘われるように、俺は手を引かれて寝椅子の方へと歩き出した。
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