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奇譚小函―きたんこばこ―

R-18 二次創作テキストサイト

俺屍サマナー

BURNING DAWN


手も足も出せずに蹴散らされ、継承刀を折られ若葉を奪われた苦い敗北の記憶はまだ新しい。
その圧倒的な力に対する恐怖と不安とプレッシャーに息が詰まり、手足の先から震え出しそうになるが、灯代は内心の怯えを押し殺して闘志を奮い立たせる事に努めた。
だがあの時とは違う――後ずさるわけにはいかない、背後には若葉がいる。
陣内が手ずから思いを込めて鍛え直し、より強靭さを増して甦った紅蓮踏鞴がこの手の中にある。
気迫負けするまいと、灯代は蒼乃祇宗主・煉の硬質な眼差しを真っ向から見据える。
日生と捨丸の陥穽に嵌り、煉の衣服は所々焼け焦げているが、たいしたダメージを負っている様子ではなかった。
異界と重なり、淀む色彩の街中で、二対一の戦いが始まろうとしていた。

「彼女が命懸けで稼いだ時間、無駄にするわけにはいかない」
「はい、福郎太様の封印が解ければきっと若葉ちゃんを守ってくれます、後は私達が彼を迎撃するだけ……」

女子高のブレザー姿で刀を握る灯代の傍らには、薙刀を構えた刃曜が立っていた。
強面に残る痣や袖口から覗く包帯が痛々しく、手負いの野獣を思わせる。
煉に襲撃され、鎮守ノ福郎太ともども刃曜が重傷を負わされた時、彼と若葉は互いの弱みである存在だと見た煉の手によってその身に死の呪印を受けた。
そして、綾人に破れた後、虎視眈々と情報を集め、仲魔と共に一矢報いる準備を整えていた日生は刃曜の受けた呪いについても調べをつけていた。
刻一刻と刃曜を蝕むこの呪いを解くには、呪印を刻んだ煉本人の血が必要だと日生から聞かされ、灯代は戦慄とも武者震いともつかない震えを隠せなかった。
すなわち、若葉を奪返するだけではなく、煉との再戦は避けられない筋書きだという事を。

「……やはり、綾人を足止めする役目は俺の方が良かったかも知れないな、君の仲魔ほど良い相棒役は務まりそうもない」
「そんな、私から陣内様にお願いしたんですよ、せっかくだから刃曜さんの薙刀捌きを見てみたいって」

共闘が初めてにも拘らず、すでに戦友同士といった雰囲気の二人の軽口は不安を和らげるためか。
それを打ち切るように煉が口を開いた。

「綾里に代わって、近栄のサマナーへの非礼を詫びよう」

彼を先程まで足止めしていた日生の事を急に持ち出され、その意味を図りかねて刃曜と灯代は怪訝な表情になる。
綾人に襲撃された傷は大方回復したような素振りだったが、時間稼ぎとはいえ煉を相手にした彼女は果たして無事なのか、灯代は内心気がかりだった。

「彼女の戦いぶりは見事だった、敵わないと知りながら君達のため時間を稼いだ…… 最後まで」

煉の言葉尻に込められた不穏な響きに、灯代ははっと眼を見開いて唇を噛んだが、刃曜は眉一つ動かさなかった。

「ハッタリはやめろ、お前がもし彼女を倒したなら生死に関わらず連れて来て、俺達を動揺させるため利用するはず……
 あの子はお前に一杯食わせて下手を打つ事なく離脱した、俺はそう信じる」

刃曜の冷静な状況判断は、横の灯代に言い聞かせるためでもあった。
それに納得して落ち着きを取り戻した灯代は、先鋒を務める日生の身を案じて「私としては君が熱くなり過ぎないかが心配だ」と苦笑混じりに言われた事を思い出し、気を取り直して煉に訊ねる。

「一応聞いておきますが、刃曜さんの呪印を解いてくれるつもりはないんですよね」
「……もしその気なら、わざわざこんな舞台に上がる事はないよ、鬼首のサマナー」

無論灯代の方も良い返事を期待していたわけではなく、これから命のやりとりをする敵への最終通告代わりだった。
肌を粟立たせるような一触即発の雰囲気が異界の街に立つ三人を包む。
氷魚家の因縁をめぐる戦いの勝敗も生死も、この長い夜が明けるまでに分かたれるだろう。

「灯代、くれぐれも用心して戦ってくれ」
「大丈夫です、それに私だって鬼首家のサマナーですから!」

刃曜に答え、灯代が継承刀の鞘を払うと燃え上がる炎のような刃紋が月明かりに輝いた。
日生や刃曜さえも遠く及ばなかったこの男は、未熟な灯代が手札を出し惜しみして勝てる相手ではない。
なりふり構わず食らい付くぐらいの思い切った意思が必要だった。

『――我が眼に灯れ、我が手に熾れ、我が血と息に燃えよ鉄火!』

灯代の叫ぶ言霊が鍵となり、紅蓮踏鞴に秘められた力が解放される。
鍛冶神が刀に与えた新しい力、使い手の意思に応じて命無き鉄に血を通わせ、自在に変化させる力が。
その形状は日本刀ではなく、遺跡の奥深くから出土された古代の銅剣を思わせる意匠に変化していた。
幅広の刀身に、何かの碑のように刻まれた神代の銘文が微かな光を放ち、鼓動するようなリズムで明滅している。
輝く銘文の意味は使い手の武運を願う祝詞か、それとも斬る相手への弔いの文句か。

「面白い! その剣で何が守れるか、見せてもらう!」

剣の変化に臆する気配すら見せず、煉が地を蹴り一気に肉迫してきた。
継承刀の力の片鱗である炎を右目に宿らせ、灯代は刃曜の前に出て煉を迎え撃とうとする。

「せいッ!!」

気を巡らせ硬化させた木刀が振り下ろされる。
一度は紅蓮踏鞴を砕いたその攻撃を――灯代は刀身で受け止めた!
咄嗟の事とはいえ、あえて同じ轍を踏む灯代の行動だったが、煉の眼に驚きが走る。
灯代の『思い』を形にした刃は煉の一撃に耐え、力負けする事なく押し返した。

(……この刀は、使い手の思いの強さによって姿を変える。 灯代、お前の心が刃を造り出すのだ)

紅蓮踏鞴を生まれ変わらせたタタラ陣内はそう言っていた。
煉の技量に対抗し得るかもしれない可能性に賭け、陣内が継承刀に託した新しい力。
思いが強ければ強いほど威力を発揮するが、逆に灯代の心が恨みや憎しみといった負の感情に囚われれば刃は曇り、鈍ってしまう。
使い手の灯代が挑発や揺さぶりに暴走しないよう、陣内は自分が綾人の相手をすると決め、灯代は若葉を煉から守る役割に専念させた。

(『タタラ』とは、炉の中に風を送り火を燃やす装置の事だ。 紅蓮踏鞴はお前の力を引き出し、お前の魂を燃やして更なる力とする)

紅蓮の炎が燃える灯代の右目は、神速で繰り出される煉の二の太刀を見切り、紙一重で回避する。
目にも留まらなかった煉の太刀筋が今ははっきりと見える、どこを狙っているかが分かる。
踏鞴によって炉の炎が勢いを増すように、紅蓮踏鞴を手にした灯代の身体能力も飛躍的に上昇していた。
そして強敵という向かい風は灯火を吹き消すどころか煽り、一層激しく燃え上がらせた。

「食らえッ!!」

灯代の手元から光が迸るように刃が走り、紅蓮踏鞴の狙いすました一撃が煉の胴部を襲う。
以前とは段違いに速い剣先を片手の木刀で受け流し、もう片手で印を結ぶ。
かつて灯代を木端微塵に吹き飛ばしかけた時と同じ、原初の火を煉は詠唱無しで発動させた。
殆ど零距離で超高熱が膨れ上がり――しかし炸裂しない、組み立てを省いたがための不発か!?

「生まれ変わった紅蓮踏鞴に、同じ手はもう通用しない」
「……なるほど、タタラ陣内とやら、良い仕事だな……!」

灯代の手の継承刀は、放たれるはずだった高熱を吸い込んだように刀身が赤熱している。
同じ火の属性を持つあの剣が魔力を吸収したと瞬時に見て取り、煉は火の加護を源とした術を封印せざるを得なくなった。
敵に塩を贈られる形となった灯代は、紅蓮踏鞴に溜められた煉の魔力をそのまま撃ち返す。
その威力を誰よりも知っている煉は息をつく間もなく同じ術を掌から放ち、後ろに跳んで建物の影に転がり込む。
爆発を爆発で相殺したこの防御法に、入り組んだ迷路じみた周囲の建物が二重の爆発に巻き込まれて吹き飛び、炎上し、瓦礫の山を作る。
炎と熱波の余波から逃れた煉だったが、背後に迫りくる灯代とは別の殺気に気付いた。

「!!」

視界を遮る濃い粉塵の中から飛び出してきた影は刃曜だった。
闇の光刃と銘打たれた薙刀が、唸りをあげて振るわれる。
広く薙ぎ払うその初撃に、前方の空間にあったものは全て上下に両断されていただろう。
この大振りな攻撃を煉は身を翻してかわしたが、そうするだろうと刃曜も灯代も読んでいた。
前後から殺到する白刃を、煉は驚くべき身の軽さで真上に跳んで逃れた。
突き出される刃先を蹴ったその勢いで宙返りし、刃曜の頭上を飛び越え彼の背後をとる。
既にヒビの入った肋骨を狙って下から振り上げられる木刀をすかさず薙刀の柄で防ぎ、一瞬遅れて向き直った刃曜と煉の視線がぶつかり合った。

「命に食い込む呪印を受けてここまで動けるとは、さすがは氷魚当主の守役だ」
「自分の命の心配でもしていろ……若葉を傷付けた貴様を生きて帰す気はない!」

若葉を守るため孤軍奮闘してきた刃曜は、一人で多数の敵を相手取るための得物として薙刀を選んだ。
うかつに間合いに踏み込んだ者をことごとく闇の光刃の餌食にしてきた刃曜は、一度は煉に遅れを取りはしたものの、今は長年の実戦経験で培った有利な間合いの中で渡り合っていた。
彼の従妹である若葉や、手合わせした事のある日生からその腕前を聞いていた灯代だったが、間近で見る刃曜の流れるような技の冴えはそれ以上だった。

「二対一だが卑怯とは思わない、覚悟してもらう!」

灯代の継承刀と刃曜の薙刀が振るわれるたび、薄闇に赤く光る軌跡が描かれる。
その斬撃の軌跡を、文字通りの死線を絶妙な体捌きでかいくぐりながら煉は二人を相手取る。
剣の応酬にシャツの布地が所々裂け、僅かに血を滲ませていたがいずれも浅手だった。
若葉を浚い仲間を害した憎い相手とはいえ、同じヤタガラスに属する者に刃を向ける事に、気が咎めないと言えば嘘になる。
ヤタガラスの表向きの任務を承る灯代と、きれい事では済まない裏仕事でその手を血に汚していた蒼乃祇。
少し運命が食い違っていれば、自分と彼等の立場は逆だったかもしれないのだ。
しかし灯代の心に同情はない、ましてその刃に躊躇はない。

(倒さないといけない! 若葉ちゃんを、刃曜さんを助けるために!)

灯代はここぞとばかりに追撃の速度を速め、怒涛の乱れ斬りで煉を追い詰めようとする。
嵐のような丁々発止の駆け引きに隙を見出そうとするさなか、そのバランスの一角が不意に崩れた。

「ぐ、ぅ……!!」

蒼乃祇の血による呪詛が、刃曜を内側から食い荒らそうと暴れ回る。
傷も癒えない身体に鞭打って戦っていたが、気力で抑えられる限界を迎え、ついに刃曜の薙刀が煉の木刀に弾かれた。
その顔には尋常でないほどの冷汗が滴り、顔色は既に死人のものだった。
得物を失った不利からくる焦りではない、呪印の侵食が命に関わる段階に達しているのだ。

「刃曜さん!?」
「君はそいつにだけ集中しろ! 俺の事は考えなくていい!」

二対一でかろうじて持ち堪えている戦況だというのに、灯代が一人で煉の相手をすればどうなるかは目に見えている。
刃曜は傷ついた身体から無理矢理に魔力を捻出し、灯代を援護しようと袖口から呪符を抜き出す。

(せめて一瞬でも奴の動きを止められれば!)

煉に隙が生まれれば、糸のようにか細い勝機をわずかでもこじ開けられる。
白刃が乱れ飛ぶ中、死角からの魔力の気配を感じ取った煉が左手を素早く払う。
刃曜が掴んだ呪符の束は、手から離れる前に煉が放った炎で焼き払われた。

「くっ!!」

煉は一息で刃曜の側まで間合いを詰め、鍛えようが無い急所の一つである喉を『気』を込めた掌底でしたたかに打った。
身体ごと地面に叩き付けられた刃曜に煉はさらに追い討ちをかけようとする。
その背に灯代が追いすがり斬りかかろうとしたが、煉は後ろを振り向きもせず片手だけで、殺気に満ちた木刀の切っ先を継承刀を振りかぶった灯代の喉元にぴたりと向けた。
膠着状態の中、二人を抑える煉が場違いなほど静かな口調で訊ねる。

「氷魚の当主はどこにいる、どこに隠した」
「誰が言うか! たとえ死んでも私達が教えると思うの!?」

喉に掌底突きの直撃を受け、喋るどころか呼吸もままならない刃曜に代わって怒鳴ったのは灯代だった。
断固拒絶する態度に、煉は言い返すでもなく刃曜から背後の灯代に視線を移す。
凍った湖面を思わすその眼はなおも冷静を保っているが、それゆえに逸脱したある種の狂気を灯代は見た。

「何も殺すまではしないが、そうだな……身内と友人が痛めつけられる様を見れば、彼女の方から出てきてくれるかも知れないな」

煉の台詞に灯代は顔色を変え、反射的に継承刀を振り下ろした。
片方は木刀にも関わらず、ギィン!と鋼同士が弾き合うような鋭い音が響き、灯代の紅蓮踏鞴の鍔が欠けて破片が散った。
狼狽を隠せない灯代に向き直った煉は呼吸を整え、得物を青眼に構え直す。
その身のこなしも太刀筋も連戦を経て鈍るどころか、戦うほどに一層切れを増していた。
あらゆる命に恵みをもたらす日輪の加護は、煉の中の活力を無限に引き出し続ける。
命を育み傷を癒す『水』の要素に長じた煉自身の素質も相まって、負傷や疲労に対する回復力も常人離れしていた。
それを知る由もなく、気力も体力も限りがある身体で対している灯代は、いまや崖っぷちに追い込まれていた。
紅蓮踏鞴に力を引き出された反動で、急激に消耗した身体でなおも煉ほどの強者と張り合うなら、残された手段は一つしかない。

「陣内様……私にもっと勇気を下さい、私の剣に今一度力をお与え下さい……!」

この場にいない仲魔の名を口にする事で、勇気を奮い立たせる灯代の魂に呼応した刀身の銘文が、炉の中で燃え上がる熾火のように眩しいほど赤く輝く。
『思い』の力に上乗せするように、自らの生命を削り燃やした力を紅蓮踏鞴に注ぎ込み、灯代は破れかぶれの賭けに出た。

「やああぁぁぁ!!」

紅蓮踏鞴と、煉の木刀が至近距離で噛み合う。
刀身ごと相手を断たんとする危うい力の拮抗に、互いの刀と腕が不穏に軋む。
一進一退の攻防に見えるが、絶え間なく生命力を吸い上げられる過負荷に灯代の全身の細胞は悲鳴を上げ、心臓は破裂しそうだった。
だが退く事はできない、灯代が敗れれば身を守るすべのない刃曜共々、煉に利用され若葉をおびき寄せる材料にされてしまうだろう。
唯一こちらに勝算があるとすれば、仲間の存在だ。
戦い続けていれば、もしかすると逃げ延びた日生が救援に来てくれるかもしれない、あるいは綾人を倒した陣内とあすかの合流が間に合うかもしれない。
それが決してあてにできないちっぽけな希望でも、灯代は命までも燃やし尽くし、今やれるだけの事をやるしかなかった。

「君はここまでよくやったよ、わざわざ生き急ぐ事はない」
「見くびらないで……!『よくやった』? そんなのは私が決める事だよ!」

炎が揺らめく灯代の眼は、退路を捨てた者だけが持つ煉と同種の狂気を帯びていた。
どれほど勢いよく燃えようとも、鍛冶の炎は所詮は人が制御できる範疇の炎、人の力など及ばぬ太陽の輝きの前ではちっぽけな灯火にすぎない。
すでに勝ち目は無いにも関わらず死に物狂いで食い下がる灯代のあがきは、煉の目には消える間際にひときわ大きく燃える蝋燭の火と映っただろうか。

(まだ……まだ倒れるわけにはいかない! もう少しだけ……!!)

鍔競り合いのさなかに、臓腑を灼かれるような感覚に襲われ、煉は呻き声を噛み殺した。
日輪の女神との契約の証、身体に刻まれた呪印の加護が薄れている。
捨丸と日生の文字通り捨て身の戦法で、呪印に受けたほんの小さなかすり傷。
戦いの最中、その傷口にヒビが入った事で、煉は一つの呪印を分け合った片割れ――綾人の敗北を知った。
今亀裂のように広がりつつある傷から、人の身には抑えきれない力が溢れ出し煉自身の身体を蝕む。
若きサマナー達と仲魔の決死の総力戦が、煉をここまで追い詰めていたが、それよりも灯代が力尽きる方が早そうだった。
折りしも長い夜が明け始め、目も眩むような不吉な朝焼けの光が雲を紅く染めていた。

「 ――灯代ちゃん!! 」

全ての気力を使い果たして倒れる間際、灯代はよく知ったその声を確かに聞いた。
喉を震わす叫びに顔を上げた煉は、眩い暁の空が砕け散る様をその目で見た。
異界の境目が突き破られ、ガラスのように砕けた空の破片が朱色に輝きながら、白い羽毛と入り混じって乱れ散る。
そこから飛び出してきた新手を、煉は見据える。
雪のように白い猛禽の翼は片方が無惨に折れ、所々血に染まっていたが、なおも力強く羽ばたいていた。
蒼乃祇に破れ、異界に封印されていた氷魚一族の守護者・鎮守ノ福郎太と、その腕に抱えられる召喚主・若葉の姿があった。
若葉が自身の魔力で作り出した弓を引き絞り、放つと上空から光の矢が無数に降り注ぐ。
矢は倒れた灯代と刃曜を囲むように地面に突き立ち、二人を守る結界となった。

「もうやめて、紅煉さん……!」

もはや知る者は綾人を除いてほとんどいない『紅煉』という真名で呼ばれても、煉の心は動かなかった。
着地した若葉の手から弓矢は消え、代わりにアイヌの巫女が持つ守り刀があった。
青白い霊気を帯びたメノコマキリを握り締める若葉の眼は、散々泣き腫らしたにもかかわらずいまだ涙を湛えていた。
その翠色の瞳に浮かぶ感情が、拉致者に対する恐れや怒りとは明らかに違うものだと、灯代の意識があれば気付いただろうか。

「こんな事になって、本当にごめんなさい……本当に、ごめんなさい、私のせいで綾里さんも、皆も……」

深い悲しみと自責の思いに苛まれ、若葉は泣き出しそうに声を震わせる。
短刀の構えこそ一人前だったが、『敵』と相対した時の肌をひりつかせる殺気は、煉にはまるで感じられなかった。

「……君は優しいね、でもそれだけじゃ誰も守れない」
「どうしても他の道がないなら……そうするしかないなら、私はあなたを倒して刃曜を守る! 灯代ちゃんを、みんなを守る!!」

自らの運命を選ぶ事も、ましてそのために他者を傷付ける事など出来なかった少女が、初めて剣を振るう覚悟を決めたのは、何に代えても失いたくない愛する者達のためだった。
その切っ先を向ける相手が、自分と同じくヤタガラスに利用され、氷魚のため贄として死んでいくよう仕立てられた人間だと知りながら。
自分の与り知らぬ所で誰かの人生を食い物にしていた事実は、例え第三者が仕組んだ筋書きだとしても、心優しい若葉に耐えられるものではなかった。
あまりにも残酷な選択を迫られ、押しつぶされそうになりながらも、氷魚家当主・若葉は悲愴な決意で仲魔に呼びかける。

「福様、お願い……力を貸して下さい!」
「もとより俺の力は氷魚一族を守るためのもの! 俺の全てはお前の望みのためにある! 若葉!」

忠実な守護者は主の命に応え、若葉が手にした氷魚家の守り刀に手を添える。
それを媒介に、若葉という巫(かんなぎ)の器に神の力が注ぎ込まれ、満たされていく。
煉の圧倒的な力を押し返すほどの膨大な力が短刀に集まっていき、目を灼くほどの白い光が辺りを覆う。
白梟の大きな翼が若葉の小柄な身体に重なり、それは一瞬、翼を広げた天使の輪郭を形作った。
聖なる輝きを纏う守り刀と、闘気を帯びた木刀が交錯する。
――煉の木刀は、若葉の身体に届く寸前で止まっていた。
手負いの煉より若葉の動きの方が速かったのか、煉が自分の意思で切っ先を止めたのか、それとも意識のないはずの刃曜の手が動いて煉の足を掴んだせいなのかは、当人達にも分からない。
絶対零度の凍気に輝くメノコマキリの刃が、日輪の加護をもたらす呪印ごと、蒼乃祇紅煉の心臓を貫き通した。




「……代……ちゃん……灯代ちゃん……」

自分を呼び続ける優しい声に、灯代は意識を取り戻した。
柔らかい手の感触……疲れ果てた全身に、温かさが流れ込んでくる。
壁にもたれ座り込む灯代の前に、若葉が屈み込んでその手を取っていた。

「……若葉ちゃん」
「灯代ちゃん、ごめんね、私のために……」

逃がしたはずの若葉がなぜ目の前にいるのか、ここにいて危なくないのか、そもそも何がどうなったのか分からず灯代は困惑した。
日本刀の形状に戻り、鞘に納まった紅蓮踏鞴が膝の上に横たえられている。
ちょうど目の前にある、若葉のセーラー服の胸元に撥ねた血痕に気付き、顔を険しくする灯代に「大丈夫、何でもないのよ」と若葉は弱々しく笑った。

「返り血がついただけだ、心配ない」

落ち着いたアルトの声の方を見ると、傷だらけの日生が立っていた。
切って呪術の媒介にしたため灯代のそれより短くなった髪に加え、いつもの黒いセーラー服とタイツはぼろぼろに破れており、煉の足止め役を買って出た彼女の捨て身の戦いを物語っていた。
誰の返り血かまでは日生は口にしなかったため、傷ついた自分の手当てでついた血だと思った灯代は安堵したふうに小さく息をついた。

「わたし……あの人……倒したんですか、刃曜さんは大丈……」
「無理して喋るな、さっきまで心臓が止まりかけてたのに」

灯代が倒れた後、刃曜が最後の力を振り絞って煉を倒し、その血で呪いを解いたと日生は手短に告げた。
良かったと涙ぐむ灯代の死角で、刃曜の解呪に協力した日生は(これで良かったんだな)と目配せし、若葉は微かに頷いた。
若葉自身がやるしかなかったとはいえ、もう灯代にこれ以上自分の事で心配をかけたくなかった。
死闘の果てに何があったかは秘密にしたいと願う若葉は、日生の計らいに感謝した。

「ほら灯代、君の仲魔もどうにか無事みたいだ」

身体に響かないようゆっくり首を起こすと、少し離れた路上にタタラ陣内と鳳あすかの姿があった。
綾人と戦った後で、遠目にも憔悴した様子だったが、しっかりと自分の足で立っている陣内の姿を見た時、灯代の眼からは知らず涙が零れていた。

「陣内様……!!」
「よくやったな、灯代」
「あーあ陣内さん、女の子泣かしちゃっていけない奴……痛ッ! ここまで運んであげたんだから殴らなくたっていいじゃないか!」

横から茶々を入れるあすかに拳骨を入れ、陣内は若葉の手から灯代を抱き起こす。
そして、朝の光を背に駆け寄ってくる小さな少女はあすかの伴侶たるサマナー・勝浦栞。
彼女も今回の騒動に巻き込まれた一人で、綾人に唇もろとも魔力を奪われ無力化されたが、栞の仇を討たんと参戦したあすかを健気にも迎えに来たらしい。

「栞ちゃん、心配して寝ずに待っててくれたのかい? 帰ったら僕の活躍ぶりをベッドで聞かせてあげるからね! あっでも逆に寝られなくなっちゃうかな?」
「調子に乗らないで下さい」

まるで空気を読まない台詞を囁くあすかの美貌を張り倒す栞の「……ありがとう、あすか様」という小さな呟きを耳にして、陣内はやれやれと口元だけで笑った。
蘇生術のおかげでもう命の心配はないが、心身共に消耗しきった灯代の身体を背負い、若葉に声をかける。

「相当無茶したようだな、手当てしてくれてありがとうよ、氷魚の当主」
「そんな……私の方こそ言わせて下さい、本当にありがとう、陣内様も、灯代ちゃんも……」

陣内の背中で、灯代は自分も手当てのお礼を言おうと思ったが、全身に押し寄せる重い疲労にもう口を開くだけの気力もなかった。
二人で行く予定だったケーキ屋の事も、ヤタガラスの思惑の事も、今回の蒼乃祇との因縁の事も……
また若葉と会えたなら話したい事はたくさんあったが、こうして友達を無事に取り戻せただけで充分だった。

「若葉……」
「刃曜っ!」

犬猿の仲のはずの恋敵に肩を貸され、刃曜が福郎太に支えられながら若葉のもとに歩み寄る。
傷ついたその大きな身体を、若葉は広い背中に回りきらない細腕で抱き締めた。
自分を守るため戦った従兄の胸に顔を埋め、何度も刃曜、刃曜と涙声で名前を呼び続ける若葉を、サマナーと仲魔達は再会の邪魔をしないようただ見守っていた。
この瞬間までの戦いの中で、関わった誰もが何かを失い、何かを得て、前に進むきっかけを見出した。
それを自覚しているのかは分からなくとも、戦いを終えた彼女等の表情はどこか清々しいものだった。


陣内の背中の温かさと、心地よい揺れを感じながら、灯代はほとんど夢の中にいるようだった。
煉との死力を尽くした戦いもはるか昔の出来事のようだ。
落ちかけた瞼に日差しが透け、遠くで小鳥の鳴き声が聞こえる。
そういえばとっくに朝なんだ、いつもなら今頃起きている時間だろうかと灯代は薄れる意識の中思った。
灯代をおぶった陣内は異界との境目を離れ、さらに歩くうちに二人は現世の街に戻ってきた。

「灯代、もうじき家に着くぞ……寝ちまったのか?」

綾人が死亡したか否かは結局不明のままで、致命傷を負ったはずの煉もいつの間にか姿をくらました事を、この時の二人は知る由も無い。
そして、いずれ氷魚家当主・若葉を襲う新たな陰謀と、その渦中で蒼乃祇と思わぬ形で関わる事も。
眠り込んだ灯代の小さく力強い鼓動を背中に感じながら、陣内は独白した。

「……お前の剣は、あいつらを立派に守ったんだな」

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