俺屍サマナー
GLADIATOR
控え室の粗末なベンチに腰掛ける赤毛の少女は、ようやく闘いの興奮が落ち着いたように深く息をついた。
支給された女闘士の際どい衣装は小柄な身体にやや不釣合いで、特に上の方はささやかな胸を包む布地が余っている。
露わになった日焼けした肌も、まだ色香というよりは健康的な印象が強い。
先程の試合で受けた傷の手当てを済ませたばかりで、今は白い包帯で覆われている手足には痛々しい裂傷が幾筋も刻まれている。
しかし彼女の肢体は傷を負ってなお生気に溢れ、瑞々しい活力に満ちていた。
「……落ち着いたか」
彼女の『主人』である眼帯の男の囁きに、闘士の少女は小さく頷いて身体を離した。
試合に臨む前も、死闘を終えた後も臆する様子などまるでなかったのに、控え室に戻って来ていきなり震え出し、その場にへたり込んでしまったのだった。
吹雪の中にでもいるように、自分の肩を抱きしめて縮こまっている少女の震えがおさまるまで、男は彼女の手に自分の武骨な手を重ね、ずっと側に付き添っていた。
喉が渇いたのか、置いてある水差しを取ろうと少女が立ち上がり、編み上げサンダルを履いたその足がまだ震えているのを見て慌てて制止する。
「おい灯代、無理するな」
「大丈夫ですよ、陣内様」
杯に注いだ水にすぐには口をつけず、丸い水面に映る自分の顔をぼんやりと見下ろしながら、灯代はぽつりと口にした。
「……変ですね、もう試合は終わったのに、ちゃんと、勝ったのに」
『主人』の陣内に余計な気を遣わせまいとしたのか、灯代は顔を上げて取り繕うように笑みを浮かべた。
新人にはよくある事だ、俺の時もそうだった、と陣内は答えた。
新人闘士としてのデビュー戦を勝利で飾った灯代だったが、今日の初試合は二人が『主人』と『闘士』として闘技場で登録を済ませたその日の、些細な揉め事がきっかけだった。
陣内が灯代を連れて各施設を案内していた時、立ち寄った闘士の寄合所で見たものは、闘技場に出入りする者にとってはごくありふれた光景だった。
陶器が割れるけたたましい音の直後に、重い打撃音と罵声が重なって響いた。
給仕係だか世話係だかの少女が、一目で闘士と分かる装備に身を固めた男に殴られ、床に倒れていた。
酔っているらしい呂律の回らない口で男が捲くし立てている限りでは、どうやら少女が何か粗相をして彼の機嫌を損ねたようだった。
その赤い髪と浅黒い肌で異民族の奴隷と分かる少女は必死に謝罪を繰り返すが、かえって男の怒りを煽るばかりだった。
他の闘士や関係者も寄合所にいたが、皆この暴力沙汰を知らぬ顔でいる。
いや、こんな横暴な振る舞いも今では当たり前に流されており、特に陣内が引退して後、ここ十年で闘技場の品位は劣悪を極めているのだ。
胸糞の悪いものを見ちまったと陣内は舌打ちし、「行くぞ」と傍らの灯代に声をかけたが、連れはすでにそこに居なかった。
男は少女の痩せた身体をテーブルに押さえつけ、粗末な服の襟首を掴み、引き裂いている所だった。
悲鳴を上げれば余計に殴られると知っているのだろう、腫らした顔をかばう手の間からは涙ばかりが溢れていた。
男の取り巻きは囃し立てるかにやにや笑っているかで、やり過ぎだと止めようとする者さえいない。
灯代が酒瓶を手に近付いて来ても、警戒するどころか酌を所望する始末だった。
次の瞬間、体重を乗せて振り下ろされた酒瓶が男の後頭部で派手に砕けたのを目にし、取り巻き達の顔が引きつった。
「酔いは醒めました? あなたも闘士なら、背後に気をつけなさい」
主人が止める間もなく、他の闘士に喧嘩を売った灯代に陣内は頭を抱えたが、さっきまで無視を決め込んでいた寄合所の連中は手を叩き、丁度いい余興だとばかりに騒ぎ出した。
灯代の起こした騒動を遠巻きに眺め「あいつも先はねえな」と誰に対してか呟く長い黒髪の古参闘士、その側には赤毛の女主人の姿があった。
……その時は辛うじて場外乱闘にならずに済んだが、後日通知された灯代のデビュー戦の対戦相手に、陣内は顔をしかめた。
使う得物から『蠍(さそり)』と異名をとる闘士は、灯代が頭に酒瓶を叩き付けたあいつだった。
前座の『奴隷狩り』から本戦で戦う闘士に昇格したはいいものの、試合で負けが込んでいるという情報も耳に入り、そのせいで荒れて奴隷にひどく当たっていたのだろうと推測できた。
さらに人の口に戸は立てられず、灯代との一件は闘技場内で噂が広まっており、恥をかかされた『蠍』が自分にも非があったと寛大な心で引き下がるはずもない。
新人を叩き潰して勝ち星の足しにするのと、合法的な復讐と両方の理由で指名されたのは明らかだった。
満員の観客に囲まれ、四方に篝火が燃える闘技場に二人の闘士が入場する。
一方は初試合に臨む灯代、一方はもちろん『蠍』だ。
剣と小盾で武装してはいるが、胸と腰を僅かに覆っただけの衣装に、灯代はさすがに恥ずかしそうにしている。
客席から好色な視線を投げかける者もいるが、直前の試合で稲妻のような身のこなしを見せた話題の女闘士が集めた視線の数とは比べようもない。
彼女の均整の取れた肢体を見た後ならば、観客の目が肥えてしまうのも無理はなかった。
軽鎧を身に着け、長鞭を携えた『蠍』は以前酔っていた時とはうって変わって、闘士として決して油断できない相手だ、と灯代に思わせる殺気を発散していた。
「今度は背後からやられないよう気をつけろよォー!」
誰かが叫んだ野次に観客がどっと沸き、『蠍』の目つきが険しさを増す。
試合開始の合図の鐘が鳴り渡り、二人の闘士は互いに得物を構えた。
『蠍』の戦い方は陣内から聞いているが、いざ実戦に臨んで灯代は緊張を隠し切れなかった。
相手の手首が翻り、蠍の尾のような長鞭が唸りを上げて灯代に襲い掛かった。
「くっ!!」
咄嗟に左手の小盾で防いだが、想像以上に重い衝撃に灯代は後ずさった。
剣や槍の直線の攻撃とは違い、鞭は変則的な動きをする上に、得物自体が振るわれる速度も段違いに速く、灯代の目で辛うじて捉えられる程だった。
「お前、こう考えてるな? 『間合いを詰めて斬りかかろう』 俺が今までそんな浅はか者を何人殺ってきたか教えてやろうか!!」
『蠍』は鞭を振り回しながら、剣が届かない間合いを保つ。
灯代が一撃食らうのを覚悟の上で、小盾で防いで一気に突破する作戦を実行する前に、『蠍』は防御から攻撃に転じた。
「さあて! 何発耐え切れるか試してやる!!」
「うぅっ!! あっ!!」
矢継ぎ早に襲い来る乱れ打ちに、もはや小盾で身を守るのが精一杯で灯代には剣を振るうだけの余裕もない。
受けきれなかった一撃に肌が裂け、鮮血が飛沫いた。
闘技場の砂に散った赤い色に、死闘を見物する観客の興奮は一気に高まる。
「殺せ! 殺せ! 殺せ!!!」
耳がおかしくなりそうなほどの、狂気じみた叫びが建物を揺るがす。
気の弱い人間なら失神しかねない状況の中、灯代は『蠍』の鞭の軌道を見切る事だけに集中していた。
得物に惑わされるな、相手の視線を、手元を観察しろ、必ず隙は見つけられる――そう陣内に教授された通りに。
攻撃と攻撃の合間、鞭の先が地に落ちた時、灯代はその一瞬に賭けて小盾を構え駆け出した。
しかし、踊るように跳ね上がった鞭は左手首をしたたかに打ち、小盾を弾き飛ばした。
乾いた音を立てて小盾が地に落ち、青ざめた灯代は『蠍』が突出を誘うためにわざと作った隙だったと理解したが、既に遅かった。
防御の手段を失った灯代は鞭に追い立てられるように、闘技場の隅に追い詰められていく。
緊張と熱気に玉の汗が滴る小麦色の肌に、一瞬ごとに鞭を受けた赤い裂傷が増えていった。
新人女闘士の窮地は観客の歪んだ熱狂を煽り立て「殺せ!」の歓声はますます大きくなる。
「あの時はなめた真似をしてくれたよな、鞭打ちか縛り首か、どっちがお望みだ」
嗜虐的に舌なめずりする『蠍』を見据えながら、灯代はなおも機を伺っていた。
視界の端に、試合を見守る『主人』である陣内の姿が見えた気がした。
灯代を信じて、その勝利を一心に願う姿が。
放たれた鞭が首に巻きつく寸前、灯代は素早く身を屈めた。
空を切った鞭は、灯代の背後で燃えている篝火に命中し、打ち壊された松明が散らばる。
その一つを空いた左手で掴み取り、灯代は勢い良く相手の間合いに踏み込んだ。
『蠍』が自慢の長鞭を手元に引き寄せるよりも速く。
「――だから言ったでしょう、『背後に気をつけろ』って!」
燃え盛る松明を顔面に叩き付けられ、『蠍』は盛大な悲鳴を上げて両手で顔を覆った。
髪と皮膚が焼け焦げる悪臭を気にする余裕もなく、灯代は『蠍』が取り落とした鞭を拾えないよう遠くへ蹴り飛ばした。
「う゛ぁああっ……くそっ! 俺の、俺の鞭は……」
膝をついたまま、得物を探してもがく手を灯代に踏みつけられ、『蠍』の焼け爛れた顔が恐怖に歪む。
灯代の眼は松明よりも明々と燃え上がり、翳した剣が逆光を浴びて不吉にきらめいた。
敗北は初めてではなく、そのたびに金の遣り取りか主人同士の取引で命を繋いできた『蠍』だったが、今度と言う今度こそ後は無いと悟り、背筋が凍りついた。
これまで何度となく目にしてきて、また自身でも命乞いする奴隷達に与えてきた『死』が間近に迫り、その恐ろしい圧力に耐え切れず『蠍』の口から哀願の言葉が漏れる。
「ま、待てっ!! 助け……助けてくれ……」
思わぬ番狂わせに興奮が最高潮に達した観客の怒涛のような叫びと、助命の合図を出せと『蠍』の主人が隣で喚き立てる声。
そんな凄まじい騒ぎのただ中だというのに、敗者に剣を振り上げる灯代の言葉が、離れた陣内の耳に確かに聞こえた。
「自分がそう言われた時、相手を助けてやった事が一度でもあったの」
刃は躊躇いなく振り下ろされ、断たれた首が地面に転がった。
後から後から噴き出す毒々しい紅が、闘技場の砂に染み込んでいく。
女闘士の勝利を讃える歓声と投げられた花吹雪の中、灯代はとどめを刺した死体を顧みもせず、血の滴る剣を手に退場していった。
次の試合が始まり、最近頭角を現し出した薙刀使いの入場に沸く観客の狂騒が遠くに聞こえる。
たった四半刻前の死闘を昔の出来事のように感じながら、ベンチの上で膝を抱えた灯代は呟いた。
「……あの子、見ててくれたかな」
「……そうだな」
今は水よりも酒の方が良いだろう、と陣内は灯代を控え室に残し、寄合所に酒を求めに出て行った。
関係者用の通路を歩きながら、陣内はやりきれなさに溜め息をついた。
素面ではいられないのは、今日はじめて人を殺めた灯代よりもむしろ自分自身の方だった。
今朝見たものを思い出し、鉛のように重苦しい気持ちが胸中に甦る。
開場準備の慌しい雰囲気の中、あの灯代とよく似た赤い髪に浅黒い肌の少女は、係員に手枷の鎖を引かれてこの通路を歩いていた。
片足を引きずりながら闘技場に連行されていく様を見て、陣内は『使えなくなった』奴隷の少女がこれからどうなるか悟り、知らず掌に爪が食い込むほど拳を握り締めた。
前座の残虐な余興に使われた少女が、灯代の勝利を知る事は永遠に無い。
例え知った所で、余りにも幸薄い生を終えたあの子にとってそれが何の慰めになるのだろう。
灯代を祝うつもりで、普段注文するものよりも上等な酒を選んだが、勝利の美酒は苦いばかりになりそうだった。
まして、灯代がいつか戦えなくなり、『用済み』の闘士としてあの哀れな少女と同じ運命を辿るかもしれないと想像してしまったなら、尚更だった。
「よォ」
声をかけられ視線を上げると、長い黒髪の闘士と、赤毛の女主人が立っていた。
近くに他の係員はいないが、闘技場の備品扱いである彼らは二人とも鎖で繋がれた手枷を着けさせられている。
もっぱら前座に参加して観客を盛り上げる役目のこの二人は、少女の最期を見ていたはずだった。
「勝ったってのにシケた面してんな、後先考えねェひよっ子のお守りは大変よなァ」
いつも観客や対戦相手を挑発するのと同じ調子のからかい文句を無視して、陣内は二人の横を通る。
物心ついてからずっと血と泥にまみれ、生き延びてきた彼らの言葉の裏の感情に気付く事はなかった。
この闘技場では力こそが、勝利こそが全てであり、正義感や信条などというクソの役にも立たないものに縋る無知さを哀れむ、ある種の憐憫に似た乾いた感情を。
「『勝つ』のと『生き延びる』のとは違うんだよ……いつまで保つかねェ、あいつらも」
陣内の背を見送る黒髪の闘士の独語に、赤毛の女主人は何も答えなかった。
この闘技場で戦い続ける以上、自分達の身の上も同じ事だった。
(FADE OUT)